「あなたが恐れているのは、もしやクラムのためにではないでしょうね?」おかみは黙ったまま、彼が階段を急いで降り、助手たちが彼のあとを追っていくのを、 「あなたのいうこと、よくわかると思うわ」と、彼女はいって、彼の首にすがりつき、なお何かいおうとしたが、それ以上しゃべることはできなかった。 「あなたの助手です」と、二人が答えた。「これは助手さんたちですよ」と、亭主が低い声で裏づけをするようにいった。 「あなたはなんというかたで? 休ませていただいたお礼はどなたに申し上げたらいいんです」「なめし革屋のラーゼマンです」という返事だった。 「あなたはりっぱなかたですわ」と、おかみはいったが、彼女も涙声で、いくらかがっくりしてしまったように見え、苦しげな息をついていた。 「あなたは私をクラムから引き離したいのですの? ああ、なんていうことを!」と、彼女はいって、両手をぱちりと打ち合わせた。 「あの男のおやじだって力はあるんです」「くだらない! 君はだれでも力があると思うんだ。私のことなんかもそうだろう?」 「ある」とは、ロッツェがいったように、「関係に立つ」ということであり、関係に立つとは働くということである。 「いったい、そういったことはどれくらい前のことなんです?」と、彼は溜息をもらしながらきいた。 「いったい、どこですか?」と、フリーダとおかみとが叫んだ。まるで、こうきくのには同じ動機があるかのように、時を同じくして、ひどく好奇心たっぷりな 「いったい何を取り逃がしてしまったっていうんですか」と、おかみはきいた。おかみは手足をのばして仰向けになり、天井を見上げていた。 「いや、ちがうんです。先来たのは私の兄弟です。私はあなたの兄さんのシモンについていたんです。」と小悪魔は言いました。 「いや、ちがうんです。私はあなたの兄さんのタラスについてたんです。」と小悪魔は言いました。 「おい、この家があやしいぜ。ごらん、門のなかにも、バッジが落ちているじゃないか。ほら、あすこにさ」 「おそらく一年ぐらい私は何もいってやりたくないんだ。ところが、君が出かけてから十五分もたつと、何か延ばせない急用が起こるだろうよ」 「おれはお前と一しょに暮すつもりでやって来たんだが、おれの主人が見つかるまでおれと家内をやしなってくれ。」 「おれは国一つを平げて大へん立派な暮しをしている。がしかし、部下の兵隊に食わして行くだけの金がない。」 「ここです。ふたりともぶじに救うことができました。ぼくがもう一足おそかったら、かわいそうに命のないとこでした」 「この隣りの部屋に白い編んだテーブル・クロスを忘れたんです」「ああ、あの人のテーブル・クロスね」と、ペーピーはいった。 「これは私の助手たちです。今、われわれは話をしているところです。だれもじゃまをする権利はないはずですよ」 「こんにちは、先生」と、彼はいった。この突然の静けさが自分の言葉を迎えるための準備となったので、教師の気に入ったようであった。 「ごらんなさい」と、おかみは叫んだが、まるで自分でしゃべっているのではなく、ただフリーダに自分の声を貸しているとでもいうふうだった。 「ごらんなさいな、おかみさん、なんていうことをこの人は求めているんでしょう」「あなたは変っていますね、測量技師さん」と、おかみはいった。 「さあ、これがおひるだよ。おひるにならないうち、たべてしまうのではないぞ。もうあとはなんにももらえないからよ。」と、いいました。 「さあ、これでいいかね。」タラスはすっかり喜びました。「さしあたってそれだけありゃたくさんだ。イワンよ、ありがとう。」とタラスは言いました。 「さあ、君たち二人はむこうへいってくれ。今のところもう何もいらないよ。フリーダさんとだけで話したいんだ」 「しかし、あなたがその厳密さを千倍にしても、役所が自分自身に対して課している厳密さに比べるなら、まだまだなんでもないものです。 「しかし、お客をもてなすということは、私どものこの土地では慣わしではないので。私どもはお客はいらないのです」 「じゃ、何が出来る。」「何でもあなたのお好きなものから兵隊をこしらえることが出来ます。」「兵隊は一たい何の役に立つのだ。」 「じゃ、兵隊に行かないことにしよう。それよっか家で死んだ方がましだ。どうせ人間は死ぬもんだからな。」と人民たちは言いました。 「じゅうぶんさがしたつもりですが、なお念のために、あなた方のお力で捜索していただいたほうがいいと思いますが」 「そうよ、あなたたちはここに残るのよ」と、フリーダがいったとき、やっと二人は承知した。 「そちらからあんまり電話をかけてよこさないと、私にはありがたいのですが。ついさっきも電話がかかってきましたよ」 「その宿屋の主人のやりかたはたしかにりっぱだったのですが、軽率でしたね。それとも、その人にはあなたたちを信頼する特別の理由でもあったのですか?」 「それでは、助手さんたちはあなたのじゃまになるんですね。でもあなた自身の助手なのに」村長は満足げな微笑を浮かべながらそういった。 「それでは一番はじめ私を見つけた頃、何か大きな鳥でも空を飛んでいるのを見かけなかったでしょうか。」と私は尋ねてみました。 「それに、私が今は病気なものですから、増えていくばっかりでしてね」と、いうと、疲れてはいるが、得意そうにまた身体を横たえた。 「それはひどく驚きました。これで私の計算はすっかりひっくり返ってしまいました。ただおそらく誤解があるのではないでしょうか」 「それはもう、旦那」と、彼はいった。「でも、その人たちもあなたといっしょにお城に住むんじゃありませんか?」 「ただあなたがあんまり驚いたので、電燈をつけただけなのよ。ところでここにどんな用があるの? フリーダが何か忘れたの?」 「ただ手紙をお渡しし、それを読まれるまで待って、もしあなたに必要と思われるときには、口頭か文面で返事をもちかえるということだけです」 「だから馬鹿と言うんだ。ところがおれは頭で働く方法を一つ教えてやろう。そうすりゃ手で働くより頭を使った方がどんなに得だかわかるだろう。」 「だって、ここにはいないわよ」と、フリーダは冷たくいった。「おそらくあの人は隠れているんですよ」と、亭主がいった。 「でも、まるで天から降ってきたようなものなんです。この割当てはひどく思慮を欠いたものです」 「どうしてあなたがたは客がいりましょう。でもときどきは客も必要ですよ、たとえばこの私のような土地測量技師をね」 「どうして私が伯爵を知っているなんてお思いですか?」と、教師は低い声でいい、フランス語で声高につけたした。 「なぜその男をつれこんだんだ? 小路をのろのろ歩いているやつは、みんなつれこんでいいのか?」 「ふん、どいつだってかまやしない。お前も同じ目にあわしてやるのだ。」イワンは小悪魔を荷車へたたきつけようとしました。 「まあ、二人はなんていう恰好でここに寝ているんでしょう」と、女中の一人がいって、同情の気持から彼らの上に一枚の布を投げかけた。 「もうお昼を過ぎたことでしょうね」と、彼はこれからいくつもりの道のことを考えながらいったが、次にそれをいいなおした。 「もしおれがただ偶然、そしてこうしようというつもりでなくここに立っているのなら、ちょっとばかり絶望するところだな」と、そんなことが彼の頭に思い浮かんだ。 「やっぱりお化けや幽霊じゃないんだ。ああして歩いているところをみると、人間にちがいない」 「ようし。じゃおれの腕でやらなくちゃなるまい。」と年よった悪魔は言いました。年よった悪魔は、まず一番にシモン王のところへ、出かけました。 「わかりました」と、一方の男がいった。もう一方が言葉をはさんできた。「お前、わかりましたっていうが、できないっていうことはわかっているじゃないか」 「わしはどんな病気でもなおすことの出来る根っこを二本持っていた。それを一つこの犬がのんだのだ。」とイワンは答えました。 「オルガといっしょに出ていって下さい。わたしがここにいる人たちを追い払うことができますから。それからすぐにここにもどってきていいのよ」 「クラムはけっしてあなたと話なんかしないでしょう。クラムがあなたと話すなんて、どうしてそんなことを信じられるでしょう!」 「シュワルツァーはゆうべは大げさなことをいったんですよ。あの男のおやじさんはほんの下級の執事なんです。しかもいちばん下っぱの一人です」 「バルナバスといいます」と、男はいった。「使いの者です」男の唇は、ものをいうとき、男らしくではあるがものやわらかに、開いたり、閉じたりした。 「今すぐ持って来るよ。」とイワンは言いました。そして種を入れる籠を持って森へ走って行きました。女たちは大笑いしました。 「今度来たあの商人は気に入った。これでおれはよりたくさんの金を残すことが出来た。したがっておれの暮しはますますゆかいになるというものだ。」 「伯爵の役所に対する敬意を要求します! あなたを起こしたのは、今すぐ伯爵の領地を立ち退かなければならないのだ、ということをお知らせするためです」 「君は内容を知っているかい?」「いいえ」と、バルナバスがいった。彼のまなざしは言葉よりもたくさんのものを語っているように思われた。 「思慮を欠いたことなんか、ここでは一つだって起こりませんよ」と、村長はいったが、足の痛みさえ忘れてしまって、身体をまっすぐに起こした。 「愛情のためです。心配からです」と、おかみはいい、フリーダの頭を自分の身体に引きよせた。フリーダは立っているのに、坐っているおかみの肩のところまで 「村長さんのところではおそらくただ仕事のことだけが問題なんでしょうが、ここでは一人の人間のこと、私のかわいい女中のフリーダのことが問題なんですよ」 「来てごらんなさい。あの紳士が頭で仕事をやりはじめたそうですから。」とイワンのおよめさんは言いました。 「測量技師さん」と、男がいった。「あなたはここにいるわけにはいきません。ご無礼はお許しください」 「測量技師さんですって」と、娘はテーブルに向ってもっと大きな声でくり返していった。テーブルのところで老夫婦と、さらに一人の娘とが立ち上がった。 「測量技師だって?」と、背後でためらうようにたずねる声が聞こえたが、やがてみんなが黙った。ところが若い男は、まもなく気を取りもどし、 「眠っちゃだめだ。」と、少年は思いました。「眠ったら、午前中にお説教は読みきれっこないぞ。」 「私はかまいません」と、村長は親切にいった。「入れてやりなさいよ。それに、あの人たちは知っていますし。昔からの知人ですよ」 「私はすぐさまこの地の下へ飛込んでしまいます。そして二度と再び出ては参りません。」と言いました。 「私はよそからきたんです。ゆうべここにきたばかりです」「城はお気に入らぬでしょう?」と、教師は早口でたずねた。 「考えても下さい、さっきの私たちの話合いはなんてまずい終りかたをしたことでしょう。今度は仲よく別れましょう」 「許可がなければいけません」という答えだった。若い男が腕をのばし、亭主と客たちとに次のようにたずねているのには、 「軍隊がなくては王様らしくありません。一つ私に命令して下されば私は人民たちから兵隊を集めて、こさえて御覧に入れます。」と言いました。 「部屋から私の書きものをもってくる。それからさしあたって仕事のことを話そう」二人はいっしょにいこうとした。 「面白いというのは、事情によっては一人の人間の生活を決定するようなばかばかしいもつれかたがあるものだ、ということをさとらせられるからなんです」 ああ、どうか神様があの子の意地悪なところをなくして、心を入れかえてくださいますように! ああ、ふたりは、まだぶじでいるでしょうか。せっかくおまわりさんたちがかけつけたときには、もうおそかったのではないのでしょうか。 あいつのよくはいよいよひどくなって行って、何でも見るものごとに買いたくなるように仕向けてやった。 あいつは、わたしはこういうインド人です。こういう人さらいをしますといって、自分を広告していたようなものですね。 あくる日は、朝っぱらから、グレーテルはそとへ出て、水をいっぱいはった大鍋をつるして、火をもしつけなければなりませんでした。 あくる日は、朝っぱらからもう、おかみさんはやって来て、こどもたちを寝床からつれだしました。 あたりには、家も人も見あたりません。草の上に横になったかとおもうと、たちまち、何もかもわからなくなりました。 あなたが今、他国者のやりかたで口にされたその規則というのがきびしいことは別としても、それはとてもできない相談です。 あなたが正しくもいわれたようにクラムの眼にとって何者でもないこの私によって、その関係が乱されるというようなことが、どうしてありましょうか。 あなたって人は、ときどきわたしの主人のことを思い出させますね。あの人と同じように、あなたも反抗的で子供のようなんだわ。 あなたのいわれることはそのまま信じますよ。それでは、私の立場も、またそれと関連してフリーダの立場も、すこぶる不安定なものなのですね あなたのおっしゃるすべてのことと同様、これは大部分は正しいのですが、完全に正しいわけではありません。 あなたはしきりに用事をいいつけようとされましたが、食堂でもあなたの部屋でもしたくないようでしたので、私はこう思ったんです。 あなたはまだ昼食に食堂へいらっしゃっていないので、うちの昼食のお客さんがたをご存じないのです。あのころはもっと多かったんです。 あなたは少しばかり度を越していますよ。あすになったらあなたの無礼についてお話しすることにしましょう。ご亭主とそこの人たちとが証人です。 あなたを呼んだのなら、おそらくあなたが必要なんでしょうよ。それはきっと例外なんです。しかし、私たち身分の低い者たちは、規則をきちんと守ります。 あなたを押しつぶしてしまうかもしれないし、もしかすると、手を取って、あなたの手足を一本ぐらい折ってしまうかもわかりません。 あのときは一人ぽっちであったために我慢していたのだが、こんな言葉をこの自分の部屋で黙って聞いている必要はないのだ。 あのはげしさで落ちる水は、ほどもなく、たった六畳ほどの地下室に、すきまもなく満ちあふれてしまうにちがいありません。 あの人がそれを全然聞いていないにしても、一人の権力者の前で自由にものがいえたのだ、という勝利をおさめたことになります。 あの怪物は西洋の悪魔が、パッと煙をだして、姿を消してしまうように、空中に消えうせたとしか考えられません。 あの晩、洋館のまわりには、六人の少年探偵団の子どもが見はっていたというが、その見はりは、たしかだったのだろうね。 あの男は活動的なやつで、それも彼の愚かさからくるのです。ところで、われわれの役所の組織の特別な性格についてお話しするときになりましたね。 あの黒いやつは緑ちゃんのほかの子は見向きもしないんですもの。たとえさらわれたって、危険はないんだし、 あまり長くそこに立っていたためにすっかりお腹を空してしまいました。しかし、たれもが塔の上へ食物を持って行くことなど考えもしませんでした。 あらゆるものの形をなぞりながらあたり一面に薄い層をつくって積っている雪のなかで、城はいっそうくっきりと浮かんでいた。 あるいは、ほんとうは自分の仕事関係のいっさいをバルナバスの通知によってきめさせる見かけだけの村の労働者であろうとするのか、 あるいは、非合理的なものを否定的媒介とすることによって科学はその合理性において発展するのである。 あるいはまた自己の哲学体系を要約して叙述することを目的とするものでもない。 あるいは一層正確にいうと、現実が対象としてでなく基底として問題になってくるというのが哲学に固有なことである。 あるいは作用がなくなることであるとかいうのは、知的自己の立場からの非弁証法的見方に過ぎない。 あるいは特殊的法則を包括する一般的法則を求めるために、研究が行われる。 あるおばあさんは、人の下になって、つぶされそうになりました。イワンは大笑いしました。 あるとは知覚されることであると考えられるとすれば、知覚されるということもまたかような関係の一つに過ぎない。 あるやみの晩に、隅田川をくだっていたひとりの船頭が、自分の船のそばにみょうな波がたっているのに気づきました。 ある地理的環境にある民族が住むことによって、ある文化が形成せられると考えられる。 ある日、グラムダルクリッチは、私を芝生の上におろして、ひとり遊ばしておき、自分は家庭教師と一しょに、少し離れたところを歩いていました。 ある日、皇帝は、この国の見世物をやって見せて、私を喜ばしてくれました。それは実際、素晴しい見世物でした。 ある日、皇帝は私の食事振りを聞かれて、では自分も皇后、皇子、皇女たちと一しょに、私と会食がしてみたいと望まれました。 ある日の午後、ズルスケがロンネビュー川からあまり遠くない、さびしい森の中をうろついていますと、ガンの群れが空を飛んでいるのが見えました。 ある日曜日の朝のこと、お父さんとお母さんは、教会へ行く支度をしていました。 ある社会において常識として行われることも他の社会においては常識として通用せず、 ある部屋には、生れながらの盲人が、盲人の弟子を使っていました。彼等の仕事は、画家のために、絵具を混ぜることでした。 あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。 いうまでもなく、論理が真の論理となるには、ミトス的なものは否定せられて行かなければならない。 いかなる技術も形のある独立なものを作り出すものとして自己目的的である。 いかにも、おとうさまのおっしゃるとおり、緑ちゃんの遊んでいる部屋へは、この座敷を通らないでは行けないのです。 いかに独創的なことを言っているようでいても実はかつて世界のどこかで誰かが主張したことの焼き直しに過ぎない いくら、ガリバーが強そうな振りをしても、自分の国の自慢をしてみても、この国の人から見れば、まるで虫けらのようなものです。 いくら大ぜいでも、ぼくたちだけの力で、あの魔法使いみたいなインド人を、とらえることはできないよ。もし、しくじったらたいへんだからね。 いくら首をふったり、手を動かしたりしても、影のほうは、じっとしていて身動きもしないのです。 いっさいのものをまた戸棚のなかへしまおうと思ったが、書類がきちんとまとめられていなかったので、うまくしまうことができないでいた。 いってみれば、彼が感謝しなければならない人に、軽率にも何かある苦痛を与えるようなものである。それとともに、彼は憂鬱な気分になってしまった。 いつでも『ちがう、ちがう』といって、自分の頭だけでうけ合い、どんな好意ある忠告さえも聞きのがす、なんて。 いつもその矛盾的自己同一的現在において論理的に推論式的一般者と考えられる。 いつも我々は直接にこの世界を越えたものに対するものであり、即ちこの世界を越えたものである。 いつも私は用心して、裸のところを見せないようにしていました。ある朝のことでした。主人は召使に言いつけて、私を呼びに来ました。 いつも私を入れて歩いていた箱のほかに、王妃は、旅行用として、小さい箱を一つ作らせてくれました。 いつも自己自身の中に自己を越えたもの、超越的なるものを含むということができる。 いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。 いやしくもそれ自身に実在性を認めるならば、それは形成作用的と考えられねばならない。 いよいよだめだと思った小悪魔は、くさむらの中へよろけこんでしまいました。イワンは鎌をふってそのくさむらを引っ掴んで刈りましたので、 いわゆる主観は、それが個人的自己と考えられようと超個人的自己と考えられようと、 いわゆる無前提とは前提がないということでなく、最も必然的な前提に立つということでなければならぬ。 いわれるままに、そこに立てかけてあるそまつなはしごを、あぶなっかしく、地面の穴ぐらへおりていくほかはありませんでした。 うすれば、やがて国中第一の学者になれます。それから最後に、私は社会のいろんな出来事を何でもくわしく書いておきます。 うちの前にしいてある白い小砂利が、それこそ銀貨のように、きらきらしていました。ヘンゼルは、かがんで、その砂利を、 うっかり歩けば、足の下に踏みつぶしてしまいそうな小人がうじょうじょしているではありませんか。 うまいごちそうにありつけるという楽しみもありますが、もう一つには、今まで散々やっつけられたその怨みをはらそうというのです。 うわさに聞く黒い魔物だということがわかると、あまりのおそろしさに、アッとさけんだまま、地面にうつぶしてしまいました。 おい、ヘンゼル、なにをそんなに立ちどまって見ているんだ。うっかりしないで、足もとに気をつけろよ。 おかあさまは、もうびっくりしてしまって、今にも、緑ちゃんを守るために立ちあがろうとなすったくらいです。 おかしなことには、帽子もかぶらず、着物も着ていない。そのくせ、頭のてっぺんから足の先まで、墨のようにまっ黒な人の姿です。 おかみさん、あなたにいえるんですが、フリーダと私とが結婚すれば、しかもすぐにもすれば、それがいちばんいいんだ、と私は考えているんです。 おかみさんは、こどもたちを、森のもっともっとふかく、生まれてまだ来たことのなかったおくまで、引っぱって行きました。 おそらくそこに泊まることができるだろう、その寝場所がどんなものであろうと、この家のいちばんましなベッドよりもましだろう、と考えたのだった。 おそらく円盤の中には誰かがいて、意志がある。そして、その意思を魔王と呼ぶことにした。 おそろしい夢をみて、夢と知りながら、どうしても、目がさませないときと同じ気持で、「助けてくれー」とさけぼうにも、 おそろしく早い足です。桂君は、物かげへ物かげへと身をかくしながら、相手を追っかけるのが、やっとでした。 おとうさまは、すぐさまふすまをひらいて、おかあさまといっしょに、緑ちゃんのいる、部屋へかけこんで行かれましたが、 おとうさまは、ちょっとことばを切って、ふたりにもっとそばへよるようにと、手まねきをなさいました。 おとうさまは、小林君の名案にすっかり感心なすって、おかあさまにご相談なさいました。おかあさまも、反対する理由がないものですから、 おとうさまもおかあさまも、始君のようすにギョッとなすって、いそいで、床の間のほうをごらんになりましたが、すると、おふたりの顔も、 おとなしくなると、もう矢は飛んで来なくなりました。が、前とはよほど人数がふえたらしく、あたりは一段と騒がしくなりました。 おとなたちの寝てしまうのを待ちかねて、ヘンゼルはおきあがると、そとへとび出して、この前のように小砂利をひろいに行こうとしました。 おばさんは、大通りへ出て自動車をひろうつもりで、女の子の手を引いて、うす暗いやしき町を、急ぎ足に歩いていきました。 おひるになると、グレーテルが、じぶんのパンを、ヘンゼルとふたりで分けてたべました。ヘンゼルのパンは道にまいて来てしまいました おまけに主人がもうけたものをお嫁さんが滅茶に使ってしまうので、いつも貧乏していなければなりませんでした。 お互に肩を踏台にして、頂上にのぼってみると、上は平べったくなっています。足で踏んでみると、内側は空っぽだということがわかりました。 お前はおれにおれの兵隊を養うだけ金をくれるんだ。するとおれはお前におれの国を半分と、お前の金を番するのにたるだけの兵隊をやる。 お化けではないとわかると、団員たちは、にわかに勢いづいて、その場へかけだしました。見ると、いかにも、そのしげみのかげに、ふたりのおとなが、 お姫さまのあだを討うたなければならない。その二つのことが、一つにむすびついて、この宝石につきまとうのろいとなったのだ。 お昼を用意する時間も余裕もなかったから、近所で買って来いという母親からのメッセージ。 お月さまが上がったので、ふたりは出かけました。けれど、パンくずは、もうどこにも見あたりません。 お月さまが出るまでね。お月さまが出りゃあ、こぼしておいてパンくずも見えるし、それをさがして行けば、うちへかえれるんだよ。 お母さんは、鉄の金具のついた、柏の木でできている、大きな重たい長持を持っていたのですが、 お父さんとお母さんは、留守の間じゅう、僕がお説教を読んでいなければならないように上手く仕向けて、嬉しがっているんだ。 お父さんは、少年が、無精で、怠け者で、学校へいっても何一つ勉強しようともしないし、 お金持は貧乏人を働かせて、らくな暮しをしていますが、その数は貧乏人の千分の一ぐらいしかいません。 かかる世界においては、見るということと働くということとが矛盾的自己同一として、 かかる世界において個物が世界の自己形成を宿すという時、個物は無限に欲求的である。 かかる世界において個物が客観界において自己をもつ、即ち物において自己をもつということが我々が財産をもつということである。 かかる世界のイデヤ的形成の要求がどこまでも独立的に自己自身を限定する個人的自己において、 かかる世界の個物として、どこまでも自己自身を限定する我々は、無限なる欲求でなければならない。 かかる世界の形成的要素として、我々は行為的直観的に即ちポイエシス的に実在を把握する。 かかる世界の自己形成の抽象的形式が、いわゆる論理的形式と考えられるものである。 かかる世界は、まず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である。 かかる世界はどこまでも作られたものから作るものへと、動き行く行為的直観的現在を中心として、 かかる世界は多と一との絶対矛盾的自己同一として、逆に一つの世界が無数に自己自身を表現するということができる。 かかる個物的自己として行為的直観的に即ちポイエシス的に物を把握するということは、 かかる個物的自己として行為的直観的に物を把握するのが、我々の判断作用というものである。 かかる意味において、私は芸術が社会の儀式から生れるという考えに興味を有するのである。 かかる意味において自己自身を形成する形が、歴史的種というものであり、それが歴史的世界において主体的役目を演ずるものであるのである。 かかる立場から、我々の歴史的生命はどこまでも技術的といい得るであろう。 かかる立場から、私はなお一度ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。 かかる立場からは、直観と行為とはどこまでも対立するものでなければならない。 かかる立場において、世界が意識面的であり、我々の自己が意識作用的であると考えられる時、 かかる自己自身を表現するものの否定的統一として、形をもったものでなければならない。 かかる行為そのもの、自己そのものの自己矛盾を反省することによって宗教に入るのである。 かかる行為的直観を離れた時、我々の働きは単に機械的か合目的的たるかに過ぎない。 かかる行為的直観的なる歴史的身体的社会は、絶対矛盾的自己同一によって基礎付けられたものとして、 かくれみのというのは、一度そのみのを身につけますと、人の姿がかき消すように見えなくなって、 かなり前から、食堂からはさわがしい音が聞こえていた。のぞき窓をたたく音もした。助手たちがその窓を突き開けて、腹がすいた、となかへどなった。 かねて予期しなかったのではありませんが、部屋の中のふしぎな光景に羽柴君はあやうく、アッと声をたてるところでした。 かもは、さっそく来てくれました。そこで、ヘンゼルがまずのって、小さい妹に、いっしょにおのりといいました。 かようなものとしてここで予想されているのは、私の理解する限りの西田哲学であるということができる。 かような世界も歴史的なものとしてそれぞれの時代に個別的であるとすれば、 かようにして科学の前提となっているものを究め、その根拠を明らかにするのが哲学である。 かようにして種々の技術があるとすれば、アリストテレスが考えた如く、それらの技術のアルヒテクトニックを、 かように何よりも行為の立場において形作られる主体の概念は、従来の主観の概念とは区別さるべき理由があるであろう。 かように個物の独立性を認めるところに、近代科学の特色とされる実証性がある。 かれは人々に、軍隊に入れば酒は飲めるし、赤いきれいな帽子を一つ貰える、と話しました。 かれは今度は百姓家へ行って、パンと取っかえようとしました。けれどもやはり受取ろうとはしません。 かれは将軍の姿に化けて、イワンのところへ行って、軍隊をこさえなければいけないとすすめました。 かれは掲示を出して、材木や石材などを買入れることから、人夫を使うことをふれさせ、何によらず高い価を払うことにしました。 かれらは品物と品物を取かえ合ったり、仕事は仕事でかんじょうし合っていたのでした。そこでみんなは、金貨を見て驚きました。 きみが篠崎家の門前で、緑ちゃんをつれて自動車に乗ろうとしたとき、秘書の今井というのがドアをあけてくれたんだね。きみは今井君の顔をはっきり見たのかね。 きみも緑ちゃんも助かっているんだからね。インド人たちはなんのために、あれだけの苦労をしたのか、まるでわけがわからなくなるじゃないか。 きょうの状態では、少なくとも城の入口まで無理に散歩の足をのばそうとすれば、もう手にあまるほどの骨折り仕事だった。 きらびやかな高層ビルも、国内最大のテーマパークも、巨大な電車網も、全て真っ暗な世界に消えていった。 くせ者の黒い姿が、ひとつの低いしげみをとびこしたかと思うと、まるで、忍術使いのように、消えうせてしまったのです。 くせ者は蒸発してしまったとしか考えられません。しばらくすると、電話の知らせで、ふたりのおまわりさんがやってきましたが、 けれども、低い声でしばらくブツブツ言っているうちに、眠たくなってきて、間もなくコックリコックリし始めました。 けれども、子供っぽく分別を欠いてはいるが、彼女もおそらく城と関係をもっているのだろう。 けれども何故に、科学の根拠について研究することが科学者の仕事に属しないのであろうか。 けれども現実が全く非合理的であるとすれば、実験することも無意味でなければならぬ。 けれど翻って考えてみると、環境は私に対してあるというよりも私が環境の中にあるのである。 こいつはしめた、お父さんとお母さんがいってしまえば、二時間ばかりは好きなことがしていられるぞ、と思いました。 こういうふうにして、大きな奴を打ち出すと、一度に軍隊を全滅さすことも、鉄壁を破ったり、船を沈めてしまうこともできます。 こうした事実とクラムとのあいだにある関連があるらしいという考えは、たしかにお話をうかがっていて私の頭に浮かんではきましたが、 こうした印象は、きょうは早くも暗くなり始めたあたりの気配によっていっそう強められた。 こうして、タラス王はしまい切れないほどの金を集めることは出来ましたが、その暮しといったら、それはみじめになりました。 こうして、地上から六十フィートの高さにつまみ上げられている間は、じっとしていよう、と思いました。 こうして、彼がいつでも用心していなかったら、とんだ結果になりかねないのだった。つまり、役所がどんなに親切にしてくれたところで、 こうして、私はたった一人で取り残されました。仕方なしに、歩いて行くと、間もなく陸に着きました。そこで、しばらく堤に腰をおろして休みながら、 こうして彼は歩みをつづけていった。しかし、長い道であった。つまり、村の大通りであるこの通りは、城のある山へは通じてはいなかった。 こうして死刑がすむと、あとは必ず床についている毒を綺麗に洗い落しておくよう、お命じになります。 こうなると、ちょうどあの庭のチューリップが、毎年人の目を楽しませて、前の年に枯れた花を悲しまさないのと同じことです。 こう妹をなだめておいて、やがて、親たちがねしずまると、ヘンゼルはそろそろ起きだして、うわぎをかぶりました。 ここで吾輩は彼の書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである ここにおいてイデヤ的形成的として国家となる、即ち理性的となるのである。 ここにおいて個物は既に機械的でもなく、単に合目的的でもなく、形成的でなければならない。 ここにくるまでの遠い道が彼を疲れさせたなどとは思われなかった。どんなに何日ものあいだ、冷静に一歩一歩とさすらいつづけてきたことか! ここに我々が形成的というのは、絶対矛盾的自己同一的世界の個物として、 ここは城の人たちの部屋で、ここで城の人たちが飲み食いするのよ。つまり、そういうことのためにきめられているんです。 ここへ入ったら、どうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ ことのおこりは、今から百年もまえの話だが、そのお寺の付近に戦争があって、お寺は焼けてしまうし、たくさんの人が死んだ。 こどもたちがまだ目をさまさないうちから、ばあさんはおきだして来て、ふたりともそれはもう、まっ赤にふくれたほっぺたをして、 こどもたちは、めいめいパンのかけらをひとつずつもらいましたが、それはせんのよりも、よけい小さいものでした。 このあいだから、東京中をさわがせている「黒い怪物」なのですから、少年探偵団は、もう、じっとしているわけにはいきませんでした。 このお金をたくさん貯めていさえすれば、綺麗な着物、立派な家、おいしい肉や飲物、そのほか、何でも欲しいものが買えるのです。 このことについては伯爵の役所の命令があるように思われますね。私は今、この宿から出るようにいわれた、ということをその役所に伝えてやりましょう。 このざわめきから、まったくありえないようなやりかたでただ一つの高くて強い声がつくり上げられるようであり、 このたちのわるい魔女のいいなりほうだい、どんなことでも、グレーテルはしなければなりませんでした。 このために、とはいってももちろんいつでもささやいたり、くすくす笑ったりしながらではあったが、いろいろな試みをやるのだった。 このヤーフというものは、もとからこの国にいたものではない。伝説によると、あるとき、突然、山の上に二匹のヤーフが現れたという。 この世界を多の一として機械的と考えても、または一の多として合目的的と考えても、 この二人は私の助手ですよ。それなのにあなたは、まるで二人があなたの助手で、しかも私の見張り人であるかのように扱っておられる。 この件はすでに何年も前から起っていたのですが、今にいたるまでずっと決着しなかったのでした。 この件を村会に提出せざるをえないというはめになったのですが、これはともかくはじめのうちはブルンスウィックのただ一つの成功でした。 この光る石がたくさん出る土地にかぎって、ヤーフどもは絶えず、その土地を争い合って、お互に戦争します。 この入門書にもまたある統一、少なくともある究極的なものに対する指示がなければならぬ。 この動物は顔が人間より少し平たく、鼻は落ち込んでいて、唇が厚く、口は広く割れています。だが、これくらいの違いなら、野蛮人にだってあるはず この原則は、全体の優秀な組織によって正当なものとされますし、事の処理が極度に速やかになされなければならないときには、どうしても必要なのです。 この可能性といっしょに、それにともなう満足と、それから出てくる十分理由のあるような、今後のもっと大きな闘いに対する自信とを奪ってしまった。 この国では、王も人民も、数学と音楽のことのほかは、何一つ知ろうとしないのです。だから私なんか、どうも馬鹿にされるのでした。 この国では八十歳が普通、寿命の終りとされていますが、この八十歳になると、彼等は老人の愚痴と弱点をすっかり身につけてしまいます。 この国では毎週、三人の大学者が、陛下のところに集まることになっていました。陛下は、その三人の学者を呼んで、この私を研究させられました。 この国の中心がなくなり、人が消えると、代わりに生き物のような何かが地上を歩くようになった。 この国の人々に案内されて、階段を上り、島の上の宮殿へつれて行かれたのですが、そのとき、私は、みんなが何をしているのか、さっぱり、わかりません この国の人たちは、いつも何か心配していて、そのために一分間も心は安らかでないのですが、他の人間から見たら、それは何でもないことを心配している この国の人たちは、家の作り方が非常に下手です。壁はゆがみ、どの室も直角になっていないのです。 この国の海岸に吹きつけられた船は、後にも前にも、私の乗って来た船のほかに、誰も見たことはありません。 この国は大きな半島になっていて、北東の方に高さ三十マイルの山脈がありますが、それらの山は頂上がみな火山になっているので、 この国は非常に人口が多くて、五十一の大都市と百近くの町や村落があります。国王の宮殿の建物は不規則に並んでいて、その周囲は七マイルあります。 この国へ来て二年が過ぎ、ちょうど三年目のはじめ頃のことでした。グラムダルクリッチと私は、国王と王妃のお供をして、南の海岸の方へ行きました。 この国を去ってしまいたいと思いました。私は陛下にお願いして、この国から出られるようにしてもらい、二月十六日に、王と宮廷に別れを告げました。 この垣根の穴は今日に至るまで吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になっている この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿はなむことして迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。 この子供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入って一間へ寝る この学士院では、先生たちが、農業や建築の新しいやり方とか、商工業に使う新式の道具を、考え出そうとしています。 この学士院は、全体が一つの建物になっているのではなく、往来の両側に建物がずっと並んでいました。 この宝石には、おそろしいのろいがつきまとっているのだ。その話がでたらめでないことがわかってきたのだ。 この悪魔を向こうにまわしてたたかうものは、小林少年を団長とする少年探偵団です。 この意味は、あとになってわかったのですが、指さしている方向に、小人国の都があったのです。 この故に世界は矛盾的自己同一的現在として自己形成的である、即ち意識的である。 この故に個物は絶対矛盾的自己同一、即ち絶対に対することによって、個物であるということができる。 この故に動物の動作は衝動的であり、その形成において本能的であり、即ち身体的ということができる。 この故に多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、真の個物であるのである。 この故に矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、作られたものとして与えられたものを越え行くのである。 この故に絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、どこまでも論理的ということができる。 この故に絶対矛盾的自己同一の世界は、イデヤ的なるものをも否定する世界でなければならない。 この故に芸術家の創造作用の如きものでも、制作によって生産様式的に物の具体概念を把握するということができる。 この旅行用の箱は、正方形で、三方の壁に一つずつ窓があり、どの窓にも外側から鉄の針金の格子がはめてあります。 この書が現実についての諸君の考え方に何等かの示唆を与えることができるならば、幸いである。 この書生の掌の裏でしばらくはよい心持ちに坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた この木こりの男は、こどもたちを森の中に置きざりにして来てからというもの、ただの一ときでも、笑える時がなかったのです。 この村ではだれもが自分にとって意味があるのだ、と彼は信じていたし、また実際にそうでもあったが、この家の人たちは全然彼の気にかからなかった。 この村は城の領地です。ここに住んだり泊ったりする者は、いわば城に住んだり泊ったりすることになります。 この点であなたに教えようとするなんて生意気なことだ、とはよくわかっていますが、やはりそうしないではいられません。 この現実を顧みて知られることは、我々が世界の中で生活しているということである。 この男たちと知合いになることはたいして有利だとも思われなかったのだが、元気をつけてくれるよい道づれであるようには思えた。 この男は自分にはあやしい人物と思われた。宿の亭主が義務をおこたったらしいので、事を徹底的に調べることが、自分、つまりシュワルツァーの義務と考えた。 この畑から隣りの畑へ通じる段々があり、それが四段になっていて、一番上の段まで行くと、一つの石をまたぐようになっていました。 この磁石の力によって、島は、上ったり下ったり、一つ場所から他の場所へ動いたりするのです。 この私の両親のところでならじゃまもなく私に用事をいいつけることができるだろう、って。ご命令とあれば、みんなはすぐに座をはずします。 この箱の底には鉄が張ってあるため、海に落ちても壊れなかったのです。部屋はぴったり、しまっていたので、水にも濡れなかったのです。 この箱の窓のない側に、そのときふと何か軋むような音が聞えました。それから間もなく、何か私の箱が、海の上を引っ張られているような気がしました。 この航海では、私が船長になって、五十人ばかりのヤーフを使っていました。ところが、これが海でだいぶ死んでしまったので、別のヤーフをやとい入れました。 この船はイギリスの商船で、北海、南海を通って、日本から帰る途中でした。船長のジョン・ビデルはデットフォッド生れで、大へん親切な男でした。 この船を家の近くの大きな池に浮べてみて、悪いところをなおし、隙間にはヤーフの脂を詰めました。いよいよ、これで大丈夫になりました。 この芸を一番うまく熱心にやった者に、優等賞として、青色の糸が授けられます。二等賞は赤糸で、緑が三等賞です。 この近くの電話のあるところまで走っていってね、きみの家へ電話をかけるんだ。犯人の巣くつを発見しましたから、すぐ来てくださいってね。 この道具を使えば、今まで十人でした仕事が、たった一人で出来上るし、宮殿はたった一週間で建つ。それに一度建てたら、もう修繕することが要らない。 この部屋の向うには、まだ三つ部屋がありました。私たちは二つ目の部屋を通って、三つ目の部屋へ近づいて行きました。 この鐘の響きのほうが、のろのろしたそりの歩みと、見すぼらしいが頑固でもあるこの馭者とに、いっそうぴったりするものだった。 この関係は人間と自然との間にばかりでなく、人間と社会との間にも同様に存在している。 この馬はよく馴れた馬でしたが、私を見て山が動きだしたように、びっくりしたものですから、たちまち後足で立ち上ったのです。 これで当分のあいだ時間がかせげるし、たとい最終的な決定が都合悪いように下ろうとも、ほかの口がたやすく見つかるだろう。 これには賛成したものも大分ありましたが、私の主人は反対の意見をのべました。 これに反し多が一の多ということは世界を動的に考えること、時間的に考えることであり、 これに反し我々が何処までも個物的として、絶対矛盾的自己同一的に、 これに反し真の国家の名に価するものは、いわゆる政治以上のものでなければならない。 これに反し空間的なるものが自己否定的に時間的なる所に、即ち自己矛盾的に自己自身から動き行く所に、現実の世界があるのである。 これに対して答えはいつでもその思想を否定し得るものとして実証性の側を現すとすれば、 これはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむを得んのである これはいったい、どうしたというのでしょう。インドには世界のなぞといわれる、ふしぎな魔術があるそうですが、これもその魔術の一種なのでしょうか。 これはきっと誰か不幸な人間がとじこめられているにちがいない、と思ったのだそうです。 これははじめは、とても、まずくて食べにくかったのですが、そのうちに、どうにか我慢できました。 これはもうかりそうだ、と主人は、今度は私を街から街へつれ歩いて見世物にすることを思いつきました。長い旅行に必要な支度を これは助かるのかしらと、ふと私は希望が湧いてきました。そこで、私はできるだけ口を窓に近づけて、大声で助けを呼んでみました。 これは実にもの凄い光景でした。胸におできのできた女が一人いましたが、とても大きく脹れ上っていて、 これは財布だそうです。中には重い黄色い金属がいくつか入っていました。これがほんとの金だとすれば、大したものにちがいありません。 これもあとで聞いてわかったのですが、私が飲んだ、あのお酒には眠り薬がまぜてあったのです。 これをどこまでも多から一へと考えるならば、そこに製作という如きものを入れる余地がない。 これを一から多への世界と考えても、それはどこまでも合目的的世界たるを免れない。 これを全過程として見ないで、一々の意識作用として、いわば歴史の横断面においてのみ見ているのである。 これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。 これを意識面において中断して見れば、論理と直覚とが相対立し相媒介するとのみ考えられる。 こんどの話を聞いてからは、敵の船に見つけられるといけないので、そちら側の海岸へは、出て行かないように努めました。 こんどは、ヘンゼルが、かくしに片手をつっこんで、なんどもなんどもつかみだしては、そこにばらまきました。 こんどは夜ではなくて、まっ昼間のことですが、ちょうど門の前で、近所の四つか五つぐらいの女の子が、たったひとりで遊んでいるところへ、 こんども、それと同じ奇跡がおこなわれたのです。このふたりのインド人にかぎっては、物理学の原理があてはまらないのかもしれません。 こんなことを考えていると、私はぐったりしてしまって、立ち上る元気も出なかったのです。 こんなふうにして、私は国王の行列に加わったり、宮廷の貴婦人や大臣を訪問したりしました。 こんなふうにして、私は建物をまたいで、一方の踏台から、もう一方の踏台へ、乗り移って行くことができました。 こんなふうに私は話してゆきましたが、主人は海賊などというものが、てんでわからないのでした。そしてこう尋ねます。 こんな利口な馬は魔法使にちがいないと私は考えました。そこで次のように話しかけてみました。 こんな無人島で、どうして生きてゆけるでしょう。いずれ私はみじめな死に方をしなければならないのです。 こんな矛盾をさらけ出しているのは役所のあいまいな態度のせいにちがいないと考えるのは、こういう役所に関してはばかげた考えというもので、 こんな素晴らしい朝には、晴れ晴れとした、満ち足りた気持ちで、教会へも行けたことでしょう。 こんな話なら、もう誰でも一度は絵本で見たり、人から聞かされて知っているはずです。 さあ、こどもたち、ふたりはたき火のそばであったまって、わたしたち森で木をきってくるあいだ、おとなしくまっているんだよ。 さきに述べたように、経験は単に受動的なものでなく、受動的であると同時に能動的であった。 さすがの桂少年も、この異様な人影をひと目見ると、ゾーッとして立ちすくんでしまいました。 さっきまでと同じように、何かを探るように、目的もゴールもなく、何かを求めて、公園の中をさまよい歩いた さて、それから、かれこれひと月たちましたが、あいかわらずヘンゼルは、やせこけたままでした。 さて起きようかな、と思い、身動きしようとすると、どうしたことか、身体がさっぱり動きません。 さまざまな普通の件、つまりいわゆるまちがいのない用件のことですが、それらのほうがもっとずっと大変な仕事になります。 さらに大きくなり、埼玉南部、千葉東部、神奈川北部まで広がり、最終的には関東全域を包むほど、大きな穴となった。 しかし、かくいうのは我々の意識的統一の体験によって客観的世界を説明しようとするのではない。 しかし、かれはどうしたら働かないで生活を立てて行けるかということを、くりかえしくりかえし話しただけでした。 しかし、こんどのなぞは、ずいぶん複雑ですし、その答えがあまりに意外なので、そんなにやすやすとはとけないだろうと思います。 しかし、そこの水桶では狭くて、うまく漕げませんでした。ところが、王妃は、ちゃんと前から、別の水槽を考えていられたのです。 しかし、それはただの喜劇にすぎないように見えたし、農夫たちも電話の対話の結果に満足して、のろのろと退いていった。 しかし、ぼくには今、この事件の裏にかくれて、クスクス笑っているお化けの正体が、ぼんやり見えているんだよ。 しかし、もっと驚くべきものは、どういう点が驚くべきかははっきりとはわからなかったのだが、右手の隅であった。 しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。 しかし、一つ不思議に思ったのは、ストラルドブラグが宮廷に一人も見あたらなかったことです。 しかし、主人は息子の手から、私を取り上げ、同時に彼の左の耳をピシャリと殴りつけました。 しかし、二人とも普通の人以上によく働く勤勉な人達でしたから、今では牛やガチョウも飼えるようになりました。 しかし、小人の国にも戦争があったり、政争があったりして、ガリバーはとうとうこの国を逃げ出してしまいます。 しかし、岩の上によじのぼってみると、東の方に陸地がずっと伸びているのが、はっきり見えました。 しかしいかに人為的といっても、いやしくも客観的に物が成立するという以上、それは客観的でなければならない。 しかしかかる個物と世界との関係は、結局ライプニッツのいう如く表出即表現ということのほかにない。 しかしかくいうのは、論理の根底に神秘的直観的なものを考えるということではない。 しかしさきにいった如く、生物的生産様式では、なお真に過去と未来との矛盾的対立というものはない、真の歴史的現在というものはない。 しかしそこにはまた何か知られていないものがあるのでなければならぬ、全く知られているものには問題はない筈である。 しかしその故に生物現象を単に物質の偶然的結合というのならばとにかく、 しかしそれは、世界が機械的だということでもなく、単に合目的的だということでもない、世界が一つの現在として自己形成的だということである。 しかしそれはかえって自己同一的世界の形成要素として、真に行為的直観的となるということである。 しかしそれはどこまでもここから出てここへ還り来る性質をもったものでなければならない。 しかしそれはどこまでも絶対矛盾的自己同一的現在においての過去として、形成作用的に然るのである。 しかしそれはどこまでも自己自身を越え行くといっても、その実在的地盤を離れるのではない。 しかしそれはまたどこまでも絶対矛盾的自己同一的世界の個物としてでなければならない。 しかしそれは世界が亡び行く方向であり、我々が我々自身を失い行く方向たるに過ぎない。 しかしそれは何処までもここから出立したものであり、ここに戻り来るものでなければならない。 しかしそれは個物が自己否定において自己をもつということであり、自己自身を形成する世界の一角であるということである。 しかしそれは抽象的合理論者の考える如く、歴史的過去が否定せられるとか、 しかしそれは現実の矛盾的自己同一からしか考えられるのでなければならない。 しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものであり、時は現在から現在へと動き行くのである。 しかしそれは自力作善の道徳的行為を媒介として宗教に入るということではない。 しかしてかかる世界は、個物がモナド的に世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点であるという如き、表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。 しかしてかくなればなるほど、逆に我々は自己矛盾的に世界と一つになるということができる。 しかしてその極、全然行為的直観的なるもの、身体的なるものを越えたものに到ると考えられるでもあろう。 しかしてその矛盾的対立が深く大なればなるほど、即ち真に矛盾的対立であればあるほど、矛盾的自己同一的に新たなる世界が創造せられる。 しかしてそれが作られたものから作るものへとして、どこまでも我々に迫るという時、我々に直観的である。 しかしてそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。 しかしてそれは個物的多が、単なる個物的多ではなくして、個物的として自己自身を形成するということである。 しかしてそれは同時に個物がモナド的に世界を映すと共に逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという如き、 しかしてそれは矛盾的自己同一たる歴史的現在が、生産様式として一つの形をもつということである。 しかしてそれは絶対矛盾的自己同一的現在においての対立として主体と環境との対立ということができる。 しかしてそれは行為的直観的に見ることによって働き、働くことによって見るということでなければならない。 しかしてまたそれらの社会制度は逆にポイエシス的生産の可能発展の形態ということができる、 しかしてまた神を媒介とすることによって私は汝に対し、人格は人格に対するということでもある。 しかして世界がかくあるということは、どこまでも自己自身の中に世界を映し表現的形成的である個物が、 しかして世界がどこまでも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するのが、具体的論理である。 しかして世界がどこまでも矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、 しかして世界を創造作用的に把握するということは、イデヤ的にということである。 しかして概念的知識は生産様式的に生産的なればなるほど、真なのである。 しかして歴史的身体的なるが故に、我々はどこまでも当為的であるのである。 しかして現在が矛盾的自己同一として過去から未来へ動き行く如く、作られたものから作るものへと動き行くのである。 しかして現実の世界の現在は、主体と環境と、一と多との矛盾的自己同一として、決定せられたもの即ち作られたものから、作るものへと動き行く。 しかして矛盾的自己同一としての人間の世界に至っては、それは単に本能的でなく、表現的形成的でなければならない。 しかしなお個人の自由というものがあるのである、故に罪というものがあるのである。 しかしながら、かように必然的なものが単に必然的なものに止まる限り哲学はないであろう。 しかしながら、哲学は常識の単なる延長でもなければ、科学の単なる拡張でもない。 しかしながら、科学の根拠を明らかにすることはそれ自身科学の仕事に属するといわれるかも知れない。 しかしながら哲学は常識や科学を否定するに止まるのではない、それらとただ単に対立する限り哲学は抽象的である。 しかしながら存在と抽象的に対立して考えられる思惟の自律性は真の自律性でなく、 しかし一番心持ちの好いのは夜に入ってここのうちの子供の寝床へもぐり込んで一緒に寝る事である しかし世界がかく何処までも表現的に、換言すれば抽象概念的に考えられて行くというのも、 しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、それは形相が質料を形成するという如きことではない。 しかし働くということは、全世界との関係において、全世界の形において成立するのである。 しかし全過程としては、知識とはもと歴史的制作的自己としての我々のポイエシスより、 しかし具体的人間としては、我々は制作的・行為的として歴史的・社会的世界に生まれ来たるのであり、 しかし動物的生命といえども、矛盾的自己同一的現在の自己限定として形成作用的であり、 しかし単に合目的的というのは、生物的生命においてのように、なお空間的たるを脱せない、決定論的たるを免れない。 しかし哲学は学として、特に究極の原理に関する学として、統一のあるものでなければならぬ故に、 しかし地理的環境が文化を形成するのでもなく、民族といっても歴史的形成前に潜在的に民族というものがあるのではない。 しかし彼の知らない何らかの公的な秩序の名において、彼を追い払うということにならないではいないのだった。 しかし我々が世界の外から働くのではなく、その時既に我々は世界の中にいるのでなければならない。 しかし我々の行為的自己は、矛盾的自己同一的世界の形成要素として、 しかし時が過去に入ることそのことが、未来を生むことであり、新たなる主体が出て来ることである。 しかし最初に言葉の翻訳があってから文意の理解が行われるというのはどうも信じ難い しかし本当に理解できないものはもはやそれが意味を成すのかどうかさえも他人には判別がつかない しかし機械的と考えればいうまでもなく、合目的的と考えても、個物はどこまでも自己自身を限定するものではない。 しかし歴史的世界において現実的に時と考えられるものはその生産様式というべきものであろう。 しかし無限なる過去と未来とが現在において結合し、絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、 しかし物がどこまでも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、 しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない。 しかし生物的生命においては、なお真に作られたものが作るものに対立せない、作られたものが作るものから独立せない、 しかし生物的生命はなお環境的である、いまだ真に作られたものから作るものへではない。 しかし直観とか所与とかについて、従来の考え方は知的自己の立場からであって、 しかし瞬間が時の外にあると考えられる如く、それも対立を否定すると共に対立せしめる弁証法的空間の一点と考うべきであろう。 しかし矛盾的自己同一的に形成的なる所、行為的直観的なる所に、 しかし矛盾的自己同一的世界の過去として、単に因果的に、我々を圧するのでない。 しかし私は、そんなことは気にしないで、ひとつみんなを驚かしてやれと思って、思いきりたくさん食べてやりました。 しかし科学の求めるものが合理的なもの、一般的なもの、法則的なものであるからといって、 しかし絶対矛盾的自己同一の世界において環境というのは単に質料的なものではない。 しかし絶対矛盾的自己同一的世界をどこまでもかかる立場から把握して行くこと、 しかし自分のほんとの姿ではなく、将軍の姿にばけて、シモンの御殿へのり込みました。「シモン王様。」と年寄りの悪魔は言いました。 しかし諸君がいかなる門から入るにしても、もし諸君が哲学について未知であるなら、諸君には案内が必要であろう。 しかも、これは太陽が雲にさえぎられたときの暗さとは違っていました。振り返って見ると、これはまたどうしたことでしょう。 しかも、無が有として、過去は過ぎ去ったものでありながらあるものとして、それは自己否定的に主体を形成するものである。 しかもすでに論じたように、両者は抽象的に分離され得るものでなく、却って一つに結び付いている。 しかも一定の獲得された決定的な独立性を失わないという天賦を有する」とゲーテも書いている。 しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。 しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、自己自身を形成するものでなければならない。 しかるにかような危機は、一定の歴史的時期において集中的に大量的に現れる しかるにそれが現実から出立するというとき、現実というものが前提されるといわれるであろう。 しかるに単なる物に対する自己は真の自己であることができぬ、我は汝に対して初めて我である。 しかるに哲学は全体の学である。それは存在を存在として全体的に考察するのである。 しかるに物と物とが現実的に関係するためには一つの場所になければならぬ。 しかるに現実が足下から揺ぎ出すのを覚えるとき、基底の危機というものから哲学は生まれてくる。 しかるに閉じたものは世界とは考えられない、世界の根本性格は開いたものということである。 しごとがすめば、もどってきて、いっしょにつれてかえるからね。ヘンゼルとグレーテルとは、そこで、たき火にあたっていました。 しばらくして、羽音が烈しくなったかと思うと、箱はまるで風の中の看板のようにひどく揺れだしました。 しばらくすると、主人は私を手まねで、彼の皿のところへ来い、と招きました。しかし、なにしろ私はテーブルの上を しばられていたのは、シャツ一枚のほうが篠崎家の秘書今井君、もうひとりの洋服の男は、篠崎家お出入りの自動車運転手でした。 じっさい手をくだした罪人であろうとなかろうと、現在、宝石を持っているものに、のろいがかかるので、 じつはおとうさんも、緑をどっかへあずけたほうがいいとは思っていたんだ。しかし、その道があぶないので、決心がつかないんだよ。 じゅうぶんすぎるほどの警戒でした。しかし、おとうさまもおかあさまも、まだ安心ができないのです。 すっかり怒ってしまってある限りの力をこめて、鎌をふりはじました。小悪魔は力負けして、もうとても持ちこたえることが出来なくなりました。 すでに長いあいだ待ったし、なおその前に調書を取ったという教師は、まったく村長によって駆り立てられてやってきたものにちがいない。 すべてのものの上に立つ自由な君主であって、すべてのものに奉仕する従僕であるという。 すべての主体が合目的的に一つの主体に綜合せられるということでもない。 すべての主体的なもの、特殊的なものが否定せられて、抽象的一般の世界となるということでもなければ、 すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基く勇気を喚び起こすものでなければならない。 すると、ちょうどおひるごろでした。雪のように白いきれいな鳥が、一本の木の枝にとまって、とてもいい声でうたっていました。 すると、小林さんは、それじゃ、緑ちゃんをコッソリそのおばさんちへつれていって、しばらくあずかってもらったほうがいいっていうんです。 すると、私はなんだか悲しくなってしまいました。細君は家事の用で外に出て行ったらしく、姿が見えません。 するとイワンは言いました。「いいとも、いいとも。どのみち私は馬の世話をしなくちゃならん。飼葉を刈る時刻だからね。」 するとタラスのおかみさんが言いました。「私はこんな土百姓と一しょに御飯はいただけません。この汗の臭ったらがまんが出来ません。」 すると人民たちは言いました。「いいや、まだはじめません。先生あいかわらずしゃべりつづけています。」 すると彼は、命だけは助けてやる、と言いました。やがて、私は小さな舟に一人乗せられ、八日分の食物を与えられ、 せめて手足を動かすことによって寒さをわすれようとしたのです。でもこんなことが、いつまでつづくものでしょう。 そういうと、彼女は部屋の隅のほうに向きなおったが、助手たちはもうずっと前から進み出ていて、腕を組み合っておかみのうしろに立っていた。 そういえば、リリパットに私がいた頃、あの小人たちの肌の色は、とても美しかったのを、私はよくおぼえています。 そうかとおもえば、ほんのちょっとした意見の食い違いから戦争になります。たとえば肉がパンであるのか、パンが肉であるのかといった問題、 そうした言葉に公務上の意味があるとお考えなら、あなたはまちがってしまいます。それに反して、その個人的な意味は、好意的な意味においてであれ、 そうして、かつて首都だった場所、この国の中心だった場所から人は消えていき、この国の中心は消えてなくなった。 そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、 そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした そうすると、彼等は用心しながら、そっと、触ってくれるようになりました。彼等は、私の靴と靴下が、いかにも不思議でならないらしく、 そうすれば、あなたはたとえばわたしに対してただちにもっと公正な態度を取り、わたしがどんな驚きを味わったか、ということを気づき始めるでしょう。 そこから見ていると、その男は段々の上に立ち上って、右隣りの畑の方を振り向いて、何か大声で叫びました。 そこで、れいの紳士は、塔のてっペンに立って演説をしはじめ、人民たちはかれを見ようとして集まりました。 そこで、今度は船を車に積み、ヤーフたちに引かせて、静かに海岸まで運んだのです。準備が出来上って、出発の日がやって来ました。 そこで、私はその港町に、しばらく滞在することになりました。そのうち二三の知合いも出来、みんな私に親切にしてくれました。 そこで、私はそれを指さしながら、ひとつ牛乳をしぼらせてくれという身振りをしました。これが相手にもわかったのです。 そこで、私はハンモックからおりると、まず天井の引窓を開けて空気を入れ替えました。 そこで、私は家に引っ返すと、リリパットの人民に、丈夫な綱と鉄の棒を、できるだけたくさん持って来るように言いつけました。 そこでくじ引をし、また日を決めて、だれがうまくやりとげたか、だれが手伝がほしいかを、知らせあうことにしました。 そこではなお世界が真に一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するとはいわれない。 そこでは世界の生産様式はただ記号的に表現せられる、即ち数学的である。 そこでは主として自然的対象界が問題であり、人間の世界、歴史的・社会的現実は問題でなかった。 そこでやはり父親のところへ出かけて行き、「私にも私の分け前を下さい。」と言いました。 そこでイワンの国を出て、タラカン王のところへ行って言いました。「イワン王と戦をしてあの国を取ってしまってはいかがでしょう。 そこでイワンは、出かける仕度をしました。イワンの両親は、イワンに一番いい着物を着せました。ところがイワンが戸口を出るとすぐ、 そこでシモンは、「お前の着物が大へん臭いので家内がいやだというのだよ。お前外へ行って飯を食ったらいいだろう。」と言いました。 そこでタラカン王は戦のしたくに取りかかり、大へんな軍隊を集めて、銃や大砲をよういすると、イワンの国へおしよせました。 そこでタラスにも分前だけやりました。で、タラスは荷車で穀物を町へ運び、種馬をつれて行きました。 そこで三人の兄弟をさがしに出かけましたが、かれらは元のところには住んでいないで、めいめいちがった国にいるのがわかりました。 そこで主観といえば意識と解される、知るものは意識の作用であるといい得るからである。 そこで働きに来てもらいたいことだの、穀物や牛などを買いたいことだのを知らせて、もっとたくさんの金貨をやることにしました。 そこで大したお金が人々のふところに入って、人民たちはとどこおりなく税金を払うことが出来ました。 そこで彼は、ドアがほんとうに開いたときスタンドの下にすべりこんだ。そんなところで見つけられることもむろん危険がないわけではなかったが、 そこで彼女は宮中に便利な部屋を一つあてがわれました。そして、彼女の世話をするために、家庭教師の婦人が一人、 そこで肥満のタラスは言いました。「どうもお前の臭いはひどすぎる。外で飯を食ってくれないか。」 そこで隣の国の王はふるえ上って降参し、その領地のすべてを引きわたしました。シモン王は大喜びでした。 そこにあるとは世界においてあるということであり、世界はさしあたり環境を意味している。 そこにはどこまでもミトス的に我々を抑圧するものを否定し行かねばならない。 そこには因果的に過去からの必然として、また合目的的に未来からの必然として相対し相働くのではない。 そこには既に矛盾的自己同一として歴史的形成作用が働いていなければならない。 そこに多と一との矛盾的自己同一として我々が含まれている世界が、 そこに対立するものの統一、理論と実践との弁証法的統一が存在する。 そこに我々の意識作用はどこまでも当為的でなければならない所以のものがあるのである。 そこに既にいった二つの社会に同時に属するという人間の根本的性質が認められる。 そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なものに触れると考える。 そこに永遠なるものの自己形成即ちイデヤ的形成の契機が含まれていなければならない。 そこに矛盾的自己同一的に一つの生産様式というものが出来るかぎり、個物が生きるのである。 そこに見ることが働くことであり、働くことが見ることである、即ち構成的である。 そこに非合理的なものが存在するところから、科学は実証的であることを要求されるのである。 そこは雪がいよいよ深く、沈んでいく足を抜き出すことはむずかしい仕事で、汗がどっとふき出てきた。 そこへ人民たちが、裁判してもらいにやって来ました。そして中の一人が、言いました。「こいつが私の金を盗みました。」 そこへ大臣の一人がやって来て言いました。「金がないので役人たちに払うことが出来ません。」 そこを我慢して無理やりに這って行くとようやくの事で何となく人間臭い所へ出た そして、「もしもこの命令に従わない者は残らず死刑にしてしまうぞ。」と言いました。 そして、いい出した男は、まるでその新しいことというのがご馳走でもあるかのように、唇をなめるのだった。 そして、いくら見まいとしても、きみが悪ければ悪いほど、かえってその影を、じっと見つめないではいられませんでした。 そして、いつでもその束のなかから書類が引き出されたり、またそれにさしこまれたりされ、しかもすべて大変な速さでやられるので、 そして、いつもは、お父さんのほかは、誰も腰掛けてはいけないことになっていました。 そして、おもての戸の下だけあけて、こっそりそとへ出ました。ちょうどお月さまが、ひるのようにあかるく照っていて、 そして、この問題が議会に出されたときも、政府の中で最も賢い人たちは、私と同じ考えでした。 そして、そう期待すればこそ、歩みをつづけていた。疲労のために、この道をいくのをやめることをためらっているようであった。 そして、その兵士たちはなんともいえない恐ろしい顔つきをしているので、私は思わずゾッと寒気がしました。 そして、その名前を手帳に書き込んでおいて、発音の悪いところは、家の者に何度もなおしてもらいます。 そして、もしこうやって彼の土地測量技師としての身分を承認して、自分たちがたしかに精神的に上位にいることを示し、 そして、やみの中で顔をよせてくる六人の少年たちに、ささやき声で、室内のようすを報告しました。 そして、シモンは一国を平げて自分のものにし、タラスは商売で、たくさんお金をもうけました。 そして、一人がまだ表紙の文字を一字一字読みあげているうちに、きまって早くも一人がそれを相手の手から奪い取るのだった。 そして、二人の顔に別に反抗の気配も見られなかったので、二人にそんなことをいった埋合せをするつもりで、さらにいった。 そして、何を見たのか、ギョッとしたように立ちなおりましたが、いきなりうしろをふりむくと、一同を手まねきするのです。 そして、別なこと、もっと個人的なことがいわれていても、それはそうした観点から述べられているのだ。 そして、大きな茶碗に牛乳を一ぱい注いでくれました。私はグッと一息に飲みほすと、はじめて生き返ったような気持がしました。 そして、彼女がこの地位に満足していないと称しているのは、思い上りにほかならなかった。 そして、私から一マイルとは離れていない眼の前に見えて来たのです。私はさっそく、望遠鏡を取り出して眺めました。 そして、節約と整理をよくしてゆけば、二百年ぐらいで、私は国内第一の金持になれます。第二に、私は子供のときから学問をはげみます。 そして、話をしていてわかったことがある。君は大して変わっていないし、僕も大して変わっていないということ。 そして、鳥を一羽売ってもらおうと思って金貨を一枚出しましたが、そこのおかみさんは、どうしてもそれを受取りませんでした。 そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。 そしてそれが現象のうちに客観的に現れる限り、価値も科学の対象となるのである。 そしてそれは、科学と技術においてのみでなく、すべての文化と行為において見られる関係である。 そしてそれはまた逆に矛盾的自己同一的に世界が唯一的なればなるほど、個物は個物的となるということができる。 そしてまた他の木を伐りにかかりましたが、急に背中が痛んで来て、立っていることも出来なくなりました。 そしてようやく倒すことが出来ました。イワンは三本目の木に取りかかりました。が、今度もやはり同じ目にあいました。 そして与えられる答えについて論理的に思考し、これによって現象を合理的に把握してゆく。 そして今、屋根の下では数百人の人々が、この光景を見上げているのです。私が食べまいとすると、猿は母親が子をあやすように、私を軽く叩くのです。 そして作られたものから作るものへとして、社会の経済的機構が発展して行く。 そして動物においても然るが如く、それが作られたものから作るものへとして、創造的形成的なるかぎり生きた種であるのである。 そして技術的知性の特徴は、身体の器官とは区別されるかような道具を作るところにある。 そして私のすぐ頭の上で、何か羽ばたきのような物音が聞えるのでした。で、私は自分がどんなことになっているのか、わかりかけました。 そして私は、自分の家族や友人、同胞などを考えてみると、とてもひどく恥かしくなりました。 そして自律的といわれる知性も、それ自身技術的であり、固有の道具をもっている。 そして誰一人兵隊になるものがありませんでした。年よった悪魔はイワンのところへ帰って来て、言いました。 そっとまた、もどって行って、グレーテルに、「いいから安心して、ゆっくりおやすみ。神さまがついていてくださるよ。」と、いいきかせて、 そのあいだに、人びとのうちのだれかがあちこちで立ち上がり、空のコップを彼女にみたしてもらおうとするのだった。 そのあとから男が出てきたが、腰をかがめ、よわよわしそうで、びっこをひき、痩せた、赤い、鼻風邪をひいたような顔をしていた。 そのあとで、親子四人そろって森へ出かけました。しばらく行くと、ヘンゼルがふと立ちどまって、首をのばして、うちのほうをふりかえりました。 そのあと母親が外に出てしまったこと、夕方まで母親が帰ってこないだろうといったこと、そういったことを話した。 そのうち、新たな子供が生まれたり、成長したり、学校を卒業したり、就職したりして、子供は巣立っていった そのうちに召使の一人が、私をズボンのポケットに入れて、無事に下までおろしてくれました。 そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予が出来なくなった そのことは合理性に対する要求を示している。イデーなしには実験することができぬ。 そのために、村々はほとんど空っぽになり、畑の仕事も家の仕事も、すっかりお留守になりそうでした。で、皇帝から命令が出ました。 そのため決定がわかるまで、ほんとうはとっくに決定されてしまっている事柄について依然として熱心に論議している、ということになるのです。 そのとき、私はまだぐっすり眠っていたので、服は片方にずり落ち、シャツは腰の上に載っていました。 そのとき、陛下は、彼を殺そうとはちょっともお考えにならなかったので、ひどく残念がられました。 そのときはそれに応じて我々の思想を変え、新しい思想をもって更に現象に問いかける。 そのほかの場合にはいつでも大きな用心、つまり一歩踏み出す前に四方八方を見廻すということが必要だ、ということになるのだった。 そのやみの中に、からだの自由をうばわれた、緑ちゃんと小林君とが、折りかさなってたおれているのです。緑ちゃんは顔中を涙にぬらして泣きいっている そのテーブルは高さ三十フィートもあるのですから、私は怖くてたまらないのです。落っこちないように、できるだけ、真中の方へよって行きました。 その上シモン王の銃や大砲とそっくり、同じものを作り、なお空を飛んで爆弾を投げ下す方法まで考えつきました。 その人たちは、何か村に用事があるときにはそこで食事をしたり、ときどきは泊ったりするのだ、ということを聞いた。 その仕事のあいだじゅう、席に残った運転手は、じっとピストルをさしむけていたのですから、抵抗することなど、思いもおよびません。 その危険は手紙のなかにも十分に強調されており、まるでのがれることができないものであるかのように、一種の悦びをもって書き表わされている。 その命令のなかで、役所の偉い人たち独特の断言的なやりかたで、測量技師が呼ばれることになっている、といい、 その場合、答えは必ずしも最初の思想と一致しないで、むしろこれを否定することもあろう。 その塀を驚くほどたやすくよじ登ることができた。それまで何度もはねつけられていた場所で、彼は小旗を歯のあいだに挾んで、その塀を一気によじ登った その声は、きびしそうな調子をさらに加えることによって、そうした言葉の誤りを打ち消してしまおうとしていた。 その声や身振りで、私にはそれがわかったのです。私は大へん疲れて、睡くなりました。すると細君は、私の睡そうな顔に気がつき、 その子供っぽさというのは、ここではごくあたりまえのことのように見えた。亭主も子供っぽくないだろうか。 その存在は自己の譲渡によって自己が自己の前に投射した客観に専ら相対的であり、従って真の主観性を失っている。 その家に幼い女の子があるときは、お姫さまのあだ討ちだというので、まず女の子をさらっていって、人知れず殺してしまう。 その庭園の中には、家畜、穀物、園芸などのために、小さな区切りが作ってあります。 その当時の流行の最先端のカッコをしている若者だった。今見ると、古臭さばかりが目立つカッコだった。 その後、天気がよくなったかと思うと、私たちの船は二隻の海賊船に見つかり、たちまち追いつかれてしまいました。 その日の夕方、向うに小さな島が一つ見えてきて、私は間もなく、そこへ着きました。だが着いてみると、それは大きな岩だったのです。 その日の見物人は、十二組あったので、私は十二回も、こんなくだらないまねを繰り返さねばならなかったのです。 その晩は舟の中で寝て、翌朝早く起きると、また航海をつづけました。七時間ばかりすると、ニューポランドの東南端に着きました。 その書状をひろげたかとおもうと、私の眼の前に突きつけて、何やら読み上げました。それから、しきりに前方を指さしました。 その枕もとのイスには、小林少年がおとなのナイト・ガウンを着せられて、みょうなかっこうで、こしかけているではありませんか。 その校庭は、今は雪野原になっていた。ちょうど子供たちが教師とともに出てきた。 その根底において物を作ることによって行為的直観的に把握し来ったものである。 その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。 その次には乾草を一束とからす麦を私に見せてくれました。しかし、私はどちらも自分の食物ではないと、首を振ってみせました。 その物体の斜面には、たくさんの人間が上下に動きまわっているのです。その姿がはっきりと見えるのです。 その理由はとくに、フリーダがなぜか知らないけれど、あなたのことをひどくこわがっているようで、この話に加わろうとしないからです。 その男がそんな仕事のことを全然知らないことは別としても、学校の建物には控室なしの二つの大きな教室があるだけです。 その畑のところどころに、森がまざっていますが、一番高い木でまず七フィートぐらいです。 その知識をすでに知っている部分の知識に附け加えることで問題がなくなるというような関係にあるのでなく、 その立場からのみ歴史的生命の世界を見ることは、抽象的たるを免れない。 その細君といえば、そのときのぞき窓のむこうの台所で、両肘を身体のわきにぐっと突っ張ってせわしく立ち働いているのが見えた。 その結果は、わたしたちは賃貸料をきちんと払ったばかりでなく、二、三年ののちにはそっくり買い受け、今ではほとんど借金もなくなっています。 その結果は、彼はこの土地で挫折してしまい、役所はなおもおだやかに親切に、いわば役所の意志に反してというように、 その統一性は、ちょっと見ると統一性がないようなところにおいてとくに完璧なもののように感じられるのであった。 その言葉の調子のなかには、今度は彼女の意志に反して、彼女の生活の勝利ではなく、限りない幻滅が鳴り響いているようであった。 その赤ん坊の泣声は、なんとももの凄い声でした。母親は私をつまみ上げて、赤ん坊の傍に置きました。赤ん坊は、いきなり、 その逆に世界が世界自身を形成することが個物が個物自身を形成することである。 その鐘の音は、おそらくやはり上のほうからくるのだろうが、おそらくもう村に入ったあたりで鳴っているのであった。 その間には単に主体的立場から考えられる相互否定的対立以上のものがなければならない。 その際、必然性は可能性の否定的媒介を通じて真の現実性に達するのであって、 その際その常識の根拠、一つの常識と他の常識との論理的関係は反省されていない。 その魔物のからだは、どんな濃い墨よりも、もっと黒く、黒さが絶頂にたっして、ついに人の目にも見えぬほどになっているのにちがいありません。 それから、その旧主人と私と娘と、三人に目の前で話させて御覧になりました。 それから、今度は、私の経歴や生国のことや、この国へ来るまでに出会った、いろんなことを話して聞かせてくれと言うのです。 それから、今度は私の身体をやさしくなでたり、私のまわりをぐるぐる歩きまわって眺めていました。そしてこう言いました。 それから、宮廷で一番えらい学者が六人、この国の言葉を私に教えてくれることになりました。 それから、懐中時計を渡しました。皇帝はこの時計を非常に珍しがり、一番背の高い二人の兵士に、それを棒にかけて、かつがせました。 それから、着物の世話をする女中が一人、いろんな雑用をする召使が二人、それだけが彼女に附き添うことになりました。 それから、私は陛下の命令で宮殿の一室に案内され、召使が二人、私に附き添いました。やがて、食事が運ばれてきました。 それから、陛下の後に大きな白い杖を持って控えている首相をかえりみて、こう言われました。 それからガリバーははるばる日本へまでやって来ます。東京はまだ江戸といわれていた頃のことで、長崎では踏絵があったりします。 それから一時間ばかりして、突然、私の箱に何か固いものが突きあたりました。と、箱の屋根の上に綱を通すような物音が聞えてきました。 それから主人と召使の二人は、私たちの顔をじっとよく見くらべていましたが、そのときもまたしきりに「ヤーフ」という言葉が繰り返されたのです。 それから彼は、二人の助手を引っ張るようにしながら部屋から出て、急いでドアを閉めた。 それから彼は、助手たちのほうに向きなおった。「きたまえ!」と、彼はいって、クラムの手紙をかけ金から取り、出ていこうとした。 それから私の服を作ってくれるために、三百人の仕立屋が、やとわれました。 それから私は舟を北の方へ進めてみました。しばらくすると、向うに帆の影が一つ見えてきました。 それから船長室に私をつれて行き、「まあ一寝入りしなさるんですね。」と言ってくれました。 それから間もなく、宮廷は大騒ぎになったのです。召使は梯子を取りに駈けだしました。猿は屋根の上に腰をおろすと、まるで赤ん坊のように それから静かになった。フリッツがむこうで問い合わせしており、こちらでは返事を待っているわけだった。 それから食事のときには、彼等のうちから数人招きます。もっともそのときには、普通の人間も、二三人ずつ立派な人を招くことにします。 それが、どうやら人間の足らしいのです。人間の足が、しげみの中からニューッとあらわれて、まるでいも虫みたいに、動いているのです。 それが、ひどく汚い部屋の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、今度は笑っていない それがすむと、グラムダルクリッチは、いつも私のボートを自分の部屋に持って帰り、釘にかけて、かわかすのでした。 それが個々のもの、特殊的なものを全く無視するかのように考えることは正しくない。 それが出来上ると、王妃は非常に喜び、そのボートを前掛に入れて、国王のところへかけつけました。 それが意識面的形成的に、即ち論理的に具体的一般者ということができる。 それが我々の生活にとって基礎的に重要なものであることはいうまでもないであろう。 それが私の心の奥底の意図だったのです。あなたはクラムを捨てて、私の恋人になるべきだ、というわけです。これだけいえば、もう出ていけます、 それで、やっと目がさめてみると、もうすっかり暮れて、夜になっていました。グレーテルは泣きだしてしまいました。 それで、ヘンゼルとグレーテルが近くへやってくると、ばあさんはさっそく、たちのわるい笑い方をして、 それで、私が指を引っ込めると、今度は、平気な顔で、虫やかたつむりをあさり歩いているのでした。 それであいつはあり金をすっかりつかってしまい、なおさかんに買い込んでいる。もう大へん借金して買っている。 それでおれの仕事はあと一日だけ、あいつをあいつの田舎へ逃してやるために牢屋から出してやればいいのだ。 それですぐさま返事をよこしたらしかった。それというのは、早くもフリッツが電話をかけてきたのだ。 それでも主人に言わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている それでも彼は今やしばらく眼をおおわないではいられなかった。そんなに欲情をこめて彼女を見つめていたのだった。 それでイワンは家へ行って、別の鎌を持って来て、それで刈りはじめ、すっかりライ麦を取り入れてしまいました。 それで多と一との絶対矛盾的自己同一として、自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、いつも現在において自己矛盾的である。 それで海の中へ落ちたことがはじめてわかりました。箱は私の身体や家具などの重みで、水の中に浸りながら浮いています。 それで私はふと、こんなことがわかりました。イギリスの女が美しく見えるのは、それは私たちと身体の大きさが同じだからなのでしょう。 それに、まだ、少し息が残っているようでしたが、これは、首のところへ深く剣を突き刺して、息の根をとめてしまいました。 それに、私は国王の費用で、ずいぶんよく、もてなされました。また方々から、私を珍しがって、招いてくれました。 それにはまず先生が、召使の一人に、「何々を持って来い。」「あっちを向け。」「おじぎ。」「坐れ。」「立て。」というふうに命令をします。 それには何か科学の科学としての立場においては不可能であるというものがあるのでなければならぬ。 それによって長く彼に恐怖の気持を抱かせておくことができる、と思っているのなら、それは思いちがいというものだ。 それによると、今度の会議で、私はこの国から出て行ってほしい、ということに決まったのです。 それに僕はそれなりの年齢だった。夏休みが空白であることを納得できるほどの年齢。 それは、この島を彼等の頭の上に落してしまうのです。こうすれば、家も人も何もかも、一ぺんにつぶされてしまいます。 それは、もし王が誰か家来をそっと死刑にしてやろうと思われると、この床の上に、毒の粉をまき散らすように、お命じになります。 それは、床にまいた毒を、あとで綺麗に掃除しておかなかったからです。そのため、一人の立派な青年が、陛下の前で、毒をなめて死んでしまいました。 それは、森や野をとびまわっている、なん千ともしれない鳥たちが、みんなつついてもって行ってしまったのです。 それは、私と私の連れを、十頭の馬で、この通訳を使って、私は訪ねて来る人たちとトラルドラグダカまで案内してくれるというのです。 それはすべて形成作用のあるところに認められる関係であって、形成作用は表現作用であり、 それはただ絶対矛盾的自己同一の現在の自己限定としてのみいい得るのである。 それはまたどこまでも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。 それは一方、すでにいった如く、ある閉じた社会に属する人間に共通な知識を意味する。 それは作られたものから作るものへという歴史のイデヤ的形成の契機として、 それは作られたものから作るものへとして、どこまでも歴史的自然の形成作用ということができる。 それは単に了解の対象と考えられるが、どこまでも我々に対するものが表現的に我々に迫るということ、 それは反省的知識のために主体が自己を譲渡して対象としたものに過ぎず、主体そのものはどこまでも内面的な存在である。 それは哲学に対してのみでなく、常識に比してすでに抽象的であるといわれるであろう。 それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない。 それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。 それは客観に対する主観の如きものでなく、客観に媒介されたものとして主体である。 それは小林君が、インド人に、かどわかされる道々、自動車の上から落としていった、少年探偵団のバッジが目じるしとなったのです。 それは形成的主体が環境を離れることであり主体が亡び行くことである、イデヤがイデールとなることである。 それは彼の考えによると、彼が過少に評価されており、そのためにはじめから望みうる以上に自由をもつ、ということを立証するものであった。 それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。 それは感情的な主観的な評価を排して、物を飽くまでも知的に客観的に把握しようとする。 それは我々を生かしながら我々を奴隷化するのである、我々の魂を殺すのである。 それは機械的でもない、合目的的でもない、しかしてそれが真に論理的ということである。 それは歴史的過去として我々の個人的自己の生命の根底に迫るものでなければならない。 それは決してばらばらなものでなく、それ自身の仕方で組織されたそれ自身の斉合性をもっている。 それは物の因果関係を研究するか、およそ因果性とは何かということについては反省しないのである。 それは現実。でも、全てが僕の頭の中の話でショーケースの中を見ているみたいだ。 それは知識の所有であるよりも所有への行程であり、従って哲学することを措いて哲学はないのである。 それは私と同じく個別的なものであり、そして環境は一般的なものである。 それは科学が合理性と実証性、あるいは論理性と経験性から成るということを意味している。 それは絶対矛盾的自己同一として、一切がそれによって成立する一でなければならない。 それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。 それは自己の保存とか種の保存とかという主観的な欲求と客観的なもの環境的なものとの統一を示している。 それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。 それは逆に無数なる個物の表現作用が絶対矛盾的自己同一的世界の無数の仕方においての自己表現といわなければならない。 それは非常に高く飛んでいたので、小さく見えたのでしょう。どうも私の尋ねたり言ったりすることは、みなに合点がゆかないようでした。 それらの形はそれらの生物の本能を表現すると共に、生活する環境を表現している。 それらを新たに自己のうちに生かすことによって、哲学は真に現実的になり得るのである。 それをお聞きになった篠崎君のおとうさま、おかあさまは、もう、まっさおになっておしまいになりました。 それを人民の一人が見つけて、イワンのおよめさんに知らせました。するとイワンのおよめさんは、野良に出ているイワンのところへ、かけつけました。 それを年よった悪魔が見ていました。悪魔は、兄弟たちが財産の分け方でけんかをするだろうと思っていたのに、べつにいさかいもなく それを生物的生命的といったが、人間に至ってもそれを脱するというのではない。 それを用いる人間の意欲に依存し、そしてこれは彼のもっている価値の尺度に依存する。 それを聞いて紳士のほうは、のけぞらせた顔にふんというような表情を浮かべ、ちょっとのあいだ眼を閉じた。 それを見て、下の群衆はみんな笑いだしました。実際、これは誰が見ても馬鹿々々しい光景だったでしょう。 それ以前の合理主義の哲学即ち一切のものが純粋に合理的に演繹され得るとする思想に対して、 それ自身によって独立せるものとして逆に我々を限定する、我々は物の世界から生まれるといったが、 そんなことはあるまいけれど、もし、くせ者に聞かれたらたいへんだというので、始君は、おとうさまの耳に口をよせて、ささやくのでした。 そんなことを考えたりしたくはないのです。そういう監督の役所のことなど聞くのははじめてですし、まだそれらのことがわかってはいないのですから。 そんなことを考えているうちにも、水は、もうのどのへんまでせまってきました。からだが水の中でフラフラして、立っているのも困難なのです。 そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。 そんなふうにして教えられたので、二三日もすると、私はもう欲しいものを口で言えるようになりました。 そんなものを恐れてなんかいなかったし、少なくとも今の場合そんなものを恐れはしなかった。 たしかにそうしておいたほうがよかったでしょうし、いろいろな面倒が避けられもしたでしょうけれど。 ただ、ここでは二つのことを区別しなければならない、と思います。つまり、第一はいろいろな役所の内部で起っていることです。 ただ、その日は違った。僕らは話した。夏休みで辺りに誰もいなかったからだと思う。 ただ、作られたものとして既に環境的となったもの、しかして作るものを作るという力を有せないものが、主体から遊離した文化である。 ただおそらくどの家も石でつくられているということによってきわだって見えるだけだった。だが、家々の上塗りもずっと前にはげ落ち、 ただそれは作られたものからというに即するが故に、環境的といわねばならない。 ただアマーリアだけが、彼女のまじめで、率直で、動じない、おそらくはまたいくらか鈍感でもあるようなまなざしで、彼を少しばかり、とまどいさせた。 ただ一つの例外があっても法則は否定され改変されねばならぬということは、個物の力を示している。 ただ実用の見地あるいは政策的立場に立つ限り、科学の求める客観的知識に達し難い。 ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである ただ歩いていくことだけのために起こる大儀さによって、彼は自分の考えをまとめられないようになっていた。 ただ無媒介的に、単に受働的ないわゆる直観から直観へと移り行くことを意味するのではない。 ただ環境から因果的に物が出来るというのでもない、また単に主体的に潜在的なるものが顕現的となるというのでもない。 ただ私が思うのは、ハンスの親戚たちはそうした期待の点で正しかったのでもなければ、まったくまちがっていたのでもない、ということです。 たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。 たとえば、酒場のお客の一人がわたしを侮辱しました。あの人たちはいつでもわたしのあとをつけ廻していたんです。 たとえばたしかに、私がクラムに対しては何者でもない、とあなたがおっしゃるのは、もっともな話です。 たとえばだれかと何回となく機会を重ねて知り合い、信用のできる者だとわかっても、次の機会にはもうまるで全然知らないかのように、 たとえ話というのは、わかりやすくするためではなく、都合のいい理屈に落としこむために使われる たとえ逃げだす見こみはなくとも、まんいちのばあいの用意に、からだの自由だけは得ておかねばなりません。 ためらいはしなかったろう。ただ、できるだけ城の偉い人たちから遠く離れて、村の労働者として働くときにだけ、城の何ものかに到達できるのだ。 だから、その向うには、どんな人間がいるのか、はたして人が住んでいるのかどうか、それはどんな偉い学者にもわからないのです。 だから、もしあの職を引き受けるなら、何も損はしないんだけれど、もしそれをことわればとても損をするのよ。 だから、ガリバーは箱に入れられて、カナリヤのように可愛がられています。すると、その箱を鷲がつかんで海へ持って行きます。 だから、彼等が外で物を食べるときには、召使を一人そばに立たせておくことにするし、家にいるときは、お互に遠くへ離してつないでおく。 だが、この国の船では、どうしたものか、それはちょっとわかりませんでした。一番小さい舟でも、私たちの国の第一流の軍艦ほどもあるので、 だが、たしかめてみるまでは、なんともいえない。ぼくはきょうのうちに、一度、春木さんと会ってみるつもりだよ。 だが、なにしろこの数年間というものは、人間に触られたことがなかったので、一時間ばかり、私は気絶してしまいました。 だが、頭のてっぺんから、足の先まで、傷だらけになって、十日ばかりは外出もできなかったのです。 だれでも、伯爵の許可なしにはそういうことは許されません。ところが、あなたはそういう許可をおもちでない。 だれでもいいから、子どもをさらおうというのではなくて、あるきまった人をねらって、つい人ちがいをしたらしく思われるのです。 ちょうど、その留守中のことでした。園丁が飼っているスパニエル犬が、どうしたはずみか、庭園に入り込んで来て、私の寝ている方へやって来たのです。 ちょうど、グラムダルクリッチは、そのとき、部屋の向うの方に行っていましたし、王妃は驚きのあまり、私を助けることを忘れていられました。 ちょうどこの時兵隊のシモンがやって来て、「助けてくれ、印度王にすっかりやられてしまった。」と言いました。 ちょうどそのとき、私は二百ヤードばかりの高い丘の上に立っていたのですが、やがて、その大きな物は ちょっとした文章なら説明することができるようになりました。彼女はポケットに小さな本を入れていました。 ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。 ちょっと見たところ、たがいにひどく似ている小柄な男たちで、平べったく、骨ばってはいるが、頬がまるまるしている顔をしていた。 ちょっと見ると百円銀貨のようですが、むろん銀貨ではありません。何か銀色をした鉛製なまりせいのメダルのようなものです。 つい最近まで世の中にいたはずで、明日の朝がやってこないなんて考えもしなかった君。 つぎの章はそのなぞのとけていく場面です。そして、ゾッとするようなお化けが、正体をあらわす場面です。 つづいて、今井君も助手席につき、車は、エンジンの音もしずかに出発しました。もう外は、ほとんど暗くなっていました。 つねに個別的な条件のもとに個別的な主体によって行われる行為にとっても必要である。 つまらない話を聞かせて、おまえたちを心配させることはないと思って、きょうまでだまっていたのだ。 つまり、わたしのいちばんかわいい子がいわば鷲を離れて足なしとかげといっしょになったのだ、とわたしが知ったときの驚きのことです。 つまり、日本とオランダとは貿易をしていることを知っていたので、その便をかりて私はヨーロッパへ帰りたいと思っているのです。 つまり、都市には高い塔や柱などが立ち並んでいるので、その上に島を落すと、島の底の石が割れるおそれがあります。 つまり例の商人が何もかも買い占めてしまって、人民たちはただ税金だけ王のところへ納めに来るだけでした。 てっきり私を死んだものと思い込んでいた妻子たちは、大喜びで迎えてくれました。家に入ると、妻は私を両腕に抱いてキスしました。 できごとは東京を中心にしておこったのですが、それに関係している人物は、日本人ばかりではなく、いわば国際的な犯罪事件でした。 では、これから、黒い魔物のいたずらが、だんだん犯罪らしい形にかわっていくできごとを、順序をおってお話しましょう。 でも、こんどは、おかみさんが戸に、ぴんと、じょうをおろしてしまったので、ヘンゼルは出ることができなくなりました。 でも、それにはまた、無知な者はかえって多くのことをやってのける、という利点もあります。 でも、もしあなたが少しでもわたしを信じて下すって、この無知をいつも念頭におかれているなら、たくさんのことがもっとよくなるのです。 と、かえって猫の方が怖そうに後しざりするのでした。そのときから、私はもう、猫や犬を怖がらなくなりました。 というのは、その点では事はあまりにはっきりしていますからね。そこで、お願いしますが、どうか私の助手とは話をしないで下さい。 というのは、たしかにあなたの思いちがいですね、私が登場した瞬間からフリーダはクラムに対して意味のないものになってしまったのだ、と思うのなら。 というのは、二階は目の高さの小さなすきまを除いては、木製の回廊がぐるりと取り巻いているのだった。 というのは、村の連中は、根本において自分自身だけにたよるように彼に教えたのであり、彼が力を集中しておくように助けてくれたのだった。 というのも、両陛下のおかげで、私は急に大官たちの間で有名になってきたからです。 とうとうくじ引で役割を決めることにしました。そしてもし一人が先に片づいたら他へ手伝いに行くことにしました。 ときには、子供たちがやって来て、私の髪の毛の間で、かくれんぼうをして遊ぶこともあります。 ところが、お父さんとお母さんにしてみれば、嬉しがっているどころではありません。心から悲しんでいるのでした。 ところが、その洋服屋のやり方が、ヨーロッパの寸法の取り方とは、まるで違うのでした。 ところが、です。行ってみると居ないと言うじゃありませんか、そんな人。私があの時話していた人、誰だったんでしょう? ところが、ガンたちがブレーキンゲに向かって飛んでいきますと、偶然、ズルスケもそこへいっていました。 ところが、クラムは彼のほうへまともに向っていたので、まともに顔をながめることができた。 ところが、木はバッサリ倒れるはずなのに、倒れぎわに急にまがりくねって、他の枝へ引っかかりました。 ところが、私は今この国の一番高い位のナーダックになったのですから、あんな仕事は私に似合いません。 ところが、船長は、この辺の海のことをよく知っている男でした。暴風雨が来るから、すぐ、その用意をするよう命令しました。 ところが、近づくにつれ、城は彼を失望させた。それはほんとうにみじめな小さな町にすぎず、田舎家が集ってつくられていて、 ところが、驚いたことにさぐってもさぐっても軍隊の影さえも見えません。今にどこからか現われて来るだろうと、待ちに待っていましたが、 ところが、驚いたことには、材木も石材も人夫もすっかりれいの商人のところへ取られてしまいました。タラス王は価を引き上げました。 ところが、鳥はちょっと目をまわして気絶していただけなので、じきに元気を取り戻すと、両方の翼で、私の顔を ところがその兵隊はみんな背が高くて、かおかたちの立派なものでなくてはならないのでした。 ところが印度王はシモン王のことを聞いて、すっかりその考えをまねてしまいました。そしてそればかりでなく、自分の方でいろいろと工夫しました。 ところが小悪魔がその枝にひっかかって、もがいているのを見つけました。イワンはびっくりしました。 ところで、もし私があの人に対して平気でいることができるなら、あの人が私と話すなんていうことはまったく必要じゃないんです。 ところで、バルナバスは彼にひどく気に入ってはいたが、ただの使いにすぎないのだ、ということを思い出し、この男にビールをやるように命じた。 ところで、マルドナーダという港に着いてみると、あいにく、ラグナグ島行きの船は当分出そうもないということがわかりました。 ところで、私はこの洋服を、みんなが寝静まってしまうまでは決して脱がなかったし、朝はみんなが起きないうちに、ちゃんと身に着けていたのです。 ところで、私はまだ彼をこの眼で見ることはできないでいます。彼は城から下りてくることができないんです。 ところで科学が行為の立場に立つことは、客観的な知識に達するために必要なことであった。 ところで科学は物の原因を研究するにしても、自己自身の拠って立つ根拠は反省することがない。 ところどころ叫び声のような、うめき声のような効果音が挿入されていることも、不気味で気持ち悪かった。 とつぜん、探偵はイスから立ちあがって、部屋のいっぽうの壁にはりつけてある東京地図のところへ行き、小林少年を手まねきしました。 とはいえ、この知らせはきわめて短いもののようだった。シュワルツァーが腹を立てて受話器を投げ出したのだ。 どうか、あなたの身の上話を聞かせてください。食事はどんなものを召し上りますか。これからは私と同じ待遇にしてあげたいのです。 どうしてくらすかかんがえると、心配で心配で、ごろごろ寝がえりばかりして、ためいきまじりに、おかみさんに話しかけました。 どうにかこうにか進んでいるうちに、麦が風雨で倒れてしまっているところへ出ました。もう、私は一歩も前進できません。 どうにも我慢ができないので、私は口へ指をやっては、何か食べさせてください、という様子をしました。 どうも新しい客が長くはいないと思っていたらしく、客を引きとめるために何一つやってはなかった。 どこかのばかなやつが、そんなとほうもないまねをして、おもしろがっているのだろうと考えていました。 どこか世界の外にあって孤立的であるに反して、主体は主体に対して主体であり、従って元来社会的である。 どこか無人島を見つけたい、と思いました。そこで働きさえすれば、生きてゆける小さな島があったら、私は、ひとりで静かに暮したいのです。 どこか遠くの世界、画面の向こうのニュースキャスターが読み上げるニュースのように別世界の話だった。 どこに現実の矛盾があるかを知る時、真に我々に対して与えられたものを知るのである。 どこまでも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、 どこまでも主体と環境とが相対立し、主体が自己否定的に環境を、環境が自己否定的に主体を形成する。 どこまでも創造的ということは、いつも未来からということであろう、つまり過去からということはないのである。 どこまでも多と一との相互否定的な絶対矛盾的自己同一の世界にして、 どこまでも自己自身を限定する無数なる個物の相互否定的結合の世界と考えられねばならないということである。 どこまでも集団的ではあるが、個人が非集団的にも働くということが含まれていなければならない。 どちらを向いても動くものとてはなく、つめたい石ばかり、桂君は、夢に夢みるここちでした。 どの方向にも身体を廻したり、のびをしたりでき、柔かく暖かく、いよいよそのなかへ身体が沈んでいく。 どれもよく見かけるもので、僕らが求めるような何かではなかった、大したものではなかった どんな親しい友達や親類の人と会っても顔がわからないのです。本を読んでも、ぼんやり一つページを眺めています。 どんな遠い国から来た知らない人でも、まるで友達のようにもてなされます。どこへ行っても、自分の家と同じように安心できます。 なお真に作られたものから作るものへではなくて、作られたものから作られたものへである。 なかでも面白かったのは、綱渡りです。これは地面から二フィート十二インチばかりに、細い白糸を張って、その上でやります。 なかには猿を追うつもりで、石を投げるものもいましたが、これはすぐ禁じられました。やがて梯子をかけて、数人の男がのぼって来ました。 なぜって、少年としては、一ページか二ページぐらいしか読むつもりはなかったのですから。 なぜなら、かわいいフリーダの身の上を母親のような心配で見守っているただ一人の女であるこのわたしに対して、あなたは重い責任がありますからね。 なにしろ、おなかがすいてたまりませんでした。地びたに出ていた、くさいちごの実を、ほんのふたつ三つ口にしただけでしたものね。 なにしろ、その恰好も、服装も、容貌も、こんな奇妙な人間を私はまだ見たことがなかったからです。 なにしろ、馬をこんなふうに数え、仕込むことのできる人間なら、よほど偉い主人にちがいないと、私は感心しました。 なにしろ私はひどく疲れていたので、何かの拍子に、紐が切れて落っこちたのも知らなかったのです。 なるほど、戦争について、お前の言うことを聞いてみると、お前がいう、その理性の働きというものもよくわかる。 なわをといてやって、ようすをたずねますと、二階のインド人が、どこからか帰ってきて、いきなりこんなめにあわせたというのです。 なんでこの村にいなければならないの? でも、今のところは、ねえ、あなた、この申し出を聞くことにしようじゃありませんか。 のぞき窓の連中が、おかみさんがきたぞ、といったので、女中たちはすぐ台所へかけこんでしまった。 はじめ、みんなは、これは生きものだろうと思って、何度もそのまわりを歩いてみましたが、草の上にじっとしたきり動かないのです。 はじめ、君はおにぎりを遠慮した。だけど、お腹が空いていたようで、僕からおにぎりを受け取った。 はじめから問題にならないほど差のある連中の中で、いくら自分を立派に見せようとしても駄目だということがわかりました。 はじめ私は、ハンモックがひどく揺れて、落っこちそうになりましたが、その後はずっと静かになりました。 はじめ私はからす麦など、とても食べられそうになかったのですが、これでなんとか、パンのようなものをこさえようと考えついたのです。 はじめ頃は塩がないので、私は大へん困りました。が、それも慣れてしまうと、あまり不自由ではなかったのです。 ばかげたことは、驚いたときに最初の一瞬間だけ人が信じるものです。少しでも考えなおしてみさえすれば、そんなことは訂正されてしまいますよ。 ばかげた疑問です。私を笑わないでもらいたいけれど、フリーダさん、あなたの眼からは、過去の闘いよりも未来の闘いがものをいっています。 ひきしまった色白の顔に、細くかりこんだ口ひげの美しい紳士が、折り目のついた、かっこうのいい背広服を着て、にこにこ笑いながらこちらを見ているのです。 ひざまずいて、両手を高く差し上げ、天を仰いで大声で、二言、三言話しかけました。そして、ポケットから、金貨の入った財布を取り出して、 ひじょうな不安のうちに時がたって、やがて午後三時を少しすぎたころ、学校へ行っていた始君がいきおいよく帰ってきました。 ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。 ひとりの少年が、少し先のところで、また、一つのバッジをひろいあげてさけびました。これで三つです。 ひとり哲学のみでなく、すべての精神的文化は、非日常的なものの経験あるいは ひどい霧の中を、船は進んでいました。その霧のために、大きな岩が、すぐ目の前に現れてくるまで、気がつかなかったのです。 びっくりしたことには、思いもよらぬ間近に、石碑を二つほどへだてたすぐ向こうに、黒いやつが、ヌッと立っていたではありませんか。 ふたりがおもてをこつこつとたたくと、おかみさんが戸をあけて出てきました。そして、ヘンゼルとグレーテルの立っているのを見ると、 ふたりがやっと目をあけたときには、もうまっくらな夜になっていました。ヘンゼルは、小さい妹をいたわりながら、 ふたりは、いつまでもおとなしくすわって待っているうち、ついくたびれて、両方の目がとろんとしてきて、それなりぐっすり、ねてしまいました。 ふたりは、その水の中で溺死できししなければならないのです。そういううちにも、水は地下室の床いちめんに、洪水こうずいのように流れはじめました。 ふたりはつい立ちどまって、うっとり聞いていました。そのうち、歌をやめて小鳥は羽ばたきをすると、ふたりの行くほうへ、とび立って行きました。 ふたりもいたんだね。それで、そのふたりは、春木という洋館の主人が帰ってくるのを見たといっていたかね。 ふたりもその鳥の行くほうへついて行きました。すると、かわいいこやの前に出ました。そのこやの屋根に、小鳥はとまりました。 ふと、私は畑の中に、何か五六匹の動物がいるのを見つけました。気がつくと、木の上にも一二匹いるのです。 ぶつぶつと独り言を言う人もいれば、じっと無言のまま円盤を見つめている人もいた。 べつに疑いのないことがわかりました。春木さんは、あの洋館にもう三月も住んでいて、近所の交番のおまわりさんとも顔なじみなんですって ほかのフウイヌムたちにも、ていねいに挨拶して、舟に乗り込むと、私はいよいよ岸を離れたのです。 ほんとうにかき消すように見えなくなってしまったんだよ。ぼくは、お化けなんか信じないけれど、墓地の中だろう。 ほんとうはそのお化けの正体に、ギョッとしているんだ。もし、ぼくの想像があたっていたらと思うと、あぶら汗がにじみだすほどこわいのだよ。 ほんとうはもう書類なんかいらなくなったのです。ともかく書類はまだ見つかるでしょうが。おそらく学校の先生のところにあるのでしょう。 ほんとに、このときほどよく眠ったことは、生れてから今まで、一度もなかったことです。 ぼくは、ここの主人の春木はるきというものですが、よくおいでくださいました。じつは、ぼくのほうからお電話でもしようかと考えていたところです。 ぼくは、むろんすぐふたりを救いあげましたが、小さいお嬢さんのほうは、ひどく熱をだしているものですから、こうしてベッドに寝かしてあるのです。 ぼくはね、泳ぎがうまいんだから、こんな水なんてちっともこわくはないんだよ。そして、今におまわりさんが、助けにいらっしゃるからね。 ぼくもうっかりしていました。表がわではまるで別の町だものですから、ずっとはなれているように思っていたのです。 ぼくもそれを完全にといたわけじゃない。これからたしかめてみなければならないことが、いろいろあるんだよ。 ぼくらは、こうして、だんだん黒い怪物のほうへ近づいているんだぜ。さすがに小林さんは、うまいことを考えたなあ。 ぼんやりと空を眺め、何かが起きているぞと、小さじ一杯程度の興味を上空に向けていた。 まあ、勝手に面白がって下さい。ところが、私が考えたのは、何よりもまずクラムが結婚のきっかけらしい、ということなんです。 まさか主人が裏口から帰るはずはありませんね。しかも、その裏口を見はっていた団員も、だれも通らなかったといっているのです。 まず、どんな仕事をさせようとしているのかを知らなければならない。たとえばこの辺で仕事をするというのなら、この辺に住むのがりこうだろう。 まずおれはあいつに、腹痛を起させてやろうと思ってあいつのお茶の中に、唾を吐き込んでやった。 まずしい木こりの男が、大きな森の近くにこやをもって、おかみさんとふたりのこどもとでくらしていました。 まず小林さんが、近所の五つくらいの男の子を、男の子ですよ、それをつれて、ぼくんちへ遊びに来るんです。 まず第一は、重い鉛でできているので、ふだんから、それをたくさんポケットの中へ入れておけば、いざというときの石つぶてのかわりになる。 また、ちょっとしたご好意に対しても十分のお礼をすることができるのだ、ということを保証してくれるでしょう また、私とグラムダルクリッチが非常に仲好しなのを御覧になって、私の世話はこの娘にやらせようと、お考えになりました。 またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。 またときには、ある王様が、よその国の王から攻められはすまいかと、取越苦労をして、かえってこちらから戦争をはじめることもあります。 また会うことだろう。かしこまってお辞儀をする亭主のところへ上がっていったとき、ドアの両側にそれぞれ一人ずつの男が立っているのに気づいた。 また価値の秩序をいかに考えるかということは、知識に依存するところが多いのである。 また単に行為を否定した受働的な直覚という如きものは、抽象概念的に考え得るかも知れないが、実在の世界にはないのである。 また極端にやさしい職務上のあらゆる義務を完全に果たしたところで、彼に示される見せかけの好意にあざむかれてしまって、 また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。 また社会は現存する均衡を維持するために人々が常識的であることを強制するのである。 また自分は、肉親たちに何か言われて、口応えした事は一度も有りませんでした まだブラシをかけてない服は丸めて膝の上に置いてあった。そこでフリーダは自分で服や靴にブラシをかけなければならなかった。 まだ五つの緑ちゃんは、何もわけがわからないものですから、生まれてから一度も着たことのないイートンスーツを着て、大よろこびです。 まだ人間の知識では解けない、いろんな問題も解ける日が来るのを、それも見ることができるでしょう。 まだ年も若いし、肉附きもいゝし、別に食物が欲しいわけでもないのです。一たいどこが悪いのか、さっぱりわかりません。 まだ幼い子どもですから、おまわりさんがいろいろたずねても、何一つはっきり答えることはできませんでしたが、 まだ砂利が彼の足もとにざらざら落ちているうちに、もうてっぺんに登っていた。彼が旗を打ち立てると、風がその布をふくらませた。 まだ血を流して横になっている死骸を、ベッドから引きずりおろすのは、実に、厭なことでした。 まちがいがありうるなどということはおよそ計算には入れないというのが、役所の仕事の原則なのです。 まっくらな夜だろう、さすがのぼくもゾーッとふるえあがって、やにわに逃げだしてしまったのさ。その墓地っていうのは、この本堂の裏手にあるんだよ。 まったく、今の場合にはいろいろ考えるべきことがあったのだ。しかし、今となってはもう考えることなんか全然ない。 まもなくこの大きな鐘の音も沈黙して、別な弱い単調な小さな鐘の音にとってかわられた。 まもなくもどってきたが、教師をつれてきていた。教師は不機嫌そうな面持で、全然挨拶もしない。 まるで、人がいないときと同じように、私から一ヤードもないところを、平気で、虫や餌を探して、跳びまわっていました。 まるで、役所の組織が、おそらくは取るにたらぬような一つの問題に何年ものあいだ駆り立てられ、緊張していることにもはや我慢できなくなり、 まるでいっさいのことは自分の指図によって行われているのだが、だれもそれを察することさえできないでいる、とでもいうようであった。 まるでこの微笑を追い払おうとするかのように、手で顔の上をなでたが、微笑を消すことはその男にはうまくできなかった。 まるで人が泳いでいるような波でした。しかし、ただ、そういう形の波が見えるばかりで、人間の姿は、少しも目にとまらないのです。 まるで死んだようになっているフリーダを注意深く抱き上げ、ゆっくりとベッドの上に坐らせ、自分は立ち上がった。 まるで自分のことではなく、少なくとも自分を縛るものではないように思われるのだった。 まるで軽業のような芸当ですが、探偵団員たちは、日ごろから、いざというときの用意に、こういうことまで練習しておいたのです。 まんまるなお月さまが、高だかとのぼりました。そこで、ヘンゼルは小さい妹の手をひいて、小砂利をおとしたあとを、たどりたどり行きました。 みなさん、自分の影が歯をむきだして笑ったところを想像してごらんなさい。世の中にこんなきみの悪いことがあるでしょうか。 みんな、少しも私を怖がっている様子はありません。私は地面に横になって、陛下の手にキスしました。 みんながテーブルに着くと、主人は私をテーブルの上にあげて、少し彼から離れたところに置きました。 みんなは、まだインド人が二階にいるあいだに、それぞれ見はりの部署についたのですから、春木さんが帰ってきたのは、それよりあとにちがいありません。 みんなは、私の動きぶりをよく見ようとして、私を囲んで、坐り込んでしまいました。私は帽子を取って、百姓にていねいに、おじぎをしました。 みんな人間は、死ぬことが恐ろしいから、いつも苦しんでいるのに、その心配がない人なら、ほんとに幸いなことでしょう。 むかしある国の田舎にお金持の百姓が住んでいました。百姓には兵隊のシモン、肥満のタラスに馬鹿のイワンという三人の息子と、 もうくたびれきって、どうにも足が進まなくなったので、一本の木の下にごろりとなると、そのままぐっすり寝こんでしまいました。 もうここへではなく、まっすぐ学校へいくように、と彼に念を押し、彼の肩に手を置いて、ドアの前まで彼についてきた。 もうこれ以上は歩みをつづけられなくなった。といって、彼はただひとり見捨てられてしまったわけではなかった。右にも左にも農家が立っていた。 もう一度、気らくに話のできる人間の中に帰り、街や野を歩くときも、蛙や犬の子みたいに踏みつぶされる心配なしに歩きたかったのです。 もう呼びに人をよこさない者のことは、その者の過去について完全に忘れてしまったばかりでなく、すっかりその者の未来についても忘れてしまった もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。 もう私が逃げ出せないことがわかったので、職人たちは、私の身体にまきついている紐を切ってくれました。 もう魔法をけなす元気もありません。小林君自身が、えたいのしれない魔法にかかっているような気持でした。 もし、仮に、あなたがストラルドブラグに生れてきたら、どんなふうにして暮すつもりか、それを、あの人たちは聞かせてくれと言っています。 もしあなたが、フリーダを私からか、あるいは私をフリーダからか、引き離そうという狙いであったのなら、まったくうまくやられたわけです。 もしあなたのおっしゃるように、クラムと話すことが私にはできないものなら、私に頼もうが頼むまいが、それは私にはとてもできない相談というわけです。 もしあの馬鹿がああして畑の仕事をつづけて行くと、あいつらは困るということを知らないだろう。あいつが二人の兄を養って行くだろうからね。 もしこんな場合、相手が陛下の前で、唾を吐いたり、口を拭いたりしたら、すぐ死刑にされてしまいます。 もしその場を動けば、石碑と石碑のあいだに、チロチロと黒い影が見えなければなりません。 もし底の石が割れたりすると、磁石の力がなくなって、たちまち島は地上に落っこちてしまうことになるのです。 もし彼等のうちに生活に困っているようなものがあれば、私の土地のまわりに便利な住居を作ってやります。 もし新しい仕事がいつものように四方から殺到してきていなかったら、そしてもしあなたの件がただきわめて小さな件にすぎないのでなかったならば、 もし私が幸いにストラルドブラグに生れたとすれば、私はまず第一に、大いに努力して金もうけをしようと思います。 もし近寄ろうとする力を下にすれば、島は下ってゆきます。その反対にすれば、島は上ってゆきます。 もし黒い魔物が人間だとすれば、空気の中へとけこんでしまうなんて、まったく考えられないことではありませんか。 もちろん、この男はただの使者であり、自分が運ぶように命じられた手紙の内容を知らなかったが、 もちろん、そのために私は身体をこわしてしまい、心臓が悪くなり、今ではお婆さんになってしまった、ということをあげなければなりません。 もちろん、主体は存在であるといっても、その存在は客観的に或いは対象的に捉えることのできぬ主観的なものである。 もちろん、私は無知です。この事実はどうしても残りますし、それは私にとってとても悲しいことではあります。 もちろん、純粋に客観的な立場においては評価はなく、物の意味も理解されないであろう。 もっとも、こうした満足の快感に襲われたあとでは、たちまち自分に、これには危険がひそんでいるのだぞ、といい聞かせるのだった。 もっとも、この両国は、絶えずお互に行ったり来たりしているので、両方の国語で話ができる人もたくさんいます。 もっとも、その場合、科学者はもはや科学者としてでなく哲学者として研究しているのであると考えられる。 もっとよくわかることは、この土地では私についておそろしく不法な扱い方をしているということです。おそらくは法律についてもです。 もっと水かさが増して、天井いっぱいになってしまったら、どうするつもりでしょう。そうなれば、泳ごうにも泳げはしないのです。 もとより常識は科学化されねばならないし、また科学は常識化されねばならない。 もとより現実のうちに合理的な統一が存しないならば、実証的であるということも無駄である。 もと単に、知ってい知っていないのは事物の部分であって、まだ知っていない部分について知り、 もらった糸は、みんな腰のまわりに巻いて飾ります。ですから、宮廷の大官は大がい、この帯をしています。 やがて、その物は私の真上に来ましたが、見ると、どうもそれは固い塊りのようで、底の方が平たくなっているのです。 やがて、はしごがスルスルと天井に引きあげられ、穴ぐらの入り口は密閉され、地下室は真のやみになってしまいました。 やがて、道らしいところに出てみると、人の足跡や牛の足跡や、それからたくさんの馬の足跡がついていました。 やがて約束の日が来ましたので、小悪魔たちは、沼地へ集まりました。すると兵隊シモンのところへ行った小悪魔が、 やはり軍隊らしいものは出て来ません。また、だれ一人タラカン王の軍隊を相手にして戦するものもありませんでした。 ゆうべの手なみでもわかるように、くせ者は忍術使いのようなやつですから、いくら警戒してもむだではないかとさえ感じられるのです。 ゆっくりと慎重に、僕らの小さな手で山を崩さないように、少しずつ山の横腹から穴を掘った よく考えてごらん。インド人たちはコックをしばったけれど、主人の春木さんにたいしてはなんの用意もしなかったじゃないか。 よく考えてみると、あの何年も前に例の課が、測量技師を呼ぶかもしれないと思いついたのは、私に対する好意の行為だったのですね。 よく考えてみると、ボートを漕いでいるときに、私は紐で帽子をしっかり頭に結びつけていました。 よく見ると、その白いものは人間の前歯でした。白い前歯だけが、黒い水の上にフワフワとただよって、ケラケラと、 わたしたちは、森で木をきって来て、夕方、しごとがおしまいになれば、もどって来て、いっしょにうちにつれてかえるからね。 わたしたちは無一文で結婚しなければならないし、家計を無からつくり上げなければならないのです。先生、村に願書を出して、 わたしだってこれまで二つの眼をちゃんと開けて生きてきたのですし、たくさんの人とも出会い、商売の重荷もすべてひとりで背負ってきました。 わたしはあなたと一ことでもおだやかな言葉なんか交わせないでしょう。ああ、あなたはまた怒りましたね。いいえ、まだいかないで下さい。 わたしはあの人に自分の悩みを訴えませんでしたが、あの人はそれが何についての悩みなのかを知っていました。 わたしはこの手紙の意味を見そこなってはいません。私の勝手な解釈でそれを軽んじたりなんかしていませんよ。その逆です。 わたしはこれまでにそんなことを体験したことはないけれど、どうもそういう例はあるようね。そうかもしれないわ。でも、そんなことがあるとすれば、 わたしはフリーダのように若くないし、あの子のように野心がないし、またあの子のように気がやさしくはないわ。あの子はとても気がやさしいのよ。 わたしは今でも何一つ知らないのです。これからもけっしてあの人と話すことはないでしょうし、あの人はわたしにとっては手のとどかない人なんです。 わたしは父にだけは面倒をかけまいと思っていましたが、そのほかのことはみんなどうでもよかったのです。 われわれは何もあなたの守り神ではないのだし、あなたのいくさきざきまで追いかけていく義務なんかありません。 イギリスにだって、紳士の家の門などには、もっと大きなのがあるはずです。私はこの鍵は自分のポケットにしまっておくことにしました。 イギリスの国王でも、今の私と同じようなことになったら、やはり、これくらいの苦労はするだろう、と私は思いました。 イギリスの子供たちも、雀や、兎や、小猫や、小犬に、よくいたずらをするのを知っています。そこで、私は主人の前にひざまずいて イデヤとはイデールではなく、ヘーゲルのそれの如く弁証法的形成作用でなければならない。 イデヤ的なるものは、生まれるもの、死に行くもの、変じ行くもの、過程的なものでなければならない。 イデヤ的に生産的なるかぎり、即ち深き意義においてポイエシス的なるかぎり、それは生きた社会である。 イデヤ的に自己自身を形成し行く所に、我々が行為的直観的に創造的なる所に、 イワンがこう言うとまた麦の束になりました。そこで小悪魔はたのみ出しました。「どうぞ、はなして下さいよ。」 イワンが塔へちょうどついた時、年よった悪魔はつまずいてころぶと、ごろごろと階段をころんで、その一つ一つに頭をゴツンゴツンと打ちつけながら、 イワンが神様の名を口にするかしないかに、小悪魔は水に落ちた石のように地べたへ消えてしまいました。そして後には小さな穴が一つだけ残りました。 イワンが神様の名を口にするかしないかに、小悪魔は水に落ちた石のように地面へはまり込みました。そして後には小さい穴が一つ残りました。 イワンが鎌を持って行ってみると、れいのしっぽを切られた小悪魔は先に廻って麦を滅茶苦茶に乱しておいたので、また鎌がつかえなくなりました。 イワンが長椅子へ腰を下そうとすると、シモンのお嫁さんがその着物の臭いのを嫌って、 イワンの国には一つの高い塔がありました。その塔には、てっぺんにまで登ることの出来る階段がついていました。 イワンの身体からは、汗が湯気のように立ちのぼりましたが、それでも休まないで、働きつづけました。 イワンは、「兄さんの欲しいだけ上げなさい。」と言いました。そこで兵隊のシモンは父親から分前を貰ってほくほくもので自分の領地へうつし イワンは、その日のうちに百本くらいは伐り倒すつもりでしたが、まだ十本も伐り倒さないうちに日も暮れかかり、疲れてすっかりへとへとになりました。 イワンは、それをこねはずすために、一本の木を伐って棒をつくると、やっとのことで地べたに倒すことが出来ました。 イワンは、百姓やおかみさんたちを招んで、御馳走を食べて酔っぱらうまでに飲みました。それから通りへ出て、村の若者や娘たちが踊っている広場へ イワンはこう言って、もう金をこさえようとはしませんでした。それで兄たちは出て行きました。そして二人は道々どうしたらいいか相談しました。 イワンはすべての人民たちが顔をよく見ることが出来るように、その立派な紳士を塔の上へつれて行きました。 イワンはそう言って、鋤にぶっつけようとして、それをふり上げました。すると小悪魔は苦しがって声をたてながら、言いました。 イワンはまた他の木を伐り倒しにかかりました。するとまた、前と同じようなことが起りました。イワンは汗びしょになりました。 イワンはやがてその沼地へ来ました。草はそう茂ってはいませんでした。が、鎌は思うように動きませんでした。 イワンは何枚かの葉を取って手の中でもみました。すると、金貨が手からこぼれ落ちました。 イワンは兵隊たちに、音楽を奏し唄を歌うように言いつけました。兵隊たちは音楽を奏し、唄を歌いました。 イワンは家に帰りました。家に帰ってみると、次の兄のタラスと、そのおかみさんが来ていて、晩飯を食っていました。 イワンは家へ帰って鎌をといでまた草を刈りはじめました。小悪魔は草の中へもぐり込んで、その鎌の先きを捉えて、 イワンは持っているだけ金貨をすっかりまいてやりました。人々はもっとまけと言いました。それでイワンは言いました。 イワンは笑って、「何でも入るだけ持って行くがいい。私はまたかせいで手に入れるよ。」と言いました。 イワンは馬に草をやると、用意して妹と一しょに、ライ麦を運びにやって来ました。やがて麦束を積みはじめました。 イワンは麦粒のこぼれるのを少くするために、夜どおし刈ってしまったのでした。小悪魔はひどく怒りました。 インド人たちが、この洋館を買いいれて、悪事をはたらくために、こっそりこんなものをつくらせたのにちがいありません。 インド人は、はじめに罪をおかしたそのときの外国人にだけ復しゅうすればいいじゃありませんか。それを今ごろになって、ぼくたちにあだをかえすなんて。 インド人は今、地面に種をまいたかと思うと、みるみる、それが芽を出し、茎くきがのび、葉がはえ、花が咲くというようなことは、 ウイヌムは文字というものを、まるで持っていません。知識は親から子へ口で伝えるのです。彼等は詩を作ることが、とても上手です。 エディプス複合の如きものが、既に人間の家族というものが社会的であって動物のそれと異なることを示すものであろう。 オランダに長らくいたことがあるので、オランダ語はらくに話せます。私は船長に、船賃はいくらでも出すから、オランダまで乗せて行ってほしいと頼みました。 オランダ人で踏絵をしたがらないのは、その方がはじめてなのだ。してみると、その方はほんとうにオランダ人かどうか怪しくなってくる。 ガチョウの番がどうにかこうにか務まるといった塩梅の、のらくら者であることを、しょっちゅうこぼしていました。 ガリバーは馬の国へやって来ます。そこには人間そっくりのヤーフといういやらしい家畜がいるので、まずガリバーはそれを見てぞっとします。 キツネのズルスケにしてもガンたちにしても、お互いにスコーネを離れてから、また出会うことがあろうとは、夢にも思っていませんでした。 クラムがいなかったら、あなたは人生に対してどうでもいいというようなふうにはならず、したがってハンスと結婚なんかしなかったでしょう。 クラムがいなかったら、あの年とった善良な伯父さんの宿のご亭主も、けっしてハンスとあなたとが前庭でなごやかにいっしょにいるのを見はしなかった クラムがいなければ、あなたは過去を忘れようとはしなかったでしょうし、きっとそんなに考えなしに身体をいじめつけて仕事をしなかったでしょうし、 クラムの手紙についてお話ししたときに、そのことはもう申しましたね。つまりこうした言葉はみんな公務上の意味はもってはいません。 グラムダルクリッチと私には馬車が許されたので、これに乗って、市内見物に出たり、店屋に行ったものです。 グラムダルクリッチは、よく私を箱に入れて、庭につれ出し、そしてときには、箱から出して手の上に乗せてみたり、地面を歩かせてみたりしていました。 グラムダルクリッチは、私のテーブルの近くの、床の上の腰掛の上に立って、私の面倒をみてくれるのです。 グラムダルクリッチは非常に加減が悪いので、部屋で休んでいなければならなかったのです。私はなんとかして海へ行ってみたいと思いました。 グレーテルは、まっしぐらに、ヘンゼルのいる所へかけだして行きました。そして、犬ごやの戸をあけるなり、 グレーテルは、まるい窓ガラスを、そっくりはずして、その前にすわりこんで、ゆっくりやりはじめました。 グレーテルは、パンをふたつともそっくり前掛の下にしまいました。ヘンゼルは、かくしにいっぱい小石を入れていましたからね。 グレーテルは、前掛をふるいました。すると、真珠と宝石が、おへやじゅうころがりだしました。 グレーテルは、窓ガラスにからだをつけて、ぼりぼりかじりかけました。そのとき、おへやの中から、きれいな声でとがめました。 ゲーム制作において拡大縮小の処理が導入され表現力は大幅に向上した ゴリラが多くの牝を連れて生活しおるのは、原始人の生活と同様であるといわれる。 シモンに、「私はこんな汚い百姓と一しょに御飯をたべるのはいやです。」と言いました。 シモンはさんざんだ。王様は大そう怒って、シモンの領地を取り上げてしまうしみなは明日やつを死刑にしようとしている。 シモンはその領地をすっかり取り上げられてしまい、命からがら牢屋をぬけ出して父親の家で暮すつもりで帰って来たのでした。 シモンはそんな兵隊をたくさん集めて、うまくならしておきました。そしてもし自分にさからう者があると、すぐさまこの兵隊をさし向けて、 シモンは藁の兵隊でほんとの兵隊を集めました。かれは国中にふれを出して、家十軒ごとに兵隊一人ずつ出させました。 シモン係の小悪魔は、その晩すっかり自分の仕事をおえて、約束通りイワン係の小悪魔をたすけて、馬鹿をへこましてやるつもりで畑へやって来ました。 シモン王は、いろいろたずねてみました。そして、かれが役にたつことがわかったので、そば近く置いて使うことにしました。 シモン王はこの新しい司令官の言うことに耳をかたむけて、国中の若者残らずを兵隊にしてしまい、また新式の銃や大砲をつくるために、 シモン王一人だけ、とり残されてしまいました。印度王はシモンの領地を取り上げてしまい、兵隊のシモンは命からがら逃げ出しました。 シールの四つの角はきっちりとポストに貼り付いていて、新しくて汚れ一つない。 ジャングルジムは金属からプラスチック製になっていて、昔あったものと比べて高さが半分くらいになっている ステッキの先にハンカチを結んで、穴から出して振ってみました。もし船でもそばにいるのなら、この箱の中に私がいることを知ってもらいたかったから スピーカーから流れる歌声、セミの鳴き声。いろんな音が混ざり合って、公園の中は少し騒がしい。 ズボンのポケットからは、長さ人間ほどもある、鉄の筒がありました。これは何に使うのかわかりません。 セリヌンティウスは無言で首肯うなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。 ソクラテスの活動が模範的に示している如く、そこには知の無知への転換がなければならぬ。 ソルディーニの課にまちがいがあったなどとは、私もあえて主張できないし、またそんなことは信じられなかったのです。 ソルディーニはほかの課に照会することはまったく許されていなかったのです。それに、ほかの課にしても全然返事はしなかったことでしょう。 タラカン王は、かんかんに怒りました。そして兵隊たちに、国中を荒しまわって、村をこわし、穀物や家を焼き、牛馬をみんな殺してしまえと命令しました。 タラスはすぐ承知しました。そこで二人は自分たちの持ち物を分けて二人とも王様になり、お金持になりました。 タラスはもう一週間と持ちこたえないだろう。おれはまず第一にあれをいっそうよくばりにし、肥満になるようにした。 タラスはイワンを見て言いました。「おい、もう一度商売が出来るまでおれと家内を養ってくれ。」 タラスは自分の国中におきてやさだめを作りました。金はみんな金庫へしまい、人民には税金をかけました。 タラスは馬車一台に金貨をつみ込んで、商売をしに出かけました。こうして二人の兄は出て行きました。シモンは戦に、タラスは商売に。 タラスもまたゆかいに暮していました。タラスはイワンから貰った金を少しもむだに使いませんでした。使わないばかりか、ますますそれを殖やしました。 タラス王のすることは、何もかも、すっかり止まってしまいました。人民たちは誰一人タラス王の仕事をしようとはしませんでした。 タラス王はこうしておけば、今までのように人民たちが先を争って来るだろう、と考えていました。 タラス王は今度は馬を買おうと思って、使をやりました。すると使の者が帰って来て言いました。 タラス王は庭をこさえようと考えました。秋になったので、その庭へ木を植えさせるつもりで、人民たちを呼びましたが、誰一人やって来ませんでした。 タラス王自身も動きのとれないくらい苦しい立場になっていましたので、「おれももう二日間というもの何一つ食べるものがないのだ。」と言いました。 ディオニュソス的舞踊から神々が生まれたというハリソンの如き考えに興味をもつのである。 ドアがパッとひらいてそこに立っていたのは、意外にも、黒いインド人ではなくて、見るからにスマートな日本人の紳士でした。 ドアを閉めると、大きな音がしたが、やっと閉めたとたんに、建物から一人の紳士がゆっくりと出てきた。 ドラマでは三角関係が二つ発生していて、スキー旅行でその関係の決着をつけたいようだった。 ナイフで子供たちの歌の拍子をとっていたが、たえずその歌声を抑えようと努めていた。おそらく歌で子供たちの空腹を忘れさせようとしている パンも手に入れることが出来ませんでした。誰もかも金貨を持っていたので、年よった悪魔はどこへ行っても、金で何一つ買うことは出来ませんでした。 パンをたべてしまうと、ふたりは眠りました。そのうちに晩もすぎましたが、かわいそうなこどもたちのところへ、 ビールの給仕をしたのは若い娘で、フリーダという名前だった。人眼につかぬような小柄なブロンドの娘で、悲しげな眼をし、痩せこけた頬をしていた。 フウイヌムたちに会い、そこの言葉をおぼえ、そこの国に馴れてくるにしたがって、ガリバーはこの穏やかな理性の国がすっかり気に入ってしまいます。 フウイヌムたちは、家から少し離れたところに、小屋を作って、ヤーフを飼っていますが、その他のヤーフは、すべて野原に放し飼いにされている フウイヌムは、その子弟を強くするために、険しい山や石ころ道を走らせます。汗だくになると、今度は河の中にザンブリ頭から跳び込ませるのです。 フウイヌム族というのは、生れつき、非常に徳の高い性質を持っています。彼等の格言は、『理性を磨け。理性によって行え。』というのでした。 フリッツ氏にお願いするのだが、こんな測量技師がほんとうにくることになっているものかどうか、本部事務局へきき合わせ、 フリーダがいつも帯に下げていた革の財布も、彼女にはまかされてはいないのだった。 フリーダが今ではあなたの運命に巻き添えをくっているのでなければ、この言葉は今でもまだわたしの気持というものでしょう。あなたの気に入ろうと、 フリーダの視界からすっかり消えるとしても、それはあなたの意味ではただ幸運を意味するだけのはずですからね。それなら、あなたは何を恐れているのですか。 フリーダは、この二人とときどきふざけたり、笑ったりするのだった。なるほど二人の助手は別に要求が多いわけではなかった。 ブルンスウィックはちょっとした勢力を得ました。雄弁家でないけれど、大声でわめく男で、それで多くの人たちには十分だったのです。 ブレフスキュというのは、ちょうどこの国と同じぐらいの強国で、国の大きさからいっても、国力からいっても、ほとんど似たりよったりなのです。 ブレフスキュ国皇帝のところへ行ったのは、それはただ、前の約束をはたすために行ったので、二三日すれば帰って来るだろう、と思っていました。 ブレフスキュ帝国というのは、リリパットの北東にあたる島で、この国とはわずかに八百ヤードの海峡で隔っています。 ヘリウムガスでパンパンの風船のように、期待と楽しみで頭の中が膨らんでいるときのことだった。 ヘンゼルとグレーテルとは、その中にごろりとなって、天国にでも来ているような気がしていました。 ヘンゼルは、それでもかまわず、パンくずを道の上におとしおとしして、のこらずなくしてしまいました。 ヘンゼルはうんと高く手をのばして、屋根をすこしかいて、どんな味がするか、ためしてみました。 ヘンゼルはグレーテルに、「なあにそのうち、道がみつかるよ。」と、いっていましたが、やはり、みつかりませんでした。 ヘンゼルは屋根が、とてもおいしかったので、大きなやつを、一枚、そっくりめくってもって来ました。 ヘンゼルもグレーテルも、これにはしたたかおどろいたものですから、せっかく両手にかかえたものを、ぽろりとおとしました。 ヘーゲルの如き意味において概念的に実在を把握することは、かくの如きことでなければならない。 ベルグソンは、閉じたものと開いたものとはどこまでも性質的に異なるものであって、 ボートへ引きずりこみ、それから本船へつれて行かれました。そして私は船長室へ引っ張って行かれました。 ポイエシスということが可能なるのは、法律的に構成せられた世界においてでなければならない。 ポイエシスを中心とする歴史的世界は、その創造の尖端において、無限の過去と未来とに対立する。 マキアヴェルリが国家の本質とした「力」というものすら、創造性を意味していたものと考えることができるであろう。 マリノースキイのいう如く、原始社会にも既に個人というものが含まれていなければならない。 メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。 メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。 メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。 メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。 メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。 メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。 メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。 モナドが世界を映すと考えられる如く、個物の立場から全世界が表現せられるということができる。 ヤーフどもと暮すくらいなら、いっそ海へ飛び込もうと覚悟しているところを、船員の一人に見つけられました。そして、今度は船長室にとじこめられました。 ヤーフなら決して、そんな性質は持っていません。彼に一番わからなかったのは、私の着ている洋服のことです。 ラガードは約九十リーグほど離れていたので、この旅行には四日半かかりました。旅行中、この島が空中を進行しているような気配はちょっとも感じられない ラグナグ人は、礼儀正しい国民でした。私は上流貴族と、おもに附き合いました。通訳つきで話をしたのですが、気まずいものではなかったのです。 ラグナグ国と日本国とは、絶えず行き来しているのですから、このストラルドブラグの話も、もしかすると、日本の人が本に書いているかもしれません。 ラッパ吹きや、太鼓打ちまでそろっていました。こうして一隊すっかり出来上りました。イワンは面白がって笑いながら、 ランプが消され、彼はやっと休むことができた。ほんの一度か二度、走りすぎる鼠の音にちょっと妨げられただけで、翌朝までぐっすり眠った。 リリパットの友達も、この私の顔が、小人の目から見ると、どんなに見えるか、教えてくれたことがあります。 ロールプレイングゲームのロールとは、地形がスクロールするロールではなく、役柄の意味のロールです。 一々の個物がどこまでも個物的として表現作用的に自己自身を限定するというべき絶対矛盾的自己同一の世界において、 一から多へということは世界を発展的に考えること、合目的的に考えることであり、未来から過去へということである。 一が多の一ということが空間的ということであり、多から一へということが機械的ということであり、過去から未来へということである。 一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く世界でなければならない。 一エーカーの土地に、六インチおきに、八インチの深さに、どんぐり、なつめ、やし、栗、そのほか、豚の好きそうなものをたくさん埋めておきます。 一人が、何か鋭い声で訳のわからぬことを叫ぶと、他の連中が、それを繰り返します。 一人がふと私の姿を見つけて、すぐほかの者に知らせたかとおもうと、五人の男がこちらへ近づいて来ました。私はもう一目散に海岸へ逃げて 一人がわたしを侮辱したんです。それがわたしにどうだったというのでしょう。わたしには、それが何年も前に起ったように思われました。 一切のものは世界の主観的・客観的自己限定或いは特殊的・一般的自己限定として生じ、世界においてある。 一匹はマスティフで、大きさは象の四倍ぐらいありました。もう一匹は、グレイハウンドで、これはとても背の高い犬でした。 一定の思想をもって現象に問いかけ、現象をしてこの問いに答えさせることが実験である。 一度も見も聞きもしなかったことを聞かされたように、驚いて憤るのでした。私と主人とは、それから後も何度も会って、いろんな話をしました。 一方どこまでも環境から限定されながら同時に他方どこまでも自己が自己を限定するという即ち自律的であるというところに生命はある。 一方の手で、猿は何度も、やさしげに私の顔をなでてくれます。てっきり私を同じ猿の子だと感違いしてるのでしょう。 一方通行の車道を渡り、並木道に沿って歩いて、死に掛けの乳牛のような足取りで進み、 一旦出来上がって固定した形は我々の活動に対して桎梏にさえなるのである。 一時的なものだという性格と、きわめて古いという性格とを奇妙に兼ねている低くて長い建物が、柵をめぐらした校庭のうしろに立っていた。 一本、二本、三本、たばこはみるみる灰になって、紫色の煙とエジプトたばこのかおりとが、部屋いっぱいにただよいました。 一段の高さが六フィートもあって、上の石は二十フィート以上もあるので、とても私には、そこは通れませんでした。 一瞬の前にも還ることのできない純粋持続の世界には、現在というものもあることはできない。 一致した思想に達すると考えられるが、そのように弁証法は対立するものの一致を意味している。 一艘の遊覧ボートを作り上げました。船具も全部そろっていて、ヨーロッパ人なら、八人は乗れそうなボートでした。 一通り挨拶をすませてから、相手の顔を見ると、非常に心配そうな顔色をしているのです。 一週間たつとかんじょうの日が来るが、その前に、おれはあいつの買い込んだ品物を、すっかりだいなしにしてやるんだ。 七人が洋館の門の中へはいり、地面をしらべてみますと、門から洋館のポーチまでの間に、五つのバッジが落ちているのを発見しました。 七人のうちで、いちばん身軽な羽柴少年は、ソッとポーチにはいあがって、ドアのすきまからのぞいてみましたが、中はまっくらで、人のけはいもありません。 七人の捜索隊員は、夜道に落ち散っている銀色のバッジをさがしながら、いつしか例のあやしげな洋館の門前まで、たどりついていました。 万一給料をみとめることになるとしても、あなたのそんな言葉はそのためにはほとんどいい感じを与えませんね。 三人が三人とも、いい身分になって、立派に国を治めていました。それが、年よった悪魔をひどく困らせました。 三人の兄弟はこうして、それぞれ王様になって国を治めました。長男の兵隊のシモンは大へんゆたかになりました。 三人の小悪魔にはあえないで、三つの小さな穴を見つけただけでした。「てっきりやりしくじったにちがいない。そうとすりゃおれがやりゃよかった。」 三日間は、パンと水しか与えません。そうすると、煎餅が消化されるにつれて、それと一しょに問題は頭の方へ上ってゆくというのです。 三日間は牡蠣と貝ばかり食べていましたが、近くに綺麗な小川があったので、水の方は助かりました。 上に絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界においては 上の監督はなるほどひどく正確ではあるけれど、その性質からいってあとになってから下の役所へとどくのです。それでいつでも小さな混乱が起こりうる 下っぱの者でもそうした儀礼を手軽に使っているのだ。また城の連中は勤勉さにも事欠かなかった。本部事務局は夜勤もやっていた。 下位の技術の目的となるような上位の技術があり、総企画的なものがなければならぬ。 下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出しても御台所へ上って来て困りますという 与えられたものそれ自身が自己矛盾的として、自己の内から自己を越え行くことでなければならない。 与えられたものは作られたものであり、自己否定的に作るものを作るものである。 与えられたものは単に否定すべきものでもなく、また媒介し媒介せられるものでもない。 世界がそれにおいてある世界は絶対に主体的なものであり、一切のものはこの世界から作られ、この世界の表現である。 世界が一つの現在として、無限の過去と未来とが現在において対立する歴史的社会的生産様式においては、 世界が一つの現在となるということは、世界が一つの生産様式となるということであり、 世界が一つの矛盾的自己同一的現在として私に臨む所に、真に与えられたものがあるのである。 世界が一つの表現として何処までも我々に迫るというのは我々の自己の底にまで迫るのである。 世界が世界においてあるという場合、その世界即ち無数に多くのものの総体としての世界と絶対的場所としての世界とは 世界が唯一的に我々に臨む所に、我々の個人的自己があるのである。 世界が無数の表現的形成的な個物的多の否定的統一として自己自身を形成することである。 世界が生きるかぎり、即ち創造的であり生産的であるかぎり、世界は自己矛盾に陥らざるを得ない。 世界が矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということは、個物が製作的であるということであり、 世界が矛盾的自己同一として創造的であり、生きた世界であるかぎり、かかるアンティテージスが成立せなければならない。 世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時右にいった如く世界は意識的である。 世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する時、それは生命の世界である、無限なる形の世界、種の世界である。 世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。 世界が絶対過去としてどこまでも直観的に、我々の個人的自己をその生命の根底から奪うということは、 世界が絶対過去として直観的に個人的自己に迫り来るというのは、機械的にでもなく合目的的にでもなく、 世界が自己自身を越えたものにおいて自己同一をもつという時世界は表現的である。 世界においてある個人の物として表現せられねばならない、主権から認められなければならない。 世界のかかる方向においての生産様式即ち物の具体概念を、行為的直観的に把握し行くのが実験科学である。 世界のもつ形とは、かかる個物の相互否定的統一、矛盾的自己同一として現れるものでなければならない。 世界はいつも絶対矛盾的自己同一として、かかる自己否定を契機として行くのである。 世界はどこまでも超身体的として記号によって表現せられる、即ち単に思惟的と考えられるであろう。 世界は一つの現在として、作られたものから作るものへと無限に自己自身を形成し行く。 世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。 世界は無限なる表現作用的個物の否定的統一として自己自身を形成し行く。 世界は絶対矛盾的自己同一として、自己自身を越えたものにおいて自己同一をもち、 世界は自己に対してあるもの即ち対象界と考えられ、自己はどこか世界の外にあるものの如く考えられている。 世界を多から、あるいは一から考えるならば、作られたものから作るものへということはあり得ない。 世界を形成すると共に、自己自身を形成する創造的世界の創造的要素として、個物が個物である。 世界を機械的にあるいは合目的的に考えても、かかることがあることはできない。 中村係長は、建物の中にいるのは、ふたりのインド人だけと聞いているものですから、ドアがひらかれると同時に、おどりこんで、犯人をひっとらえようと、 中村係長は、桂君たちの手がらをほめておいて、部下のふたりを建物の裏にまわし、自分は、ふたりの制服警官をしたがえて、ポーチにあがると、 中村係長はただちに、このことを警視庁に報告し、東京全都の警察署、派出所にインド人逮捕の手配をしましたが、一日たち二日たっても、 中村係長は紳士のあとについて、一歩、部屋の中にふみこんだかと思うと、意外の光景にハッとおどろかないではいられませんでした。 主人の考えでは、この旅は途中の町で見世物を開き、客のありそうな村や、貴人の家には、五十マイルや百マイルは、寄り道するつもりだったらしい 主人の親友の農夫が、このことを聞くと、ほんとかどうか、見にやって来ました。私はさっそくつれ出されて、テーブルの上に乗せられました。 主人の部屋に、私の方から出かけて行くこともあり、ときには、主人やお客が、私の部屋に訪ねて来ることもあります。 主人の馬は、召使の馬に命じて、この動物の中から一番大きい奴を、取りはずして、庭の中へつれて来させました。 主人はさも不思議そうに眺めていましたが、やがて私の洋服を一枚ずつ拾い上げて、よく検査していました。 主人は娘のグラムダルクリッチを自分の後に乗せました。私は箱に入れられ、その箱は娘の腰に結びつけてありました。 主人は宮殿から程遠くない、目抜きの大通りに宿をとりました。そして、この私のことを、くわしく書いたビラを、あちこちに貼り出しました。 主人は私が死んでしまったのかと思ったほどでした。しかし、とにかく気を取りなおして、船を作ることに決めました。 主人は考えごとに夢中になっていますから、うっかりして、崖から落っこちたり、溝にはまりこんだりすることがあるかもしれないからです。 主体が歴史的種として世界的生産的となるということは、主体がなくなるということではない。 主体が環境から規定されながらそれに解消されることなく主体として自己を維持し得るのは技術によってである。 主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる絶対矛盾的自己同一の世界においては、 主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新たなる主体を形成することである。 主体として他の主体即ち他の個別的社会に対し、それらは一つの環境、いわゆる世界においてある。 主体は自己否定的に環境を、環境は自己否定的に主体を形成するのである。 主体的ないし主観的ということを直ちに人間或いは意識と結び付けて考えてはならない。 主客対立の認識論的立場というのも、なお一度吟味して見なければならない。 主観とは見るもの、考えるもの、客観とは見られたもの、考えられたものを意味するのが通例である。 主観と客観は、主観なくして客観なく、客観なくして主観なく、相互に予想し合い、相関的であるといわれている。 主観は客観に対して主観であるに反して、主体は根源的には客観に対してよりも他の主体に対して主体である。 主観的なところを有する私の存在をうちに包むものは単に客観的なものであることができぬ。 主観的なものと客観的なものとの技術的な形における統一は先ず身体の構造において現われる。 久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。 乗組員は五十人ばかりいましたが、そのなかに私の以前の仲間のウィリアムがいたのです。このウィリアムが私のことを船長に大へんよく言ってくれました。 九十歳になると、歯と髪の毛が抜けてしまいます。この年になると、もう何を食べても、味なんかわからないのですが、 乳母は、さきほど私を残しておいた場所に戻ってみると、私がいないし、いくら呼んでみても、返事がないので、 事情に通じている私のような者にも、彼ほどの能力をもつ男がどうしてほとんど下僚同然の地位にほっておかれるのか、わかりません。 二つに割って、棒の付いている方はそのまま、棒の付いていない方は小皿に乗っけてスプーンで食べた。 二三度声を張り上げて呼んでみましたが、誰も答えてくれません。窓の方へ目をやって見ると、目にうつるものは雲と空ばかり、 二人がここへ移ってきたときには、ブタを一頭とニワトリを二羽飼っているだけでした。 二人が黙ったまま歩いていくなら、バルナバスにとっても歩みつづけること自体が、二人のいっしょにいることの目的となっているはずだ。 二人の兄たちの家をたてて、べつべつの暮しをはじめました。そしてイワンは秋のとり入れをすまし、ビールをつくると、お祭りをするから 二人の兄弟は逢ったとき、どうして兵隊を手に入れたか、どうして金を手に入れたかを話し合いました。兵隊のシモンはタラスにこう言いました。 二人の男が往来で出会うと、荷物をおろして、袋をほどき、中からいろんな品物を取り出します。 二人はすぐ書類へ飛びかかっていったが、探すというよりもむしろ紙の山をほじくり返しているのだった。 二人は貧しい百姓でした。持っている土地といえば、わずかに庭ぐらいの大きさのものでした。 二匹ともその「ヤーフ」という言葉をしきりに繰り返していますが、私には何の意味なのか、さっぱりわかりません。けれども、彼等の話が終ると、 二匹のヤーフが野原で、この石を見つけると、互ににらみ合って争います。そこへもう一匹のヤーフが現れて、横取りすることもあるそうです。 二匹の馬には、私が洋服を着ているので、ヤーフとは違っているように思えたのです。この洋服というものを、馬はまるで知っていないので、 二度、三度、ボタンをおしていると、内部にパッと電燈がともり、人の足音がして、ドアのハンドルが動きました。ああ、さすがのインド人も、とうとう運のつきです 二時間ばかりして、皇帝をはじめ一同は帰って行きました。あとに残された私には、ちゃんと番人がついて、見張りしてくれます。 五階建てで、一棟に五つの階段、一つの階段に十世帯、一棟で五十世帯。 亭主が無言の哀願をこめていつまでも彼のまわりをうろつき廻っているので、ついかわいそうになり、しばらく身近かに腰をかけさせてやった。 亭主の部屋へ移るようにみんなにせき立てられたが、彼はことわって、ただ亭主からは寝酒を、おかみからは石鹸と手拭といっしょに洗面器を受け取った。 人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、 人がのっぺらぼうに飲み込まれるシーンも、フランス人形の壊れた破片が街中に転がっているのも、 人は多く作用というものを全世界との関係から離して抽象的に考えている。 人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。 人民たちは、イワンのところへかけつけてこう言いました。「タラカン王が大軍をつれて攻めよせて来ました。」 人民たちは、将軍のところへ行って、兵隊になることをことわりました。年よった悪魔はこの企ての駄目なことを見て取りました。 人民たちはこの紳士が手を使わないで頭で働く方法を見せてくれるものと思っていました。 人民たちはまったく途方にくれてしまいました。そしてイワンの馬鹿のところへ相談に行きました。 人民たちは何でもかでも兵隊たちの欲しいものはみんな持たせてやって、ちっとも抵抗しないばかりか、攻めに来た兵隊たちを引きとめて、 人民たちは金欲しさに王をのけ者にしてしまって、何でもすべて商人のところへ持って行ってしまいました。 人間といっても、これは、さっきボートを追っかけていたのと同じくらいの大きな怪物です。背の丈は、塔の高さくらいはあり、 人間と出会うと、ガリバーはたまらなくなって逃げ出そうとします。しかし、人間より馬の方が立派だなど、少し情ない話ではありませんか。 人間と環境とは、人間は環境から働きかけられ逆に人間が環境に働きかけるという関係に立っている。 人間と環境の関係は普通に主観と客観の関係と呼ばれ、私は主観であって、環境は客観である。 人間と環境の関係を主観と客観の関係と看做すことにはなお種々の注意を要するのである。 人間の技術にしても、物的技術があるばかりでなく、人格的技術がある。 人間の本能は単にいわゆる身体的形成ではなくして、歴史的身体的即ち制作的でなければならない。 人間の社会的構造には、それがいかに原始的なものであっても、個人というものが入っていなければならない。 人間の行為は表現作用的に世界を映すことから起こるのである、制作的身体的に物を見ることから起こるのである。 人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。 人間は現実的存在であるというが、現実的なものとはそこにあるものである。 人間は環境から作られるという場合、自然の作用も、社会の作用も、形成的であるといわねばならぬ。 人間は環境に働きかけてこれを変化し、客観的なものは人間化或いは主観化され、 人間も世界における一個の物にほかならず、その意味において我々の最も主観的な作用も客観的なものということができる。 人間より馬の方がずっと立派だと思うようになります。だから、この国を彼が追放されたときの嘆きは大へんなものです。 人類学者のいう所によれば、原始社会の生産作用も広義において法律的に支配せられているのである。 今、イギリスとフランスは戦争をしているのです。これはとても長い戦争で、この戦争が終るまでには、百万人のヤーフが殺されるでしょう。 今のところ私が城について知っていることといえば、ただ城の人たちはちゃんとした土地測量技師を見つけ出すことをわきまえているということだけだ。 今は部屋のなかは静まり返っていた。ただ書類が立てるかさかさいう音だけが聞こえていた。村長はおそらく少し居眠りしているようであった。 今も下の台所でそのことを考えただけで泣きながらかまどの前にくずおれてしまった。 今度はタラスのところへ行った第二の小悪魔が、「おれの方は手伝ってもらわなくてもいい、うまく運んでいる。」と言いながら、話し出しました。 今度はタラス王を買うと言って、いばっていると言うことでした。タラス王はすっかり胆をつぶして、どうしていいかわからなくなってしまいました。 今度は何かズシンと鷲にぶっつかる音がして、突然、私はまっ逆さまに落ちて行くのを感じました。恐ろしい速さで、ほとんど息もできないくらいでした。 今日の物理学的世界が唯一的に我々に臨む所に、今日の物理学的個人的自己というものがあり、 今日の科学といえども、かかる立場から発展し、またどこまでもかかる立場を離れないものでなければならない。 今日固定せる種と考えられるものも、無限なる弁証法的発展の結果として成立したものであり、 仕事の量によって、用件の重要度がきまるのではないのです。そんなことを信じられるなら、あなたはまだまだ役所のことがわかるのにはほど遠いのです。 仕方がない、何でもよいから食物のある所まであるこうと決心をしてそろりそろりと池を左に廻り始めた 他を人格と見ることによって自己が人格となるという道徳的原理は、これに基づくものでなければならない。 他方我々はその土地を耕し、その植物を栽培し、動物を飼育し、あるいは河に堤防を築き、山にトンネルを通ずる。 会議のことを主人から聞かされて、なんだか心配になりました。ヤーフをどうすることに決まったのか、それはまだ、はっきり聞かせてもらえなかった 低いしげみはとびこえて、風のように走っていきます。ところが、そうして少し走っているあいだに、じつにふしぎなことがおこりました。 住居のことなどは彼の気にはかからなかったし、それに下着だけの彼はこの屋根裏部屋でもひどく寒い思いをしていた。 住民たちは、この私を、驚くべき怪物として、尊敬してくれたし、あの国でなら、一艦隊をそっくり引きずって帰ることだってできたのです。 何かしら、ぼくたちの知恵では、およばないような秘密があるのじゃないでしょうか。先生、教えてください。 何かを彼に望んでいながら、ただそれを口に出してはいえないのであろう。そして、もしそうでなければ、それはおそらくただ子供っぽさなのだろう。 何かを理解することなく、体が中に浮いたかと思うと、凄いスピードで上空に引っ張られ、穴の中に吸い込まれた。 何が起ったのだろうか。自分の希望はどこへいったのだろうか。いっさいが暴露してしまった今となって、何をフリーダから期待できるだろうか。 何も奇蹟が起ったわけではなく、きっと役人のだれかがそうした処理を書いたのか、あるいは書かないで決定を下したのか、どちらかにちがいありません。 何らかの意義においてイデヤ的生産的ならざる主体は世界歴史において生存することはできないであろう。 余りに常識的であることは良識に反し、また余りに良識的であることは常識に反する。 作られたものから作るものへということは、作られたものは、種から作られたものでありながら、 作られたものから作るものへという労作的生命の極において、主体は環境の中に自己を没することによって生き、 作られたものから作るものへとして、ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。 作られたものから作るものへとして、我々がポイエシス的である、歴史的身体的であるということは、 作られたものから作るものへとして、我々は作られたものにおいて身体をもつ、即ち歴史的身体的である。 作られたものから作るものへとして、矛盾的自己同一に徹することによって、歴史的世界は生物の世界から人間の世界へと発展する。 作られたものから作るものへとして、自己がいかなる立場にあるかの自覚からでなければならない。 作られたものから作るものへとしての歴史的生産の世界は、環境的にはどこまでも物質的生産的でなければならない。 作られたものから作るものへとして作用が自己矛盾的に対象に含まれる時、 作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界においてのみ、しかいうことができるのである。 作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界は作られたものからとして、物質的生産的でなければならない。 作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、そこに映すという意義があるのである。 作られたものが作るものから離れない、作られたものが作るものを作るということがない、故に作られたものから作るものへではない。 作られたものと作るものとが対立する、しかしてまた作るものを作るのである。 作ることによって、真に能働的に、物の真実が把握せられることでなければならない。 作るものが自己自身を否定して作られたものとなることが真に作るものとなるということが、 作るものと作られたものとが矛盾的に自己同一なる所、現在が現在自身を限定する所が、現実と考えられるのである。 作用が自己矛盾的に対象に含まれるというのは、その根底においてかくの如きことでなければならない。 例えば、動物の眼の如きものでも、無限なる矛盾的自己同一的形成の結果としてできたものであり、 例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。 例えば昆虫の眼ができたという如く、矛盾的自己同一として無限の課題が含まれているのである。 俺たちが帰ってきたら、一ページ残らず聞くからな。もしちょっとでも飛ばしていたら承知しないぞ。 個人が自己の自立性を自覚し、独立な人格が現れたところで生まれた。 個人にとってはそれはむしろ社会から与えられたものとして受取らるべきものである。 個人的立場からいえば、我々はそこに行為的直観的に物を見、また作られたものから作るものへということができる。 個物がそれぞれの仕方において世界を表現すると考えられる時、それが生命の世界である。 個物がどこまでも表現作用的に自己自身を限定するという時、人間の歴史的世界である。 個物がどこまでも超越的なるもの即ち絶対に対し、絶対矛盾的自己同一を媒介とするということである。 個物が独立せないということは、逆に一がなお真の一でないということである。 個物とはどこまでも自己自身を表現的に限定するものでなければならない、表現作用的に働くものでなければならない。 個物の働きというものがないとも考えられるであろう。しかし私の考えはその逆である。 個物はどこまでも自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない。 個物はどこまでも表現作用的に自己自身を形成することによって個物である。 個物は本能的適応的に働くのではなくして、既に表現的形成的でなければならない。 個物的多が自己否定的に単に点集合的に考えられる時、それが物理的世界である。 個物的多と全体的一とは、この世界においてどこまでも一とならないものでなければならない。 個物的自己に対して与えられる世界は、一般的な世界ではなく、唯一的な世界でなければならない。 倫理的実体たる社会の個人として創造的なるかぎり、我々の行為が道徳的であり、 働かないものは現実性にあるとはいわれず、ただ可能性にあるといわれるのである。 働くということは、どこまでも他を否定し他を自己となそうとすることである、自己が世界となろうとすることである。 働く人も、品物を持って来る人もありませんでした。時たま男の子や女の子たちが走って来て、卵と金貨を取っかえてもらうくらいでした。 僕と面識のない、どこか遠い街の知らない誰かの葬式に迷い込んでしまったようだ。 僕はその見知らぬ名前を数十秒眺めたあと、道を戻って棟の反対側まで歩いていく。 僕はそれをじっと眺めて、あることを思いつき、公園の入口のそばにあるベンチの裏まで行く 元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。 兄たちはどうしても来ませんでした。「百姓のお祭なんてちっとも面白くない。」と兄たちは言いました。 先生、ぼくには何がなんだかさっぱりわからないのです。でも、みんなのいうように、あのインド人が魔法を使ったなんて信じられません。 先生は手よりも頭でやる方がずっと仕事が出来ること、人民たちは残らずこの立派な先生に教わりに来てよく習わなければならないことだのを、 入浴している二人の男は、足を踏みならしたり、身体を向き変えたりしており、子供たちはこの男たちに近づこうとするが、 全く知らない者は哲学しないであろう、全く知っている者も哲学しないであろう。 全く知られていないものは問題になることもできぬ、問題になるというには既に何等か知られているのでなければならぬ。 全世界のもつ形、私のいわゆる生産様式と作用とは離して考えることはできない。 全体的一に対する個物的多として人格的自己というものが成立するのである。 全自己が一つの矛盾的自己同一的現在として、過去から未来へと、生産的であり創造的である。 六人がかりで、なわをとき、さるぐつわをはずしてやりますと、ふたりのおとなは、やっと口がきけるようになって、事のしだいを説明しました。 六十を過ぎたら、私は規則正しい安楽な生活をしたいと思います。そして、有望な青年を導くことを、私の楽しみにします。 六百人のものが、私の御用係にされ、私の家の両側にテントを張って寝とまりすることになりました。 兵隊たちはとうとうがまんが出来なくなりました。この上進むことが出来なくなりました。 兵隊たちはふるえ上って、王の命令通りにしはじめました。かれらは、家や穀物などを焼き、牛馬などを殺しはじめました。 兵隊のシモンは高い位と広い領地を得て、王様のお姫様をお嫁さんに貰いました。 兵隊のシモン係の小悪魔は明日から手伝いに行くと約束しました。こうして彼等は別れました。 具体概念というのが右の如く矛盾的自己同一的に動き行く世界の生産様式と考えられるならば、 具体概念とは抽象作用によって作られるのではない、行為的直観的に把握せられるのである。 具体的には自己自身を形成する世界の表現作用的個物として考うべきであろう。 具体的人間としての我々に与えられるものは、心理学者の直覚という如きものではなく、 具体的当為は、我々が自己自身を否定するものによって生きるという個人的存在、 具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。 具体的論理は矛盾的自己同一的現在の自己形成として、抽象論理を媒介とするが、 円盤の上にポツリと小さな穴が開いた。最初は爪楊枝程度の小さな穴だった。 円盤の近くは吸引力が強かった。穴が広がると、あっという間に穴の中に吸い込まれていった。 別な機会にこの後者の例を私は体験しましたが、今こうやって彼のことをお話しできるのも、まったくそのためです。 創造ということは、ベルグソンのいうように、単に一瞬の過去にも還ることのできない尖端的進行ということではない。 創造の立場においては過去と未来とが絶対に相対立するものでなければならない。 助手たちのは、いつもの、いろいろ意味ありげだがまたなんの意味もないような、どんな責任も回避しているような笑いかたであった。 動物といえども、高等なればなるほど、いわば一種の世界像をもっていなければならない。 動物の共同作業というものも、本能の内的応化によって支配せられているのである。 動物の本能作用というものでも、本質的には、かかる性質をもったものでなければならない。 動物の本能的動作においても、既にしか考えられる如く、我々の行為は我々が自己矛盾的に世界を映すということから起こる。 動物の本能的集団という如きものから、原始社会が区別せられるのに、色々特徴が挙げられる。 動物の本能的集団と人間の社会とは、一言にいえば本能と文化とは根本的に異なったものでなければならない。 動物の生命というものも、既にかくの如きものでなければならない、即ち既に意識的でなければならない。 動物の行為的直観的とか、概念的とかいうのは、言い過ぎといわれるでもあろう。 動物はなお対象界をもたない、真に行為的直観的に働くということはない。 動物は本能に生きるといわれるが、人間も多くの場合本能によって環境に適応しているのである。 動物は無意識的に自己自身を形成する世界を宿すことによって本能的であるのである。 動物的本能の世界においても、個物が自己の中に世界を映すことによって欲求的であり、見ることから働く。 動物的生命においては、なお個物的多が全体的一に対立せない、即ち個物が独立せない。 動物的生命においては見るといっても、朦朧たるに過ぎない、夢の如くに物の影像を見るまでであろう。 十一月二十四日にイギリス船で私はリスボンを発ち、十二月五日にダウンスに着きました。 十八歳になるまでは、ある定まった日でなければ、からす麦など一粒も口にすることを許されません。 十分に空気を通し、ストーブにはたっぷり火が入っており、床はぞうきんがけがしてあって、ベッドは整えられ、 千五百頭の馬が、その車を引いて、私を都の方へつれて行きました。もっとも、これは、みんなあとから人に聞いて知った話なのです。 半時間ばかりすると、島は上の方へのぼって行き、一番下の道路が、私の立っている丘から、百ヤードぐらいのところに、真正面に見えてきました。 単なる了解の対象としてでなく、信念の対象として、行為を唆すものとして、迫り来ることでなければならない。 単なる意識に対してでなく、存在に対して初めて、存在は、その秘密を明らかにするのである。 単なる直線的進行において自己の意識的統一というものが可能なるのではない。 単に「斯くある」ということを知るのみでなく、「何故に斯くあるか」ということを知るところに真の知識がある。 単に個人的な立場はもとより、単に民族的な立場に留まる限り、客観的知識に達することはできぬ。 単に応用のみを目的とする場合、科学の発達はなく、従って技術の発達も不可能であろう。 単に我々の存在を否定するのではない、我々の魂をも否定するのでなければならない。 単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。 単に機械的でもなく、合目的的でもなく、イデヤ的形成でなければならないのである。 単に見るのでなく、働くことによって、我々は真に客観的に見ることができるのである。 単に質料的でもなく、単に否定的でもなく、悪魔的に我々に迫り来るものでなければならない。 印度王の兵隊は、若い者ばかりでなく、よめ入前の娘まで加えて、シモン王の兵隊よりもずっとたくさんの兵隊を集めました。 危険というのは、労働者であることだ。勤務、上役、仕事、報酬条件、報告、働く者、そんなことが手紙にいっぱい書かれている。 即ち人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている。 即ち内在的に自己同一的に見るということは、それを抽象化することでなければならない。 即ち実在でありながら、矛盾的自己同一的に決定せられたものとして、現実自身の自己矛盾から動き行くものでなければならない。 即ち絶対現在として自己自身を形成する世界は、どこまでも論理的である。 即ち表現作用的に我々を動かすということが、物が直観的に我々に現れることである。 原始社会においての如く、我々はいつも絶対矛盾的自己同一に対しているのである。 原始社会構造において近親相姦禁止というものが強き意義を有するように、社会は本能の抑圧を以て始まると考えられる。 友達にも、親戚にも、旧友にも、恩師にも、最愛のペットにも、誰にも会えなくなった。 反対に私にとって環境であるものはどこまでも私自身とは考えられぬものである。 古いのや新しいのや、無数の石碑が、ジメジメとこけむした地面に、ところせまく立ちならんでいます 召使や友人たちも、みんな私には小人のように思えるのでした。こういう有様ですから、はじめ人々は、私を気が違ったものと思いました。 台所全体が見わたせて、仕事を監督できるように置かれてあった。それに反して、台所からは仕切り部屋のなかのほとんど何も見られなかった。 右の内側のポケットからは、一すじの銀の鎖が下がり、その下の方には一つの不思議な機械がついていました。 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。 右の如くにして、歴史的世界において、主体と環境とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成し行くということは、 右の如く作られたものから作るものへと無限に動き行く絶対矛盾的自己同一の世界は、形から形へとして何処までも形成作用的である。 右の如く個物がどこまでも表現的に世界を形成することによって個物であり、 右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない。 右の如く絶対過去として我々の個人的自己の根底に迫り来るものに対して、 司令官は、シモン王に強い軍隊の作りかたを教えはじめました。「まず第一にもっと兵隊を集めましょう。国にはまだうんと遊んでいるものがおります。 合理性と実証性とは対立するものである故に、科学的研究は一つの過程として運動するのである。 合理的であることは演繹的であることであり、実証的であることは帰納的であることであると考えられ、 合目的的作用において、過去から未来へということは逆に未来からということであり、 同じ種の昆虫においても、幼虫、蛹、蛾と、身体の形が変わるに従って、その本能も変わるのが常である。 同時に人間の主観的な欲望ないし目的は環境化或いは客観化されるが、その媒介となるものが技術である。 向うでは私の来るのを待ちかねていたところです。二人の案内者をつけて、首都まで案内してくれました。私は二人を両手に乗せて、 君たちがどういうふうに仕事の割り振りをするかということは、私にはどうでもいい。ただ、おたがいに言いのがれをいってはいけないよ。 君にいいたいことがあったんだよ。私が城に何か用事があるとき、ただ君が偶然やってくるのにたよっているだけでは、どうもまずい、と気がついたんだよ。 君の感想はドラマについての感想のようだった。でも、実際はさっき見たアニメの感想だった。 君も夏休み暇であること、僕はお昼ご飯を買いに出かけていたこと、君が鍵を忘れて家を出たこと、 否、矛盾的自己同一的なるが故に、作られたものから作るものへと発展し行くのである。 吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この家の主人が騒々しい何だといいながら出て来た 吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の傍にいる事をつとめた 吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある 哲学が現実から出立するということは、何か現実というものを彼方に置いて、それについて研究するということではない。 哲学は、それにあたるギリシア語の「フィロソフィア」という言葉が意味するように、知識の愛である。 哲学は基底の危機から生まれるのであって、そのとき必然的なものの必然性は揺り動かされ、ひとつの可能性に過ぎなくなってくる。 哲学は常識とも科学とも立場を異にし、それらが一旦否定に会うのでなければ哲学は出てこない。 哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。 哲学は究極のものに関心するといっても、つねにただ究極のものが問題であるのではない。 哲学もまた、価値を問題にするにしても、単に主観的であることは許されない。 哲学も科学性をもたねばならぬ以上、原因あるいは理由の知識でなければならぬ。 哲学的探求の初めにおいて現実はもとより全く知られていないのではない。 商人は、それよりもずっと上につけました。タラス王はたくさんの金がありましたが、れいの商人はもっとたくさん持っています。 問いはあらかじめ論理的に考えられた思想をもって臨むことである故に、合理性の側を現し、 問題は歴史的生命の地盤から起こるのである、抽象論理的に起こるのではない。 四人の貴族たちが、私と一しょにテーブルに着きました。食事中、私はいろんな品物を指さして、何という名前なのか、聞いてみました。 四本の棒を、二本ずつ平行に並べて、地面から二フィートばかりのところで、四隅を結びつけました。 因果性とか空間とか時間とかという如きものは、科学は前提するに留まっている。 団員たちは、ふたりのおとなといっしょに、ただちに篠崎家にかけつけ、事のしだいを報告しました。 固有な意味における技術は道具を作り、道具を用いて物を作る技術である。 国王は、まず試しに、私をそれに乗せて、水桶に水を一ぱい張って浮かせてみよ、と命じられました。 国王は、私に私と同じ大きさの女を妻にさせて、私たちの子供をふやしてみたい、と熱心に望まれていました。しかし私は、馴れたカナリヤのように 土はよく肥えているのに、穀物など一向に生えそうな様子はありません。こんなふうに、田舎も街も、どうも実に奇妙なので、私は驚いてしまいました。 土地は見事に耕されていますが、何より私を驚かしたのは、草の大きいことです。そこらに生えている草の高さが、二十フィート以上ありました。 土地測量技師の到着という事件はつまらぬことではなかった。台所のドアが開き、ドアいっぱいにおかみのたくましい姿が立ちはだかった。 地下室では、もう水が一メートルほどの深さになっていました。緑ちゃんをだいた小林君は、立っているのがやっとでした。 地下室に投げこまれた小林君と緑ちゃんとは、まっくらやみの中で、しばらくは身動きをする勇気もなく、グッタリとしていましたが、 地下室はまるでタンクみたいに水がいっぱいになっていて、その中を、この小林君という少年が、小さいお嬢さんをおぶって泳いでいるじゃありませんか。 地面の奥深くに眠る縄文時代の土器のように、僕の頭の底にもあのときの記憶が残っていた 城とのあいだにともかくもほかの連中とはちがってはいるがただ見かけだけにすぎない関係をもつような村の労働者であろうとするのか、 城に出頭するにはもう遅すぎるということは、あなたに教えられないうちから、自分でもとっくに知っていましたよ。 城に泊ってはならない一人の男といっしょに、その腕にすがって真昼に城へいくということは不可能であり、滑稽なくらい望みのない試みなのだった。 城のかたたちはひどく神経質なもんでしてね。私は確信しているんですが、あのかたたちは、少なくとも不意には、他国者を見ることに我慢できないんです。 城の方角から二人の中背の若者がやってきた。二人ともひどく痩せていて、ぴったりした服を着ており、顔もひどく似ていた。 城はたやすくいきつくことができる目標のように眼前に横たわっているし、このバルナバスという使者はきっといちばんよく近道を知っているはずであった。 基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。 堀という堀には水がいっぱいで、堀ばたにはフキの花が開き、石壁の上に生えている草の茂みは、つやつやとして褐色になっています。 塀ぎわには、背の高い青ギリだとか、低くしげっているツツジだとか、いろいろな木が植えてあります。くせ者はその木立こだちをぬって、 壁と宮殿との間には、広い場所がありますから、私はそこで、あたりをよく見まわすことができました。 壁には一、二枚の聖人の絵と兵隊の写真とがかかっていた。風を入れた形跡もなかった。 夏は午前に二時間と、午後に二時間ずつ、草を食べさせてもらいますが、この規則を親たちもきちんと守ります。 夏休みに限らず、土日に五百円玉が置かれていれば、いつも同じものを買っていた。 多から一へというのは、世界を因果的に決定論的に考えることである、過去から考えることである、機械的に考えることである。 多くの世界がそれにおいてある世界即ち絶対的環境、もしくは絶対的場所、もしくは絶対的一般者ともいうべき世界が考えられねばならぬ。 多くの人が原始社会をただ団体的と考えるのに反し、私はマリノースキイなどの如く始めから個人というものを含んでいるという考えに同意したいと思うのである。 多くの人は世界の底に多を考える、原子論的に世界を因果必然の世界と考えている、物質の世界と考えている。 多と一とが相互否定的として、作られたものから作るものへといえば、多くの人にはそれが実在の世界とは考えられないかも知れない。 多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。 多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという時、 多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、現在から現在へと考えられる世界でなければならない。 多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへと動き行くものたるを示すものでなければならない。 多と一との矛盾的自己同一として表現的に自己自身を形成する世界は、法律的でなければならない。 多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、個物が世界を映すという時、個物の自己限定は欲求的である。 多と一との矛盾的自己同一的一般者、いわゆる弁証法的一般者の自己限定として、 多と一との矛盾的自己同一的形成作用として、国家はそれ自身が自己矛盾的存在である。 多と一との矛盾的自己同一的過程として行為的直観的でなければならない。 多と一との絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、 多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とがどこまでも相対立し、 多と一との絶対矛盾的自己同一の世界において、矛盾が解かれるかぎり、一つの種が成立するのである。 多と一との絶対矛盾的自己同一の世界は、かかる立場からはどこまでも自己自身を形成する、形成作用的でなければならない。 多は一の多である。然るに個物は何処までも独立的たることによって個物である。 夜があけると、まだお日さまのあがらないうちから、もうさっそく、おかみさんは起きて来て、ふたりをおこしました。 夜になると、見物人も帰るので、ようやく私は家の中にもぐりこみ、地べたで寝るのでした。二週間ばかりは、毎晩地べたで寝たものです。 夜中じゅうあるきとおして、あくる日も朝から晩まであるきました。それでも、森のそとに出ることができませんでした。 大きな事柄ではまだ私が知っているまちがいなんかあったためしがありません。しかし、こまかなことがしばしばひどく面倒なものです。 大きな役所では起こりうることですが、一つの課がこのことをきめ、別な課があのことをきめるというふうで、どちらもほかの課のことは知らないのです。 大きな波一つで、箱はすぐひっくりかえるかもしれませんし、窓ガラス一つ壊れただけで駄目になります。 大きな部屋の入口に立ったが、その部屋はほとんどまっ暗だった。というのは、左手の奥の机の上に小さな石油ランプが一つかかっているだけだった。 大へん暑い日でしたが、部屋の窓は開け放しになっており、私の住まっている箱の戸口も窓も、開け放しになっていました。 大へん腹を立てて、例の商人を国より外へ追い出してしまいました。ところが商人は、国ざかいのすぐ近くへ住まって、やはり前と同じようにやっています。 大学生が、そこから三メートル、五メートルとはなれていっても、影だけは少しも動かず、もとの地面に、よこたわっているのです。 大学生くらいの若者が何人か集まっていた。スキーに行く計画について話していた。 大学生は、だんだんきみが悪くなってきました。影だけが死んでしまって動かないなんて、考えてみればおそろしいことです。 大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、即ち形を変ずることでなければならない。 大陸は、飛島の国王に属していて、バルニバービといわれています。首府はラガードと呼ばれています。私は地上におろされて、とにかく満足でした。 夫婦親子兄弟の関係がすべて本能的でなく、一々制度的に束縛せられる所に、社会というものがあるのである。 女たちは大笑いしてイワンをほめたたえる唄を歌いました。そして唄がすむと、「さあ、約束のものをおくれ。」と言いました。 女中たちも、男物の長靴をはいてばたばた音を立てながら、何かをもってきたり、もち去ったりするためにしょっちゅうやってくるのだった。 女中たちもそれに気づき、同時に固い口を開き、きれいでじょうぶな動物のような歯を見せて、声にはならぬ笑いをもらした。 好き、と言うよりかは習慣だった。なんとなくいつも同じものを買って、いつも同じものを食べていた。 好奇心が子供たちを駆ってこんなことをさせたのではない。墓地は子供たちには秘密などはまったくなかった。 妹のグレーテルは、涙をだして、しくんしくんやりながら、にいさんのヘンゼルにむかって、「まあどうしましょう、あたしたち、もうだめね。」と、いいました。 妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。 始めに現在が現在自身を限定するといった如く、形が形自身を限定すると考えられる世界でなければならない。 娘もそばへやって来ましたが、なにしろ長い間、大きなものばかり見なれた眼には、ヒョイと片手で娘をつかんで持ち上げたいような気がしました。 子どもは、美しいお菓子のほしさにつられて、手を引かれるままに、ついていくのです。ところが、そして百メートルほども歩いたとき、 子どもをさらったり、その子を人質にしてお金をゆすったりするのでしたら、何も黒い影なんかに化けて、人をおどかすことはありません。 子供たちは密集して教師を取り囲み、みんなの眼が教師に向けられて、四方八方から口々に絶え間もなくしゃべり立てていたが、 子供のときから、船に乗って外国へ行ってみたいと思っていたので、航海術や、数学や、医学などを勉強しました。 学の広い人で仏文学にも和漢の文学にも相当親しみをもった人でした 学問的知識の立場といえども、かかる立場を否定することではなく、かえってかかる立場に徹底し行くことでなければならない。 学者の一人は、もしかすると、これはまだ産れない前の子供だろう、と言いだしました。だが、それには二人の学者がすぐ反対しました。 宗教の本質を知らないからである。宗教の問題は個人的安心にあるのではない。 宝石はいろいろな人の手にわたって、ヨーロッパのほうへ買いとられていった。ひじょうにねうちのある宝石だから、だれでも高い代価で買いとるのだね。 宝石をとりもどすこともできなかったのです。これがインド人の魔法なのでしょうか。くせ者は追っ手の目の前で、やすやすと姿を消してしまったのです。 実は私は素晴しいことを知っているのです。というのは、今から三四百年前に、ある粉が発明されましたが、その製造法を私はよく知っているのです。 実際、ストラルドブラグほど不快なものを私は見たことがないのです。ことに女の方が男よりもっとひどいのでした。 実験が科学の重要な方法であるということは、科学もその根底において技術的であることを示している。 実験は現実が合理的であるということを予想し、その合理性の発見を目的としている。 客体と主体というようにどこまでも対立すると共にまたどこまでも一つのものである。 客観からは主観は出てこないし、主観からは客観は出てこない、両者はどこまでも対立的である。 客観とか客体とかといわれるのも、それが主体から全く独立なものであることを意味している。 客観的実証的なものを自己に媒介することによって真に論理的になるのである。 客観的表現の世界とは、多がどこまでも多であることが一であり、一がどこまでも一であることが多である世界でなければならない。 宮廷へ手紙を書いてあげる。二週間もすれば返事が聞けるだろうから。しかし、それまでは、一応あなたをこちらで捕えておくことにする。 宮殿に入って、国王の間に通されました。見ると、国王陛下の左右には、高位の人たちが、ずらりと並んでいます。王の前にはテーブルが一つあって、 宮殿の壁には、もう、いくつも梯子がかけられ、バケツが運ばれています。でも、なにぶん、水は遠くから運ばれているらしいのです。 家にいるときも、旅行中も、いつもグラムダルクリッチが私の先生になってくれたので、この国の文字もおぼえ、 家を出てから、何も話さず、ずっと何かを考えていた君も、僕と一緒だった気がする 家族というものが、人間の社会的構成の出立点であり、社会の細胞と考えられる。 家族のテーブルから、こちらへどうぞ、という誘いの呼び声がかけられたが、それを彼はまったく無視し、頭を垂れたまま、窓辺の台に残っていた。 宿に着くと、すぐに自分の部屋へいき、ベッドの上に横になった。フリーダはそのわきの床の上に寝床をつくった。 宿屋へいく道をいけるものなら、彼はすぐに出かけたことだろう。朝早くバルナバスといっしょに城へいけるという可能性は、彼の心をまったくひかなかった。 対話においては互いに他を否定し得る独立な者が対立し、問答を通じて一致した思想に達する 対象として考える場合、現実は哲学の唯一の出発点であり得ないにしても、 将軍のところへやって来て、言いました。「兵隊にならなければイワン王が死刑にしてしまうと言っているが、兵隊になったらどんなことをするのか 小さな格子戸を通って、子供たちはすでにしばしば墓地のなかに入っていた。ただ、高い塀を征服したかったのだった。 小悪魔たちは早速ある沼地へ行って仕事について打合せをしはじめました。そしてめいめいが一番割りのいい役を取ろうとしてぎろんしました。 小悪魔は、「助けて下さい。打たないで下さい。あなたのおっしゃることならなんでもいたします。」とたのみました。 小悪魔はそのしっぽを半分切り取られました。イワンは刈り取った草を妹にかき寄せるように言いつけて、今度はライ麦を刈りに行きました。 小悪魔はその沼地へ入り込んで、「たとえ両手を切り取られたって、刈らせるこっちゃない。」と考えました。 小悪魔は全くふいを打たれて、足をはずす間もなく倒れた木に手をはさまれました。イワンは枝をおろしにかかりました。 小悪魔は叫びました。「ま、待って下さい。二度とあなたの邪魔はいたしません。あなたの言いなりに何でもいたします。」 小悪魔は木の枝にまたがって、クスクス笑いました。そのときイワンは急に立ち上がって、斧を引っこぬき、 小林君が、緑ちゃんくらいの背かっこうのかわいらしい男の子をつれて、篠崎家へやってきたのは、もう日の暮れがた時分でした。 小林君がおいた百円銀貨のようなものが、車の動揺につれて、ジリジリと動き出し、はしのほうから一つずつ、地面にふりおとされていくのです。 小林君には、そうして明智探偵と話しているうちに、この事件のふしぎさが、だんだんはっきりわかってきました。 小林君は、みょうに思って声をかけました。しかし運転手は、まるでつんぼのように、なんの返事もしないのです。 小林君は、やっと元気をとりもどして、やみの中に立ちあがっていましたが、ただジメジメしたコンクリートのにおいがするばかりで、 小林君は、緑ちゃんのそばへうしろ向きによこたわり、少しばかり動く手先を利用して、緑ちゃんのくくわれているなわの結びめをほどこうとしました。 小林君はゾーッと背すじが寒くなってきました。なんだかそのお化けが、うしろからバアーといって、とびだしてくるような気さえするのです。 小林君は両手をしばられて、まったく抵抗力をうばわれているのですから、どうすることもできません。 少し前まではずっと変わらぬ日中の明るさだったのに、今は急に暗くなっている。「日が短いんだ、日が短いんだ!」と、彼は自分にいって聞かせ、 少なくとも二階は総二階につくられていて、前面よりもりっぱな外観をもっている。 少なくとも君がここにとどまるなら、そうなるのを待っていられるし、教師にははっきりしない返事をしておけるんだ。 少年は、お母さんがこんなにすばしこく何かするのを、今までに一度も見たことがありません。 少年は戸口に立って、あとを見送りながら、今日は、とうとう捕まっちまった、と、諦めました。 少年捜索隊そうさくたいの篠崎君と桂君の一組は、やっとのこと、インド人の自動車が通ったさびしい広っぱの近くへ、さしかかっていました。 少年探偵団の七つ道具の中には、絹ひもで作った手軽ななわばしごがあるのです。まるめてしまえばひとにぎりほどに小さくなってしまうのです。 少年探偵団員たちは、仲間のうちに何か不幸があれば、かならず助けあう、というかたい約束をむすんでいました。 山のあたりは、この村のなかよりもずっと雪が少ないように見えた。ここの村のほうでは、きのう国道を歩いたときに劣らず、歩くのに骨が折れた。 岸を離れたのは、一七一四年二月十五日、朝の九時でした。主人や友人たちは、私の姿が見えなくなるまで、海岸に立って、見送ってくれていました。 左手の小屋でちっぽけな窓が開いた。閉まっているときは、それは濃い青色に見えていた。おそらく雪の反射を受けていたからだろう。 巨人は立ちどまって、しばらく、あたりを見まわしていましたが、ふと、地面にひれふしている私を、見つけました。 帆もやはりヤーフの皮で作りました。兎と鳥の蒸肉、それに牛乳、水を入れた壷を二つ、それだけを船に積み込んでおきました。 帰るとすぐ、探偵は旅のつかれを休めようともしないで、書斎に助手の小林少年を呼んで、るす中の報告を聞くのでした。 帰納法的知識即ち科学的知識というのは、かかる過程によって成立するのである。 常識のかような斉合性は科学の求める論理的斉合性とは性質を異にし、 常識の右の如き性質は逆にどこから常識が破られるに至るかを示しているであろう。 常識は実定的なものであり、或る慣習的なものとして直接的な知識である。 常識は実際的といわれるが、実際的とは経験的・行為的ということである。 常識は平生の生活に関わり、日常的ということがその特徴をなしている。 常識は社会的経験の集積であって、我々の行為の多くは常識に従って行われている。 常識は経験のそれ自身の仕方における組織であったが、科学も同じく経験の他の仕方における組織である。 常識もその社会に属する者に対して法的な強制的な性質をもっている。 常識的な行為はその社会の全体との関係において不都合の起こらないのが普通である。 帽子がすっかりゆがんだので、私は一度脱いで、かむりなおしました。これを見て、彼等はひどくびっくりしたようでした。 年のわりには、とても器用な子で、針仕事も上手だし、赤ん坊に着物を着せたりすることも、うまいものでした。 年よった悪魔は、三人の兄弟を取っちめたと言うたよりが来るか来るかと待っていました。が待っても待っても来ませんでした。 年よった悪魔は、人民たちはすべて兵隊に入らなくてはならない。これを拒むものはイワン王が死刑にしてしまわれるだろう、というおふれを出しました。 年よった悪魔は塔のてっペンに一日中立っていました。それから二日目もやはりたてつづけにしゃべりました。 年よった悪魔は塔のてっペンに立ってしゃべりました。人民たちは集まって来て、ちょっとの間立って見ていましたが、すぐ去って行きました。 年よった悪魔は階段の一ばん下のところで一つとんぼがえりをして、そのまま地べたへ頭を突っ込みました。 幸いなことに、彼には私の声や身振りが気に入ったようでした。私がはっきり言葉を話すので、その意味は彼にはわからなかったのですが、 幾度かいうのであるが、私の行為的直観とは本能的とか芸術的とかいうことではない。 広告が詰まりポストの口はふさがっているから、名前がわかっても郵便配達は出来そうもないけど。 庭の門が開き、弱そうな小馬に引かれた、座席などはない、まっ平らな、軽い荷物用の小さなそりが出てきた。 建物の外には、六人の少年探偵団員が、注意ぶかく見はりをしていました。インド人は、どうしてその目をのがれることができたのでしょう。 建物の外へ出るまでもなく、あの二階の部屋の中で、何かのじゅ文をとなえながら、スーッと消えうせてしまったのかもしれません。 弁証法においては、対立が即綜合、綜合が即対立ということであり、対立なくして綜合はないが、綜合なくして対立もない。 形がみにくいばかりでなく、その年齢に比例して、なんともいえないもの凄さがあるのです。私は彼等が六人ばかり集っているのを見て、 形成するとは物を作ることであり、物を作るとは物に形を与えること、その形を変えて新しい形のものにすることである。 形成作用というのは機械的でもなく単なる合目的的でもない、意識的でなければならない。 形成作用的ということであるならば、形成することは形成せられることでなければならない。 形相が質料となり質料が形相となるとか、形相と質料とか形成の程度的差異とかというのではない。 役所からも、どの役人がこの件で決定を下したのか、そしてどういう理由から決定を下したのか、ということははっきりとさせられないのです。 役所と生活とがその場所をかえているのではないか、と思われるほど、この両者はもつれ合っていた。たとえば、これまでのところはただ形式的にすぎない、 役所はどんなによく組織されているにせよ、いつでもただ遠く離れた眼に見えぬ城の人びとの名において、遠く離れた眼に見えぬ事柄を擁護しなければならない 役所は明らかにどんな重荷でも担ってくれているのであり、いっさいを役所に背負わせることができ、自分ではそんなものに関係しないで、自由でいられる 彼がすばやくたしかめたところでは、オルガはあの顔見知りの男のところへいっており、樽の上に坐って、足で樽をばたばたとたたいていた。 彼という人間をながめることは、彼から攻撃される者にとっては、おそろしいものであり、彼に攻撃される者の敵にとってはすばらしいものなのです。 彼にとってまだ不信の念を抱いている村の連中も、もし彼がたとい彼らの友人ではなくとも彼らの仲間となったときに、やっと話し始めるだろう。 彼のことを気にかける者はいなかった。洗濯バケツのそばの女は、髪はブロンドで、若々しくぴちぴちしていたが、仕事をしながら低い声で歌っている。 彼のさまざまな考えは、はっきりした目標に向ったままでいないで、さまざまに混乱した。たえず故郷のことが頭に浮かび、故郷の思い出が彼の心をみたした。 彼のただ一人の同僚は村の警官ぐらいなのだろう。これは疑いもなく矛盾であり、矛盾はわざとつくられたにちがいないほど歴然としていた。 彼のまなざし、微笑、歩きかたは、自分の使者という身分について何も知らなくとも、いかにも使者らしい様子であった。 彼の世話はフリーダがした。つぎの朝、きわめて元気になってついに起き上がったが、すでにこの村に滞在するようになってから四日目であった。 彼の件の取扱いに関しては、外見上は彼にきわめて好都合な一定の原則がもうこれっきりと思われるほど決定的に出されてしまったためであり、 彼の指で、脇腹をしめつけられているのが苦しくなったので、うめいたり、泣いたりして、一生懸命、そのことを身振りで知らせました。 彼の計算ではほんの一、二時間ぐらいのはずだった。それに、出かけたのは朝だったし、ものが食べたいという気も全然しなかった。 彼の部屋は奇妙な品物で一ぱいでしたが、五十人の男たちが、彼の指図で働いていました。ある者は、空気をかわかして塊りにすることを研究していました。 彼の黒い服はただ農民の祭りのときに着るもののように見えるのだが、ほとんどこの村の者のようには見えなかった。 彼は、「私は、幅広く募っているという認識でございまして、募集しているという認識ではなかったのであります。」と主張した。 彼は、宿を探して歩いた。旅館ではまだ人びとがおきていて、亭主は泊める部屋をもってはいなかったが、この遅い客に見舞われてあわててしまい、 彼はいつもの自慢話をさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向かって下のごとく質問した 彼はいよいよしっかりと相手の腕にすがり、バルナバスのほうはほとんど彼を引きずっていった。沈黙は破られなかった。 彼はすぐ村へいこうとした。きのうのふるまいを思い出して亭主とはどうしても必要なことしかしゃべらないでいたのだったが、 彼はずっと自由に身体を動かし、ステッキをあるいはここ、あるいはあそこというふうにつきながら、肘掛椅子の女のほうに近づいていった。 彼はそこらあたりをさがし廻りましたが、仲間のすがたはみえないで、ただ一つ小さな穴を見つけました。 彼はフリーダとうちとけて話したかったが、助手たちが厚かましくも目の前にいるというだけで、じゃまされた。 彼はペン、インキ、紙、それに、三四冊の書物を持って来て、言葉を教えに来たのだと手まねで言います。私たちは、四時間一しょに勉強しました。 彼は今度は牧場へ行って沼地で小悪魔のしっぽ一つ見つけました。そしてライ麦の刈あとでも、一つの穴を見つけました。 彼は定規とかコンパスで、私の身体をはかり、いろんな数学上の計算を紙の上に書きとめました。そして、服は六日目に出来上りましたが、 彼は思いきって、人差指と親指で、私の腰の後の方をつまみあげると、私の形をもっとよく見るために、目から三ヤードのところへ、持ってゆきました。 彼は畑へ行ってさんざん仲間をさがしましたが、一人もいませんでした。ただ一つの穴を見つけただけでした。 彼は私を家の中へつれて帰ると、たくさんの牛乳が器に入れて、きちんと綺麗に並べてある部屋へつれて行きました。 彼は立ち上がり、落ちつかない様子で唇をかんでいる亭主を自分のところから解放してやろうとした。この男の信頼を得ることはやさしいことではなかった。 彼は老人のいうことを全然聞いていなかったが、板が自分のほうにさし出されたのをありがたく受けた。板はすぐに彼を雪から救い出してくれた。 彼は見下ろし、ぐるりと見廻し、また肩越しにも見て、地面に沈んでいる十字架をながめた。そのとき、そこでは、彼自身よりも偉大な者はだれ一人いなかった。 彼は馬をときはなして家へ入りました。するとそこには、兄の兵隊のシモンとそのお嫁さんが、夕飯を食っていました。 彼らの団長の小林少年が、篠崎君の請こいにおうじて、出動したことがわかっているものですから、一同、いよいよ勇みたったのです。 彼らもまた彼のほうを向いていた。しかし、彼らがめいめい自分の席に坐り、たがいに話もせず、はっきりとしたつながりももたぬまま、 彼女は手足をのばして仰向けに寝ていたが、呼吸をするのが苦しい様子で、羽根ぶとんをうしろへはねのけていた。 彼女は私と別れることを、大へん悲しがり、私を胸に抱きしめて泣きだしました。 彼女は私の先生になって、言葉を教えてくれました。何でも、私が指さすものを、この国の言葉で言ってくれます。 彼女自身は一枚のシャツをかかっている紐から取って、それにアイロンをかけるために下の台所へ急いで降りていった。 彼等がものを言いだしたとき、私は犬や牛がものを言いだしたように、全く変な気持にさせられました。 彼等の話は、ちょっとも無駄なところがなく、簡単で、はっきりしていました。ちゃんと礼儀は守られていて、堅苦しいところがないのです。 彼等は、老人が死んで葬式が出るのを見ると、やはり嫉妬します。ほかの人たちは安らかに休息の港に入るのに、自分たちは死ねないからです。 彼等はこんなことがよほどうれしかったのでしょう。大喜びで、はしゃぎまわり、私の胸の上で踊りだしました。 彼等は三十歳頃までは普通の人間と同じことなのですが、それからあとは次第に元気が衰えてゆく一方で、そうして八十歳になります。 彼等は五ヵ月ほどして帰って来ましたが、飛島でおぼえて来たのは、数学のはしくれでした。 彼等は国王に願って、このラガードに学士院を作りました。ところが、これがついに全国の流行となって、今では、どこの町に行っても学士院があるのです。 彼等は大てい、友情とか、慈善とか、秩序とか、経済などのことを話し合います。それから、詩の話もよく出ます。 彼等は数学と音楽には非常に熱心ですが、そのほかの問題になると、これくらい、ものわかりの悪い、でたらめな人間はありません。 彼等は満八十歳になると、この国の法律ではもう死んだものと同じように扱われ、財産はすぐ子供が相続することになっています。 彼等は私に、知っている言葉を言ってみよと言いました。そして、主人は食卓のまわりにあるからす麦、牛乳、火、水などの名前を教えてくれました。 彼等は私の歯をよく調べてみたうえで、これは肉食動物だと言いだしました。ところが、大がいの獣は私より強いのです。 彼等は私を捕えて、どこの国の者で、どこから来たかなど、いろんな質問をしかけます。 彼等は私を眺めて、ひどく驚いている様子でしたが、私の方も、すっかり驚いてしまったのです。 彼等は自分たちが若かった頃に見たことのほかは、何一つおぼえていません。しかも、そのおぼえているということも、ひどくでたらめなのです。 彼等は青年が愉快そうにしているのを見ては、嫉妬します。それは彼等が、もうあんなに愉快にはなれないからです。 彼等も世界についての全体的な観念、即ち世界像というものを与えようとしている。 後から追って来た舟は、ボートをおろして、この島へ水汲みにやって来ました。そして水夫が上陸するとき、 従ってそれは世に行われる概論書の如く哲学史上に現われた種々の説を分類し系統立てることを目的とするものでなく、 従って哲学が価値を問題にするという場合、その取扱いは科学におけるそれとは異なり、 従って本能にしても決して単に盲目的なものでなく、むしろ本能は「自然のイデー」である。 従って本能による適応は直接的であるが、主体と道具とは一つである故に、 従来の主観・客観の概念においては、主観は自我といわれ、これに対して客観は非我と呼ばれたが、 従来の主観・客観の概念は主として知識の立場において形作られている。 心を開いておしゃべりしてかまいませんし、またたとえば、あなたがどんなふうにクラムと話すつもりでいるのかを、わたしたちに打ち明けることもできます。 心配や苦労はきれいにふきとんでしまいました。親子三人それこそうれしいずくめで、いっしょになかよく、くらしました。 忘れてしまった者のことは、ふたたび知るということがありえます。ところが、クラムの場合には、そんなことはありえないんです。 念のために、そのへんをくまなく歩きまわってみても、どこにも黒い人の姿はないのです。たとえ地面をはっていったとしても、 思いもかけなかったようなところ、またあとからではもう見出すことができないようなところに、一つの解決が生まれるということがあるものです。 思惟の媒介的な本質は、概念から判断、判断から推理と進むに従って、次第に一層明瞭になってくる。 思惟の立場においては、表現的に世界を一つの現在として把握するのである。 怪物は、まるで地面の影が、フラフラと立ちあがって、そのまま歩きだしたような感じで、グングンと遠ざかっていきます。 怪物は、石碑と石碑のあいだのせまい通路を、右にまがり左にまがり、まるで案内を知ったわが家のように、グングンと中へはいっていきます。 怪物は塀から塀へと伝わって、足音もなく、少しずつ、少しずつ、ふたりに近づいていき、一メートルばかりの近さになったかと思うと、 悪意と慎重さとのまじったシュワルツァーの話のしかたは、いわば外交的な儀礼を身につけているといった感じを彼に与えたが、 悪魔は、タラスの国でやったと同じように、金貨をどしどし使い、人民たちは何でもかでも、またどんな仕事でも金貨と取っかえるためにやってのけました。 悪魔は人民たちに教えることを約束しました。そこでイワンは、あらゆる人たちに頭で働くことを教えることの出来る立派な先生が来たこと、 意識統一というものも、通常は世界から離して抽象的に(心理学的に)考えられるのであるが、 成功を積み重ねていった、失敗の記憶は薄れていった、頭の中には成功の記憶だけがある 我々がこの世界において働くということは、物を形成することであり、私が行為的直観的に物を見、物を見るから働くというのは、 我々がそこにいる社会は単なる客観でなく、それ自身の意味における主体である。 我々がどこまでも個物的であり、知識が客観的であればあるほど、しかいうことができる。 我々が個人的自己として世界に対するということは、世界が唯一的に我々に臨むことである。 我々が単に因襲的に種的に働くということは、自己の機械化であり、同時に種の死である。 我々が日々に接触する現実を正しく見ることを教え得ないならば、いかに深遠に見える哲学もすべて空語に等しい。 我々が欲求的であるということは、我々が機械的であるということでもなく、単に合目的的ということでもない。 我々が物において自己の身体をもつという歴史的身体的形成から成立すると考えなければなるまい。 我々が矛盾的自己同一的世界の形成要素として個物的であり、創造的であればあるほど、 我々が考えるという立場も、歴史的社会的立場に制約せられていなければならない。 我々が表現作用的に世界を形成することは逆に世界の一角として自己自身を形成することであり、 我々が表現作用的自己として単に世界を映すという時、我々は意識的である、作用的には志向的と考えられる。 我々が身体をもって生まれるということは、我々は無限の課題を負うて生まれることである。 我々の個人的自己に迫るもの、我々の魂を奪うものといったのは、これによるのである。 我々の個人的自己をその生命の根底から否定せんとするものでなければならない。 我々の働くということは、単に機械的にとか合目的的にとかいうことでなく、 我々の意識というのは絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の契機として現れるのであり、 我々の手は作られたものから作るものへとして、幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。 我々の概念的知識というのは、もと社会的制作から発展し来ったものでなければならない。 我々の生物的身体というものが歴史的生命として既に技術的である。 我々の社会が本能的ではなく、既に法律的であるということでなければならない。 我々の種的生命というものも、無限なる弁証法的発展の結果として出来たものであるが、 我々の自己が自己矛盾的にその中に包まれる世界が我々に直観的な世界である。 我々の自己というものも、歴史的社会的世界においてのポイエシスによって知られるのであろう。 我々の自己に対して、汝これを為すか然らざれば死かと問うものでなければならない。 我々の自己の意識統一においても、現在において過去と未来とが矛盾的に結合し、 我々の自己意識は、過去と未来とが現在の意識の野において結合し、それが矛盾的自己同一として動き行く所にあるのである。 我々の行為的自己が過去から自己に臨む所に、抽象論理的である。これを反省という。 我々の行為的自己に対して真に直接に与えられたものというのは、厳粛なる課題として客観的に我々に臨んで来るものでなければならない。 我々はかかる世界の個物として意識的に世界を映すことによって形成的であり、 我々はそこに生まれ、そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる、そこが現実である。 我々はそこに絶対矛盾的自己同一として、我々に生死を問うものに対しているのである。 我々はどこまでも絶対矛盾的自己同一として我々の生死を問うものに対する。 我々はどこまでも超越的なる一者に対することによって、真の人格となるのである。 我々は今日、元に還ってローギッシュ・オントローギッシュに歴史的社会的世界というものを分析して見なければならない。 我々は作られたものから作るものへとして、歴史的にこの世界から生まれるものでありながら、 我々は個人的自己として、すべて直観的なるものを棄てて、合理的となると考える。 我々は個人的自己として絶対矛盾的自己同一的なるもの超越的なるものに対しているのである。 我々は個物として世界を映すことから働き、行為的直観的に物を構成することによって、 我々は制作的身体的に物を見、かく物を見ることから働く制作的身体的自己においては、 我々は意識的に自由であればあるほど、逆に行為的直観的に絶対矛盾的自己同一に対するのである。 我々は我々の住む土地、そこに分布された動植物、太陽、水、空気等から絶えず影響される。 我々は無手でこの世界に生まれて来たのではない、我々は身体をもって生まれて来たのである。 我々は独創的であるという点に関してあまりにも価値を置きすぎているのではないだろうか 我々は生物的個体として既に自己否定的に世界を映すことによって欲求的である、本能作用的に形成的である。 我々は皆自分が自分らしくありたいという願望を抱くのはそれ自体自然とも言えるであろう 我々は矛盾的自己同一的世界の形成要素として、そこにどこまでも論理的でなければならない。 我々は社会的制作的に歴史的生命の始めから既に物理学的に世界を見ているのである。 我々は絶対未来の立場に立つものとして、行為的直観的にどこまでも形成的である。 我々は自己自身を形成する世界の個物として形成作用的に働くのでなければならない。 我々は行為的直観によって、物を概念的に把握するのである(概念とはベグリッフである)。 我々は行為的直観的に物を見、物を見るから形成するということができる。 我々は行為的直観的に製作するのである、製作は意識的でなければならない。 我々は表現作用的に物を見、表現作用的に物を見るから働くということができるのである。 我々は過去から未来への因果的束縛を越えて思惟的であると考えられる、自由と考えられる。 我は世界の中にいて他に対しているのであるが、我に対するものは何よりも汝である。 我は汝に対して我であり、汝なしには我は考えられない、そして汝は単なる客観でなく主体である。 我国の今日まででは、大体において認識論的立場とか現象学的立場とかいうものが主となっている。 戦争になって以来、両国の人々は行き来してはいけないことになっており、船が港に出入りすることも皇帝の命令でとめられていたので、 戦争の原因ならたくさんありますが、主なものだけを言ってみましょう。まず、王様の野心です。王様は、自分の持っている領地や、人民だけで満足しません。 戸外にいるという幸福感がひどく大きかったので、今度は歩いていく道の難儀も我慢できた。もしひとりであったなら、もっとよく歩くこともできたろう。 所有者の変動はほとんど起こらないし、小さい境界争いなどは自分たちで片づけます。そうだとしたら、測量技師なんかわれわれにとってなんだというんです? 所轄警察署からはもちろん、警視庁からも、捜査係長その他が自動車をとばしてくる、篠崎家は、上を下への大さわぎになりました。 手すりは錆ついて、配水管の塗装ははげ、むき出しのコンクリートは雨で濡れたように黒いしみがついていた 手で働くよりももっとよく頭で働くことが出来るとしたらパンのよういくらいはもちろんのことだと思ったからでした。 手紙には君のことも書いてあるよ。つまり君はときどき私と官房長とのあいだの通知を伝えるということだ。それで私は、君が手紙の内容を知っているものと 技術というと直ちに物質的生産の技術を考えることは、世界というと直ちに自然界を考えることと同様、 技術において、客観的なものは主観化されると共に主観的なものは客観化される。 技術においては、まず客観的な法則の知識、次に主観的な目的があり、両者の統一が求められるが、 技術にはつねに道具があるが、道具は主観的・客観的なものとしてそれ自身また技術的に形作られたものである。 技術によって主体と環境という対立したものは媒介され統一されるのである。 技術の中に入りながら技術を超えているという内在的超越でなければならぬ。 技術の存在の仕方には常識の存在の仕方と類似するところがあるであろう。 技術の本質は主観的なものと客観的なものとを媒介して統一するところにある。 技術の目的は、主観的なものと客観的なものとを媒介して統一する技術そのもののうちにあるのであって、 技術的であることによって主体は客観を我が物として真に主体となるのである。 抽象作用とは表現作用的自己が記号的に世界を映ずることである、即ち言語的に。 抽象的な知的自己に対しては単に与えられたものという如きものが考えられるであろう。 抽象論理的に考えられるように、単に過去と未来とが結び附くとか一になるとかいうのではない。 持っている知識が矛盾に陥ることによって否定され、全く知っていないといわれるような関係にあるのである。 掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう 掘り出した砂を砂場の真ん中に集めて、固めて、山にして、また山に砂をかける 探偵はそういって、みょうな微笑をうかべましたが、小林君には、先生の考えていらっしゃることが、少しもわからぬものですから、 探偵はそこまでいうと、いきなり小林君の耳に口をよせて、なにごとかヒソヒソとささやきました。「エッ、なんですって?」 支度ができ上がらないのに、お客たちが集っていた。ところが、だれ一人としておかみの禁止に逆らって台所へ足を踏み入れようとする者はいなかった。 故にこの世界においては、個物は個物的であればあるほど、超越的一者に対する。 故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。 故にそこに我々が実践によって実在を映すとか、物が物自身を証明するとかいうこともできる。 故になお現在から現在へ、形から形へといわれない、なお真に作られたものから作るものへとはいわれない。 故に動物の本能的集団というものは与えられたものたるに反し、人間の社会というのは作られて作り行くものでなければならない。 故に我々が財産をもつということは、単に個人の働きによってしかいい得るのではなく、客観的世界によって承認せられなければならない。 故に我々の行為は、もと行為的直観的に起こる、物を見るから起こるというのである。 故に我々はこの世界の中に自己同一を置く我々の行為によって宗教に入るのでなく、 故に文化と宗教とはどこまでも相反する所に、相結合するということができる。 故に歴史的世界において主体が環境を形成するということは、形相が質料を形成するという如きことではない。 故に真の直観の世界は、我々が個物的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。 故に絶対矛盾的自己同一として現在から現在へと動き行く世界の現在において、 救いを求めるように話しかけてみましたが、何とも答えてくれません。私のすぐ前に立っている人々は、その身なりで、偉い方らしく思われました。 教師はうなずき、またもや叫び声を上げ始めた子供たちのむれといっしょに、立ち去っていった。彼らはまもなく急な坂になっている小路のうちに消えた。 数学の問題と答案を、薄い煎餅の上に、特別製のインキで、清書しておきます。学生たちに、お腹を空っぽにさせておいて、この煎餅を食べさせます。 敵と目標との大きさにふさわしく、慎重に前へ進んでいくかわりに、一晩じゅうここのこぼれたビールのなかでころげていたのだ。 敵の艦隊が大きな半月形を作って進んで来るのは、すぐ見えましたが、私の姿は、胸のところまで水につかっていたので、見分けがつかなかった 文化的発展が実体的自由としての国家を媒介とするということもできるのである。 文章のはじめから終りまで読んで意味をたどる力がなくなっているのです。ですから、何もかも一向面白くはないのです。 斜めにすれば、島は斜めに動きます。そして、磁石を土面と水平にすれば、島は停まっています。 新しい踊り手が舞いこんだとでもいうふうに、彼女のほうを振り向いたのだった。事実、一瞬のあいだは、フリーダが鞭を落してしまいそうに見えたが、 新しくたくさんの工場をたてて、それらのものをこさえさせました。やがて、シモン王は、隣りの国の王に戦をしかけました。 新たなる世界が創造せられるということは、単に過去の世界が否定せられるとか、なくなるとかいうのではない。 旅行中もし馬車にあきると、召使が彼の前の蒲団の上に箱を置いてくれます。そこで、私は三つの窓から外の景色を眺めるのでした。 既にいった如く、それは作られたものから作るものへ、即ち主体と環境との矛盾的自己同一にあるのでなければならない。 日が上ると、車はまた進みだしました。そして正午頃、車は都の近くにやって来ました。皇帝も、大臣も、みんな出迎えました。 日本に立ち寄ったのは、ほんの短い間でしたし、そのうえ、私は日本語をまるで話せなかったので、そのことを確めてみることもできなかったのです。 日本へ寄ってみようと思っていたからです。その日本では、オランダ人のほかは、一さいヨーロッパ人を上陸させない、ということを、私は知っていました。 明日はひとつ、これに火をつけて、卵を焼いておこうと思いました。その夜は、食物をしまいこんだ洞穴に入って、拾い集めた枯草の上で寝ました。 明智探偵ならば、いくら相手がインドの魔法使いだって、けっして負けやしないと、かたく信じているのです。 昔から遊び場に困ったときによく使う、親しみと退屈さにまみれた公園に僕らはいた 時々、自分の心が分からなくなる時がある。だから僕はカーテンを引き、ノートに書き始める。 時がどこまでも一度的なると共に、現在が時の空間として、現在から現在へと、現在の自己限定から時が成立すると考えられる如く、 時が単に直線的に考えられ、現在というもののない世界においては、我々が働くということはない。 時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。 時というものを抽象概念的に考えれば、過去から未来へと無限に動き行く単なる直線的進行と考えられるであろう。 時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、 普通のヤーフのように働かすか、それとも、泳いで国へ帰らすか、どちらかにせよ、と言われるのです。 普通の小学生ならば、これからの楽しい夏休みのことで頭の中が一杯のとき。 更に従来の主観・客観の概念においては、自己は主観として存在でなく、一切の存在は客観と見られる故に、 書類がたちまち部屋の半分を埋めてしまった。「大変な仕事になってしまったな」と、村長はうなずきながらいった。 最も必然的と思われているものが単に可能的なものではないかと疑われてくるところに、 最初に退いていった何人かがドアに突きあたって、ドアが開き、夜気がさっと流れこんできた。みなはフリーダといっしょに消えてしまった。 最初のうちはきわめて小さなものだったのでしょうが、ソルディーニ氏のようなお役人たちの熱心さによって、大きなものとなってしまいました。 服装は飛島のと同じだし、彼等の言葉も、私はよくわかっていたので、何の気がかりもなく、町の方へ歩いて行きました。 望遠鏡や顕微鏡の発明なしには近代科学の発達は考えられないであろう。 朝早く、沢山の人が黒かグレーのスーツを着て、ピカピカに磨いた黒い革靴を履いて 木や、家畜や、人間などを見ると、なにかリリパットへでも来たような気がします。行き会う人ごとに、なんだか踏みつけそうな気がして、 木片をつまんで捨てる動作を三回終えたら、僕は一歩下がって、木箱に向けて礼をする。 木箱と僕との間に置かれた台の上に、その上の器に、その中の木片に、手を伸ばす。 未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているという矛盾的自己同一的現在(歴史的空間)において、 本書を通じて私が特に明らかにしようとしたのは真理の行為的意味である。 本能というのは、有機的構造に基いた、ある種に通じての行動の型である。 本能というのも、生物と世界との関係から理解せられなければならない、行動心理学においてのように。 本能による適応が直接的であるに対して、知性による適応は媒介的である。 本能もすでに技術的であるといっても、それは身体の器官に制約され、身体は無限の形をとり得ず、 本船の方へ引っ張り上げようとしていると、ちょうどそのときハンカチのついた棒を穴から突き出す者があるので、 本質的には表現作用的といっても、真に外に物を作るということはできない。 村々を占領するために兵隊をつかわしました。兵隊たちが村に入ると、村の者たちは男も女も、びっくりして家を飛び出し、ものめずらしそうに 村に対して、技師の仕事に必要な図面や書類を用意しておくように、と命令が下されたのでした。 村は深い雪のなかに横たわっていた。城の山は全然見えず、霧と闇とが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。 村長さんがなぜそんなことを心配されるのか、わかりません。私の考えでは、あなたはしたいことをなさればいちばんいい、と思います。 村長は、でも学校のなかはひどく汚いじゃないか、といわれるんです。私は、ほんとうのことなんですが、そんなにひどくはありません、と答えました。 村長はここで話を中断した。まるで話に熱中しすぎて度を超した、あるいは少なくとも、自分が度を超したということはありうることだ、といわんばかり 村長もそのことを彼なりに感じているかのように、不快そうにベッドのなかで寝返った。ついに村長がいった。 東京中のどこにでも、あのぶきみな姿をあらわして、いたずらをしていた黒い影は、だんだんそのあらわれる場所をせばめてきました。 栗毛の子馬が、木の根っこを一本、私の方へ差し出してくれました。私は手に取って、ちょっと臭を嗅いでみましたが、すぐていねいに返してやりました。 桂君が、けっして手ぬかりはなかったといっています。みんな小学生ですけれど、なかなかしっかりした人たちですから、ぼくも信用していいと思います。 桂君が手まねきをしながら、ささやき声で一同にさしずしますと、たちまち七人の少年の姿が消えてしまいました。 桂君は、大胆にも、相手にさとられぬよう、ソッとあとをつけてやろうと決心しました。 桂君は少年探偵団のことを考えると、にわかに勇気がでてきました。いけがきのかげに身をかくして、じっと見ていますと、 桂少年は、まるでネコの前のネズミのように、からだがすくんでしまって、目をそらすこともできず、 桂少年は、怪物は墓地の中で、煙のように消えてしまったということを、のちのちまでもかたく信じていました。 案のじょう、くせ者は塀に行きあたって当惑したらしく、方向をかえて、塀の内がわにそって走りだしました。 横になっていたために乱れてしまった頭髪にまで気がついて、ちょっとのあいだ身体を起こし、ナイトキャップからはみ出た髪形をなおしていた。 次に、ほかの者たちの顔もそこから現われた。小さい声でだが、高低いろいろまじった合唱の歌さえ、聞こえてきた。 次に二人はいっしょに手紙を読み、少しばかりささやきを交わしていた。一方、助手たちはちょうど「万歳!」と叫んだところだった。 次に皇帝は、鉄の筒を見せよと言われました。鉄の筒というのは、私のピストルのことです。 次に科学は存在を種々の領域に分ってそれぞれの領域について研究する。 次の村へ行くと、やはり同じことが起りました。そうして兵隊たちは一日二日と進みましたが、どの村へ行っても同じ有様でした。 次の部屋に入ると、悪臭がむんと鼻をつきました。びっくりして私は跳び出したのですが、案内者が引きとめて、小声でこう言いました。 次第に穴は広がっていった。爪楊枝からマンホールとなって、マンホールから東京ドームとなった。 欲求的なる身体的存在としても、我々は既にかかる自己矛盾的存在であるのである。 正午頃になると、一人の召使が、食事を持って来ました。それはいかにも、お百姓の食事らしく、肉をたっぶり盛った皿が、 正気を保つことができず、ばたばたと大人は倒れていった。死んでいった。大人は誰もいなくなった。 正確にいうと、その人間がやくざなことはわかっているとでもいうかのように、信用しないのです。これは正しいことだと思いますね。 歴史の伝えるところによると、このために、六回も内乱が起り、ある皇帝は、命を落されるし、ある皇帝は、退位されました。 歴史的に与えられたものは、絶対矛盾的自己同一的現在において世界史的に与えられたものとして、 歴史的世界においては、過去は単に過ぎ去ったものではない、プラトンのいう如く非有が有である。 歴史的世界において主体と環境とがどこまでも相互否定的に相対立するというのは、時の現在において過去と未来とが相互否定的に対立する如く対立するのである。 歴史的世界の生産様式が非生産的として、同じ生産が繰り返されると考えられる時、それが普通に考えられる如き直線的進行の時である。 歴史的世界は、生物の始めから人間に至るまで、多と一との矛盾的自己同一である。 歴史的創造作用として現実を把握することが、具体的理性的ということである。 歴史的現在においては、どこまでも過去と未来とが矛盾的に対立し、かかる矛盾的対立から矛盾的自己同一的に新たな世界が生まれる。 歴史的生命が自己自身を具体化するのである、世界が真に自己自身から動くものとなるのである。 歴史的生命とは矛盾的自己同一的現在の自己形成としてイデヤ的であるのである。 歴史的生命には行為的直観的に歴史的身体即ち社会というものがあるのである。 歴史的社会的世界というのは、作られたものから作るものへという世界でなければならない。 死ということは絶対の無に入ることであり、生まれるということは絶対の無から出て来ることである。 残してきた妻や子供たちのことが、眼に浮んできました。みんながとめるのもきかないで、航海に出たのが、今になって無念でした。 残念ながら、私は性分でこの原則に従うことができないのです。ごらんのように、他国者のあなたにも、すべて打ち明けてしゃべってしまいます。 殿さまが、たいへんかわいがっておいでになったばかりでなく、その部落のインド人は、このお姫さまを神さまのようにうやまった。 母親は、胸の上で手を組み、あまりふとりすぎてほんのちょっぴりしか歩くことができない。 毎日せっせと働いて、例の商人から貰った金を、王のところへ持って来て納めるだけでした。 気を取りなおして、やっと洞穴から這い出ましたが、そのときには、もう日が高くのぼっていました。私はしばらく、岩の間を歩きまわりました。 気付くと都庁上空に現れ、あっという間に昼間の新宿を闇の中に飲み込んだ。 気象衛星も軍事衛星も、天体望遠鏡も、イージス艦のレーダー網も、羽田の管制塔も、 水が地下室の天井までいっぱいになってしまうようなことはないでしょうか。ひょっとすると、まにあわないかもしれません。 水は、そうして立っている小林君の足をひたし、くるぶしをひたし、やがてじょじょに、じょじょに、ふくらはぎのほうへ、はいあがってくるのです。 水夫の一人が、ポルトガル語で尋ねました。ポルトガル語なら、私もよく知っているので、すぐ立ち上って答えてやりました。 決定せられたものからという立場からは、我々の行為は抽象論理的でなければならない。 泣くんじゃないよ。今にね、警察のおじさんが助けに来てくださるから、心配しなくてもいいんだよ。さあ、もっとこっちへいらっしゃい。 海へ行けば、この国から逃げ出す工夫が見つかるかもしれません。そこで、私は身体工合の悪いことを訴えて、ひとつ海岸へ行って 海岸には尖った岩が一面に立ち並んでいて、海が荒いので舟で乗り出す人はいません。この国の人は他の国と行き来することはまるでないのです。 海賊どもは、恐ろしいけんまくで、手下の先頭に立って入って来ましたが、私たちがおとなしくひれ伏しているのを見ると、丈夫な縄で、一人残らず 海賊の中に、一人のオランダ人がいましたが、私たちを今に海の中にほうりこんでやるぞ、と言っていました。 海賊船の一隻の方は、日本人が船長でした。その男は私のところへやって来て、いろんな質問をするので、 海賊船を離れて、しばらく行くと、私は望遠鏡で島影を五つ六つ見つけました。そこでとにかく一番近い島へ漕ぎつけるつもりで、帆を張りました。 測量技師さん、今日あなたと何をお話ししたのか、わたしにほとんどわかりませんわ。何かお気を悪くさせることがありましたなら、許して下さいね。 測量技師として採用されるべきかどうか、ということについてお話しになりますが、私はすでに採用されたのですよ。ここにクラムの手紙があります 濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。 火事が消えたとき、もう夜は明けていました。私は皇帝に、よろこびの挨拶も申し上げないで、家に戻りました。 灰色がかった黄色のあらい生地の服を着て、もっと清潔で、もっと一様な身なりをしていた。上衣はだぶだぶで、ズボンはぴったりしている。 無にして有である。作られて作るものたる我々に対して、世界は表現的である。 無数なる個物の相互否定的統一の世界は、逆に一つの世界が自己否定的に無数に自己自身を表現する世界でなければならない。 無目的に何周も。チャンネルを回すこと自体が目的のように何周も回した。 無知と知との中間といわれる哲学の道は直線的でなくて否定の断絶に媒介されたものであり、知の無知への転換を経た知への道である。 無論それは矛盾的自己同一的現在の自己限定としてどこまでも論理的に自己自身を媒介すべきはいうまでもない。 無限なる過去から無限なる未来へとして、どこまでも自己自身の中に自己同一をもたない世界が、 無限なる過去と未来との矛盾的対立から、矛盾的自己同一的に物が出来るということでなければならない。 無限の過去と未来とがどこまでも現在に包まれるという絶対矛盾的自己同一の世界の生産様式においては、 無限の過去と未来とがどこまでも相互否定的に結合する絶対矛盾的自己同一的現在の世界においては、それはイデヤ的ということができる。 無限の過去と未来とが相互否定的に現在において結合し世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、 然るにかかる立場から表現作用的に物を構成し行為的直観的にこれを現実に見ることによって、 然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、自己が世界の一要素となることである。 然るにモナド的に自己が世界を映すことが逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという人間に至っては、 然るに多が自己否定的に一、一が自己否定的に多として、多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、 熱い海を渡ってゆくうちに、船員たちが熱病にかかってたくさん死んでしまいました。そこで、私はある島へ寄って、新しく代りの船員をやとい入れました。 燕という鳥は所をさだめず飛びまわる鳥で、暖かい所を見つけておひっこしをいたします。 父親と母親は、イワンについて王様のところまで行くつもりで、やって来ましたが、イワンがその根っ子をやってしまって、 父親のところへ行って言いました。「お父さん、あなたはお金持なのに私にはまだ何もくれませんでした。あなたの持ちものを分けてその三分の一を私に下さい。 牛は、春の気配が牛小屋の中にまで入ってきたのを感じて、時々モウ、モウと鳴きました。 物が直観的に与えられるということは、単に受働的に見られることであるとか、 物が自己の外にあるというのは身体の外にあることである、さもないと行為というものは考えられない。 物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。 物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。 物を具体概念的に把握するというのは、作られて作るものとして物を歴史的生産様式的に把握することでなければならない。 物を制作的身体的に見るということは、物を生産様式的に把握することである、即ち具体概念的に把握することである。 物を概念的に把握するということは、行為的直観的に把握することでなければならない。 物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、自己に世界が映されることから始まる。 物理学は物理現象を取扱い、生物学は生命現象を取扱うというように、 物理学的世界といっても、この歴史的世界の外にあるのではなく、歴史的世界の一面たるに過ぎない。 物理学者が物理学的世界の個人的自己として行為的直観的に物を把握することでなければならない。 物理学者は物理的世界像を、生物学者は生物学的世界像を形作ろうとしている。 物理的に考えられる世界には、生産ということはない、同じ世界の繰り返しに過ぎない。 物理的世界は数学的記号によって表される数学的形の世界である。 物質の世界から生物の世界へ、生物の世界から人間の世界へ発展するのである。 物質的世界というも、矛盾的自己同一的に自己自身を形成するものである。 物質的世界というものも既に作られたものであり、作られたものは環境的として主体を形成し行く。 特殊的であると同時に一般的であるというところに、科学的研究は成立する。 猿が私をつれて行くのを見ると、グラムダルクリッチは「キャッ」と叫びました。彼女は気狂のようになってしまいました。 猿に抱かれていた間どんな気持がしたか、あんな食物の味はどうだったか、どんなふうにして食べさすのか、などお尋ねになります。 王、王妃、そのほか、宮廷の人たちが、毎日見舞いに来てくれました。猿は殺され、そして今後こんな動物を宮廷で飼ってはならないことになりました。 王はもういろんなくわだてをやめて、ただ生きて行けるだけでがまんするようになりましたが、やがてそれも出来なくなりました。 王は私との会見が大へんお気に召されました。私と通訳に宮中の部屋を貸してくださって、毎日、食事とお小遣を与えてくれました。 王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。 王もこのやり方は喜んでいません。それにもう一つ、これには困ることがあるのです。 王妃が肉を切って、私の皿に入れてくださると、私は自分でさらに、それを小さく切って食べます。 王妃と一しょに食事をするのは二人の王女だけで、姉の方は十六歳、妹は十三歳と一ヵ月でした。 王妃は一番薄い絹地で、私の洋服を作らせてくださいました。が、これはイギリスの毛布ぐらいの厚さで、馴れるまでにはずいぶん着心地の悪い服でした。 王妃は私がすっかりお気に入りで、私がいないと食事も召し上らないほどになりました。私は王妃の食卓の上に、 王様は大そう喜んで、イワンをおそば近く呼んで、大へん立派な衣しょうを着せました。「わしの婿になれ。」と王様はおっしゃいました。 現在がいつも自己の中に自己自身を越えたものを含み、超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的なる世界である。 現在がどこまでも絶対現在的であればあるほど、認識が客観的ということができる。 現在が形をもち、過去未来を包むということ、そのことが自己自身を否定し、自己自身を越え行くことでなければならない。 現在が形をもつという時、そこに私のいわゆる自己自身を形成する世界があるのである。 現在が現在自身の形を有し、現在が現在自身を限定するとか、形が形自身を限定するとかいうのである。 現在が現在自身を越えると考えられ、自己自身を越えたものを映すとして、意識は志向的と考えられる。 現在が自己自身の中に自己自身を越えたものを含む世界は、表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。 現在というものは無内容である、現在が形をもたない、把握することのできない瞬間の一点と考えられる。 現在というものをただ抽象的に考えれば、現在から現在へなどということは、飛躍的とか無媒介的とか考えられるかも知らぬが、 現在において同時存在的なる矛盾的自己同一的現在の形成要素として、 現在において無限の過去と未来とが矛盾的に対立すればするほど、大なる創造があるのである。 現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。 現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。 現実から遊離した哲学も、その遊離することにおいてなお現実に制約されているのである。 現実とは単に与えられたものではない、単に与えられたものは考えられたものである。 現実に出発点を取るということは、哲学の一つの立場をあらかじめ取るということではない。 現実のうちに我々が純粋に合理的に演繹することのできぬものが存在するということを前提している。 現実の世界はどこまでも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。 現実の世界は多にして一、一にして多であり、一即多、多即一という弁証法的なものであるところに、 現実の世界は多の一として決定せられた形を有った世界でなければならない。 現実の中で、常識が常識としては行き詰まり、科学も科学としては行き詰まるところから哲学は始まる。 現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。 現実は我々がそこにおいてある場所であり、我々自身、現実の中のひとつの現実にほかならぬ。 現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。 理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的であるということができる。 理窟を言わせれば、さっぱり筋が通らないし、むやみに反対ばかりします。彼等は頭も心も、数学と音楽しかわからないのです。 理論の発達によって実践は発達し、実践の発達によって理論は発達する。 環境が主体を中心とする円の如く表象されるのもそのためであって、円はその周辺をどれほど拡げても開いたものとはならぬ。 環境が主体を包み主体を形成するということは環境が自己自身を否定して即主体となることでなければならない。 環境が我々に働きかけるのは我々が環境に働きかけるのに依るということもできる。 環境が自己否定的に自己自身を主体化することによって真の環境となるといったが、 環境が自己否定的に自己自身を主体化するということは、自己自身をメフィスト化することである。 環境というと普通にまず自然が考えられるが、自然のみでなく社会もまた我々の環境である。 環境に働きかけることは同時に自己に働きかけることであり、環境を形成してゆくことによって自己は形成される。 環境の意味での自然においてある個々の物も単なる客観でなく、むしろ汝の性格において我に対している。 環境は、私に対してあるのでなく私がその中にあるものとして、対象或いは客観とは考えられない。 環境はどこまでも表現的であり、主体へ、作るものへ、どこまでも直観的に迫るのである。 環境は主体から作られたものでありながら、単に作った主体のものではなく、これに対立しこれを否定するものである。 環境は単に閉じたものでなく、その世界性格において開いたものの性質をもっている。 環境は我々に近いものであるとすれば、人間にとって人間よりも近いものはなく、 環境は我々に遠いものであるとすれば、人間にとって人間よりも遠いものはない。 環境は自己否定的に主体化することによって環境となるという域に達するのである。 環境を変化することによって環境に適応するという人間の能動性は知性によって発揮される。 生まれつきの従順さのままに、フリーダは飛び起きようとしたが、次に自分がどこにいるのかを考え、身体をのばし、静かに笑って、いった。 生命現象は物理的に説明されず、更に心理現象は生物学的に説明されないとしても、 生物の合目的的作用においては過去と未来とが現在において結び付くといっても、なお過程的であって、真の現在というものはない。 生物の形はただ偶然に出来たものでなく、その棲息する環境との関係から限定されたものである。 生物の形は技術的な形であり、自然も技術的であるということができる。 生物現象というも、どこまでも化学的物理的現象に還元して考えることができるであろう。 生物的世界においては既に場所的現在において過去と未来とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。 生物的世界に至っては、既に生産様式が内容をもつ、時が形をもつということができる。 生物的生命には、矛盾的自己同一的形成として生物的身体即ちいわゆる身体というものがある如く、 生物的生命の世界ではいまだ主体と環境とが真に矛盾的自己同一とならないのである。 生物的生命の世界といえども、右にいった如く既に矛盾的自己同一的であるが、 生物的生命の世界においてはいつも主体と環境とが相対立し、主体が環境を形成することは逆に環境から形成せられることである。 生物的生命の種というものも、かかる弁証法的過程によって出来たものでなければならない。 生産せられたものが単に過去に入り去るのでなくまた生産するものを生産するのである、そこに真の生産というものがあるのである。 生産様式的に実在を把握することである。具体概念とは、実在の生産様式でなければならない。 用心のうえにも用心をしなければいけないから、いつもよびつけの自動車を呼んで、うちの今井さんが助手席に乗って、そして、品川のおばさん 男の顔は明るくてわだかまりもなさそうであり、眼がひどく大きかった。彼の微笑はなみなみでなく人の心を明るくさせるものがあった。 町に着くと、主人は、行きつけの宿屋の前で馬をおり、しばらく、宿の亭主と相談していました。それから、いろんな準備が出来上ると、 町をはなれ、人気のない広っぱを少し行きますと、大きな寺のお堂が、星空にお化けのようにそびえて見えました。 畳六畳敷きほどの、ごくせまいコンクリートの穴ぐらでした。壁や床のコンクリートも、気のせいか、まだかわいたばかりのように新しく感じられます。 発議をしたのは別な課なのだということは、われわれはもちろんずっと前から忘れてしまっていました。 皇帝が私の身体の上にのぼってみたがるのを、それは危険でございます、と言って、大臣たちはとめていました。 皇帝は何度も私に話しかけられましたが、残念ながら、どうもお互に、言葉が通じません。 皇帝は大喜びで私を迎えてくれました。すぐ、その場で、ナーダックの位を私にくれました。これはこの国で最高の位なのです。 皇帝は許してくれましたが、ひどく気の乗らない御様子でした。これはどうしたわけなのか、私にはその頃わからなかったのですが、 監督の役所がそのことをずっとあとになってやっとはっきりさせるのです。しかし、われわれにはもうその結果はわかりません。 目が覚めたら十一時だし、着替えしてたら荷物が来るし、昨日は洗い物やってなかったしで……もう、滅茶苦茶。 目をこらして、暗い天井を見あげていますと、はっきりとはわかりませんけれど、天井に小さな穴がひらいて、そこから何か太い管のようなものが、 直接に具体的なものは真に具体的でなく、却ってそれ自身抽象的である。 直線的なるものが円環的なる所に、創造ということがあるのである、真の生産があるのである。 直観とは、我々の行為を惹起するもの、我々の魂の底までも唆すものである。 直観とはただ我々の自己が世界の形成作用として、世界の中に含まれているということでなければならない。 直観的に与えられたものが、論理的に我々を動かすというのは、普通の考えに反することであろう。 直観的に見られるものは行為的・制作的に見られるのであり、表現的に我々を動かすものである。 相対と抽象的に対立する絶対は真の絶対でなく、真の絶対は却って相対と絶対との統一である。 相手が強すぎて戦争になることもあれば、相手が弱すぎてなることもあります。また、人民が餓えたり病気して国が衰えて乱れている場合には、その国を攻めて 相手の微笑を追い払いたくはなかったのだった。そこで、ドアを開けるように亭主に合図だけすると、晴れ渡った冬の朝景色のなかへ出ていった。 相手は私に、岩からおりて海岸の方へ行け、と合図しました。で、私はそのとおりにしました。すると、その飛ぶ島は、ちょうど、私の頭の上に、 真に一から多へというには、どこまでも時間的なものと考えなければなるまい、ベルグソンの純粋持続の如きものを考えなければなるまい。 真に個物相互限定の世界は、ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。 真に客観的なものとは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。 真に我々の魂に迫るものは、かえって抽象論理を以て我々を唆すものでなければならない。 真に矛盾的自己同一の世界においては、主体が真に環境に没入し自己自身を否定することが真に自己が生きることであり、 真に矛盾的自己同一的な歴史的社会的世界においては、いつも過去と未来とが自己矛盾的に現在において同時存在的である。 真の具体的一般者とは個物を含むものでなければならない、場所的でなければならない。 真の具体的当為とは、どこまでも我々を越えたものが行為的直観的に外から我々に求めるものでなければならない。 真夏の日中に、何時間も外にいることはつらいから、君は僕の家に避難することにした。 真正面にこちらを向いているのです。まっ黒な顔の中に、白い目と白い歯とが見えるからには、こちらを向いているのにちがいありません。 眠っているふうをよそおうことは無意味なので、彼は仰向けの姿勢へもどった。農夫たちがびくびくしながら身体をよせ、話し合っているのが見えた。 眠っては、食べるのが一番の楽しみで、おまけに、いたずらをするのが大好きという子だったのです。 眼を助手たちから村長へと向け、また助手たちのほうへ走らせたが、三人とも、区別ができないほど同じように薄笑いを浮かべているのを見て取った。 眼鏡のガラスにあたる矢もだいぶありますが、これは、眼鏡をちょっとグラつかせるだけで、大したことはありません。 瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。 矛盾は我々の行為的直観的なる所、制作的身体的なる所にあるのである。 矛盾的自己同一ということが、抽象論理的に考えられないといっても、実在とはかくの如く自己自身から動くものであろう。 矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、形から形へと考えられる世界でなければならない。 矛盾的自己同一として現在が現在自身を限定するとか、形が形自身を限定するとかいうことはない。 矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、一面には環境から主体へということでなければならない。 矛盾的自己同一などいうことは考えられないという人の自己は、矛盾的自己同一的にしか考えているのであろう。 矛盾的自己同一の世界は一面にどこまでもしか考えられる世界でなければならない。 矛盾的自己同一的な人間の世界では、主体が自己を環境に没することによって主体であり、 矛盾的自己同一的に、どこまでもイデヤ的形成的ということでなければならない。 矛盾的自己同一的に、一つの現在として現在から現在へと動き行く世界 矛盾的自己同一的にどこまでもかかる方向に進むことが歴史的発展の方向にほかならない。 矛盾的自己同一的に実在が把握せられる所に、行為的直観というものがあるのである。 矛盾的自己同一的に現在が形をもち、現在から現在へと自己自身を形成し行く世界である。 矛盾的自己同一的に自己自身によって動き行くもの、即ち真に具体的なるものが、論理的に真なるものである。 矛盾的自己同一的に自己自身を形成する唯一なる世界に撞着するのである。 矛盾的自己同一的世界がそこには自己自身の中に自己同一をもつものとして把握せられるのである。 矛盾的自己同一的世界がどこまでも行為的直観的に我々に臨むということは、 矛盾的自己同一的世界の自己形成として強迫的に与えられるのである。 矛盾的自己同一的現在が形をもたない世界の生産様式が非創造的である。 矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する世界は、多と一との矛盾的自己同一の世界であり、 矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界においてのみ、かかる概念的知識が可能なのである。 矛盾的自己同一的現在の世界においての個物としてということを意味するのである。 矛盾的自己同一的現在の世界においては、どこまでも個物と世界との対立がなければならない。 矛盾的自己同一的現在の自己形成は意識を契機とするものでなければならない。 矛盾的自己同一的現在を中心として、世界は何処までも符号的に表現せられると考えられるのである。 知性が技術的であるということも、本来、客観を主観に、主観を客観に媒介するということでなければならぬ。 知性の自律性はまた、自己自身が作り出したものに対してさえ自由であり得るところに認められるであろう。 知性の道具は物質的なものでなく、観念的ないし象徴的あるいは記号的なものである。 知性は技術の上に出ることができる、それは技術の中に入りながら技術を超えることができる。 知性は生物学的環境の圧力の結果であるよりも遥かに多く新しい環境の存在の条件である。 知性も技術的であり、否、本来技術的であるのは本能でなくて知性である。 知性も環境に対する適応に仕えるものであるが、それはまず自己に固有な手段によって自己の世界を構成する。 知識の主体にしても、いわゆる主観の如きものでなく、現実の人間の存在である。 知識は論理と直覚とが相対立し相媒介することによって成立するのではなく、 磁石の一方の端は、島の下の領土に対して、遠ざかる力を持ち、もう一方の端は、近寄ろうとする力を持っています。 社会というのは、矛盾的自己同一的世界の自己形成として成立するのである。 社会というものが、矛盾的自己同一的現在の自己形成として成立するものなるが故である。 社会の有機的な関係というのは、社会のうちに均衡が保たれている状態であって、 社会の特殊性は単なる特殊性ではなく、もと歴史的世界の生産様式であったのである。 社会の組織を作ることや国家の制度を作ることは技術に属し、政治の如きもすぐれた意味において技術である。 社会はどこまでも物質的生産的でなければならない。そこに社会の実在的基礎がある。 社会は作られたものから作るものへという歴史的生産作用として成立し、 社会は我々に働きかけて我々を変化すると共に我々は社会に働きかけて社会を変化する。 社会は経済機構をもたなければならない、物質的生産的様式でなければならない。 社会的ということなくして、作られたものから作るものへということはない、ポイエシスということはない。 社会的制作的に把握せられる物の生産様式が概念的知識の起源となるのであろう。 祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。 神と我々とは、多と一との絶対矛盾的自己同一の関係においてあるのである。 私から五六歩離れたところを、二匹が並んで行ったり来たりします。それは、ちょうど、人間が何か大切な相談をするときの様子とよく似ています。 私があまりあけすけに、陛下に申し上げたので、それが、皇帝のお気にさわったらしいのです。陛下は議会で、私の考えを、それとなく非難されました。 私がこの国で一番あぶない目に会ったのは、宮廷の役人の一人が飼っていた猿が、私にいたずらしたときのことです。 私がしばらく鉢の中で泳ぎまわっていると、乳母さんが駈けつけて救い出してくれましたが、そのときはもうクリームをずいぶん飲んでいました。 私がそこに住む環境は、この町、この国、更にいわゆる世界にまで拡げて考えても、つねに閉じたものである。 私がその島へおりると、すぐ大勢の人々が私を取り囲みました。見ると、一番前に立っているのが、どうも上流の人々のようでした。 私がちょうどブレフスキュ皇帝を訪ねようと、準備しているときのことでした。ある晩、宮廷の、ある大官がやって来ました。 私がもう気狂じみた目つきをしたり、変なことをしゃべらなくなったのを見ると、彼は大へん親切にしてくれました。 私が上陸して、草の上に何も知らないで眠っていたとき、小人たちは、私を発見すると、大急ぎで皇帝にお知らせしました。 私が上陸してすぐ出くわした、あのいやったらしい動物がいたのです。その三匹の動物がいま、木の根っこや、何か生肉をしきりに食っていました。 私が京都にきたのは、欧州留学から帰った直後の明治四十二年五月でした 私が今にも気絶しそうな顔をしているので、船長は気つけ薬を飲ませてくれました。 私が入りこんだために変ってしまったところなんか、少しだってありません。この二人のあいだには、つぎのような二つの場合があるだけです。 私が地面に手を差し出すと、乗手が馬を躍らしてヒラリと跳び越えます。大きな馬に打ち乗って、私の片足を靴ごと跳び越えるのもいます。 私が左手で胸の上の樽を投げてやると、小人たちは一せいに拍手しました。 私が彼等に好意を持っていたことは、それとなく彼等も聞いてわかったのでしょう。彼等はまず、私の勇気とやさしさをほめ、 私が斯くいうのは、かつて生物的生命を単に主体的といったのに反すると考えられるかも知れないが、 私が最初に会った教授は、広い教室にいました。そこには四十人ばかりの学生が集っていました。教授は一つの便利な機械を考えていました。 私が机に向って、静かにものを考えていると、何か窓から跳び込んで、部屋の中をあちこち歩きまわるような音がするのです。 私が歩きだそうとすると、馬は私の前に立ちふさがりました。しかし、馬はおとなしい顔つきで、ちょっとも手荒なことをしそうな様子はありません。 私が決定できることではありませんが。だが、どうしてそういう誤解がありえたのかということは、私からあなたに説明して上げることができます。 私が港へ着くと、大へんな人出で、なにしろ、あんまり大きな船なので、すっかり仰天していました。 私が生物的生命においては作られたものが作るものを離れない、単に主体的だという所以である。 私が眠り薬のおかげで、ぐっすり何も知らないで眠っている間に、この車が私の身体にぴったり横づけにされていました。 私が立ち上って歩きだしたのを、はじめて見る人々の驚きといったら、これまた、大へんなものでした。 私が自由に語った言葉は、すべて私自身のものとして私の責任におけるものである。 私が船に乗るところが見たいと言って、近所の人々を誘って一しょにやって来ました。そこで、私は改めてまた主人に別れを告げました。 私が見世物にされるということを、グラムダルクリッチは、母親から聞き出したのでした。 私が言葉をおぼえるというので、主人も、子供たちも、召使まで、みんなが私に言葉を教えてくれます。私は手あたり次第、物を指さしては名前を聞きます。 私たちの船は、どこともしれない海の上を、陸を求めて進んでいました。まだ、船には食糧も充分あるし、船員はみんな元気でしたが、 私たちの言ってることが、ほんとかもしれない、というふうにお考えになりました。陛下は王妃に、私の面倒をよくみるように言いつけられました。 私たちは、日本の東南にあるザモスキという小さな港町に上陸しました。 私たちはナイル河やガンジス河よりも、何倍も大きな河を、五つ六つ越したのです。ロンドンのテムズ河みたいな、小さな川は一つもないのです。 私たちは部屋を二つ三つ通り抜けましたが、どの部屋にも、同じような無気味な恰好の兵士が並んでいました。 私どもは、その鎖についているものを引き出してみよ、と言いました。これは半分は銀で、半分は透明なもので出来ています。 私どもは陛下の命令どおり、熱心に彼の持ち物を調べてみましたが、最後に、彼の腰のまわりに、一つの帯があるのを見つけました。 私なども、陛下は取るに足りない人間だとお考えでしょうが、これでも、いつか素晴しいお役に立つかもしれません。 私にできるのなら、あなたが反対される根本理由がなくなってしまうとともに、それ以外のあなたのさまざまな心配もきわめて疑わしいものとなるからです。 私には、あの身体検査のとき見せないで、そっとポケットに隠しておいた、眼鏡があります。その眼鏡を取り出すと、しっかり鼻にかけました。 私に会いに来る馬たちは、私の身体が、顔と両手の外は、普通の皮膚がまるで見えないので驚いていました。 私に対してあるといわれるのは環境でなく、私と一つの環境においてある他のものである。 私のいわゆる制作によって行為的直観的に物の生産様式を把握するということから発展し来ったものでなければならない。 私のイデヤ的生産的というのは、歴史的物質的地盤を離れて、単に文化的となるということではない。 私の件を依然としてきわめてつまらぬものの一つと呼んでおられますが、それでもこの件はたくさんのお役人にとっての大変な仕事となったのです。 私の噂は国中にひろまってしまいました。お金持で、暇のある、物好きな連中が、毎日、雲のように押しかけて来ます。 私の国では、仲間たちはみんな、動物の毛で作ったものを身体に着けています。これは寒さや暑さを防ぐためと、礼儀のためにそうするのです。 私の国ではフウイヌムのことを馬と呼んでいますが、それは立派な美しい動物です。力もあり、速く走ります。 私の国の馬はもう三つ四つの頃から、訓練されます。どうしてもいけない奴は、荷馬車引きに使われます。 私の姿を見つけると、ちょうどあの猫が鼠にするように、戸口から片手を伸してきました。私はうまく避けまわっていたのですが、 私の形といっているのは、実在から遊離した、ただ抽象的に考えられる、静止的な形をいうのではない。 私の性質がおとなしいということが、みんなに知れわたり、皇帝も宮廷も軍隊も国民も、みんなが、私を信用してくれるようになりました。 私の意識現象が多なると共に私の意識として一であるというのは、右の如き意昧においての矛盾的自己同一でなければならない。 私の方もいろんな国の言葉で答えてみました。けれども、向うの言うこともわからなければ、こちらの言うこともまるで通じません。 私の方を見ては、何かしきりに相談しているようでしたが、ついに、その一人が、上品な言葉で、何か呼びかけました。 私の服がみすぼらしいというので、私の世話人が、翌朝、洋服屋を呼んで来ました。 私の立場がきわめて不安定であるということ、これはあなたも否定なさらないし、むしろそのことを証明しようと一生懸命になっておられる。 私の行為的直観というのは、全体が受働的に一時に現前するなどいう如きことではない。 私の行為的直観的に実在を把握するというのは、抽象論理を媒介とせないというのではなく、 私の言葉があの人に与える印象を見とどけるならば、私にはもう十分です。そして、もし私の言葉があの人に少しも印象を与えず、 私の評判を聞いて、あちこちの紳士たちが、百マイルも先から、今度は主人の家に押しかけて来ました。私は家でも休めなくなりました。 私の身体は彼等から見れば、山ほどもあるのです。それを平気で歩きまわっているのです。 私の通り路をあけろ、という命令は前もって出ていました。月夜で路は明るかったし、私は一人も人を踏みつけないで、宮殿まで来ました。 私の過去と未来とが現在において結合し、作られたものから作るものへ、現在から現在へという矛盾的自己同一は、我々の自己意識によっても分かるであろう。 私の顔と陛下の顔が向い合いになります。こんなふうにして、私たちは何度も話し合いましたが、ある日、私は思いきって、こんなことを申し上げました。 私の顔は、地上からはるかに見上げている方が、美しいそうです。私の掌に乗せられて、近くで見ると、 私の願いは許されることになりました。役人たちは、私が踏絵をしなくても、黙って知らない顔をしているように命令されました。 私の食器はちゃんと銀の箱に入れて、乳母さんがポケットにしまっていて、食事のときになって、欲しいというと、 私は、いつかは自由の身になりたい、という気持を、いつも持っていました。しかし、どうしたら自由になれるのか、それはまるでわかりませんでした。 私は、この乳母さんほどには、心配していなかったのです。いつかは、きっと自由の身になってみせると、私は強い希望を持っていました。 私は、その文章を書きつけるのでした。それから今度は本を開いて、日や月や星や、そのほか、いろんな平面図、立体図の名を教えてくれました。 私は、たまには、兎や鳥を獲って食べたり、薬草を集めてサラダにして食べました。 私は、ひとつストラルドブラグたちに会って話してみたいと思いました。そこで私は、紳士を通訳に頼んで、一度彼等と引き合せてもらいました。 私は、主人の家から六ヤードばかり離れたところに、自分の室を一つ作らせてもらいました。 私は、二人の教授がしきりに議論しているのを聞きました。どうしたら、人民を苦しめないで、税金を集めることができるかという議論でした。 私は、今、空に浮んでいるその島が、どちら側へ動きだすかと、じっと眺めていました。が、間もなく、島はこちらの方へ近づいて来たのです。 私は、普通の船員の仕事もしたことがあるので、帆でもオールでも使えます、とお答えしました。 私は、猫の鼻先をわざと、五六回、行ったり来たりしてやりました。それから、ずっと側まで近づいて行ってみました。 私はいつも一番遠いところに箱を置いてもらい、扉も窓もすっかり閉め、カーテンまでおろします。そうすると、それでまず、どうにか聞けるのでした。 私はこうして、ほとんど相手にもしてもらえないような国に、じっとしているのが、たまらなくなったのです。 私はこの国で、別にいじめられたわけではないのです。だが、どうも、なんだか、みんなから馬鹿にされているような気がしました。 私はこの国にいつまでも住んでいたい、と思うようになりました。ところが、どうしても、この国を立ち去らねばならぬことがもちあがりました。 私はこの国を去るようになったのですが、それを述べる前に、まず、二ヵ月前から、私をねらっていた陰謀のことを語ります。 私はこの頃、もうかなりうまく言葉が使えて、話しかけられる言葉なら、何でもわかるようになっていました。 私はごく簡単に、これまでの身の上話をしてやりました。すると、船長は夢の話でも聞いているような顔つきでした。 私はしばらくこの土地にいるのですが、もう今から少し心細い気がするんです。私は農夫の仲間でもないし、城の人間でもないんです 私はすぐそこで、『アンポニア号』という船の、オランダ人の水夫たちと知り合いになりました。 私はその箱の中を漕ぎまわって、自分の気晴しをやり、王妃や女官たちを面白がらせました。彼女たちは、私の船員姿を大へん喜びます。 私はたくさんの言葉を縦に書き、それに訳を書いてゆきました。短い文章も少しおぼえました。 私はできるだけ簡単に、わかりやすく話してやりましたが、私の国はオランダだと、一つ嘘をつきました。 私はふたたび、今になってやっとそのことを思い出したからだ、と答えてやりました。ソルディーニが、それはきわめて変だ、といいます。 私はまず、ボタンをはずして上衣を脱ぎました。次には、チョッキ、それから順々に、靴、靴下、ズボンと脱いでゆきました。 私はまた市街見物を皇帝にお願いしました。市民には、また家の中に引っ込んでいるよう、お達しが出ます。 私はみんなテーブルの上の椅子に乗せて、ちょうど私と向き合うように坐らせました。そのまわりには、見張りの兵もついていました。 私はもう一度、故国が見られ、あの懐しい人たちとも会えるのかと思うと、うれしさがこみあげてきました。船は帆をゆるめました。 私はもしこれで同じ人間に出会わなかったら、いずれ餓死するのではないかと心配になりました。 私はカント以後にロッチェがオントロギーの立場に還って認識作用を考えたと思う。 私はステッキの先のハンカチを振り、声をかぎりに呼んでみました。すると、それに答えて大きな叫び声が二三度繰り返されてきました。 私はブレフスキュ皇帝に会いに行きたいと思っているのですが、どうか行かせてくださいませ。 私はボートの中に、牛百頭、羊三百頭の肉と、それに相当するパンと飲物を積み込みました。それから四百人のコックの手で 私はミッツィのすばらしい記憶の助けを借りて、最初の発議は役所の職務上から出ているのだ、と答えてやりました。 私はヨーロッパで一番偉い人たちの集まりに出るよりも、ここで、フウイヌムの話を開いている方が、ずっと誇らしく思えました。 私はヨーロッパのことについて、商業のこと、工業のこと、学術のことなど、知っていることを全部話してやりました。 私はヨーロッパへの帰り途に、ひとつラグナグ島へ寄ってみようと考えていました。それから、さらに日本へも寄ってみたいと思いました。 私は一月もたつと、この国の言葉がかなりうまくなりました。国王の前に出ても、質問は大がい答えることができました。 私は主人夫妻と家族に別れを告げました。目は涙で一ぱいになり、心は悲しみで、掻きむしられるばかりでした。 私は九本の棒を取って、二フィート半の正方形ができるように、地面に打ち込みました。 私は二時間ばかりも眠りました。私は国へ帰って妻子と一しょに暮している夢をみていました。ふと目がさめて、あたりを見まわすと、 私は人間の歴史的形成の立場から芸術を見るのであって、後者から前者を見るのではない。 私は今では国王陛下にも、すっかりお気に入りになっていたので、この会食のときには、いつも私の椅子と食卓が、陛下の左手の塩壷の前に置かれました。 私は何度も、そのお金を彼に差し出してみましたが、やはり、彼の言うとおりに、おさめておきました。 私は個物はいつも絶対矛盾的自己同一即ち自己の生死を問うものに対するというが、 私は動物がこんな賢い様子をしているのを見て、大へん驚きました。馬でさえこんなに賢いのならこの国の人間はどんなでしょう。 私は右の如き歴史的生命の自覚という如きものを弁証法的論理というのである。 私は同じ船で来た一人の青年を、通訳にやといました。この通訳を使って、私は訪ねて来る人たちと、話をすることができました。 私は大喜びで満足し、誓いのサインをしました。すぐに私の鎖は解かれました。私は全く自由の身になったのです。 私は学士院を見物すると、もうこれ以上、この国にいても仕方がないと思い、また、イギリスへ帰りたくなりました。 私は家に戻ると五ヵ月間は、妻や子供たちと一しょに楽しく暮していました。が、再び航海に出ることになりました。 私は宿へ引っ張ってゆかれましたが、門口には、番人がちゃんと一人立っています。しかし、庭の中を歩きまわることだけは許されました。 私は従来、我々が物を作る、物は我々によって作られたものでありながら、 私は手まねで、そんなものは要らないということを伝えてやりました。陛下はしきりに何か私に質問されているらしいのでした。 私は数時間眠って、すっかり元気を取り戻しました。起きたのは夜の八時頃でした。 私は毎日、十回ずつ見世物にされましたが、人々はすっかり感心して、大満足のようでした。 私は王に何回もお目にかゝって、毎回数時間、この話をお聞かせしたのですが、王はいつも非常に熱心に聞いてくださいました。 私は病気で五六日引きこもっていましたが、その間に、だいぶこの国の言葉を勉強しました。 私は皇帝に、それは帽子というものだということを、よく説明して、どうかさっそくそれを取り寄せてください、とお願いしました。 私は箱の一番奥の隅へ逃げ込んでいましたが、猿が四方からのぞきこむので、怖くてたまりません。 私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。 私は臆病者だといって、王妃からよくからかわれました。そして、王妃は、お前の国の者はみんなそんなに臆病なの、とよくお聞きになります。 私は質問に答えるほかは、こちらから口を出して、しゃべったりするようなことはしなかったのです。 私は身体検査のとき、見せなかったポケットがあります。その中には眼鏡が一つ、望遠鏡が一つ、そのほか二三の品物が入っていました。 私は軽い食事をすませ、ぐっすり眠りました。六時間も眠った頃、目がさめ、それから二時間ばかりすると、夜が明けました。 私は雪でここにくるのを手間取りたくなかったのだが、残念ながら何度か道に迷ってしまい、そのためにこんなに遅くなってやっと着いたのです。 私は飛島の人から紹介状をもらっていましたので、それを持って、ある偉い貴族の家を訪ねて行きました。 私は食物を取り出して、腹ごしらえをすると、残りは洞穴の中にしまっておきました。それから岩の上で卵を拾ったり、乾いた枯草を集めました。 私は馬の声を注意して聞いていましたが、何度も「ヤーフ」という言葉が聞えるのです。 私も、知っているかぎりのいろんな外国語を使って、力一ぱいの大声で、話しかけてみました。 私もその国が見たいのと、何か発見でもありはしないかと思ったので、一しょにそのボートに乗せてもらいました。 私もできるだけ、その馬の声をまねしてみました。すると今度は栗毛が、別の言葉を教えてくれました。 私も剣を抜いて彼等を空中に切りまくりました。四匹は打ちとめましたが、あとはみんな逃げ去ったので、私はすぐ窓を閉めました。 私も子供のときリリパットの国の話を聞いて、縁側で蟻の行列を眺めていたら、自分がガリバーになったような気がしたものです。 私をねたんでいる人たちは、このときから、私にケチをつけだしました。そして、私を快く思っていない連中が、何かたくらみをはじめたようです。 私をヤーフにちがいない、と考えていたのです。しかし、ヤーフの私が物をおぼえたり、礼儀正しかったり、綺麗好きなので、彼はとても驚いたらしいのです。 私を見た連中が、これは素晴しいという評判を立てたものですから、見物人はどっと押しかけて、大入満員でした。 科学が常識化されることは、常識の進歩のためにも科学の発達のためにも 科学が経験的ないし実験的であるということは、実証的であることを意味している。 科学と技術とは、科学も行為的であり技術も知識的であるにしても、なお理論と実践として対立している。 科学において自然と対立した人間精神は、形のある独立なものを作る技術を通じて 科学の示す新しい事実、新しい観念、環境支配の新しい可能性をもって何を始めるかは、 科学の立場においてはそれが一旦引き離され、他方同時に自覚的に、方法的に結び付けられるのである。 科学は「何故に」ということに答えるものでなく、単に「いかに」ということを明らかにするのである。 科学は何よりも理論的知識、即ち論理的に組織された一般的な知識である。 科学は単に記述するのみで説明するものでないというのは、言い過ぎであるにしても、 科学は実証的でなければならず、実証性は科学の欠くことのできぬ要素である。 科学は思惟の技術を必要とするのみでなく、更にすぐれた意味において技術的である。 科学は技術化されて日常生活のうちに入るに従って常識のうちに入ってゆく。 科学は時と処を超えて通用する即ち普遍妥当的といわれる知識を求める。 科学は演繹的であると共に帰納的であり、帰納的であると共に演繹的である。 科学は科学としてよりむしろ技術を通じて常識化されるといわれるであろう。 科学は自然を支配するために自然についての客観的知識を求めるのであって、 科学的知識というのも、かかる現実の立場から成立するのでなければならない。 科学的精神が用心深く、試験的で、自由を尚び、つねに批判的で、進取的であるに反し、 科学者は自己の研究の過程において自己の原理であるものについておのずから反省し始めるであろう。 種々なる主体が一つの世界的環境において結合すると共に、それぞれがポイエシス的にイデヤ的であり、永遠に触れるということができるのである。 窓にはカーテンがさがっていましたけれど、大きなすきまができていて、部屋のようすは手にとるようにながめられました。 立派な紳士に化けて、イワンの国に住みこみました。かれは肥満のタラスをやっつけたように、金の力でイワンをやっつけてやろうと考えたのです。 第一のほうにあたるのはおそらく、村長さん、あなたがあきれるほどの途方もない知識を傾けて私に話して下さったことなのでしょう。 第三には、裏面の針にひもをむすんで、水の深さを計はかったり、物の距離を測定することができる。 第三に常識は有機的な知識として社会における均衡の状態に相応するものであった。 第二には、敵にとらえられたばあいなどに、記章の裏のやわらかい鉛の面へ、ナイフで文字を書いて、窓や塀の外へ投げて、通信することができる。 第二番目の原因は政府の人たちが腐っていることです。彼等は自分で政治に失敗しておいて、それをごまかすために、わざと戦争を起すのです。 第四には、敵に誘かいされたばあいに、道にこれをいくつも落としておけば、方角を知らせる目じるしになる。 純粋持続が自己自身を否定して自己矛盾的に空間的なる所に、現実の世界があるのである。 細君はおとなしく、両腕で書類を抱えてあらゆるものを戸棚から投げ出し、下の書類を見つけ出そうとした。 紳士は、そういいながら、先に立って奥のほうへはいっていきますので、中村係長と、ふたりの警官とは、ふしんながらも、ともかくそのあとにしたがいました。 組織の正確さというものに対応して、それはきわめて敏感なのです。一つの件がきわめて長いあいだ吟味されていると、その吟味がまだ終ってしまってはいないのに、 経験における試みが手当り次第の偶然的なものであるに反して、実験における試みは計画的であり、 経験の右の如き性質から、社会的に考えると、常識というものが出来てくる。 経験の発展として、科学における実証性と合理性は、その受動性と能動性に相応している。 結局のところ、相手に引きずられていくのだから、彼の体力でも十分だろう。それに、道が無限だなどということはありえようか。 絞りとか照明とかフィルターの選択とか露出の時間とか現像の技術とか、 絶えず時計がチクタク音を立てるのと、時計の長針が動いているのを見て、皇帝は大へん驚きました。 絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界においての個物は、表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。 絶対矛盾的自己同一としての歴史的現在の世界においては、種々なる自己自身を限定する形、即ち種々なる生産様式が成立する。 絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界においては、我々はどこまでも表現作用的形成の欲求をもっている。 絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合する世界であり、 絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くことである。 絶対矛盾的自己同一に対することによって我々は個人的自己となるのである。 絶対矛盾的自己同一の世界において、我々に対して与えられるものといえば、課題として与えられるものでなければならない。 絶対矛盾的自己同一の世界においては、かかる契機が含まれていなければならない。 絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのでもない。 絶対矛盾的自己同一の世界の個物として、我々の自己は表現作用的であり、行為的直観的に制作的身体的に物を見るから働く。 絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、製作的自己は思惟的と考えられ、自由と考えられる。 絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、 絶対矛盾的自己同一の歴史的世界の種として世界的生産的となって行かなければならない。 絶対矛盾的自己同一的世界の形成作用として、イデヤ的形成的なるかぎり、 絶対矛盾的自己同一的世界はどこまでも自己自身の中に、自己同一をもつことはできない。 絶対矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する創造的世界の形成要素として、 絶対矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界の個物として、 絶対矛盾的自己同一的現在において、作られたものとして我々を動かすものは、 絶対矛盾的自己同一的現在において行為的直観的に与えられるものは、論理的に我々を動かすものでなければならない。 綜合というのはいわゆる理性の要求という如きものではなく、現実の世界のもつ形、現実の世界の生産様式というものでなければならない。 緑ちゃんは、奥の一間にとじこめられ、障子をしめきって、おとうさま、おかあさまは、もちろん、ふたりの秘書、ばあやさん、ふたりのお手伝いさん 緑ちゃんを守らなければならないのです。どうかして自動車をとびだし、敵の手からのがれなければなりません。 縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかも知れんのである 繰り返された、新陳代謝をして、古い皮が垢となって剥がれ落ちるように、何度も繰り返された 羽柴少年が二階の窓をのぞいてから、警官がつくまでの、わずか二十数分のあいだに、ふたりのインド人は、まるで煙のように消えうせてしまったのです。 翌くる朝この立派な紳士は、金貨の入った大きな袋と一枚の紙片を持って広小路へ出て、こう演説しました。 翌日は次の島へ渡りました。それからまた次々へと渡って行きました。そして五日目に、私はまだ見残していた島の方へ向いました。 而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、過去と未来とはまたどこまでも結び付くものでなく、どこまでも過去から未来へと動いて行く。 而して絶対矛盾的自己同一の世界においては、時の現在において時を越えたものに触れると考えられる如く、 而して表出即表現の立場から働くとして、それは論理的ということもできるであろう。 耳をすぐ私のそばに持って来て、聞いてくれるのですが、駄目でした。私たちの言い合っている言葉は、お互に意味が通じないのでした。 耳を打つその声は、ただ貧弱な聴覚よりももっと奥深くにしみとおることを要求するかのようであった。 聞けば、緑ちゃんも翌日から熱もとれて、おとうさまおかあさまのそばで、きげんよく遊んでいるということです。 聞こえてくる話に現実感はなかったし、それに君とは明言してはいなかったけど、僕は彼らに対して何かを言いたくなった。 肥満のタラスは借金で首が廻らなくなって、父親のところへにげ帰って来たのでした。 肥満のタラスもたくさんのお金をもうけてある商人の家へおむこさんに行きましたが、それでもまだお金が欲しいと思いました。 背すじを氷のようにつめたいものが、スーッと走りました。桂君はもう少しのことで、いちもくさんにうしろへ逃げだすところでした。 腕と脚とを組み合わせたり、いっしょにうずくまったりした。薄暗がりのなかで、彼らのいる片隅はただ大きな糸玉ぐらいにしか見えなかった。 臆病者の仲間ではないし、伯爵にだって自分の考えをいうことができる。しかし、おだやかに城の人たちと話がつくなら、むろんそのほうがずっとよいから 臨終だといって、誰も悲しんだりするものはありません。死んでゆく本人でさえ、ちょっとも悲しそうな顔はしていないのです。 自分がだれを呼びにやらないのかは、完全に忘れているのですよ。こんなことはフリーダの前では申したくありません。 自分で欲しいと思ったものは、何でも手に入れました。金のためには人民は何でも持って来るし、またどんな働きでもしました。 自分のために闘うばかりではなく、そのほかに、彼にはわからないが、役所の処置から察すると存在していると思われるほかの勢力も闘ってくれるようであった。 自分の祖国がこんなに軽蔑されるのを聞いては、私は腹が立って、顔が真赤になってしまいました。 自分の頼みに対する納得のいくような理由を考え出す努力はしなかった。この家族の一同は、あるがままの彼を受け入れて、そのいうことをきかなければならない 自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセーターを着て廊下を歩き、家中の者を笑わせました 自分ひとりなら、どうにでもして逃げるのですが、緑ちゃんにけがをさせまいとすれば、ざんねんながら、相手のいうままになるほかはありません。 自己が有機的に結び付けられている環境以外の新しい環境の経験によって破られる。 自己が自己において自己の影を映すということは、私がしばしば表現作用の場合においていう如く、 自己というものが超越的に外にあるのでなく、意識する所そこに自己があるのであり、その時その時の意識が我々の全自己たるを主張し要求する。 自己はどこまでも自己から自己を形成してゆくのであって、そうでなければ自己はない。 自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。 自己矛盾的に一に対するということは、逆に自己矛盾的に一に結合することである。 自己矛盾的に内在的、即ち絶対矛盾的自己同一ということでなければならない。 自己矛盾的に物を見るということなくして欲求というものがなく、形というものなくして働くということはない。 自己自身の中に自己同一をもつものとして推論式的一般者と考えられるのである。 自己自身を、自己の身体をも自己の精神をも、形成してゆく場合にも、技術がある。 自己自身をイデヤ的に形成し行く世界は、超越的なるものにおいて自己同一をもつ世界である。 自己自身を形成し行く世界の形から形へということは、あるいは飛躍的とか無媒介的とか考えられるであろう。 自己自身を環境の中に没することによって、環境そのものの中から生きる主体にして、歴史的主体ということができる。 自律的とは他のものに制約されることなく自己自身の法則に従い、自主的あるいは自発的であるという意味である。 自然も形成的なものとして技術的であり、人間の技術は自然の技術を継ぐということができる。 自由の身にしてもらえる二三日前のことでした。宮廷の人たちを集めて、ハンカチの余興をしているところへ、にわかに一人の使が到着しました。 船ができるまで、二ヵ月待ってもらうことになりました。そして、私は召使の月毛を助手に貸してもらいました。 船がマダガスカル海峡を過ぎる頃までは、無事な航海でしたが、その島の北あたりから、海が荒れだしました。 船に乗ってみたくなったのです。これまで私はずいぶん苦しい目にも会いましたが、それでも、まだ海へ出て外国を見たいという気持が強かった 船はひどく一方へ傾くし、私はひっくりかえらないように、その反対側によって、うんと力を入れていなければなりません。 船員たちはみな驚いて、いろんなことを尋ねますが、私はもう答える気もしないのでした。こんな大勢の小人を見て、私の方も驚いてしまったのです。 船員たちは私を気狂だと思ったらしく、大笑いしていました。大工がやって来て、箱に穴をあけ、そこから私は救い出され、本船に移されました。 船長の話では、正午頃、望遠鏡をのぞいていると、あの箱が眼にうつったので、最初は船だと思ったそうです。それからボートを出して近づいてみると、 船長は、私が長い間食事をしていないだろうと思って、すぐ晩食を言いつけてくれました。 芸術という如きものも、矛盾的自己同一的な社会の自己形成作用として生れるのである。 芸術的直観とは、行為的直観において、物が自己を奪うという方向において成立するものなるを以て、 若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。 若い娘さんや、小さい子どもなどは、もうおびえあがってしまって、けっして夜は外出しないほどになってきました。 若い娘たちによく読まれる本で、宗教のことが簡単に書いてあります。その本を使って、彼女は私に字を教えたり、言葉を説明してくれるのでした。 若い紳士で、色白で顔が赤く、見たところ健康そうであったが、ひどくまじめくさっていた。 行為の立場においては、働くものは単なる意識でなく身体を具えた人間である。 行為は意識の内部におけることでなく、行為するとは却って意識から脱け出ることであり、 行為を離れた直観という如きは、抽象的に考えられたものか、然らざれば幻想に過ぎない。 行為的直観というのは、我々が自己矛盾的に客観を形成することであり、逆に我々が客観から形成せられることである。 行為的直観というのは、矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界を、かかる世界の個物として我々が生産様式的に把握することである。 行為的直観とは全体が無媒介的に一時に現前するという如きことではない。 行為的直観の現実が、いつも矛盾の場所であり、事はここに決せられるのである。 行為的直観の現実を中心として種々なる文化が相異なる方向に分化発展するのである。 行為的直観の立場において、歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、 行為的直観の過程というのは、かかる具体的一般者の自己限定として具体的論理の過程でなければならない。 行為的直観的に、ポイエシス的に、歴史的世界の生産様式を把握し行く所に、具体的論理があるのである。 行為的直観的に世界を見るということは、逆に行為的直観的に世界を形成することを含むのである。 行為的直観的に即ちポイエシス的に証明せられるかぎり、それが真であるのである。 行為的直観的に実在を把握し行く所に、客観的知識が成立するのである。 行為的直観的に客観界において物を見ることから働く、いわば自己を外に見ることから働く。 行為的直観的に物を見るということは、世界の生産様式的に物を把握することでなければならない。 行為的直観的に物を見るということは、制作的身体的に物を見ることである。 街はロンドンの半分くらいですが、家の建て方が、ひどく奇妙で、そして、ほとんど荒れ放題になっているのです。 街を囲んでいる城壁は、高さ二フィート半、幅は少くとも十一インチありますから、その上を馬車で走っても安全です。 表現はつねに内と外との、主観的なものと客観的なものとの統一という意味をもっている。 表現作用というものを考えなければ、形から形へということは単に無媒介と考えられる。 表現作用的自己として、矛盾的自己同一的現在の立場において物を把握するのである。 裏手へまわってみますと、案のじょう、二階の一室に電燈がついていて、窓が明るく光っています。しかし、二階ではのぞくことができません。 見ると、中に一羽白いのが混じっています。ズルスケは、ハハア、あいつたちだな、と思いました。 見るとそれは木の根のようにまっ黒で、しかも、のたくり廻っているのでした。それはまぎれもなく、例の小悪魔でした。 見物がすんだ人はさっさと帰れ、無断で私の家の五十ヤード以内に近よってはいけない、と、こんなことが決められました。 見物人の方を振り向いて、ていねいにおじぎして、「よくいらっしゃいました。」と言ったり、そのほか、教わったとおりの挨拶をします。 見知ったものが変わっていて、変わり果てた昔の知り合いを見ているようで、それが少し寂しかった 観察するためにあけられたらしい小さなのぞき孔を通して、彼はほとんど隣室全体を見渡すことができた。部屋のまんなかの机に向かい、 言いかたがまずかったかもしれないけれど、規則の重要さを軽んじているわけでは全然ないのです。ただ、一つのことだけあなたに聞いていただきたい。 言葉というものは、物の名前だから、話をしようとするときには、その物を持って行って、見せっこをすれば、しゃべらなくても意味は通じるというのです。 言葉どおりに取ってはいけないという点では、あなたのいわれることはもっともです。しかし、用心はどこでも必要であって、ここだけのことではありません。 計算の数字を間違えたのだそうです。しかし、そんな間違いはいつもあることで、誰も気にするものはないというので、私も少し安心しました。 許可なしでだれとも口をきいてはいけない。私はここではよそ者だ。そして、君たちが私の昔からの助手だというのなら、君たちもよそ者のはずだ。 証人なんかが必要としてですがね。だがついでに、私は伯爵が招かれた土地測量技師だということは、よく聞いておいていただこう。 詐欺をすれば死刑です。盗みは、こちらが馬鹿でなく用心さえしていれば、まず、物を盗まれるということはありません。 話の内容はなんとなく思い出せる。やあ、から会話が始まったこと、僕は夏休み暇であること、 話一つしても、普通使うありふれた物の名まで忘れています。人の名前などおぼえてはいません。 誰もかも金貨をたくさん貰って持っていました。そこでもう貰おうとするものはなくなりました。 諸君は、諸君が現実におかれている状況に従って、めいめいその門を見出すことができるであろう。 謂わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、 警察とはべつに、できるだけはたらいてみようではないかということになり、七人が手分けをして、自動車の走りさった方角を、ひろく歩きまわり、 財布が下に置かれると私はそれを手に取って、中を開いて、金貨をみんな彼の掌の上にばらまきました。 貴族たちは、叩き役の助けをかりて、喜んで答えてくれました。私は間もなく、パンでも、飲物でも、欲しいものは何でも言えるようになりました。 起こらなかったようにも思われました。そんな話を聞いただけのことのようにも思われ、わたし自身がそれをとっくに忘れてしまっていたようにも思われました。 超越的なるものにおいて自己同一をもつ矛盾的自己同一的世界においては、 超越的方向においては全く記号的に表現せられる世界でなければならない。 超高層ビルの窓ガラスを掃除している人も、誰も気づかなかったし、知らなかった。 足で踏みつぶされるか、鎌で真二つに切られるかもわかりません。その男が動きかけると、私は大声でわめきちらし、助けを求めました。 足をつないでいる鎖は、約二ヤードばかりあったので、半円を描いて往復することができました。 踊りの仲間に入り、女たちに、「一つ私のために唄を唄ってくれ、そうすりゃ皆が生まれてまだ見たこともないものをやる。」と言いました。 踏みつぶしでもすると大へんですから、私はとても気をくばって歩きました。屋根の上からも、家々の窓からも、見物人の顔が一ぱいのぞいています。 踏絵の儀式をしなければならないのでしたが、役人たちは、私だけ見のがしてくれました。さて、今度の航海では別に変ったことも起りませんでした。 身体の器官もすでに道具と考えられるとすれば、技術的知性の特徴は道具を作る道具を作るという点にある。 身体は客観的なものであると共に単なる物体とは異なる主体的なものであり、 身体は我々の自己であって、この道具は主体から離れた独立なものではない。 身体をもって生まれて来るということそのことが、既に歴史的自然によってそこに一つの課題が解かれたといい得ると共に 身体を押しとどめた。片隅からやかましい子供たちの叫び声がきこえてきた。もう一方の隅から煙が巻き上がり、薄明りをほんとうの暗がりに変えていた。 身体的欲望についても知性は本能よりも一層よく満足させることができるのである。 車が停まったところに、この国で一番大きい神社がありました。この建物の中に、この私を入れることになったのです。 車が動きだしてから、四時間もした頃のことです。何か故障のため、車はしばらく停まっていましたが、 軍人という商売が一番立派な商売だとされています。これは何の罪もない連中を、できるだけたくさん、平気で殺すために、やとわれているヤーフなのです。 農夫たちはフリーダに対して大いに軽蔑の色を見せたが、それもあたりまえだった。これまでは彼女がその連中を牛耳っていたからだ。 農夫にも痛切なので、その頑固な役人たちは何か秘密の申し合せとか不正とかでもあるのではないかとかぎ廻り、その上、一人の指導者を見つけ出した 逃げなかったのです。やっとのことでふみとどまったのです。桂君は、自分が名誉ある少年探偵団の一員であることを、思いだしました。 逆にそれが絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の一角であるというによるのである。 逆に世界がどこまでも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するということでなければならない。 逆に個物が製作的であるということは、世界が作られたものから作るものへということである。 逆に我々がポイエシス的なる所、行為的直観的なる所が、歴史的現在であるのである。 逆に我々の自己は多と一との絶対矛盾的自己同一の世界の個物として即ちモナド的にしかあるのである。 通りはそこの近くへ通じているだけであり、次にまるでわざと曲がるように曲がってしまっていた。そして、城から遠ざかるわけではないのだが、 進化論的に考えれば、人間の家族も動物の集団本能の如きものに基づくとも考えられるであろう。 運よく、その犬は、よく仕込まれていたので、歯の間にくわえられながらも、私は怪我一つせず、着物も破れなかったのです。 運転手がインド人とわかれば、小林君がそんな車に乗りこむわけがありません。それが、十分も走るか走らないうちに、今まで日本人であったふたりが、 運転手はともかくとして、今井君までが、ついさきほど自動車のドアをあけてくれた今井君までが、いつのまにか黒い魔物にかわってしまった 過去から未来へというのが、単に直線的進行ということでなく、円環的であるということである。 過去から未来へという機械的世界においても、未来から過去へという合目的的世界においても、客観的表現というものはない。 過去と未来とが現在において対立し、矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということである。 過去と未来とが現在において相互否定的に結合する、即ち現在が矛盾的自己同一として過去未来を包む、 過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として自己自身を形成し行く世界というのは、 過去と未来とが相互否定的に現在において結合する所、そこにはいつも過去から未来へという時が消されると考えられる、即ち意識面がある。 過去と未来とが矛盾的に現在において結合し、矛盾的自己同一として現在から現在へと世界が自己自身を形成し行く。 過去と未来とが自己矛盾的に現在において対立するというには、現在が形をもたなければならない。 過去と未来との相互否定的に一である所が現在であり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立するのである。 過去と未来との矛盾的自己同一としての現在が形をもつということである。 過去と未来との矛盾的自己同一として自己自身の中に矛盾を包む歴史的現在は、 過去と未来との矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時 過去と未来とは把握することのできない瞬間の一点において結合すると考えられる。 過去を決定せられたもの、与えられたものとしてテージスとすれば、それに対し無数の否定、無数の未来が成立する。 過去を矛盾的自己同一的に決定したものが真の未来を決定する、即ちアンティテージスが成立する。 過度の緊張の結果が現われたのだった。もちろん、はなはだまずいときにである。新しい知合いを探そうという気持が、逆らいがたく彼の心をひいていた。 道について彼の知っていることといえば、通りの状態から推測するのに、自分たちがまだわき道へ曲がってはいないのだ、ということだけだった。 道にどんなに困難があろうと、あるいは帰り道についての心配があろうと、歩みをつづけることをやめたりなんかしないぞ、と心に誓った。 道はいくらか凍って、雪も前よりは固くなり、歩くのが楽だった。ただ、もちろんすでに暗くなり始めていた。 道ゆく人もおぼろげです。自動車はしばらく電車道を通っていましたが、やがて、さびしい横町に折れ、ひじょうな速力で走っています。 道具は無機的なものであり、器宮が身体と直接に一つのものであるに反して 道具を用いる技術によって我々の環境に対する適応は直接的でなく媒介されたものになる。 遠くからでは細部がはっきりわからず、ほんとうの絵は額ぶちから取り去られてしまったのであって、黒い裏打ちの布だけが見えているのだ、と思っていた。 部屋はありがたいことに、見ちがえるほどになっていた。フリーダがそんなにも精出して働いたのだ。 都合よく、亭主が宿の小さな正面階段の上に立っており、ランタンをかかげて彼のほうを照らしていた。 酒場にいるということは禁じられているわけではなかったものの、ここに泊まろうと思ったので、今のうちに見つけられることを避けなければならなかった 酒場はまんなかが完全にがらんとしている大きな部屋で、壁ぎわのいくつかの樽のそばや樽の上には、何人かの農夫たちが坐っていた。 重い足を引きずり、僕らの二十号棟を越えて、その隣の二十一号棟、二十二号棟、二十三号棟を越え、 重大な件なんかではありません。この点であなたは苦情をいう理由はありません。つまらぬ件のうちでもいちばんつまらぬものの一つなのです。 金貨を一つかみつかんで、女たちにまいてやりました。すると大へんな騒ぎになって、女たちはおしあいへしあい、ころげ廻って 鎌の音は、百ヤードとない後から、近づいて来ます。私はすっかり、へたばって、もう立っている力もなくなりました。 長いことかかりましたけれど、けっきょく、小林君も自由の身となり、さるぐつわをとって、ホッと息をつくことができました。 長い腰かけに坐っているのかどうか、全然わからなかった。それほどすっかり膝かけやクッションや毛皮に埋もれていた。 門の外には、もうちゃんと自動車が待っています。小林君は緑ちゃんをだいて、秘書の今井君があけてくれたドアの中へはいり、客席にこしかけました。 閉じたものが一点を中心とする円の如く表象されるとすれば、開いたものは到る処中心を有する円の如く表象されるであろう。 陛下が、何か一言二言言われたかとおもうと、叩き棒を持った若者が、私の傍へやって来て、静かに私の耳を叩きはじめました。 陛下は、まるで急に目がさめた人のように、ハッとなって、私たちの方を振り向かれました。それでやっと、私たちの来たことを気づかれたようです。 陛下は、右手に私をつまみ上げて、左の手で静かに私をなでながら、大笑いされました。 陛下は、私の見た国々の法律、政治、風俗などのことは、少しも聞きたがりません。その質問といえば、数学のことばかりでした。 陛下は、私の話を一心に聞いておられましたが、前よりよほど私をよくわかってくださるようでした。 陛下は今、ある問題を一心に考えておられる最中なのです。私たちは、陛下がその問題をお解きになるまで、一時間ぐらい待っていました。 雪が小屋の窓までとどいていて、低い屋根の上にも重くのしかかっていたが、上の山のほうではすべてのものがのびのびと軽やかにそびえていた。 電話の返事にはほんとうの意味があるんですよ。どうして、ないなどといえますか? 城の役人が与える知らせが、どうして無意味なはずがあります? 電話はほとんど彼の頭の真上に備えつけられているとわかったが、寝ぼけまなこで見のがしていたのだ。 静かにしていて、ほとんど動かない。ただ眼だけで部屋に入ってきた二人を追うのだが、それもゆっくりしていて、どうでもいいようなふうに見受けられた。 非常に奇妙な形のもので、縁が円くひろがっています。その広さは、陛下の寝室ぐらいあり、真中のところは、人の背ほど高くなっています。 非常に小さなものでも、ちゃんと見えるのです。彼等の眼は、こまかいものなら、よく見えますが、あまり遠いところは見えません。 非常識であることは、無知を意味するのみでなく、社会的に悪とも考えられるのである。 非日常的なものの経験あるいは日常的なものの非日常的な仕方における経験は、 頭の中でアニメの映像が流れて、他のことについて何も考えることができない状態 食事がすむと、主人は仕事に出かけて行きました。彼は細君に、私の面倒をみてやれ、と命令しているようでした。 食事がすむと、貴族たちは帰りました。そして今度は、陛下の命令で来たという男が、叩き役をつれて、入って来ました。 食堂の私たちのところへ降りてこなかったんで、あなたをバルナバスのところで探し、最後にここで見つけたんです。ここに一晩じゅう坐っていましたよ。 馬は私を見ると、はじめちょっと驚いた様子でしたが、すぐ落ち着いた顔つきに返って、いかにも不思議そうに私の顔を眺めだしました。 馬鹿でかくて丸くて、ウェイトレスが抱える銀のお盆を何万倍にも巨大にしたようなものが空に浮んでいた。 魔法ででもなければ、こんなにみごとに消えうせてしまうことはできますまい。こんどもあのおりとまったく同じだったのです。 鳥の卵がたくさん見つかったので、火をおこして枯草を燃やし、卵を焼いて食べました。その晩は、岩の陰に木の葉を敷いて寝ましたが、よく眠れました。 麦束を取り上げて地べたへ叩きつけると、小悪魔の言った通りやりました。麦束がバラバラに解けて落ちたかと思うと、藁がのこらず兵隊になって、 黄色い明かり、白い明かり、それに橙色の明かり。暖色系の明かりが公園を照らしている。 黒い手はしずかに、また、もとの障子のすきまから消えていってしまいました。黒い魔物は、大胆不敵にも三人の目の前で、のろいの宝石をうばいさったのです。 黒い水の中を泳いだり、人の影になって地面によこたわったりする、むじゃきないたずらをして喜んでいるだけでしょうか。 黒い魔物が、東京中のほうぼうへ姿をあらわして、みんなをこわがらせたね。犯人は、いったいなんの必要があって、あんなばかなまねをしたんだろう。 黒い魔物とは、はたして何者でしょうか。男でしょうか、女でしょうか、おとなでしょうか、子どもでしょうか。 黒い魔物は、つい目の前を走っています。暗い庭の中で、まっ黒なやつを追うのですから、なかなか骨が折れましたが、さいわい、庭のまわりは、 黒い魔物はだんだん篠崎家に近づいてきて、そこでも、いろいろと見せびらかすようなまねをしている。そして、人ちがいをして、ふたりまで、