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クラッドバスター
現在
ボディをアメリカントレーラーに載せ換えたブルヘッド(Bullhead)が1990年に発売されるなどクラッドバスターはシリーズ化され地道に売れ続けたが、2004年スーパークラッドバスターの発売と入れ替わる形で製造中止となった。ちなみに製造中止になった時点ではタミヤでは最も古くから生産されつづけたRCカーであった。
クラッドバスター
現在
クラッドバスターは発売から約20年が経ち、さすがに基本設計の古さは否めない。現在はよりホイールベースが長くサスペンションの稼動範囲が広い製品が好まれている。これら最新製品と比較するとクラッドバスターは転倒しやすくスピードもそれほど速くはない。しかし最近の製品は走行性能を重視する余り、ボディがスチロール樹脂と比べて強度はあるが成型方法の違いにより細部の表現が困難なポリカーボネートで出来ており、ボディとシャーシの一体感に欠けている製品も多い。クラッドバスターは走行性能では負けていても美しさでは勝っている。またホイールベースの短さが幸いし、埋まりやすい雪上走行においては他を寄せ付けない性能である事は意外に知られていない。
クラッドバスター
現在
世界に目を転じると欧米や所得の高い国を中心にヒットし、特にアメリカはモンスタートラックの本場という事もあり日本以上に愛着を持って受け入れられている。元々アメリカのラジコン趣味者はカスタマイズの意識が高く、クラッドバスターに関しても日本とは比較にならない程数多くのチューンナップパーツが発売されている。現在ブームとなっているロッククローリングRCカー黎明期にはクラッドバスターをベースとしたコンバージョンキットが各社から発売されていた。発売から20年が経ち基本設計としては古くなったが、汎用性の高さや価格の安さもあり、未だにベース車として高い人気を誇っている。
クラッドバスター
ブルヘッド
'''ブルヘッド''' (BULLHEAD) はタミヤが発売した電動ラジオコントロールカーの名称。クラッドバスターと共通のシャーシを持つ兄弟車で、クラッドバスターとの相違点は以下の通り。
クラッドバスター
ブルヘッド
ボディをトレーラーヘッドをイメージしたタミヤオリジナルのボンネットトラックボディに変更。
クラッドバスター
ブルヘッド
ホイール及びスイングアームをメッキタイプに変更。
クラッドバスター
ブルヘッド
シャーシ本体を赤色に、軟質樹脂パーツを黄色に変更。
クラッドバスター
ブルヘッド
1990年発売。キット価格は26,800円(税別)。
クラッドバスター
ブルヘッド
2012年にブルヘッド(2012)として復刻。復刻に辺りESC専用モデルとなり、専用ESCとしてLi-Feバッテリーに対応したTEU-106BKがキットに付属している。キット価格は36,750円(税込)。
クラッドバスター
スーパークラッドバスター
'''スーパークラッドバスター''' (SUPER CLODBUSTER) はタミヤが発売した電動ラジオコントロールカーの名称。以下に挙げる点がマイナーチェンジされている。
クラッドバスター
スーパークラッドバスター
ホイールをメッキタイプに変更。
クラッドバスター
スーパークラッドバスター
シャーシの一部のパーツをボディのカラーに合わせて赤色から青色に変更。
クラッドバスター
スーパークラッドバスター
ボディが版権の都合上タミヤオリジナルのピックアップトラックボディとなり、フロントグリルのデザインがシボレーのボウタイエンブレムから4×4×4マークに変わるなどしている。
クラッドバスター
スーパークラッドバスター
2004年発売。キット価格は25,800円(税別)。
クラッドバスター
スーパークラッドバスター
2008年にスーパークラッドバスタークロームエディションが発売。ボディがクロームメッキ処理され、青色のパーツが黒色に変更されており、ESC専用モデルとなり専用ESCとしてTEU-103BKが付属している。キット価格は38,640円(税込)。
クラッドバスター
スーパークラッドバスター
2020年2月、スーパークラッドバスターブラックエディションが発売。ボディが名前通り黒の成形色で、青色のパーツが初代クラッドバスター同様、赤色に変更されている。ホイールはブラッククロームとなる。
クラッドバスター
スーパークラッドバスター
2001年に登場した同社製の高級ビッグフットモデル、TXT-1(タミヤ・エクストリーム・トラック)に旗艦モデルの座を奪われてはいるが、それでも先代クラッドバスター同様、改造のベース等として依然根強い人気を保っている。
宮城県田尻高等学校
'''宮城県田尻高等学校'''(みやぎけんたじりこうとうがっこう)とは、宮城県大崎市田尻に存在した県立高校である。
宮城県田尻高等学校
2008年度(平成20年度)より昼夜間開講型の単位制高校'''宮城県田尻さくら高等学校'''に改編され、2009年度(平成21年度)末で田尻高校としての歴史に幕を閉じた。
宮城県田尻高等学校
概要
設置学科 全日制課程
宮城県田尻高等学校
概要
校是は「誠実 規律 勤労」。
宮城県田尻高等学校
概要
田尻さくら高校と併存した2年間、文化祭など学校活動は一緒に行なっていた。野球部等は合同チーム「田尻・田尻さくら」を組み出場していた。
宮城県田尻高等学校
進路
就職が約80%、進学約20%。
宮城県田尻高等学校
進路
進学のほとんどが専門学校であり、4大や短大への進学は稀である。
宮城県田尻高等学校
沿革
1952年4月1日 - 町立宮城県田尻高等学校(定時制)開校
宮城県田尻高等学校
沿革
1954年5月3日 - 宮城県小牛田農林高等学校沼部分校・大貫分校を統合
宮城県田尻高等学校
沿革
1963年4月1日 - 全日制へ変更
宮城県田尻高等学校
沿革
1965年7月1日 - 宮城県に移管
宮城県田尻高等学校
沿革
2008年4月1日 - 生徒募集停止(同一校舎に宮城県田尻さくら高等学校が開校)
宮城県田尻高等学校
沿革
2010年3月1日 - 最後の卒業式・閉校式
宮城県田尻高等学校
沿革
2010年3月31日 - 閉校
宮城県田尻高等学校
所在地
宮城県大崎市田尻沼部字中新堀137 - 38
宮城県田尻高等学校
所在地
東北本線 田尻駅より徒歩約5分と大崎学区の高校の中では駅からのアクセスが良い。
多門重共
'''多門 重共'''(おかど しげとも)は、江戸時代の幕府旗本。通称をもって'''多門伝八郎'''(おかどでんぱちろう)と呼ばれることが多い。赤穂事件において浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめ、『多門筆記』に長矩の様子を詳しく記した人物として著名。
多門重共
経歴
旗本朝比奈彦右衛門真辰の三男として誕生。母は落合小平次道次の娘。幼名・通称ははじめ三左衛門だったが、のちに伝八郎としている。やがて旗本多門信利の婿養子に入り、信守と改名する。
多門重共
経歴
寛文6年(1666年)10月8日にはじめて将軍徳川家綱に謁見した。延宝4年(1676年)7月12日、家督の切米400俵を相続して小普請(無役の旗本)に列する。延宝5年(1677年)5月10日に御書院番、さらに貞享元年(1684年)正月26日より進物役となり、元禄9年(1696年)4月23日には小十人頭に就任した。12月22日布衣の着用を許される。元禄10年(1697年)2月15日に目付に転じ、7月に切米を所領に改められて更に武蔵埼玉郡から300石を賜って都合700石を領した。
多門重共
経歴
元禄14年(1701年)3月14日の松之廊下刃傷事件の際には浅野長矩の取調べと切腹の際の副検死役にあたったが、吉良義央への刃傷のはっきりとした動機は聞き出せていない。しかしこの前後の浅野の様子を『多門筆記』に克明に記した。
多門重共
経歴
元禄16年(1703年)10月から防火の仕事に従事し、宝永元年(1704年)6月にはその功績で黄金三枚を賜った。ところが8月2日になってその務めが良くなかったとされて小普請入りにされ、宝永2年(1705年)10月には埼玉郡の所領も多摩郡に移された。享保8年(1723年)6月に死去。享年65。
多門重共
「多門筆記」について
多門が著したと伝えられる「多門筆記」には、多門が「吉良はどうなるのか」と聞きすがる浅野に「老人なので長くは持たない」と声をかけるなどして思いやった。さらに切腹に当たり、正検死役の庄田安利が大名の切腹の場にふさわしくない庭先でやらせようとしたのに対して、多門ともう一人の副検死役大久保忠鎮はその処置に抗議したのに、庄田は激怒してまともに取り合わなかったとして批判している。また、最期に一目と望む長矩の寵臣片岡高房を自分の取り成しで主君長矩に目通しを許可させたとも記されている。
多門重共
「多門筆記」について
ただし、これらの出来事は多門の著作によるものではなく後世に別人が書いたとする説が有力で、赤穂側に肩入れし、文飾や美化が多く見られる。
多門重共
批判
江戸文化研究家の佐藤孔亮はタ門の忠臣蔵に関する逸話を「読めば読むほど作り事めいて見える」「(多門は)あまりにもかっこよすぎないか。そしてウソっぽくないか」と評価した上で、多門の宝永元年の小普請入りは、江戸城にも火が及ぶなどしたその近年の火災の責任を負うたものであり、多門にとっては挫折であったこと、時間だけはある失意の環境の中で自分の輝いていた時代を「覚書」として書くうちに「文中の世界で自分はどんどんヒーローになって」いったのではないか、と推測している。
多門重共
批判
当時の柳沢出羽守や仙石伯耆守を(柳沢)美濃守、(仙石)丹後守と書いてあったり、梶川輿惣兵衛を梶川与三兵衛と書いてあるなど名前の誤記が多い。「梶川与三兵衛」は宝永元年(1704年)頃成立の『介石記』と同じ誤記。
多門重共
批判
浅野長矩の辞世として『多門伝八郎覚書』に書かれた「風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残を いかにとかせん」は、宝永二年七月(1705年8月)以降に都乃錦という浮世作家の著作とされている『播磨椙原』などにある「風さそふ 花よりも亦 われは猶 春の名残を いかにとかせむ」に酷似している。『赤穂浪士の実像』(谷口眞子著・吉川弘文館)では、このような調査もせずに無批判に『多門伝八郎覚書』を参考にしていることから、批判も多い。
多門重共
創作
忠臣蔵などの芝居では、泉岳寺へ引き上げる赤穂義士一行を咎め、両国橋の通行を許さなかったとする逸話が追加される場合がある。
宮城県南郷高等学校
'''宮城県南郷高等学校'''(みやぎけん なんごうこうとうがっこう)は、宮城県遠田郡美里町大柳字天神原に所在する県立高等学校。
宮城県南郷高等学校
概要
設置学科 全日制課程
宮城県南郷高等学校
アクセス
JR東北本線小牛田駅下車、美里町住民バスで20分、後藤渕バス停下車
宮城県南郷高等学校
沿革
1931年(昭和6年)
宮城県南郷高等学校
沿革
3月31日 - 宮城県遠田郡南郷村立国民高等学校設立許可
宮城県南郷高等学校
沿革
4月10日 - 大柳「野田倶楽部」を仮校舎として開校
宮城県南郷高等学校
沿革
6月1日 - 宮城県遠田郡南郷村高等国民学校に改称
宮城県南郷高等学校
沿革
1935年(昭和10年)8月1日 - 青年学校令により公立青年学校宮城県遠田郡南郷村高等国民学校に改称
宮城県南郷高等学校
沿革
1940年(昭和15年)3月2日 - 実業学校令及び農業学校規定第18条により宮城県南郷農学校設立を許可
宮城県南郷高等学校
沿革
1947年(昭和22年)3月31日 - 宮城県に移管、農業化に農芸化学科を増設
宮城県南郷高等学校
沿革
1948年(昭和23年)
宮城県南郷高等学校
沿革
1月31日 - 農芸化学科を農産製造科と改称
宮城県南郷高等学校
沿革
4月1日 - 学制改革により宮城県南郷農業高等学校と改称
宮城県南郷高等学校
沿革
7月1日 - 定時制課程、男子普通科設置
宮城県南郷高等学校
沿革
1949年(昭和24年)4月1日 - 女子普通科と定時制課程・女子被服科設置
宮城県南郷高等学校
沿革
1950年(昭和25年)5月1日 - 定時制課程鹿島台分校設置
宮城県南郷高等学校
沿革
1960年(昭和35年)
宮城県南郷高等学校
沿革
3月1日 - 家政科1学級追加、定時制課程募集中止
宮城県南郷高等学校
沿革
5月17日 - 鹿島台分校新校舎
宮城県南郷高等学校
沿革
1961年(昭和36年)2月3日 - 農産製造科を食品化学科と改称
宮城県南郷高等学校
沿革
1963年(昭和38年)3月1日 - 食品化学科一学級追加
宮城県南郷高等学校
沿革
1967年(昭和42年)3月29日 - 農業一学級追加
宮城県南郷高等学校
沿革
1969年(昭和44年)4月1日 - 鹿島台分校が宮城県鹿島台商業高等学校として独立
宮城県南郷高等学校
沿革
1980年(昭和55年)
宮城県南郷高等学校
沿革
5月24日 - 永久校舎建築落成
宮城県南郷高等学校
沿革
12月24日 - 農業科一学級減
宮城県南郷高等学校
沿革
1986年(昭和61年)4月1日 - 宮城県南郷高等学校と改称し、農業科を「産業技術科」、家政科を「生活科学科」に学科改編
宮城県南郷高等学校
沿革
1999年(平成11年)4月1日 - 食品化学科一学級減、生活科学科男女募集開始
宮城県南郷高等学校
沿革
2004年(平成16年)4月1日 - 学級編成により食品化学科、生活科学科募集停止、普通科一学級募集開始
宮城県南郷高等学校
沿革
2006年(平成18年)3月31日 - 食品化学科並びに生活科学科閉科
宮城県南郷高等学校
部活動
ソフトテニス部、銃剣道部、卓球部、陸上部、バスケットボール部
宮城県南郷高等学校
部活動
園芸科学部、総合文化部、生活科学部、軽音楽部
宮城県南郷高等学校
閉校問題
生徒数が定員の3分の2未満が2年連続続いた場合、2009年以降生徒募集を行わない可能性があることを宮城県教育委員会が明らかにしたが、2009年度も生徒募集することになった。
De-LAX
De-LAX
De-LAX
'''De-LAX'''(デラックス)は、日本のロックバンド。
De-LAX
現在のメンバー
Vo.宙也: ex.ALLERGY。De-LAXと平行してLOOPUSやPARALLEL PARADOXでも活動。
De-LAX
現在のメンバー
B. 鈴木正美: ex.MENU、De-LAXにおけるメインの作曲家。BLUE CADILLAC ORCHESTRAでも活動。
De-LAX
現在のメンバー
G.Lee: 榊原秀樹の後任として2010年4月より加入。
De-LAX
過去に所属した主なメンバー
Gt.榊原秀樹: De-LAX休止中はGEENAでも活動。現在はカリキュラマシーンでも活動。
De-LAX
過去に所属した主なメンバー
Per./Key./Dr. 京極常世/輝男:初期メンバー。再結成後の2000年に脱退。世田谷にあった創作料理 『鶏竈 torikamado』の店主だった。コンサートツアー『SPIRITS ON THE ROCKS』内の"VINTAGE 2006"と題した新宿LOFT2DAYSの7月2日にゲストとして登場。また、コンサートツアー『D+X 20th Anniversary Tokyo 3 Days』の原宿アストロホール公演にも、最初からゲストとして登場。
De-LAX
過去に所属した主なメンバー
Dr.高橋まこと:ex.BOØWY。ドラマーズやBLUE CADILLAC ORCHESTRAでも活動。De-LAX休止中に榊原秀樹とともにGEENAでも活動。2013年2月脱退。
De-LAX
過去に所属した主なメンバー
Gt.本田毅: ex.VERSUS,buG,GITANE。PERSONZのメンバーとして活動中。fringe tritoneやAi+BANDでも活動。コンサートツアー『SPIRITS ON THE ROCKS』内の"VINTAGE 2006"と題した新宿LOFT2DAYSの7月1日にゲストとして登場。
De-LAX
過去に所属した主なメンバー
Key.小滝満: シネマ、ex.メトロファルス。De-LAX離脱後、戸川純&ヤプーズ、エクスタシーボーイズ、Saybow&theR+X+Sなどで活動。現在の表記は小滝みつる。
De-LAX
サポートメンバー
Gt.友森昭一: AUTO-MOD、レベッカ、筋肉少女帯などに参加。
De-LAX
サポートメンバー
Gt.玉城宏志: 元ローザ・ルクセンブルグ。その後マチルダロドリゲスなどで活動。
De-LAX
サポートメンバー
Dr.永井利光: GLAY・氷室京介のサポート。De+LAX公式サイトでは永井利充と表記されているが、ex.ローザ・ルクセンブルクのベーシストの同名人物とは別人。
De-LAX
バンドの歩み
ALLERGYを解散した宙也は、ちわきまゆみの音楽ユニットMENUをサポートしていたベーシスト鈴木正美と当時ドラムスを担当していた京極輝男の3人で新たなバンドを結成することを決意する。ここに、PERSONZのギタリスト・本田毅、メトロファルスのキーボーディスト・小滝満が加わり、1985年3月にCHU-YA&De-LAX(当初はDe-Lux)が結成された。
De-LAX
バンドの歩み
10月以降は、ライブハウスツアーを行うまでになった。既にレパートリーには、1stアルバム『SENSATION』収録曲である「熱帯LADY」、「突然炎のごとく」、「G.N.A.」、「SERIOUS MOOD」、「BLUE HEART LOVER」が含まれていた。また、4thアルバム『EMOTIONAL MARKET』で日の目を見た「ONE PLUS ONE」もこの時期のライブで演奏されていた。
De-LAX
バンドの歩み
バンド名を単にDe-LAXとしてしばらくし、本田毅の所属するPERSONZもブレイクし始め、両立が困難になり脱退、サポートに友森昭一やローザ・ルクセンブルグの玉城宏志を迎え活動を続けて行くが、小滝満も戸川純&ヤプーズに専念するため脱退。京極輝男がドラムスからパーカッション&キーボード担当にコンバートし、永井利光がサポートとして加わるものの、正式なギタリスト、ドラムスが不在のままであった。
De-LAX
バンドの歩み
BOØWYのドラムスだった高橋まことにDe-LAXへの参加要請があったのは、1987年暮れのBOØWY最後のツアー中だった。その頃、新宿LOFTに出入りしていた榊原秀樹は、ギタリスト募集を聞きつけ、バンドのオーディションに参加することとした。
De-LAX
バンドの歩み
1988年2月18日、デビュー当初のメンバーで初ライブを行った。同年8月21日、フォーライフ・レコードから1stアルバム『SENSATION』を発売、メジャー・デビュー。バンドブームの中にあっても、どこにも属さない、誰にも媚びない、野性味あふれる唯一無比の"ライヴバンド"として精力的に活動。
De-LAX
バンドの歩み
7か月をかけ26か所56公演を行ったDe-LAX史上最大規模となるライブツアー『De-LAX NEUROMANCER '89 "SPIRITS A GO-GO"』で、日本武道館のライブを2度行い、アメリカのニューヨークでライブも行った。
De-LAX
バンドの歩み
だが、1992年5thアルバム『Our Favourite Roads』発売前、榊原秀樹が方向性の違いにより脱退を要望。その後、正式なギタリストが見つからず、このままでは活動ができないという事になり、1992年12月25日の渋谷公会堂公演のライブで、解散することを発表。翌年1993年3月24日の渋谷公会堂公演のライブをもって解散した。
De-LAX
バンドの歩み
それから約5年後、De-LAXがメジャー・デビューした年と同年に新宿に誕生した日清パワーステーションが、6月末を以て閉店することになり、その記念として、一夜限りの再結成を果たし、ライブ『De-LAX '98 "HELLO! POWER STATION"』を行った。
De-LAX
バンドの歩み
1999年7月17日、約7年ぶりとなるシングル「beat'N'message」をリリース。4か月後には、こちらも約7年ぶりとなるアルバム『RenaiSSance』をリリースし、活動を再開。
De-LAX
バンドの歩み
2002年にメンバーの諸事情により活動を休止。2005年に活動を再開。