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#1 昼休み
4時間目の終了を告げるチャイムが鳴ると、学校は少女たちの話し声、足音、笑い声で満たされていった。お昼休みの時間だ。廊下を慌ただしく行き交う制服たちの中に、ひときわ小柄な女の子の姿があった。
小柄な背丈に、首の丈まで伸ばした黒く細い髪。まっすぐ揃えた前髪には小さな赤いリボンが1つ、小柄な背丈も相まってまるで人形のような見た目の女の子だった。静かに教室を飛び出して、その少女はゆっくりと階段を上がっていく。ドタドタと音を立てて、2年生の先輩たちがそのすぐそばを駆け下りていた。男子の目が無い環境に慣れきってしまったからだろうか、スカートの中身が見えるのも全く気にしていないようだ。きっと彼女たちのお目当てはきっと食堂のカレーか購買のパンだろう。反対に、階段を上がる生徒は少女だけだった。彼女は片手に弁当箱を持っていた。すれ違う人からは、屋上でご飯を食べようとしているように見えたかもしれない。でも、その予想も外れだった。少女は2階まで上がってしまうと、これまた廊下を人の流れとは逆に進んで、小さな扉の前で立ちどまったのだ。その表面はわずかに錆びていた。
扉を開けた。そこは短い渡り廊下で、学校の別の校舎とつながっていた。少女は廊下を進んでいって、校舎の中へと入った。ひび割れた壁に薄汚れたラバー製の床、ホコリをかぶったステンレスの窓枠。さっきまで空間を満たしていた女子中学生たちの笑い声は消え、ここにあるのは冷たさと静寂だけだ。
切れかけの蛍光灯に少女の影がちらついた。まるで廃墟のような校舎の中で、人形のように小さく、きれいで、整った顔をした彼女はひどく不釣り合いだった。彼女は小さな笑みを浮かべながら廊下を進み、一番奥にある小さな部屋のドアに手をかけた。ドアの上にはこう書かれていた。
理科実験準備室
この建物は理科棟だった。以前、もう少し生徒がこの学校に溢れていた頃——少なくとも二十年以上前に建てられた校舎で、完成した当初は最新鋭の実験装置を揃えた施設として有名だった。女子の中高一貫校には珍しい充実した理科教育の象徴として、テレビや雑誌にも取り上げられてきたというのだ。それがいつからか、金がかかるばかりで進学実績には結びつかないと実験の授業はおざなりになり、メンテナンスのための費用も削られ続け、今はほとんどの装置がホコリをかぶっているのがこの薄暗い準備室だった。
ほとんどの教室のように、理科実験準備室の扉も引き戸だった。できるだけ音を立てないように注意したつもりだったが、少女が扉を開けると中には予想通り先客がいて、座ったままくるりと少女のほうを振り返っていた。彼女は二十代の女性で、ラフな白いシャツとジーンズを着た上に、白衣をまるでコートかのように崩して羽織っていた。二十代に入ったばかりというこの若い女性は、いかにも理科の教師というまじめな風貌と、いかにもファッションモデルというおしゃれな見た目の間をいつも揺れ動いている。でも、少女が見る限りでは、背が高くて脚も長い、すらりとした印象の彼女には崩したおしゃれな服が合っていた。
「やあ。さくらちゃん」
少女を見て先生が言った。低い声が大人な彼女に合っていた。
「こんにちは」少女はにっこりと笑って返した。片手に持った弁当箱を掲げて見せた。「先生?」
「ああ、いいよ。今日も大丈夫だ」先生は椅子から立ち上がって、部屋の奥へと背を向けた。「扉を閉めて」
言われるままに、少女は準備室の扉を閉めた。カチリと鍵がかかる音がした。
先生がわずかに頷いて、2人は細長い部屋の奥へと進み始めた。壁にはもう使われなくなったガラス製の実験器具や水槽が並んでいた。中には生き物が入っているものもあった。小さな水槽の中で、カエルがじっと2人を見つめていた。やっぱりこの部屋の蛍光灯も切れかけで、水槽に落ちる2人の影は暗くちらついていた。部屋の奥まで進みきると、本来なら窓が見えるはずのスペースにカーテンがかけられていた。少女がカーテンに近づくと、その白い表面には背丈よりも大きな黒い影が落ちた。
カーテンを開けた。そこには1つの水槽があった。表面にはいくつかの穴が開いていて、ゴム製の黒いチューブを通していくつかのビーカーにつながっている。ガラスの壁は不透明になっていて、横から中身を見ることができなかったが、上からなら簡単だった。天井には、薄い透明なガラスしかなかったからだ。いつものように、少女はひょいと中を覗き込んだ。
そこには小さな街が広がっていた。灰色のビルが無秩序に地面一体を覆い尽くし、その間を通る細い道路の上にはさらに小さな車が散らばっている。ただの模型ではない。上からでも、少し目をこらせば粒のような大きさの自転車が走っているのが見えたからだ。水槽の端々まで確かに目を凝らしてみれば、点のような大きさの人間たちの姿さえ見ることができるだろう。彼らは建物の屋上や公園や広場から、自分たちの何倍も大きい少女の目を見上げていた。彼女の覗き込む30cm四方ほどの水槽の中には、かつて8万人が住んでいたという地方都市の、その一部分がぴったりと収まっていた。
「今日も元気そうですね」眼下で動く水晶玉のように微細な都市を見て、少女は嬉しそうに声を上げた。「よかった」
「そうだな。まあ、水もきっちり交換したし……」水槽につながれたビーカーを遠目に見ながら、先生はつぶやいた。「略奪だの火事だのももうめったに無かったみたいだ」
「ふーん……それじゃあ」
待ちきれないとばかりに、少女は水槽の蓋を持ち上げて外した。薄いガラスはいとも簡単に外すことができた。それから彼女は下を向くと、ゆっくりと都市の中へと腕を伸ばしていった。奥へ、そして奥へ、水槽を揺らさないように注意を払いながらも、ゆっくりと手を水槽の底——小さな街の建物群へと近づけていく。それから狙いをつけると、繊細な動きで少女は小さな建物の密集する地面に触れた。地上の建物はあまりにも小さく脆く、まるで砂埃を掴んでいるような感触だったが、少女の指はその指紋の上で動くものを正確に認識することができた。それは少女の瞳には点のようにしか見えなかったものの、都市に閉じ込められていた生きた人間だった。最新の注意を払ってそれらをつまみ上げると、少女はふっと息を吹きかけた。次の瞬間、人間たちは少女の親指くらいの大きさにまで戻っていた。大きさに比例して、悲鳴の音量が大きくなった。魔法のようだった。それから少女は彼らをビーカーの中に落とした。砂粒よりは大きくなったとはいえ、彼らの背丈はビーカーの半分にも届かなかった。
「200ml」ガラスで刻印された丸い文字が、小人たちの頭の上で光っていた。
半分はこの状況に困惑しきったように立ち尽くし、もう半分はビーカーの一番外側、ガラスの向こう側に経って、彼らにとっては分厚い透明な壁を叩きながら何かを必死に叫んでいた。少女にとっては10cmほどのビーカーの壁が、彼らにとっては決して越えられない巨大な壁なのだ。この大きさなら少女の巨大な目からも彼らの表情を読み取ることができた。壁を叩く小人の数が増えてきた。ビーカーの中からはどんな景色が見えているのだろう。少女のスカートはどれだけ巨大に見えるのだろう、そして自分たちはどれほど小さく見えるのだろう。出してほしいのだろうか?助けてほしいのだろうか?彼らの叫び声を聞けないのだけが残念だった。何か叫んでいることだけは分かるのだが、声が小さすぎて分からないのだ。そういえば、今回縮めたのは日本の都市だった。
ぐうとお腹が鳴った。もう我慢できなかった。
少女は暴れる彼らの1人をつまむと、にっこりと笑ってこう言った。
「いただきます」
自分の何倍もの大きさの指に摘まれた小人はしばらく固まっていたが、彼を乗せた手が口の中へと近づいていくにつれ、必死に手足を動かして抵抗しはじめた。まるで数センチメートルの小さな身体でも、必死に暴れさえすれば何十倍も大きい少女から逃げられるかのように。人形のような笑みを浮かべたまま、少女はきらきらした目で彼の抵抗を見つめていた。どれだけ暴れようとも、彼女の指はびくりともしなかったし、彼が自由になれる見込みもなかった。
もう1度、最後に少女はくすりと笑った。それから手を動かして、その笑いを浮かべたままの唇のすぐ上に彼を持っていった。ゆっくりと唇が開いて、中からわずかに赤く濡れた舌がのぞいた。唇はそれ以上開くこともなく、男は単に唇の狭い隙間、暗い洞窟の入り口へと挿し込まれるように落とされていった。小さい彼を口の中に収めるのには、それだけで十分だった。
ごくり。
少女は小人を飲み込んだ。授業の合間から、今日はずっとお腹が鳴っていたのだ。最近覚えたこの新しい食べ物で、少女はすぐにこの飢えを満たす必要があった。
都市の一部がそこにあった数千から数万人の住民とともに丸々消えてしまうという、世にも恐ろしい現象が初めて起こったのは半年前のことだった。それは最初に起こった都市の名前をとってカミカワ現象と呼ばれ、最初の二ヶ月の間に3回も起こり、地域とともに消えてしまった住民の人口は8万人に及んだ。消える地域は全く予測不明で、それは日本の東京で起こることもあれば、海外の全く無名な都市で起こることもあった。唯一消える区画の形だけは一定で、消えた区画は3キロ四方の(最も被害の大きかった東京の例で言えば、秋葉原〜上野くらいの大きさだ)1:1.6程度の大きさの長方形の形をしていた。それが数メートルの地下まで、まるで神様に切り取られたかのように消えてしまうのだ。全く非常識で非科学的な事態だった。様々な研究や緊急待避策の検討が行われていたが、専門家たちがいくら頭を振り絞ったところで消えた都市を発見することもできなければ、新たな区画が消えていくのを防ぐこともできなかった。1つ、また1つと都市が消えていき、社会が不安定になっていく中で、最近は少しずつ減少のペースが落ち、何かの光明が見えたのではないかと皆が希望を持ち始めている時期のことだった。
先程まで隣にいた男がつまみあげられ、あっという間に巨大な少女の口の中へ放り込まれた。頭上はるか高く、ごくりと喉の鳴る音がビーカーにまで届くと、いよいよその中の小人たちは壁を叩いて暴れ始めた。懸命にガラスを叩いて、なんとかこの絶望的な状況から、少女に食べられるという運命から逃れようとしている。しかしもちろん、それは全て無謀な努力だった。中学校の実験用に作られたこのビーカーは、まだ成長過程の少女たちがうっかり落としてしまっても割れないように頑丈な構造をしている。つまり、小人たちの力では絶対に割れっこないのだ。
少女はビーカーの中で泣き叫ぶ小人たちを見ながら、先程1人を飲み込んだお腹を制服越しで撫でた。微かに動きを感じる気がした。それから今度はさっきと違って、わざとゆっくりと指を伸ばした。彼らの上げる甲高い悲鳴が楽しかったからだ。
残酷な笑みを浮かべながら、少女は次の小人を掴んだ。今度は若い女性だった。赤いワンピースを着ていたが、今は二本の指に摘まれてリボンの端が垂れ下がっていた。口の中に入れると、まるで苺のように甘い香りがした。
ごくり。飲み込んだ。
また次の小人を掴んだ。今度はラフな格好をした男の人だった。筋肉質で、舌触りも硬くしっかりとしていた。
ごくり。
また1人。太った男。
ごくり。
ビーカーの中の人達の抵抗が全く関係ないみたいに、少女は1人また1人と小人たちを飲み込んでいった。彼らが喉の奥を通り過ぎていくたびに、胃の中身や空腹感だけではなくて、征服感や嗜虐心もまた満たされているのを感じた。可憐な見た目のこの身体の中で、胃は成長のための栄養源を必要として、心は最も暗い残酷な欲求を満足させようとしていた。都市からビーカーにつまみ上げられ、二本指で口へと運ばれて、喉の奥へと飲み込まれるまで、彼らには生き残る何の希望もなく、さらに言えば、彼らの死にも何の意味もなかったのだ。彼らの数十年の人生は、午後に残っている2つの授業、そのたった数時間の空腹を紛らわせるためだけに消費された。後には何も残らなかった。喉を通る生きた人間の小さい感覚、そして消えていく小人の悲鳴を聞くたびに満たされる小さな罪悪感、その全てが少女にとっては耐え難い魅力を持ったスパイスだった。
必ず丸呑みにするのは、うっかり噛んで歯や舌を血で汚したくないということもあったが、何よりも小人たちが胃で暴れている感覚を楽しむためだった。人間の胃液の働きは弱く、触れたからといってすぐに小人の命を奪うものではない。小人にとって次に問題になるのは空気の不足で、例えばもっと大きいものを丸呑みにしたときにはこれが一番の脅威になるが、幸い小人たちの大きさでは使う酸素の量もそれほど大きくないから、これも簡単には命を奪ってはくれなかった。だから、いま次々と少女に飲み込まれていく小人たちには、少女の胃液と唾液と、それから早弁で食べた特大サイズの未消化物の中で、望みのない抵抗を本能的に繰り返しながら、体力が尽きるのを待つという結末しか残されていなかった。だいたい昼休みが終わってから6時間目が終わる数時間の間、少女はこの望みのない小人たちの必死の抵抗を制服越しに感じ取り、涼しい空気の中で授業を聞きながら楽しむのを日課にしていた。
ビーカーに残されているのはわずか数人になった。お腹を片手で抑えながら、また手を伸ばそうとすると、先生もビーカーに指を伸ばしているのが見えた。見てくれのいい少年だった。制服こそ着ていなかったが、少女と同じ中学生くらいの見かけだ。
「頑張ってるご褒美。いいだろ?」
そう言って、先生は少年をつまみ上げ、当然のようにごくりと飲み込んだ。
「あっ。もう先生、私が食べようとしてたのに……」
「でもいいだろ?授業の合間とか、ここに来て様子見てやってるんだ。ビーカーの手間も私だし、この水槽の仕組みを考えたのも……」そう言って、また次の小人へと手を伸ばす。と、その動きがぴたりと止まった。ビーカーの中に残っている小人は、もう1人だけになっていたからだ。ということは、少女はさっきビーカーの中にいた人たちのほとんどを、もう食べてしまっていたのか。確か10人以上はいたはずだ。すさまじい食欲だった。
「先生、最後の一人は……」
お腹の脇を抑えながら少女が言う。その表情に浮かんだ焦りから、少女がまだ食べ足りなそうにしていることが分かった。
ビーカーの奥に、一人の若い少年が頭を抱えてうずくまっていた。
「これも男の子だから……ほら、分かるだろ?」
「ええ、先生がこういう男の子が好きでそればっかり食べてることも知ってます」少女はにっこりと笑った。「でも、まだ……」
先生はあっという間に彼をつまむと、白い綺麗な爪で彼を半分に引き裂いた。溢れた鮮血が赤い雫となって先生の白い手を伝った。
「半分こ。優しいだろ?」先生はにかっと笑った。
「ふふ」少女も笑った。半分になった少年の下半身が、既に命を無くして垂れ下がっていた。「でも、口が汚れちゃうので……」
「それもそうか」結局どちらも口に放り込んで、先生は簡単に噛んでから飲み込んでしまった。
「私は午後の授業がないからな」クールに笑う。微かに赤く染まった歯で。
「ずるい」少女は笑いながら言って、水槽の中を上から覗き込んだ。相変わらず都市の中の人々は小さすぎてよく見えなかったが、みんなが自分を見上げているのが感覚で分かった。本当のことを言えばまだお腹は空いているのだが、もう何人かに付き合ってもらうのは酷だろう。食べすぎて太るのも嫌だし。
人形のように可憐な笑顔を浮かべて、少女は都市の中に向けて心の中でこう言った。
ごちそうさまでした。
*
#2 米粒と細菌
この手記を読んでいるのは誰だろうか?おれにとって一番望ましいのは、この手記を読んでいるお前がX市の外の人間で、すべて元通りになった都市の片隅でこれを見つけているということだ。あるいはお前が精神病院の医者で、致命的な妄想を抱えてしまったおれの病室でこれを読んでいてもいい。自分が狂ってしまっただけなら、今おれたちが置かれている地獄よりも何万倍もマシだろうからな。一番最悪なのはこれを読んでいるお前もX市の人間で、忽然と姿を消したおれの部屋でたまたまこれを見つけて読んでいるという可能性だ。だとすれば、お前がこれを読むことに意味はない。なぜかって?分かってるとは思うが、お前も近々あの女子中学生か白衣の女に殺されて死ぬからだ。
胃液で溶けた脳細胞に残ったものを、人は知識とは呼ばないからな。
あのバカでかい音を聞いたのは2週間前だった。あのときおれは寝ていた。もう今さらバカにするような人もいないが、おれはしがない夜勤のフリーターで、太陽の出ている時間はだいたいぐっすり寝ていたんだ。電気代が惜しくてまともにテレビだって見てなかったから、当然最近のニュースだって知らず、何の不安もなく、その日も夕方になるまでずっと眠っていた。
でも、それが吉と出るとはな。
まだ太陽が沈もうともしていない時間、壁越しにも聞こえる大きな音がした。音のすぐ後に揺れが続いた。今まで感じたことのない、超低周波の、動きの大きな揺れだった。でも、おれはまだ寝ぼけていたから、大きめの地震が起こったんだろうって思って、それからすぐに二度寝してしまった。変だと思ったのは目が覚めてからだ。布団から身体を起こしても、まだ地面が揺れている感覚があったんだ。外からは何かが割れたり壊れたりする音がした。それで怖くなって外を見た。何が起こったんだって思ってな。
おれのアパートの目の前の道路で、車が衝突して止まっていた。しかも事故はそこだけじゃない。目に見えるそこら中の道路で、それが何車線の道路だろうと、細い路地裏の生活道路だろうと、決まってそこを塞ぐように大きな自動車事故が起こっていた。それはパニックを起こした市民が短期間の間に起こした事故らしい。事故が起きるまで車を飛ばし続けるから、結局ほとんどの道路が血管みたいに詰まってしまったんだ。パニックの原因は何か。その答えはすぐ分かった。
アパートから見える見慣れた景色の代わりに、少し先に壁があった。それも単なる壁ってわけじゃない、半透明の鈍い色をした壁だ。それが街の左右を埋め尽くしている。どこまで言っても角が見えない。上へもずっと続いている。それなら高さは……と気になって、上を見た。すると上には青空と太陽の代わりに何があったと思う?
灰色の天井と、切れかけの蛍光灯だ。
灰色の天井と、切れかけの蛍光灯、それがおれたちの頭上に、青空のあるべき場所に広がっている景色だった。
動転していたので気づかなかったが、地面はこのときもまだ絶え間なく小刻みに揺れていた。あと、低い音がずっとどこかで響いていた。
訳が分からなかった。おれはただコンビニで働いて帰ってきて、少しばかり酒を飲んで寝ただけだったのに、どうしてこんなたちの悪い幻覚に閉じ込められてるんだ?目の前の壁は何だ?天井は?揺れは?交通事故は?
変わり果てた景色の前に呆然と立ち尽くして、数分間の沈黙の次におれが選んだのは現実逃避だった。つまり、これは悪い夢だ。二度寝すりゃ治るかもしれないだろ。
きびすを返してアパートに戻ろうとしたとき、ずしり、ずしりという音がした。何か重いものが動く音だ。それと同時に揺れが強くなって、おれは立っていることすらできなくなった。
上空からバカでかい音がした。
「あー……」
それは女の声だった。しかし、それを頭で理解したのは後のことだった。音量がでかすぎて、まるで空気の砲弾を浴びているような感覚だったからだ。鼓膜だけじゃなくて、全身がその恐ろしい衝撃波で揺れていた。反射的に耳を抑えてうずくまったあと、おれはゆっくりと声のした上の方向を見た。
蛍光灯の光に代わって、2つの巨大な女性の顔が浮かんでいた。1つは年端もいかない少女の顔、もう1つはそれより少し成長した、それでも若い二十代の女の顔だった。あまりにも大きすぎて首から下を見ることすらできなかったが、襟元から少女は学校の制服を、若い女は白衣を着ていることが分かった。少女は満面の笑みを浮かべていて、若い女は真剣に何かを考えているような顔だった。
「こんにちは、皆さん♪私はさくらです」耳をふさいでいるはずなのに、少女の高い声が耳に入ってきた。さっき聞いた音より高い、少女らしい高い声だった。
「そしてこの人は——」少女が目配せをすると、白衣を着た女は首を横に振った。
「先生です」名前を言うのを諦めて、少女は曖昧に笑った。
「さて、皆さんは見ての通り——」少女はくすくすと笑う。「見ての通り、とんでもなく縮んでしまいました。今みなさんがいるのは学校の理科室で、皆さんはその中の水槽の1つにいます。机1つくらいの大きさなので、元の大きさからすると1万分の1くらいですね」
「さくら——」先生と呼ばれた女が話を遮ろうとすると、少女は分かってます、と小さく言った。もちろん、その声も十分はっきりと都市の中に響いたが。少女はもう1度くすりと笑うと、口元を抑えてこう言った。
「皆さんが縮んでしまったので、これから皆さん数千人の面倒は私達2人が見ます。皆様のことは私たちが守ります。必ず元の大きさに戻る方法を見つけて、皆様とこの街が元通りになるまで皆様をお世話し続けます。心配しないでください。それまで、私たちが皆さんにしてほしいことは2つだけです」
その声は相変わらず高く、少女らしい可憐な声で、それなのに、おれは言葉の節々から何か隠されているものを感じ取った。何か、今にも笑い出しそうになる演劇のシナリオを、必死に笑いを隠し通して演じているような声だ。
「1,私たちの言うことを聞いてください。私が指を伸ばしたら、それはこの都市から助けてあげるという合図です。そのときは私の指の上に飛び乗ってください」
「2,他の人を傷つけたり、他の人のものを奪ったりしないでください。皆さんは最後には必ず助かります。都市も元の大きさにまで戻ります。そのときまで都市をきれいに保っていてください」
なあ、笑っちゃうだろ?頼むから、あんたも笑えるだけの強い人間でいてくれ。
* * *
ごちそうさまでした。喉元まで出た言葉を口で抑えて、少女は水槽の都市を見た。お腹を軽く抑えると、何かが動いている感覚がある。胃の中で、裏切られた彼らはどんな言葉を少女に投げかけているのだろうか。叫び声も悲鳴も、分厚い胃壁に阻まれて聞こえないのがこの遊びの唯一の欠点だった。
人が尽きたときにはわずかに満たされなかった空腹も、お腹を撫でているうちにだいぶましになった。お腹の中の重さを感じて、満腹中枢が遅れて刺激されているのだろう。ともかく、自分はお腹いっぱいなのだから、次は小人さんたちの番だ。少女は肩にかけていた袋を取り出すと、ハンカチの結び目を外して中から弁当箱を取り出した。ペンギンの可愛らしいキャラクターが描かれている。ほとんどを早弁で食べきってしまったせいで、箱の中身はほとんど空だったが、わずかに数個の米粒が箱の縁に残っていた。のりたまのふりかけがふやけて白い表面についていた。
水槽の中の街の食糧としては、これで十分だった。
少女は水色のプラスチック箸で米粒を拾うと、水槽の中の都市にそれを落としていった。弁当の米粒1つの大きさは、都市の家1つに相当した。微かに優越の笑みを浮かんでいた。できるだけ空き地を狙うようにしたが、わずかに家を壊してしまうものもあった。そんなときは、あっけなく崩れてしまった家の瓦礫を埋め尽くすようにして、1粒の米粒が巨大なモノリスのようにその場を埋め尽くしていた。それも、少女が食べ残したたった1つの米粒なのだ。
同じようにして、少女はできるだけ都市の別々の部分に米粒を配置したあと、仕上げにハンバーグの下に残っていたレタスの欠片を街の中に落とした。できるだけ収まるように、学校のグラウンドがあった部分を狙ったが、葉っぱの欠片が収まりきらずに少し校舎に触れてしまった。まるで砂でできているかのように、校舎はレタスの下敷きになってボロボロと崩れしまった。わずかに少女の歯型とデミグラスソースが残っていた。
この街の人たちにとっては、この弁当の食べ残しが唯一の食料源だった。少女の顔が見えなくなったところで、きっと彼らはこの巨大な食べ残しに相対し、自分に必要な部分だけを取って食べるのだろう。このふやけた米粒が、この食べかけのレタスが、数百人の彼らがその日食べられる全てなのだと思うとどこか優越を感じてしまうが、量としては十分以上にあるはずだ。それも毎日少女が自分のために作った弁当を食べさせてくれて、きっと感謝してくれているに違いない。
少女は人形のような顔でまた笑った。召し上がれ。心の中で独り言を言った。それからカーテンをそっと閉じて、水槽から遠ざかっていった。
「終わったか?」先生が後ろから声をかけた
「はい。そろそろ昼休みも終わっちゃいますし」
「ああ、そうか……いつも悪いな」先生は大して表情を変えずに言った。「ちなみにあの弁当、先生の分も作ってもらえたりはするか?」
先生の座っていた机の上には、割り箸と食べかけのカップヌードルが置かれていた。
「小人たちの分で精一杯ですから」少女は笑って言った。「というか先生、また何か食べてるんですか?」
「お前も早弁してるんだから一緒だろ……」先生は息を吐き出した。
「それに、このカップ麺はお前の弁当のようなものだぞ」意地悪な笑みを浮かべていた。「私だって小人たちにご飯をあげてるんだ。水槽の中じゃなくて、私の胃の中でだけどな」
* * *
おれは自転車を走らせていた。この常に揺れる地面のせいで、自転車の操縦は以前より難しくなっていたが、これがこの町で安心して使える唯一の交通手段だった。道路が至るところでひび割れて、事故で放棄された車両もそこら中を塞いでいた。バイクは機動力がある分少しマシだったが、それでもこの劣悪な道路では運転が難しかった。結局のところ、おれたちはこの狭い水槽から出られないんだから、一体急いでどこへ行こうというのか?あの女たちが現れた直後、車に乗って一部の市民が200キロであの半透明の壁に特攻したが、壁では何のヒビも入らなかった。事故現場には空き缶のようにひしゃげた車が残っていた。
数分で目的地についた。匂いで分かっていたが、今日も期待外れだ。住宅街の空き地と空を埋め尽くすように、白い巨大な米粒が横たわっていた。高さも大きさも、一軒の家より大きかった。これが冗談じゃなきゃ何だと思うんだが、以前ほどこの光景にも驚かなくなった。自転車で近寄れるギリギリまで近づくと、降りてゆっくりと白い表面に近づいていった。こんな大きさはとても1人じゃ食べきれないから、家族のいるやつは家族の分を、そうじゃないやつは自分の分をもちもちした表面から削って持って帰る。近くで見ると、削り取った部分の多い場所と、ほとんど手つかずの場所に分かれていた。なぜ部分に差ができるのが分からなかったが、近寄ってみると元の表面にわずかな黄色い跡が残っているのが分かった。近づいてみると、懐かしい匂いがした——のりたまのふりかけだ。
察するに、少女が水色の箸で残していったこの米粒のどこかに、たまたまふりかけの粒が1つか2つ付いていたのだろう。少女にとっては小さな粒に過ぎないふりかけが、この都市の人たちにとっては重大な問題だった。少女が残す食べ残しは、あまりにその大きさが大きいこと、そして食べ残しらしい微妙な部分であることが相まって、おれたちの栄養としてはあまり適切ではなかった。この白い米粒も、お腹をふくれさせることには困らないが、栄養も味も最低レベルだ。そこでこのわずかに付着した卵のカスが、小さな人間たちの奪い合いの的となったようだ。
アリだって、1匹で米1粒は食べ切れただろう。1粒の米のわずかな表面を削り取る、おれたちはアリよりも惨めだった。まるで細菌のレベルまで落ちたみたいだ。少女の弁当箱に巣食う細菌。巨大な米粒から削り取ったおれの今日の食事は、まるでどろどろの白いペーストだった。少女にとっては腹の足しにもならない米粒の一部だ。鼻を近づけた。わずかに甘い少女の唾液の匂いがした気がした。
首を横に振った。きっと気のせいだ。
少女の食べ残しを両手に抱いて、かごに乗せるために自転車のある場所へと向かった。この街にはやけに空き地が多いが、元々は市内でも有数の密集した住宅街だった。空き地なんて数えるほどもなくて、公園の数だって少なかったはずだ。ここには芝も木もなくて、当然、遊具もなかった。地面は何かで抉られたかのように赤い土が露出していた。だから、ここも元々は広場でも公園でもなくて、何か住宅か建物があったのを、少女の例の指によって抉り取られた跡だったのだろう。米粒の周りには、呆然と立ち尽くして空を見上げている人たちが沢山いた。女性が多かった。彼女たちも誰かを待っているのだろう。
空中に連れていたっきり、もう二度と戻ってこない誰かを。
#3 星のない空
再びチャイムが鳴った。もう理科実験準備室から少女はいなくなって、先生は1人で水槽を見つめていた。よく見ると、それは固いスプリングで出来た台座の上に乗っていて、車や生徒が通ったときの衝撃を吸収する仕組みになっていた。外の人間にとっては何ともない揺れも、彼らにとっては何万倍もの大きさだった。近くの廊下を誰かが走っただけで、その衝撃が街全体を壊しかねないのだった。
水槽の外壁となる、半透明のガラスには蛇口へとつながる細いゴムパイプだけではなく、物理の実験に使うような細い銅の電線がつながっていた。セロテープで、単1の乾電池に繋ぎ止められていた。それぞれが街の水道と電気を支えている。水槽の中の小人を生き残らせるために考えた、驚くほどちゃちな仕組みだ。それでも、自分たちが食べる日まで小人たちを生かしておくという、その目的は確かに達成していた。ふっと先生は笑った。これなら理科の自由研究としても有意義だろう。
パイプの1つは緑のバケツにつながっていた。予め張っておいた淀んだ水の上に、目に見えるギリギリの大きさのゴミが浮かんでいる。水道に流す通常の下水道とは違って、このパイプには特別なゴミを捨てるよう小人たちに命じていた。白衣の袖が濡れないように、彼女は表面に浮いていたそのゴミを慎重にすくって、それから近くにあったメダカの水槽に入れた。水面に小さな波を立ててゴミが沈んでいくと、綺麗な目をしたメダカたちが一斉に近寄っていった。
それは小人たちの死体だった。街の中の死体が問題にならないように、先生と少女は彼らのための完璧な葬儀場まで用意してあげていたのだ。普通のゴミは下水と一緒に理科室の水道にそのまま流していたが、目に見えないほど小さいとはいえ、小人たちの死体はそのまま流すわけにはいかなかった。さっきのお昼ごはんのように、証拠を残さない一番の方法は身体をそのまま食べてしまうことだった。でも、不衛生なのは嫌だ。だから、この方法を思いついた。生きているのは人間が食べて、死んでしまったのは動物が食べてしまえば、彼らがいた証拠も後には何も残らないのだ。小さな口をパクパクと動かして、メダカたちが彼らの成れの果てを食べていった。
二人が秘密を共有したその瞬間がいつだったのか、正確なことはもう覚えていない。しかし、きっかけは記憶に残っていた。都市が前触れ無く消える現象について、先生は授業の中で簡単に持論を述べたのだ。この現象については、色々な先生が色々な意見を述べていたから、彼女も軽い雑談のつもりだった。
まず、消えた土地は必ず都市部で人間が多い場所だったから、これは無差別的な超自然的な力による現象ではなかった。人間のある場所に偏るということは、その現象の原因となる何かは人間によるものか、あるいは少なくとも人間という概念を理解している必要があるからだ。だから、この現象の背後には人間か人間に近い存在がいて、その存在が意図的にこの現象を起こしていると先生は考えていた。
そして、消えた都市は破壊されていないとも先生は信じていた。なぜなら、都市は跡形もなく破壊されてしまったのではなく、文字通り「消えて」しまっていたからだ。最新兵器による破壊だったとしても、都市のあった部分には何か必ず痕跡が残されるはずだ。破壊は秩序ある何かを無秩序な何かに変換する行為で、有を無にする消滅とは明らかに違った。しかし実際には、狙われた区画はその地面の地下数メートルまで、何の痕跡もなくそのまま消えてなくなってしまっていた。後には何もなかった。都市の消滅は、都市の破壊よりも明らかに手のかかる行為だった。最初から破壊するつもりなら、わざわざこんな手の込んだ芸当を見せなくてもよかったはずだ。
だから——先生は言ったのを覚えている——この現象を起こした存在は都市を破壊するつもりなどなく、むしろ都市を保存するつもりでこの世界から切り取ったのではないか。それが何のためかは分からないが、一番ありうるのは住んでいる人間を利用したいからかもしれない。都市部ばかりが切り取られるという、この現象の性質とも一致していた。しかし、現代の都市は水道やら電気やら、様々なインフラがあって初めて成り立つもので、物理的に切り離してしまえば維持できない。おまけに住んでいる人間が生きているとしたら、彼らには恐怖心があり、それを伝える言葉があり、きっとすぐにパニックや暴力が沸き起こるだろう。そして、食糧や物資はどうするのか。それらが少しでも欠けていたら、彼らはすぐに奪い合いの原始状態に陥るだろう。
だから、最近立て続けに消失が続いているのは、その現象を起こした黒幕が都市の維持に失敗しているからで、適切な補助とともに安定して都市を保てるようになれば、これ以上の都市の消失は食い止められるのではないか。もし黒幕と話せる機会があるとすれば、感情的に怒ったり道義を訴えたりしても何の意味もないだろう。その黒幕は都市を丸々縮められるほどの能力を持っているのだ。他人に罪を咎められるのは、いつでも壊せる人形に説教されるようなもので、きっと話を聞く前に縮められて殺されるだけだ。むしろ大切なのは手を差し伸べることで、その黒幕の意図にかなうような都市を見つけ、それを維持していく方法を見つけることができれば、それ以上の縮小は食い止められるかもしれない。
軽い気持ちで始めた雑談だったが、話し終わるよりも先に彼女は後悔しはじめ、最後には結論まで言えずに口をつぐんでしまった。全ての都市を可能な限り見つけ、元に戻すという社会の一般的な意見とは、彼女の意見は大きく異なっていた。それに、これだけ大規模な現象なのだから、もしかしたら聞いている生徒の周りにも被害にあった人がいるかもしれない。しかし、彼女がそう思っていることは事実だった。科学的な調査を続ければ必ず原因を発見でき、全ての人々を取り戻せるという周りの意見にもうんざりだった。彼女は口を滑らせてしまった。そして、そうやって非常識な持論を展開してしまったその理科の授業に、彼女——あの少女が出席していたのだ。
そこから先は信じられないことの連続だった。先生が言ったことは推理としては全て正しかったが、しかし本当の原因がこんなに近くにあるとは見抜けなかった。いとも簡単に人を縮めてみせると、少女は次の日には建物さえ縮めて先生に見せてきた。信じないわけにはいかなかった。それで先生が秘密を守ってくれる人だという確信を得ると、少女はいよいよ縮小した都市を保存する方法について先生と相談しはじめた。少女は何でも自在に縮める能力を活かして、都市を自分の部屋の机に縮めて移していた。しかしどういうわけか、都市はいつも数日で崩壊し、少女が遊ぶよりも早く勝手に小人たちが死んでいってしまう。どうしたらいいですか、と少女は聞いた。先生はその知識を活かして、少女がより遊んだり食べたりできるような都市の保管の仕方を探すと約束してしまった。
それから先は失敗の連続だった。少女が直接都市を壊してしまった例もあるにはあったが、少女が食べてしまう以上に、いつも小人たちを傷つけるのはその小人たち自身だった。自分たちが縮められ、少女の所有物になってしまったと分かると、水槽の中の街はすぐに混乱状態に陥ってしまった。もうどうなったって元の世界には戻れない、あとはこの水槽の中で少女の食糧として生きるだけ、ということに気づいてしまえば、もう法律や道徳なんて関係なくなってしまうのだろう。外部からのモノが一切入ってないこともあって、目を離すと彼らは物資の取り合いをし、その結果として大規模な殺し合いが起こってしまうのだ。誰かが放棄された建物に火をつけ、利己心に取り憑かれた彼らが協力してその火を消すこともなく、1つ、また1つと縮められた都市は滅んでいった。それらを入れ替えたり、少女の小人たちへの扱いを見たりしているうちに、彼女の中に最初はあったはずの罪悪感もいつの間にか消えて無くなってしまった。
水槽の中を見ると、精巧に作られた模型のような街にも静かな夕暮れが訪れようとしていた。自分の髪の毛より細い道路にはこれまた小さな人間の粒が行き交い、食糧や様々な物資を運んでいた。まるで街という1つの細胞を支える、完璧な分子たちのはたらきを見ているようだ。それと同時に、それでも彼らは生きた人間で、しかも数週間前までは自分たちと同じ世界に生きていて、たまたま少女の目についた区画に住んでいたばかりに、この水槽の中に縮められ閉じ込められてしまったのだというあの実感が湧いた。彼らは自分と同じだけの人生を歩んで、ひょっとしたら自分以上に努力してきた人間だっているかもしれないのに、今や彼らは自分の爪の垢にも満たない極小の存在に縮められて、わずか30cmのこの水槽に閉じ込められて生きるのだ。そしていつかは、少女のお腹の中へ……。
考えに浸っているうちに、先生は履いていたジーンズの脚を無意識に擦り合わせていたことに気づいた。身体の奥で、何か熱いものが刺激を求めていた。こんなことって変なのに、まるで秘められたもう1つの自分が身体の奥にあるみたいだ。直接触って確かめるまでもなく、きっと自分が濡れてしまっていることが分かっていた。
ドアのほうを振り返る。相変わらず理科棟は静かだ。誰も通らない。もう午後の授業は始まっているから、誰かが通りかかる心配もない。再び目を戻すと、やっぱりそこには粒のように小さな人間たちがいて、こちらの目線に気づいて何かを叫んだり、あるいは気づかずに必死に今日の食糧を運んだりしていた。ほとんど自分でも意識しないうちに、彼女は手を水槽の上にゆっくりとかざし、もう片方の手で都市と自分とを隔てる薄いガラスの天井を外していた。
* * *
食糧を積み込んで自転車を走らせていた。外からは相変わらず断続的な揺れが続いていたから、まっすぐに走るのは至難の技だった。しかし、これも慣れだ。おれは自分の小さな部屋があるアパートまで、ほとんどふらつきも転びもせずに走っていた。
前方に気づいて急ブレーキをかけた。前方の交差点をふさぐように、何人かの大人が地面に座り込んでいた。ここは最初の混乱で大きな事故の起こった交差点の1つで、最近は車廻らないからか、もはや広場のようになっていた。交差点の真ん中には事故車両がそのままの形で残っていて、少し離れたところにも横転した車両が放置されている。その灰色のひしゃげた軽自動車のすぐそばに、しゃがみこむ人の姿があった。それはセーラー服姿の小さな女の子だったが、この年代に特有なはずの若々しい輝きは一切感じられない。その印象は穴だらけになっただるだるのシャツのせいかもしれなかったが、しかしそれ以上に彼女の印象を決めつけていたのはその目だった。暗い縁をまとった瞳孔とぼやけた瞳で、まるで目の前の光景を見るのを拒むかのように、ぼんやりと上を見上げている。
こちらが近づいてきたことに気づいて、彼女はゆっくりと手を上げた。不思議なことに、いくら近づいても彼女の目は上を見上げ続けていた。
「おう、久しぶりだな」おれはこの子のことを知っていた。「2日ぶり……くらいか?」
「昨日もいました」彼女は答えた。顔も目線も空を見上げたまま、微かに唇だけが動いていた。
「そうか」おれは言葉に詰まって、つい自分が今一番聞きたかったことを尋ねてしまった。「……なぜここにいる?」
彼女は何も言わず、ゆっくりと上にぼやけた瞳を向けた。
蛍光灯の光を遮るように、巨大な白衣の女の顔がこちらを覗いていた。いつの間にそこにいたのか、あの巨大少女と違ってこいつは無口で静かだから、おれは全くそこにいたことに気づかなかった。その巨大な口には笑いが浮かんでいるように見えた。その頬は赤く火照っていて、口角は今にも笑い出しそうなのを抑え込んでいるようだった。間違いない。あれは悪いことを考えている顔だ。彼女はこちらに手を伸ばしていた。わざとなのか、それとも躊躇いがあるのか、ゆっくりと、ほとんど音を立てないまま。
「それで?」乾いた舌を動かして、おれは彼女に尋ねた。「逃げるのか?」
少女は黙って上を見上げていた。周囲の光が遮られて、だんだんと周りは暗くなっていた。数秒経ってから、やっとおれの質問に応えるつもりになったらしく、視線は上に向けたまま答えた。
「まさか」夜のように暗くなっていた。今上空を見れば、きっと巨大な手に刻まれたしわや線の1つ1つまではっきりと見ることができただろう。おれの目はアスファルトの上の小さな女の子を見ていて、視野の中に上空の手は入っていないはずだった。それなのにおれは、巨大な質量が近づいてきているというあの圧迫感を全身で感じていた。
視線がやっと交わったとき、少女は微かに笑っていた。おれが彼女とあってからのこの短い間で見た、初めての笑顔だった。
「家族に会いに行くんです」
視界が暗転した。衝撃があった。視界のすべてが赤い何かに覆われていた。微かに水と汗の匂いがして、これがあの女の指だということに気づいた。
* * *
人差し指に暴れる感覚を見つけて、先生はあわてて力をゆるめた。小人たちの身体はあまりにも脆く、指先の力で簡単に潰れてしまうからだ。できるだけ繊細に力をかけるように注意しながら、先生は小人たちを親指と人差し指の間でつまみ上げていった。この大きさだとまるで彼らは砂糖の粒のようで、彼らを落としてしまわないかどうかも心配だった。水槽の上まで注意しながら指を持ち上げると、彼女は彼らを右手の上に移した。
近くで見る彼らは、間違いなく人間だった。彼らにとっては家よりも大きい手のひらの上で、その複雑な起伏と揺れに戸惑いながら、彼らはどうにか2本の足で立ち上がろうとしていた。ある者は1人で、また別のある者は近くの人と助け合いながら。小さすぎて、彼らの表情が見られないのが残念だった。もっと顔を近づければ見れたかもしれないが、自分の鼻息で彼らを飛ばしてしまわないか心配だったからだ。
私にも、少女のように大きさを変える力があったら。
もっといろんなやり方で小人の存在を確かめられるのに——
頭の中に浮かんだそんな考えを、先生はすぐに否定する。理由も仕組みも彼女にはよく分からなかったが、縮小能力という危険な力を使いこなすのは、きっと少女1人で十分だろう。自分にその力があったら、少女のように自分でも他人を縮められるようになってしまったら。
——まあ、好みの男子は持って帰っちゃうだろうな。
ふふっと笑って、先生は手のひらの中の小人たちを見た。自分には特別な力がない。小人に好き勝手できる立場に回っているのは、たまたま自分が少女のクラスの理科教師で、たまたま彼女が秘密を打ち明けてきた相手が自分だったからだ。いま手のひらの中で怯えているだろう小人たちと、自分との間には何の差もなくて——たまたま、そのときに違う場所にいたという違いしかない。何の優劣もなく、何の因果もなく、たまたま、ある都市のある区画にいたという理由だけで、彼らは水槽の中に閉じ込められ、そしてこのまま——このまま、私の快感の道具になって死ぬのだ。
白衣の下、ジーンズのベルトは緩んでいた。空いた左手で、彼女は器用にズボンを下ろしていって、手のひらの上の小人たちにこれから向かう場所を見せていった。
#4 水槽の中の街
数日くらい前まで、おれは毎日夜ふかしをしていた。夜勤時代の癖だった。何回あの忌々しいぼやけた学校のチャイムに起こされたところで、おれは昼に寝る長年の習慣を捨てられなかったのだ。当然最近は仕事も娯楽もなくなってしまったから、夜に起きてもすることがなくて、今は真夜中の散歩が新しい習慣になっていた。
暗すぎてよく見えない細い道を歩きながら、本当はもう散歩なんてやめようと思っていた。以前の空は明るい星や月とつながっていたが、最近の新しい空は学校の天井につながっているだけだ。当然、夜空は常に真っ暗で星の明かりもなく、どこからか供給される切れかけの街頭だけが唯一の明かりだった。揺れやら襲撃やらで常に少しずつ変わり続ける地形も相まって、道に迷うことは一度や二度ではなかった。火や喧嘩だってよく見るし、きっと夜の治安は以前と比較にならないほど悪いはずだ。そんな中を1人で、行くあてもなくさまようのは危険そのものだった。例の目の死んだ女の子に出会ったのは、まさにそうやって家へと踵を返しかけたときだった。
おれが見つけたとき、彼女は夜の道でレイプされていた。
男の笑い声と、何か軽いものを打ち付けるような規則的な音に、真っ暗な中でおれは気づいたのだ。今から思えば、彼女の声も聞こえていたのかも知れない。1つ先の曲がり角だった。何とか音だけを頼りに近づくと、彼女は制服を身に着けたまま、両腕を歩道の柵に縛り付けて動けないようにされたまま犯されていた。丁寧に口の中もタオルで縛って、大声を出したり舌を噛んだりできなくされていた。
行為に加担しているのは、さしずめ性欲が抑えられなくなった男子中高生あたりだろうと思っていた、そこにいたのは意外にも中年の男たちだった。小太りで汚い服を着ていた。やり方こそ手が込んでいたものの、力や体格では若者のおれには勝てず、何発か殴るとあっという間に逃げ出してしまった。……犯しかけの少女をそこに置いたまま。
住所を尋ねると、彼女は黙って首を横に振った。おれは彼女の服についた土埃や汚れを払ってから、どうにか彼女をおれの家へ連れていった。とにかく、そのまま路上生活者になっているよりはマシだと思ったからだ。きっと彼女が狙われたのは、路上の目に付く場所で生活していたからで、モラルの無くなった男たちにこの邪な計画を立てられ、最後の思い出づくりとばかりに犯されたのだろう。具体的なことは何も聞かなかったが、それがどんな体験だったかは彼女の目がすべて物語っていた。
部屋の前にたどり着くと、おれは彼女に部屋の鍵を渡した。狭くて汚いがベッドと食べ物がある、ガス不足でぬるいがシャワールームまである。中のものは全て自由に使ってくれていい。シャワーを浴びたらタンスの中にあるものを着て、それで眠れそうになっていたらベッドで寝てくれ。おれは部屋の外の離れた場所に行く。ドアストッパーを閉めれば、絶対に誰も入れない。細かいことは明日の朝にまた話そう。
彼女はしばらく差し出された鍵を見て固まっていたが、やがて小さく頭を下げると、受け取って部屋の中へと入っていった。シャワーを浴びる音を壁越しに聞きながら、おれは再びアパートの外へと出て散歩に行った。翌朝、戻ったときにはもう彼女の姿はなくて、洋服タンスと冷蔵庫が開きっぱなしになっていた。。
やっちまった、と思った。いくら少女を安心させようと思ったからって、彼女から離れるべきではなかったのだ。タンスからはユニセックスのシャツとコートが、冷蔵庫からは仕事用に常備していたウィダーゼリーが無くなっていた。これでおれもあの巨大な米粒を毎日追っかけにいかなきゃいけなくなったのだ。
真っ暗な外を眺めながら、自然と頬が緩んでいた。最近あまり無かった感情だ。このアパートの廊下から見える夜景の、そのどこかにあの少女はいるのだ。シャツやウィダーゼリーなんて、いくらあげたっていい。彼女がうまく生きていけますようにと、おれは強く天に祈った。星が1つも見えない、相変わらず真っ黒な空だった。
* * *
手のひらの上で、粒のような小人たちが暴れているようだった。目を細めれば微かに見える彼らの小さな小さな手足。手の上の細かいシワや起伏に足を取られて転ぶ、なんて可愛らしい存在なのだろう。しかし、それは紛れもなく同じ人間だった。小さな粒の1つ1つに思考があり、感情があり、そしてこれまで積み重ねてきた人生があった。しかしそれは、すべてあと数分のうちに終わるのだ。自分より何千倍も大きい、一人の女のオナニーのために。
筋肉にわずかな力を入れて、手をおわんのような形にした。手の形がわずかに変わっただけで、彼らは起伏の上をころころと転がり落ちて、すぐに真ん中のくぼんだ部分に集まっていた。粒のような彼らが集まると、もう1人1人の区別は付かなかった。
先生はジーンズもパンツも付けたまま、左手でわずかに作った肌と下着の間の隙間に、小人たちを招き入れていった。自分と全く変わらない知性や命を持った彼らにとって、女の下着に閉じ込められるというのはどんな体験なのだろうか。一度パンツの内側に入ってしまえば、もう彼らが太陽の光を見ることはない。代わりに彼らを待っているのは女のパンツと肌の間の密室で、そこには30度を優に越える停滞した空気が漂っている。自分より何万倍も大きい女性の下着の中にいるというのは、それだけで恐ろしい不安な経験に違いない。
しかし、もちろんこれで終わりではなかった。彼らにはこれから行く場所が見えているだろうか。ほとんど光は入ってこないし、じっくりと眺めている暇もないだろうけれども、その暗さに小人たちの目が慣れていてくれたらいいと願った。少し恥ずかしさもあったけど、今は見られる快感のほうが勝っていた。きれいに生え揃った細い陰毛。わずかに内側の桃色が覗く、花のようなピンク色の起伏。彼女にとっては自分の身体の一番気持ちいい部分に過ぎなかったが、パンツの中に閉じ込められた彼らには、それはどう映っているのだろうか。自分の視界のすべてを埋め尽くしているそれが、単に彼女の性器でしかなくて、なのに自分の背丈の何十倍も大きいという残酷な事実を受け入れてくれているだろうか。
もう我慢できなかった。先生はその右手を器用に使って、2本の指でピンク色の淫靡な口を押し広げると、わざとそこから少しずれた陰毛の上で手を傾けていった。まるで振りかけられた粉のように、小人たちは彼女の毛の形と偶然の力学によって、ある者は陰毛に引っかかって閉じ込められ、ある者はその下の突起にたどり着き、またある者は指で広げられた巨大な陰唇の中へと落ちていった。手が下に動くにつれ、その傾きはさらにきつくなり、最後まで残っていた小人たちは直接ピンク色の襞の中へと落ちていった。その中には、やけにボーイッシュな煤けたシャツを着たあの少女も含まれていた。
若い理科教師は、粘膜の鋭敏な感覚で自分の内側に彼らが落ちるのを感じ取ると、思わず声を出しそうになるのを咄嗟に手で抑えた。ここは学校だった。いくら人気が少ないとはいえ、露骨な声を出して誰かに気づかれるわけにはいかない。片手でそのまま口を塞いだまま、もう片方の手でゆっくりと自分の性器をなぞる。愛撫のような、なんてことのない弱い刺激のはずなのに、彼女は痺れるような快感を感じずにはいられなかった。自分にとっては簡単に触っただけでも、彼ら——陰毛と性器の中に閉じ込められた、彼らにとってはこれが苦痛と恐怖を引き起こすと分かっていたからだ。今は閉じた下の唇の表面をなぞったとき、小さな粒に指が触れる感覚があった。気のせいかも知れない。その感覚は弱すぎて分からなかった。でも、次にまたなぞったときには、その小さな抵抗はなくなってしまっていた。
机に顔をうずめた。唇の端からよだれが垂れていた。今にもビクリと震えそうな身体の動きを、全身を丸めて机に体重を預けることでどうにか抑えていた。何度か荒く息を吸ってから、彼女は指の動きを再開した。もう、身体はもっと強い刺激を求めていた。間接的な愛撫じゃなくて、もっと強い直接的な刺激だ。きっと小人は耐えきれずに潰れてしまうだろうが、どっちにしろもう生かしている意味もなかった。どうせ彼らは使い捨ての命なのだ。彼らの恐怖も、苦痛も、知ったことではなかった。手の向きを変え、爪を突き立てるように陰毛に触ると、まるでぼりぼりと掻くかのように乱暴に突起を刺激していった。その力はあまりに強すぎて、毛の間に絡まっていた小人達は一種で粉々に潰れていった。抵抗にもならなかった。元より、彼女も抵抗を期待してなどいなかった。彼らが死ぬ間際に上げる断末魔の悲鳴と、その潰れた肉体から出る暖かいペーストが、何よりも彼女の内側にある残酷な炎を燃え上がらせた。数回指を往復させるだけで、陰毛の上にいた小人たちは全滅して、彼女の指先と愛液をほんのわずかに赤く染めた。あまりの快楽に耐えきれず、ついに彼女はガタンと大きく身体を震えさせた。腰が浮き上がっていた。明るく清潔だった白衣の袖も、汗でぐっしょりと濡れてしまっていた。
もう1回呼吸を落ち着かせると、彼女はついに指を少しだけ下げて、そのピンク色の唇の上をなぞった。できるだけ優しく触ったはずなのに、やっぱりそこにいた小人を1人潰してしまった。彼の人生が、今そこで終わったのだ。指の動きに巻き込まれて、何の慈悲も与えられず、まんこと人差し指のあいだで。彼の数十年は、若い女教師のオナニーの道具になるためにだけ奪われたのだ。その残酷な実感こそが、まさに彼女をさらに熱くさせてくれるものだった。
全身の緊張を解くかのように、深く息を吐きながら、彼女は繊細な動きで唇のあいだへと指の第一関節を忍ばせていく。柔らかく暖かい粘膜だけが立てる、ぬぷりという感覚がした。奥へ、そしてその奥へ、ゆっくりと指を動かしながら、彼女は狭い洞窟を広げていく。
やっぱり小さすぎて感じることは難しかったが、それでも彼女は指と粘膜のあいだに閉じ込められた人間たちの存在を感じていた。できるだけ慎重に指を動かしたから、きっと彼らはまだどうにか生きているはずだ。それでも、先は長くない。彼女にとっては10分のオナニーでも、性器の中に閉じ込められた彼らにとっては永遠のように感じられるはずだ。36度の深部体温と、性器の中の湿った空気、淫靡で下品な匂いの中で、彼らは最期に何を思うのだろうか。
ゆっくりと指を自分が感じる一番奥まで入れてから、彼女は思う。
——そういえば。
指が粘膜に当たる。その上にも1人の小人がいた。小人は迫りくる爪の先に怯えて目を閉じたが、指はまた入り口へと戻っていった。
——小人たちには、自分たちが救世主だって伝えてたっけ。自分たちが食べられたり性の道具に使われて死ぬなんて、ほんとのことに気づかせないために。
徐々に指の動くスピードが増していく。一番力が入る浅い部分から、小人が指と粘膜の間で潰れていくのが分かる。
——たまに小人をつまみ上げるのも、別の安全なところに移してあげてるんだって嘘ついたんだっけ。
今や中の小人の命なんか気にしていなかった。自分の身体が求め、さらに求めるままに、どんどん指の速さと圧力を強くしていった。一番奥にいた小人は指が近づくたびに怯えていたが、曲がりくねった襞の起伏のおかげで残酷にも死を免れていた。
——声でバレてるとは思うけど、でも、もし純粋な子なら、あるいは家族だけ先に連れて行かれたような子なら——
窒息しそうなほどに溢れ、粘っこく身体へとまとわりつく愛液のせいで気づかなかったが、その小人は泣いていた。自分が裏切られたことも、あの女の話は嘘だったってことも、そして自分の家族に起こった運命も彼女には分かっていた。彼女は聡明で、こんなことになる前は学校でも一番の優等生だったのだ。でも、そんなステータスにはもう意味がなかった。彼女は今や膣の奥に入れられたっ小さな小人の1人に過ぎず、巨大な女の快楽を高めるたびに一番低俗で不快な殺され方をされるのだ。自分が惨めで仕方がなかった。周りが言っていることは正しかった。水槽の向こうで聞こえる高い音は小人たちの悲鳴で、低い笑い声はそれを楽しんでいる巨人たちの声だったのだ。これほどに惨めな最期が待っているとは思わなかったが——それでも、あの街で強姦されて希望を失ったとはいえ、あの指に希望を見出すような真似はすべきじゃなかった。全ての希望に裏切られた彼女の顔には、後悔と、怒りと、そして深い絶望が刻まれていた。
——信じてくれた小人たち、ごめんね。
どうにか理性の奥に残った最後の感覚で、自分先生は最後に強く心の中で念じると、指に込める力を強くした。抑えていたはずの声も、もはや耐えきれずに出してしまっていた。電撃のように走る快感が増していくたび、ついに身体の振動も抑えられなくなって、巨大な身体はビクリと大きく浮き上がった。彼女の女性器の中、襞の凹みに挟まっていたはずのその少女も、空間ごと持ち上げられる強烈な力を受けて、投げ出されるように違う空間へと飛んでいった。球体のように、わずかに浮き上がったでこぼこの粘膜が張り出していた。
次の瞬間、暴力的な速さで巨大な指が通った。襞は指の腹で強く圧迫されていたその巨大な力を受けて、次の瞬間には少女は絶命していた。骨格が押しつぶされた程度で、数秒間だけは人間の形を保っていたが、二度、三度、四度と指がピストン運動を続けていく中で、少女だった頭や手足、彼女の身体を作っていた全ての部位は押しつぶされ、擦り付けられ、滲み出る粘液と一緒にどろどろの赤い液体に変わった。それと同時に、大きな声を上げて、あの女も絶頂していた。愛液が彼女の股から溢れ出し、少女だったもの、そして他の小人だったものまで全て、身体に備わった自浄作用で外側へと洗い流していった。肉体以外に残った小人たちの服や私物も、あまりに小さすぎて消えてしまっていた。少女の記憶も、思い出も、あの男の部屋で借りたTシャツとズボンも、もうこの世界のどこからも消えて無くなっていた。
* * *
視界が明転した。まるで映画を途中から再生したみたいに、音と光が急に戻ってきていたのだ。頭が割れるように痛かったが、おれはなんとか記憶を取り戻していた。水槽の中の街に閉じ込められたこと、夜の散歩で少女を助けたこと、そしてその少女と交差点で再会したこと……。
そうだ、彼女は、あの名前も知らない少女は?
周りを見ると、そこは最後に彼女と話したあの交差点で、建物も街灯もそのままで、ただあれだけいた人の姿だけが無くなっていた。よく見ると、直前に少女が寄りかかっていた横転車両がペチャンコに潰れて、割れたフロントガラスがそこら中に飛び散っていた。
そうか、例の降りてきた指は、夢でもなんでもなくて……。
きっとあの巨大な指は、交差点ごと押しつぶして、中にいた人たちを無差別につまみ上げて天の上へと帰っていったのだろう。それで、それなのに、きっと指にかかる力の違いか何かで、あの少女はつまみ上げられ、おれは持ち上げられずに済んだのだ。それでもあの巨大な力と風圧で、地面か電柱にでも叩きつけられて、そのショックで気を失ってしまっていたらしい。天井の蛍光灯は消えていたが、どこからか漏れる光のおかげで明るかった。これは朝日だ。ということは、おれは丸一晩も道路で気絶していたのだ。
そのとき、甲高いメロディが外から鳴り響いた。間違いない。朝のチャイムだ。それと同時に、外の揺れが大きくなって、ずんずんと何かが近づく感覚があった。人だ。上を見た。昨日嫌になるまで見た、あの巨大な白衣の女の上半身が覗いていた。彼女は無表情で、片手にビーカーを持っていた。この水槽の近くにある装置をメンテナンスしているようだった。
急に口の中に何かがこみ上げてきて、おれは思わず両手をついて吐き出した。それは血だった。肋骨を折ってしまったのかもしれない。アドレナリンがひくにつれ、次第に痛みは耐えきれないほど増していった。
赤い血はアスファルトの起伏に沿って、交差点に赤い血の川を作った。偶然、それは少女のもたれていた横転車両のほうへと注ぎ込んでいった。その先に光るものがあった。散乱したフロントガラスの欠片だろうと思ったが、違った。朝日を浴びて銀色に光るそれは、飲み終えたウィダーインゼリーのパウチだったのだ。
彼女をこの世界に留める唯一の証拠を守ろうと、おれは衝動的に腕を伸ばしたが、間に合わなかった。血の赤に染まって、銀色のパウチはもう表面の文字が読めなくなっていた。伸ばした手がガラスの破片に当たって、おれはまた出血していた。おれの苦痛の声をかき消すかのように、何万倍も大きい女の鼻歌がおれたちの街を覆っていた。
言っただろう、ここは地獄だ。