五月雨に履かれる 「もうだめぇ~、ちょっとお休みしますね……」  地響きを立てて、ふらふらとドックに消える女の子を見送って、あなたはため息 をつきます。少しばかりの残念さと、そして何より安堵のために。今回もよく、無 事で帰ってきてくれたと。  駆逐艦五月雨。蒼く透き通るような美しい髪の毛の持ち主で、その長さは実に111 メートル。彼女の身長と同じ、つまりその先端が僅かに地面を掠めるほどの長髪で す。  白を基調とした清潔感のあるセーラー服に身を包み、その姿はまさに清純清楚。 ほっそりとした腕に連装広角砲を握り締め、小さな体に似合わぬ魚雷を背負い自分 よりも遥かに大きな戦艦を相手に必死で戦う頑張り屋さんでもあります。もっと も、小さな……といっても、貴方からみればまさにビルのような巨大少女なのです が。  ただ、彼女がどこか少し抜けているのはあなたも承知のことでしょう。五月雨の 歩いた後には彼女のショートブーツ型の艤装が穿った穴がいくつも穿たれ、彼女の 髪の毛に絡まって引き倒されたクレーンが散乱する有様でした。あとで五月雨に直 させようと思わなくもなかったのですが、今日は酷く疲れているようでしたので、 さすがにそこは思い止まりました。あんまりいじめると泣いてしまいそうですか ら。もちろん、そんな彼女の泣き顔もまた可愛らしいのですが。  清楚で健気で、明るくて元気で、ドジで頑張り屋で……そして泣き虫。五月雨と いう少女を言葉で表すのならそんなところです。  そして貴方は、そんな彼女に密かに想いを寄せていました。  もちろん、五月雨は駆逐艦で、貴方は人間。いえ、それ以前にもっと言ってしま えば、五月雨の外見は中学生程度、世間で言えばまだまだ子供なのです。そんな五 月雨に、提督の自分が想いを寄せているなど……いえ、これ以上は考えない事にし ましょう。心だけは、こと恋心に関してはどうする事もできませんから。  貴方は愛しの五月雨の入渠を見届けると、執務室に戻るべくドックに背を向けま した。そんな貴方の視界の隅に、あるものが映ります。  彼女のショートブーツ型の艤装。コンクリを割って靴底を沈み込ませているそれ は、ちょっと頑張れば登る事ができそうです。  執務室でいつも傍にいて、不器用ながらも一生懸命に仕事を手伝ってくれる五月 雨。そんな彼女の足を模る靴が、80倍ほどに大きくなってあなたの目の前にある。  そして五月雨本人は入渠中。そんな状況が、あなたの好奇心や欲望を掻き立てま す。  気がつけばあなたは、そのずっしりと重い五月雨の靴に手をかけ、既に一歩を踏 み出していました。多分おそらく、踏み出してはいけなかったであろう一歩を。け れどもう、引き返すつもりもありませんでした。  なだらかな傾斜。それは彼女の足の甲を登っているのと同じ事。今ここに彼女は 居ませんが、けれどなんだかドキドキします。  高さにして数メートルの山を登り終え、下を振り返るとめまいがしました。五月 雨の踝よりも少し上の高さ。けれども、人間にとっては落ちれば怪我をしかねない ほどの高さです。まるで家の屋根に上ったかのよう。普段彼女はこんなものを履い ているのか、と改めてその大きさの違いを実感させられます。  ブーツの淵から顔を出して覗き込めば、その中は真っ暗闇。微かに感じる、五月 雨の、年頃の女の子の汗の香り。そんな香りに吸い寄せられるように身を乗り出せ ば、不安定な足場も相まって、吸い込まれてしまいそうな錯覚に囚われます。入っ たら決して生きては出られない、けれどもそれでも身を乗り出したくなる、それは まるで魅惑の食虫植物のよう。ともすれば、あなたはその香りに当てられた哀れな 獲物といったところでしょうか。  獲物というのは決して捕まるつもりで集まっているわけではありません。絶対に 手に落ちないと思っているから集まるのです。そう、それはまるで今の貴方のよう に。  もう、いいだろう。そう思ってあなたは身を起こしました。すると。  くらり。覗き込みで頭に血が上ったのでしょう、その血液が一気に体のほうに流 れて覚える、眩暈。貴方は平衡感覚を暫し失います。自覚の無い、転地逆転。視界 だけが激しく回り、落下の感覚もまともに得られぬままにあなたは何かに叩きつけ られました。幸いにもそこはコンクリートの地面ではなく、柔らかい場所でした。  けれども貴方は直ぐに、それが不幸中の幸いなどではなかった事を悟ります。先 ほどよりも遥かに強くなったこの匂い。五月雨の汗の香り。あなたを受け止めた柔 らかいそれは、五月雨のブーツの中敷でした。  上を見上げれば、ブーツの筒口にまるく切り取られた空が遥か高く遠くに見えま す。  参りました。助けを呼べば、あなたは秘書艦の靴の中に落下し救助された情けな い提督の烙印を押されます。実際にそうなのですから、それも仕方がないと思えな くも無いのですが……それでも、避けられるものならばそれは避けたい。  なので貴方はまず自力での脱出を試みる事にしました。が、それはとても適いま せんでした。いざ身を起こそうとすれば、肩に激しい痛みを感じます。状況が状況 だったため痛みにすら気づくのが遅れましたが、あなた自身が落下の衝撃で肩を外 してしまっていたのです。  途方に暮れること数分。貴方はこの事態が思ったよりも遥かに深刻であることに 気づかされます。  五月雨は駆逐艦。そして駆逐艦は早風呂です。100数えて~なんていわれて、ふく れっ面をしながらぶくぶくやってる子達もいるくらいに。さすがに五月雨はほかの 駆逐艦娘よりも年上ですので、そこまで風呂嫌いではありませんが……。  そうしているうちに、地響きが聞こえてきてしまいました。この靴の持ち主のお 帰りです。 「はぁ~、お風呂って逆に疲れますよね……。部屋に戻って今日は早く寝ようか なぁ」  コンクリートがパキパキと砕ける音が、重々しい地響きに混じって聞こえてきま す。このままでは、あなた自身もそのコンクリートと同じ運命をたどる事になるで しょう。  貴方は精一杯、腹の底から声を振り絞って五月雨の名を呼びました。それはも う、今にも泣き出しそうな勢いで、声も枯れよとばかりに。 「あれ……? 提督の声?」  その声は上空およそ100メートルにある五月雨の耳にもどうにか届いたようでし た。けれども、さすがにその位置までは特定できないようで、五月雨は不思議そう にきょろきょろとあたりを見回します。  見上げる筒口が映し出す世界は五月雨一色でした。彼女の黒いオーバーニーソッ クスが柱のように聳え、そしてその先には二次成長の真っ只中の柔らかそうな太 股。上空を吹き抜ける風にぱたぱたとはためくミニスカートが、純白の下着をちら ちらと眩しく輝かせます。  見上げる上半身には、ほんの僅かに布を持ち上げるだけの優しいふくらみ。それ でも、細い腕、細い体にはよく似合います。大人と子供、その境目にあるような発 育途中の可愛らしい体。 「提督? どこにいるんですか~? 今呼びました~? うーん、気のせいか なぁ?」  まさかその提督が自分の靴の中にいるなんて思いもしない五月雨は、まるで見当 違いの方向を見回し見下ろし、それらしき人影が無い事に首を傾げます。  そしてついに、五月雨は足を持ち上げました。  帆船の帆のようなスカートを押して、その太股が上がります。上品な黒のオー バーニーソックスに覆われた膝も、そしてそこから先の足も全て。何の躊躇も無 く、五月雨の形のいい足がショートブーツの上に翳されました。  だめです、もう呼びかけても無駄。あなたは必死でどうにか起き上がり、肩を抑 えつつブーツの中を走ります。次第に低くなっていく天井、まるでそれは洞窟のよ う。そしてその洞窟の入り口から、巨大な魔物が入り込んできます。  ズドン!!  貴方はあまりの衝撃に、倒れこみました。五月雨のつま先が、ブーツの中に入り 込んだのです。狭苦しい入り口を抜けようと、左右に身じろぐそれはまるで真っ黒 な怪物のようでした。その度に激しい振動が靴の中を襲い、貴方は炒り豆みたいに ひどく転がされます。  もう既に、五月雨の足は土踏まずの辺りまでブーツの中に入っていました。あと は足の甲を通して踵が入るだけ。このままでは、五月雨に履き潰されてしまいま す。なるべく奥へそして真ん中へ。足先のほうには、僅かに空間があるはずと信 じ、貴方はどうにか体を動かします。  ぐぐぐぐっ……どっしん!!  一際強い衝撃が貴方を襲いました。どうやら、五月雨の踵が靴の中に入ったよう です。体を酷く打ちつけましたが、生きては居ます。生きてはいるのですが……。 五月雨の左足、人差し指と中指の間に挟まれてしまいました。挟まれた、というよ りか、その二つに圧し掛かられているような感じです。もし五月雨が気まぐれに足 の指をぐいと動かしたりなどしたら、貴方の体は簡単に潰れてしまうでしょう。そ んな状況でした。まともに身動きすら取れません。  五月雨から見れば貴方は2cm程度の大きさがあるはずなのですが、しかし人間の 体というのは思ったよりも薄く、細い。身長2cmというその高さ表記に対して、そ の実体はかなり小さいものなのです。それも、とても柔らかい。靴下越しでは、毛 糸のゴミくずくらいにしか感じられないのでしょう。五月雨は貴方をその指先に踏 んでもなお貴方に気付いた様子はありませんでした。  ここまでくると逆に、なんだか穏やかな気持ちになってきます。諦観の域に達し たのでしょう。最愛の艦娘の足の指に抱きしめられて果てる、それも悪くは無い と、そう思ってきさえします。  温かい。  お風呂上りの、五月雨の足。微かに入浴剤と石鹸の香りが香ってきます。ほかほ かの、湯気が上がっているみたいに暖かく湿潤な空気を精一杯、締め付けられた肺 に取り込みました。  五月雨の靴下。あの、なだらかな弧を描く美しいふくらはぎ、それを覆うあの色 めかしいソックス。執務室であれほど触れたいと焦がれ、そして適わなかったそれ が、今、貴方の体に覆いかぶさっています。なんだか、眠い。布団の中にいるみた いでした。  苦しいような、苦しくないような。  貴方の意識は、次第に遠のき闇へと融けてしまいました。  もう二度と目覚めない覚悟でした。だから、瞼の裏に光を感じたときには、ここ は彼岸かと思ったはずです。  けれども、それはどうやら違ったようでした。  なんだかすすり泣く声が聞こえて、あなたは目を開けました。目を、開けること ができました。 「て……てい……とく……!! 生きてた!! 生きてましたっ!! うわあ あぁぁん!! よかったあぁぁぁ!!」  目を開けるなり、超音量の衝撃音が貴方を叩きのめします。ガンガンと痛む頭に 手を当てて起き上がると、そこには涙をボロボロと溢してあなたを見つめる五月雨 の顔。大分長い事泣いていたのでしょう、涙の痕が幾筋も見受けられます。 「もぅ、ばかぁっ!! ていとくの……うぇ……ぐすん……ばかぁ!!」  片手で涙をぬぐいながら、ばしーんと手を叩きつける五月雨。その反動で目覚め たばかりの貴方の体は数センチも跳ね上がります。  どうやらここは執務室の机の上のようでした。五月雨が人間サイズに小さくなっ た際に、一緒に小さくなってしまったようです。そして畳張りのこの部屋に来て靴 を脱いだ時に初めて、貴方がその中で気絶しているのを見つけたのでしょう。よく そこまでの間無事でいられたものだ、と思います。 「どうしてあんなことしたんですか!! 私……わたし……提督を潰しちゃってた かもしれないんですよ!?」  彼女は泣きながらも、貴方に対して酷く怒っているようです。けれど同時に、そ れが少し嬉しくもありました。だってそれは、彼女が貴方を本気で心配してくれて いるという事ですから。  だからあなたは、五月雨の問いに正直に答えざるを得ませんでした。その結果が どんな末路になったとしても、嘘をつくのは彼女の思いに反すると思ったからで す。  あなたは観念して、本当の気持ちをそのまま、真っ直ぐに、彼女に伝えました。 「え……? あの、それって……」  一瞬、五月雨の涙がぴたりと止まりました。キョトンと惚けたような顔で、机の 上の小さな貴方を見つめ返します。  続く言葉を紡ごうと、五月雨は小さく口を開けました。けれど、混乱しているの でしょうか、言葉を選びかねたのかそれは声にはなりません。 「あ……あぅ……ぅぇ……ええぇぇん!!」  結局のところ、五月雨は再び声を上げて大泣きを始めてしまいました。そして、 びくっと肩をすくめるあなたを、上品な手袋に覆われた手で掻っ攫います。急激な 加速Gに、貴方は再び意識を失いそうになりました。もしかして、このまま投げつ けられてしまうのかな、と、そんな思いが過ぎります。  けれども、それはまったくの見当違いでした。  五月雨は、小さな貴方を精一杯抱きしめたのです。その優しくなだらかな膨らみ にぎゅぅと押し付けて。  何がなんだか分からず、貴方はとにかく頭に浮かんだままに五月雨に謝ります。 「いえ、いいんです」  五月雨は貴方を抱きしめるその手の上に、もう片方の手を重ねました。自分の胸 の鼓動を抑えるように、そして貴方を感じるように。 「取り乱してしまって、ごめんなさい。告白されるのって、初めてだったんです。 ありがとうございます、こんな私を……その、好きになってくれて」  暗転していた視界に光が刺し込みます。一瞬遅れる明順応に目を細め、視界が戻 る頃にはあの愛しい顔が目の前にありました。  貴方の体の何倍もある薄紅色の可愛らしい唇が迫ってきます。さして突然という ほどではなかったものの、しかし貴方の判断は多分に戸惑っていて対応を許しませ んでした。  ちゅっ。  柔らかく、温かい唇が貴方を包み込みます。  完全な不意打ちに骨を抜かれ、五月雨の手のひらの上でへなへなと崩れ落ちる貴 方。そんな貴方を見て、いまさら自分まで赤くなって、ちょっと目を背ける五月 雨。初々しい仕草がとても可愛らしいです。  五月雨は貴方を執務机に下ろすと、あなたにしっかりと向き直り。そして何時も の彼女らしい真っ直ぐな瞳で、元気に、明るく。 「提督の想いに応えられるように……私、一生懸命頑張ります!」