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小惑星の一覧 (6001-7000)
本項は6001番から7000番までの小惑星番号が与えられている小惑星の一覧である。 凡例. 一覧表における各種データは主に JPL Small-Body Database や小惑星センター (MPC) に掲載されているデータに準拠している。各小惑星ごとの行の色は小惑星の分類を示している。直径欄で"斜字"になっている数値はアルベドが判明している場合はアルベドの値を基に、判明していない場合は絶対等級とアルベドの仮定値を基に計算したものである。
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岡本優真 (小惑星)
岡本優真(15584 Yumaokamoto)は、メインベルトの小惑星の1つ。 2000年4月5日にLINEARによって発見され、の仮符号が与えられた。 その後の追跡観測で軌道が確定した結果2000年6月21日に小惑星番号15584番が与えられた。 直径約8.7 キロメートルで、軌道長半径約2.84 天文単位の公転軌道にあり、約5.8年(1753.1日)の公転周期で太陽の周囲を公転している。 観測. 2000年の発見直後、この天体が1980年に東京大学の木曽観測所によって発見されたや、1997年にOCA-DLR小惑星サーベイによって発見された、1999年にローウェル天文台で発見されたと同一であることが分かった。 こうしたの同定により観測弧が伸びたため、発見から2か月半で小惑星番号が登録された。 命名. 2019年に開かれたインテル国際学生科学技術フェア2019(Intel ISEF 2019)に日本代表として出場し、動物科学部門の優秀賞2等と特別賞のアリゾナ大学賞を受賞した、当時静岡県立掛川西高等学校3年生の岡本優真に因んで命名された。 これは、小惑星を発見したチームが属するリンカーン研究所が、と呼ばれるプログラムで、ISEFなどの大会の上位入賞者の名前を副賞として小惑星に命名していることによる。 命名は、2023年5月22日に国際天文学連合の太陽系天体命名ワーキンググループ(WGSBN)の発行する回報にて発表された。 この時同時に、岡本の同級生で共同で研究し、同じ賞を受賞した塚本颯の名前も別の小惑星に命名されている。 WGSBNは、以下のように紹介している。
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ラミーカミキリ
ラミーカミキリ(Ramie髪切、学名:"Paraglenea fortunei")は、コウチュウ目(鞘翅目)・カミキリムシ科に分類される甲虫の1種。初夏にカラムシなどに集まる小型のカミキリムシで、日本では東海地方の各地で見られる。名前は本種の食草のひとつであるラミー("Boehmeria nivea" var. "candicans" Wedd.:カラムシの変種の一つ)から。 形態. 成虫の体長は10-20mmほど。小型のカミキリムシだが、体は鮮やかな黒と緑白色に色分けされる。ただし緑白色部分は個体や標本の状態などによって青白色や黄白色にも見える。背中側から見ると前胸の背中側は緑白色で2つの円い黒点があり、ジャイアントパンダの顔のように見える。前翅は黒いが後半部にこれも緑白色の太い横帯模様がある。前翅のつけ根にも小さな白い斑点が出るが、この斑点の大きさには個体差があり、ほとんど目立たない個体もいる。触角は体長とほぼ同じ長さである。 生態. 成虫は5月-8月頃に発生し、イラクサ科のカラムシ、ヤブマオ、アオイ科のムクゲなどを食草とする。昼間に活動し、食草の茎や葉をかじって食べたり、周囲を飛び回ったりする。ゴマダラカミキリなどに比べると身軽で、捕えようとすると擬死して地表に落下するか素早く飛翔して逃げようとする。 幼虫は食草の茎の中に食いこみ、茎の髄を食べて成長する。成長した幼虫は地下茎にまで食いこむ。秋から冬にかけて食草の根もとを切ると、30-40mmほどの白くて細長い幼虫が出てくることがある。 分布. インドシナ半島北部から中国、台湾、日本まで分布する。ただし後述するように、日本のものは幕末から明治にかけて侵入した外来種とみられている。日本国内での分布は関東地方以西で、九州では公園や道端等のカラムシ葉上に普通に姿が見られ、また、20世紀末に東京都の多摩地区でも生息が確認された。21世紀初頭現在、東京都八王子市の低山地ではほぼ全域で完全に定着し、同地で最も普通にみられるカミキリムシの一つとなっている。 これは冬季の平均気温4℃の線以南の地域とほぼ一致するとされ、温暖化にともないその分布域が北上傾向にあるとも言われる。 日本で最初の記録は、英国人昆虫学者 H. W. ベイツによる1873年のもので、これは1864年から1872年にかけて茶葉貿易の仕事で滞日していた英国人昆虫研究者 G. ルイス(George Lewis)が長崎で採集したもので、繊維を採るために導入されたラミーと共に移入されたものだと考えられている。
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阪神3301形・3501形電車
阪神3301形・3501形電車(はんしん3301がた・3501がたでんしゃ)は、阪神電気鉄道がかつて所有していた優等列車用の電車である。旧型車の置き換えと輸送力の増強を目的に1958年から1959年にかけて両運転台の3301形4両と、片運転台の3501形20両の合計24両が製造された。 両形式は共通点が多いため、当記事内で併せて記載する。 また、本項ではえちぜん鉄道のMC2201形電車についても記述する。 大型車時代の到来. 阪神の車両大型化は、1954年に製造された阪神最初の大型高性能車である特急用の3011形によって始まった。その後数年間は新車の増備はなく、3011形が特急を中心に、ラッシュ時や特急の運転時間前後に間合いで急行や準急運用に就いていた。その一方で、3011形の投入に伴って阪神間の直通旅客のシェアが増加したほか、経済白書では「もはや戦後ではない」と言及された経済状況の下、沿線の商工業は活性化し、阪神の新設軌道各線も本線を中心に輸送力の増強に追われることとなった。 1958年に入ると、いよいよ車両の大型化と高性能化を本格的に推進することとなった。7月に普通系車両の新車として「ジェットカー」の試作車である5001形(初代)が登場し、営業運転に就くとともに量産車の登場に向けた長期実用試験が行われた。また、「喫茶店」の愛称で知られる851, 861, 881形や801, 831形が主力であった急行・準急用車両についても、3011形の実績を元にラッシュ時にも対応できる3扉ロングシートの高性能車両が製造されることとなった。これが3301・3501形である。塗色も特急用の3011形や普通用の5001形と異なり、車体下半分を朱色に塗ったことから、「赤胴車」の名称を持つようになった最初の形式でもある。 概要. 1958年10月から1959年8月にかけて、3301形は4両が、3501形は20両が製造された。製造所は、3301形全車と3512, 3514, 3516, 3518, 3520が川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)、3501 - 3519の奇数車が日本車輌製造、3502, 3504, 3506, 3508, 3510が汽車製造である。 全車が電動車として製造され、両形式とも単車走行可能であった。3301形は主に急行の増結用として両運転台で製造され、3501形は基本編成向けとして奇数車が大阪向き、偶数車が神戸向きの片運転台車両として製造された。3501形は片運転台のため、実際に本線上を単車で営業運転することはなかったが、増結・解放が自在に行える点が特徴といえた。 車体. 3011形は前面非貫通で2扉(片引戸)のセミクロスシート車であったのに対し、3301・3501形はラッシュ対策として片引戸ながらも3扉となり、急行用として3扉のロングシートとなった。前面は貫通式の3面折妻として窓上にはシールドビーム式の前照灯を設置し、1段奥に引っ込んだ貫通扉には連結時に使用する幌が装備され、その後8000系先行車まで多少形を変えながらも引き継がれた阪神車両の「顔」となる前面スタイルを確立した。 急行系車両の標準となる上半分をクリーム色、下半分を朱色とした塗装を初めて採用されており、同時期に人気を集めていた漫画『赤胴鈴之助』に因んで、「赤胴車」の名前で呼ばれるようになった。 屋根上には運転台側にパンタグラフを搭載したほか、3011形の強制通風装置とは異なり、箱型の通風器を搭載した。このため、両運転台式の3301形はパンタグラフのある側の前面には高圧配管が通り、独特の面構えをしていた。 19m級3扉ロングシートの車内や貫通式の前面といった本形式で確立された基本仕様が、その後9000・9300・1000系といった最新鋭の急行系車両にまで継承されることとなった。 主要機器. 台車および電装品は、台車は住友金属工業製コイルバネ付のFS-206を装着し、駆動方式は直角カルダンが採用されている。主電動機は3301形が東芝製SE-516、3501形が東洋電機製造製TDK-858-1Bをそれぞれ4基搭載し、いずれも端子電圧300V時の1時間定格出力60kWである。 制御装置は、東芝製のPE-15Aで1C4M(1台の装置で4台の主電動機を制御する)方式であった。制動装置は発電制動付電磁直通式のHSC-Dである。 3301形および3501 - 3508は抵抗器が強制通風方式となっており、冬季は排熱を車内暖房に利用した。3509以降は自然通風方式となっている。 赤胴車登場. 3301・3501形とも試運転ののち、急行運用を中心にラッシュ時の準急や区間急行に投入された。ラッシュ時は一部の区間急行運用を除いて4 - 5連で運行され、昼間時以降は3連で運行された。大型車5連と小型車5連で比較した場合、車体長が大型車の約95mに対して小型車は約74mとなり、床面積では小型車の約1.6倍、乗車人員で約1.5倍と、大型車投入による輸送力増強効果は大きなものがあった。本形式の投入と、同時に併用軌道線から71形を本線系の支線である武庫川線と尼崎海岸線に転用することで急行系小型車を捻出、これらの車両を活用して輸送力増強を図ったほか、小型両運転台で輸送力の小さい701形を置き換えた。また、登場直後から3011形の検査入場時には特急運用に投入されたこともあった。 1960年9月のダイヤ改正で特急が10分ヘッドの運転となると、本形式も本格的に特急運用に充当されるようになった。その後3601・3701形が増備されると、同形式の増結車としても活用されるようになった。架線電圧の直流600Vから直流1,500Vへの昇圧を控えた1965年に両形式とも昇圧後も単車走行可能な形で昇圧改造がなされた。同時に、3301形および3501形3501 - 3508の暖房装置は3509以降と同一品に変更された。そして1967年3月には最後まで武庫川線に残っていた881形を3301形によって置き換え、阪神の車両大型化および高性能化を達成した。 昇圧から冷房改造まで. 1967年11月に、架線電圧を直流600Vから直流1,500Vへの昇圧を実施するとともに、ATSの取り付けが行われた。約半年後の1968年4月には神戸高速鉄道が開業し、同社を介した山陽電気鉄道への相互乗り入れを開始した。本形式も他の急行系車両と同様に山陽電気鉄道本線須磨浦公園駅まで乗り入れることとなったが、単車走行可能な特性を生かして、5 - 6連運行が常態化しつつあった本線の優等列車の増結車として活用される一方、2連運行が基本の三宮 - 西九条間の西大阪特急にも充当された。 3501形の冷房改造は、7801形、3521形に引き続いて、1973年から1974年にかけて実施された。奇数車と偶数車で固定編成となり、単車走行は不可能になった。制御装置は2両ユニットで抑速制動付きの三菱電機製1C8M(1台で8台の主電動機を制御する)方式のABFM-68-15-MDHAに換装されたほか、偶数車のパンタグラフは撤去され、制御装置は奇数車に、電動発電機や空気圧縮機は偶数車に設置された。冷房装置は分散式のMAU-13H形で、奇数車には6台、偶数車には7台搭載された。車内には補助送風機としてラインデリアも取り付けられたほか、冷房機搭載スペースを確保するため、パンタグラフは下枠交差式となり、取付位置は運転台側から連結面側に変更された。 3301形の冷房改造は、7801形2次車とともに、急行系車両最後の冷房改造車として1975年に施工された。改造内容は3501形とほぼ同じであるが、制御器の換装は実施されなかったほか、パンタグラフを神戸寄りに移設のうえ下枠交差式に換装した。床下スペースの関係から自車に冷房用電源を搭載できず、併結車両から受電する方式となった。単行運用の武庫川線では冷房は使用できず、ラインデリアのみを使用して運用していた。 冷房改造以後. 冷房改造後も各種機器の取付や換装が実施された。まず行先表示器の設置が3501形は1978年、3301形は1981年に実施されたほか、車外放送設備の取付や列車無線装置のVHF方式への換装も行われた。 3301形は冷房改造後も本線では主に増結用として使われ、準急や区間急行の運用に残っていた5両などの奇数両編成の運用では重宝された。単行時代の武庫川線では3301形の1両が武庫川線で、3両が7801形などと併結して運用されていたが、1984年4月の武庫川団地前駅延伸の際に単行運転から2両編成とされたため、3301形は本線に戻った。また、3501形は本線急行・特急や西大阪線(現・阪神なんば線)運用に就き、末期には電気ブレーキ装備ということで3801・3901形の増結用としても重宝されていた。 登場から30年近くたった1980年代半ばになると、老朽化と直角カルダン駆動の保守に手がかかる本形式は置き換えの対象となった。廃車はまず武庫川線の2連化で本線の増結運用に専用されるようになった3301形が、5連運用の減少に伴い1986年に4両とも廃車となった。8000系の増備に伴い、3501形も1986年から廃車が開始され、1989年3月に全廃となった。 譲渡. 3301形は廃車後、4両全てが京福電気鉄道福井支社に移籍して、同社のモハ2201形 (2201 - 2204) となった。赤胴車では唯一の他事業者への譲渡事例でもある(2014年現在)。 譲渡にあたり武庫川車両工業で改造工事を実施し、台車・主電動機は国鉄101系電車の廃車発生品(DT21形台車・MT46形主電動機)に取り替え、電制を撤去し、電動発電機を取り付けたことで単行運転時にも冷房が使用可能となった。同社としては初の冷房車であった。 2001年に越前本線の衝突事故で2201が廃車となった。えちぜん鉄道移管後は同社のMC2201形となったものの(番号は変更せず)、2005年5月に2202と2203が主制御器の老朽化のため廃車・解体された。残った2204はその後も9年間にわたって運行されていたが、2014年10月26日限りで実に56年にも及ぶ現役生活を終えて引退、廃車された。
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石井孝郎
石井 孝郎(いしい たかお、1941年2月1日 -2015年8月4日 74歳没 )は、日本の射撃競技(ライフル射撃)選手。1960年ローマオリンピック・1964年東京オリンピックに出場。このほか、アジア競技大会でメダル2、アジア射撃選手権大会でメダル1を獲得した。 経歴. 茨城県出身。明治大学卒業。 明治大学2年生であった1960年、ローマオリンピックに男子スモール・ボア・ライフル伏射および男子スモール・ボア・ライフル3姿勢の2種目で参加。 1962年アジア競技大会(ジャカルタ)では、50mライフル3姿勢で金メダルを獲得。 1964年東京オリンピックには、男子スモール・ボア・ライフル伏射および男子スモール・ボア・ライフル3姿勢の2種目で参加(当時は会社員)。 1966年アジア競技大会(バンコク)では、50mライフル3姿勢で銀メダルを獲得し、2大会連続のメダリストとなった。 1967年のアジア射撃選手権大会(東京)では50mライフル3姿勢で銅メダル
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矢野将文
矢野 将文(やの まさふみ、1971年 - )は、和歌山県生まれの日本の化学者。関西大学化学生命工学部化学・物質工学科准教授。理学博士(大阪市立大学)。 専門分野は、構造有機化学・有機合成化学、有機半導体、機能性有機材料。 略歴. 1993年大阪工業大学工学部応用化学科卒業。1997年大阪市立大学(現在の大阪公立大学)大学院理学研究科物理有機化学専攻博士後期課程修了。1998年理学博士(大阪市立大学)。 立命館大学博士研究員、1999年大阪市立大学学振研究員などを経て、2000年に関西大学に着任。2009年サウサンプトン大学在外研究員(兼務)。 2010年より関西大学化学生命工学部准教授、現在は同学部化学・物質工学科准教授および同大学先端科学技術推進機構研究員。 主な著書は「有機化学1000本ノック」- 反応生成物編/反応機構編/立体化学編/命名法編(単著、化学同人、学術書)。 主な研究は、
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リーナスの法則
リーナスの法則(リーナスのほうそく、Linus's Law)とは、同じ名前が付けられているものの、次の人物らが述べた、それぞれともに内容が異なる経験則を指す。 エリック・レイモンドによるリーナスの法則. レイモンドによるリーナスの法則は、彼のエッセイならびに書籍、『伽藍とバザール』("The Cathedral and the Bazaar", 1999年)にて主張したソフトウェア開発における法則である。リーナスに敬意を表し彼の名前が付けられている。 この法則は、「十分な目ん玉があれば、全てのバグは洗い出される」("Given enough eyeballs, all bugs are shallow")、もっと格式ばって言うと、「十分なベータテスターと共同開発者がいれば、ほとんど全ての問題は、すぐさま明らかになり、すぐさま修正される」("Given a large enough beta-tester and co-developer base, almost every problem will be characterized quickly and the fix will be obvious to someone.")と主張している。コードのプロジェクトへの受け入れに関する同意を得て、コミュニティが合意形成(コンセンサス)に到るためには、コードを複数のプロジェクトの開発者に説明することになるが、それは、ソフトウェア・レビューの単純な形式のひとつである。この事実に対し、研究者、専門家はバグやセキュリティ問題の発見におけるレビュー・プロセスの効果を繰り返し示しており、そしてそれは単にテストを行う以上に効率が良いとされる。 オープンソースの敵対者はこの法則を批判しており、(テスターに比して)開発者の規模が効率的な作業を行うのに十分ではないと主張している。たとえば、"Facts and Fallacies about Software Engineering"という書籍において、ロバート・グラス(Robert Glass)は、リーナスの法則を、オープンソース運動における"マントラ"(のようなお題目)であるのは間違いないが、それが誤解を生んでいるとも述べている。彼は、彼の研究により、コードを監査する人間が過剰なほど多く存在する場合は、多くのバグは潰されていくことが分かったが、同時に、それはこの法則が述べていることを支持するものではない、と主張している。興味深いことに、クローズドソース開発に関する専門家は、ソフトウェアプロジェクトの開発において、厳重にコードの独立性を担保するよう推進しているが、これにより法則の概念を暗黙のうちに支持している。 リーナス・トーバルズによるリーナスの法則. ""(邦題『リナックスの革命』、2001年)の序文によると、トーバルズ自身はこの法則を次の理由を説明するために採用している。人に何かをさせる動機は常に次のいずれかの集合のうち一つに分類される。すなわち、「生きること」("Survival")、「社会における生活」(社会生活、"Social life")、そして、「享楽・娯楽」("Entertainment")である。これらはマズローの欲求段階と酷似するものである。結果として、リーナスは進歩とはより高い次元に達することであると定義している。それすなわち、彼は人の動機付けについて、単に生存を目的として行動するだけではなく、社会での生活を目的に行動することもあり、そして次に、さらに良いものとして、「ただ楽しいからやる」のである、と述べている。 関連項目. 法則の一覧
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種生村
種生村(たなおむら)は三重県名賀郡にあった村。現在の伊賀市の南東部、近鉄大阪線・青山町駅の南方、前深瀬川の上流域にあたる。
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ロシア・プレミアリーグ 2015-2016
ロシア・プレミアリーグ 2015-2016は、ソビエト連邦崩壊後の1992シーズンから数えて24シーズン目のロシア最上位サッカーリーグ、2002シーズンに創設されてから14シーズン目のロシア・プレミアリーグである。2015年7月17日から2016年5月21日まで行われた。2015年9月17日、ロスゴスストラフが大会の冠スポンサーに付いた。 概要. 2014-15シーズンのロシア・プレミアリーグからFCトルペド・モスクワとFCアルセナル・トゥーラがナショナルリーグに降格し、代わりにクリリヤ・ソヴェトフ・サマーラとFCアンジ・マハチカラがプレミアリーグに昇格した。 16チームがホーム・アンド・アウェー方式の2回戦総当たり戦(各チーム30試合)を実施して順位を決定する。優勝チームはUEFAチャンピオンズリーグ 2016-17グループステージ、2位チームは同予選3回戦、3位と4位チームはUEFAヨーロッパリーグ 2016-17予選3回戦出場権を獲得する。ロシア・カップ優勝チームもヨーロッパリーググループステージ出場権を獲得する。下位2チームはナショナルリーグに自動降格、下から3番目と4番目のチームは、ナショナルリーグ3位と4位チームと入れ替え戦を実施する。
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中間法人法
中間法人法(ちゅうかんほうじんほう、平成13年6月15日法律第49号)とは、中間法人の組織および運営について定める日本の法律である。2001年(平成13年)6月15日公布、2002年(平成14年)4月1日施行。「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」(平成18年法律第50号)1条の規定により、「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」(平成18年法律第48号)の施行の日(2008年12月1日)に廃止された。
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スイッチを押すとき
『スイッチを押すとき』(スイッチをおすとき)は、2005年8月15日に文芸社より刊行された山田悠介の小説。 5日後に第2刷が発行されるという刊行当初から驚異的な売れ行きとなり、舞台化・ドラマ化・映画化された。 ストーリー. 青少年自殺抑制プロジェクトセンターで、監視員として勤務する南洋平。ここでは、4人の少年少女に自らの命を絶つ【赤いスイッチ】を持たせ、実験をしていた。極限状態で監禁され、孤独に耐えられず次々と命を絶つはずが、この4人は“7年間もスイッチを押さない”という異例の子供だったのだ。彼らが「生きたい」と願うその理由を聞き、南たちは脱出を図るが、そこには非情な運命が待ち受けていた。 舞台. 2006年7月11日 - 19日に『スイッチを押すとき〜君達はなぜ生きているんだ?〜』のタイトルで青山円形劇場にて公演された。また、同年12月1日にはDVDが発売された。2007年10月26日 - 11月4日には新国立劇場にて再演公演が行われ、翌年4月にDVDが発売。 テレビドラマ. 2006年7月20日から、毎週木曜日の深夜(実質、金曜日未明)に毎日放送で全10回放送された。また放送翌日にはGyaOにて配信された。 映画. 山田悠介の同名小説を映画化したサスペンスミステリー映画。監督は『RISE UP』に次ぐ商業映画2作目となる中島良。主演は小出恵介と水沢エレナ。映画宣伝隊長として元国会議員の杉村太蔵が起用された。極限状態を出すためにクランクイン前から被験者役の役者と綿密なリハーサルを行い、ロケセットは鎌倉にある廃墟施設を使用した。 ソフト化. 発売・販売元はアミューズソフトエンタテインメント。
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滋賀県道33号西浅井余呉線
滋賀県道33号西浅井余呉線(しがけんどう33ごう にしあざいよごせん)は、滋賀県長浜市西浅井町祝山附近を起点に長浜市余呉町下余呉交点に至る5.5 kmの県道(主要地方道)である。 概要. 滋賀県長浜市西浅井町祝山の国道8号を起点に長浜市余呉町下余呉の余呉湖口交差点に至る。 長浜市西浅井町と長浜市余呉町の境に横たわる山間部は未供用である。
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STATION BREAK 〜道の駅から〜
『STATION BREAK 〜道の駅から〜』(ステイション・ブレイク 〜みちのえきから〜)は、2014年3月までJFN系列の一部FM局で放送されていたラジオ番組。放送基準日時は土曜10:55〜11:00(一部地域で日時が異なる)。出演(ロードナビゲーター)は島村仁。 この番組では、全国に850ヶ所以上ある道の駅から毎回1ヶ所を取り上げ、その地元の特産物・名所を紹介していた。 ネット局. 放送終了直前のもの
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熊野那智大社
熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山にある神社。熊野本宮大社・熊野速玉大社と共に、熊野三山を構成する。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。また熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部。 歴史. 熊野三山の成立まで. 『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成の詳細は不明。熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後である。当初は那智滝の正面にある現・飛瀧神社の地に社殿があった。 一説には、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神が勧請されて当社が滝本で創建されたともいう。 祭神は熊野夫須美大神であるが事解男命(事解之男神)とする説がある。その熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、熊野久須毘命とする説もある。 仁徳天皇5年(317年)に社殿が現在地に移転されたとされる。 大同元年(806年)の『新抄格勅符抄』には天平神護2年(766年)熊野速玉男神(新宮の主神)とともに熊野牟須美神の記述があり、それぞれ神封戸が4戸あてられている。しかし、その後は貞観元年(859年)1月27日、同年5月28日、貞観5年(863年)3月2日の速玉神と坐神(本宮の主神)が従五位上に昇階した事に関する『日本三代実録』の記事に牟須美神(ないし夫須美神)の記述がない。延長5年(927年)延喜式神名帳の牟婁郡6座中にも熊野速玉神社、熊野坐神社の二社のみが書かれている。 一方、永観2年(984年)の『三宝絵詞』では熊野両所として速玉神とともに当社主神の夫須美神を取り上げている。本宮・新宮と併せて熊野三山とする記述は永保3年(1083年)9月4日の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、これまでには三山共通の三所権現を祀る神社として成立していたと考えられる。また『中右記』の天仁2年(1109年)10月27日条の藤原宗忠らの参拝記録から、この頃までに現在の社地に遷祀されていたとされる。 那智一山の組織. 那智一山の組織は平安時代末期に形成したと考えられるが当時の史料は残されていない。近世後期に編纂された『紀伊続風土記』などによれば、那智山には禰宜や神主などの神職は存在せず、那智山は隣接している如意輪堂(現・青岸渡寺)と神仏習合して一体化し、その全員が社僧という修験者達の霊場となっていた。中世に入り、熊野三山を管理する京都の熊野三山検校の下で那智一山の管理組織(那智執行・滝本執行・宿老・在庁にもとづく合議制度)が整備された。近世に入り社僧が東座と西座に分けられたが、両座にはそれぞれ東の長官、西の長官が置かれ、執行と呼ばれつつ一山を管理した。また両座の下には10人で構成する宿老をはじめ、12人の講誦、75人の衆徒、66人の滝衆、85人の行人、12人の如法道場役人と7人の穀屋(本願)などがいて組織を構成した。 『紀伊続風土記』によると、近世のある時期に東座執行を受け持ったのは那智最古の家柄という潮崎尊勝院で、山内でも最重要とされる飛滝権現を祀り、滝衆や行人を統轄し、近世のある時期に、西座の執行を西仙滝院が担当した後、米良実方院に替わったという。尊勝院・実方院および御師と呼ばれる坊・院は、中世・近世を通じ、全国各地の旦那(檀那)場からの参詣者を泊める宿坊を営んでいた。仁平元年(1151年)2月15日の『源義国寄進状写』に那智の御師・高坊の名が記載されている。この他にも御師として熊野別当家の一族もいた。 三山成立以降. 『長秋記』長承3年(1134年)2月1日条によると、平安時代後期には三山とも天照大神を含む御子神の五所王子と眷属神の四所明神を加え、現在のような十二所権現を祀る形が整った。しかし那智は別格の滝宮を加えて十三所権現となっており、康暦元年(1379年)11月13日の『尼性周田地寄進状写』などに記録が残っている。 平安時代の末期には鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などが幾度も熊野三山に足を運び、大いに賑わっている。 建仁元年(1201年)10月19日には後鳥羽上皇が那智山に参詣し、その後建暦2年(1212年)に上皇から寄進された熊野新宮領・190石のうち12石が那智社に与えられた。 承久の乱では後鳥羽上皇らが敗れて熊野は有力な支持者を失ったが、代わって修験道の発達に伴い、三山の御師と先達による組織づくりが盛んとなった。貞応2年(1223年)11月19日には一山が焼失したが、御師らによって再建されている。 南北朝時代には、熊野の勢力を勧誘するために両朝から御師宛に護摩供料などの名目で寄進が行なわれ、貞和2年(1346年)8月18日には熊野三山検校・道昭准后が、那智山の兵部卿律師御房に駿河国北安東荘内を安堵した例などがある。 続く室町時代には各地の神領荘園からの収入が減少し、那智山権現でも年貢米が駿河国の長田・安東両荘および美作国勝田荘からのみになった。このため、有力御師・先達の活動が重要さを増し、社頭の修理なども熊野山伏や比丘尼、十穀聖などの勧進に頼るようになった。文明10年(1478年)に畿内への課役による棟別銭で那智山の造営を行なったが、弘治年間の十二所権現造営の際は、賦算札に貴庶を勧進結縁させている。15世紀後半以降には、山内の堂塔や社殿の修理のために勧進を行う本願所として、妙法山阿弥陀寺や浜ノ宮の補陀洛山寺をはじめ御前庵主、大禅院、滝庵主、那智阿弥、理性院といった本願所により造営・修造が担われるようになり、那智七本願または那智七穀屋などと称された。なお、穀屋はこの七本願を指すという見方もある。 天正9年(1581年)には堀内氏善が那智山への支配を強化した事に反発した社家で御師の廊ノ坊が武力決起し、逆に氏善が廊ノ坊を攻撃し、本殿などの社殿が焼失している。一方で那智山内の実報(実方)院は堀内氏に付いて那智一山は二分され、廊ノ坊側が敗れると同年6月3日に一族東学坊などの跡職は実報院に与えられたという。 近世以降. 慶長6年(1601年)1月4日の『熊野那智山神領注文写』によると神領は633石余となっている。同年には紀州藩主浅野幸長によって那智山は市野々村と二河村(現・那智勝浦町)に300石を与えられた。寛政10年(1798年)大晦日に参拝した高遠藩の砲術家・坂本天山は、建造物が壮麗で香炉には火が絶えず、社人・社僧の数が多い事を『紀南遊嚢』に記している。 近世末期の那智大社には数多くの社僧坊舎があったが、明治時代になり神仏習合が廃されると、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、当社では如意輪堂は有名な西国三十三所の第一番札所であったため、ひとまず破却はしなかった。 1873年(明治6年)に県社に指定されると共に那智神社と称し、さらに熊野夫須美神社と改称した。翌1874年(明治7年)には如意輪堂が青岸渡寺として当社から独立した。 1921年(大正10年)に官幣中社に昇格して熊野那智神社と改称する。 1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。1963年(昭和38年)に熊野那智大社に改称した。 境内. 参道の長い石段の上は、右に青岸渡寺があり、左は朱の大鳥居と大社の境内が続いている。拝殿の奥には鈴門・瑞垣を挟んで本殿があり、向かって右から滝宮(第一殿)、証誠殿(第二殿)、中御前(第三殿)、西御前(第四殿)、若宮(第五殿)が並んでいる。正殿の第四殿が最も大きく、若宮の左手前には八社殿(第六殿)がある。 なお、現在は山の上に社殿があるものの、前述のように元来は那智滝に社殿があり滝の神を祀ったものだと考えられる。那智の滝は「一の滝」で、その上流の滝と合わせて那智四十八滝があり、熊野修験の修行地となっている。熊野三山の他の2社(熊野本宮大社、熊野速玉大社)では、明治の神仏分離令により仏堂が廃されたが、那智では如意輪堂が残され、やがて青岸渡寺として復興した。青岸渡寺は西国三十三所一番札所である。那智山から下った那智浜には補陀落渡海の拠点となった補陀洛山寺や熊野三所権現(渚王子)がある。 文化財. 重要文化財. 美術工芸品. 典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。 行事. 牛王符にまつわる行事. この他の神事としては熊野牛王符(牛王宝印、烏牛王)の刷り初めにまつわるものが正月に行われる。1月1日には午前3時に那智の滝の奥の「秘所の水」を若水として汲み、1月2日にその水で烏牛王神璽摺初め式を行う。1月8日には滝つぼの前の飛瀧神社での烏牛王神璽祭がある。滝の前に設定した祭壇に刷り上った牛王符を積み上げ、神職が柳の枝で打板といわれる樫の板を激しく打ち、邪気をはらう。牛王符は社務所で配布される。
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台北賓館
台北賓館(たいほくひんかん)は、台湾台北市中正区凱達格蘭大道1号に建つ中華民国の国家招待所(迎賓館)で、中華民国外交部が管理している。 概要. 台北賓館は日本統治時代の明治32年(1899年)4月に起工し、明治34年(1901年)9月26日に完成した。もともとは台湾総督の官邸として建てられた。設計は当初福田東吾と野村一郎が担当し、後に森山松之助も設計に携わった。しかし、最初に竣工した官邸は資材の腐食などが問題となり、ろくに使用されず、さらに明治44年(1911年)から改築工事を経て、大正2年(1913年)3月に現在の建物がついに完成している。 建物はバロック風の二階建てで、庭園は日本風である。日本統治時代においては、台湾総督の暮らす住居と執務の場である官邸であった。また、迎賓館としても使用していたため、内装は豪華絢爛で、皇太子時代の昭和天皇をはじめ、数々の要人が宿泊した。もっとも、住居としての使い勝手は、必ずしも良くなかったことから、この官邸を使用することは次第になくなり、田健治郎(第8代台湾総督)の時に、総督の日常生活を行う住居として数寄屋造りの別館が新設され、総督の公邸として使用された。一方、官邸の境内は園遊会や茶話会のための行事場所としても度々活用され、このような機能は今日まで続いている。 第二次世界大戦の終結後、建物は中華民国に引き渡され、しばらく台湾省主席の官邸が入居したが、1950年以降迎賓館として使われるようになった。 1977年から本館の老朽化に伴って、断続的に内部を修理してきた。2001年に本館を閉鎖し、全面補修工事を受け2006年6月に再開館。日華平和条約はこの台北賓館で1952年4月28日に調印された。 見学. 台北賓館は戦後、長い間非公開とされていたが、2006年6月4日より年に数回の頻度で一般公開が行われるようになった。 2009年4月28日には、日華平和条約調印時の様子を再現した展示が完成。調印当時の日本側代表河田烈元大蔵大臣、台湾側代表葉公超外交部長ら列席者5名の銅像や史料が陳列された。
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湊町
湊町(みなとまち、みなとちょう)
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平生町立佐賀小学校
平生町立佐賀小学校(ひらおちょうりつさがしょうがっこう)は、山口県熊毛郡平生町佐賀にある小学校。 概要. 平生町にある町立小学校の1校である。
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上村盛治
上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1日 - 1946年〈昭和21年〉4月9日)は、日本の政治家。尼崎市長(官選第2代)。 略歴・人物. 兵庫県川辺郡立花村大字東難波の大地主の家に生まれる。父は1883年(明治16年)から1903年まで県会議員を務めた上村文三郎(立憲改進党)。 明治大学(旧制大学)法学部卒業、大阪新報(のちに都新聞と合併)記者や立花村会、尼崎市会、兵庫県会の議員を経て、1922年(大正11年)6月23日、尼崎市長に就任。全国で最年少市長として気鋭・自由奔放の手腕を発揮し、1928年(昭和3年)1月22日まで務めた。 県立尼崎高校の生みの親. 任期中に、尼崎市への県立中学校(旧制)設置の要望が高まったため、1916年(大正5年)に県に陳情したが財政難を理由に拒否されたため、上村が中心となり市立で中学校を建設する市民運動を始めた。市内で運送業を営む佐古寛一(のちの日本通運取締役)らが「芝居」を興業して資金も調達、市民ら649名の寄付をもとに1923年、待望の尼崎市立尼崎中学校が創立した(現・兵庫県立尼崎高等学校)。
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雪野りこ
雪野 りこ(ゆきの りこ)はAV女優。身長:134cm、体重:32kg、スリーサイズ:B:70 - W:50 - H:72 cm。2013年デビュー。
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ラルフ・ヴォタペック
ラルフ・ヴォタペック(Ralph Votapek, 1939年 - )は、アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキー生まれのピアニスト。 略歴. 9歳の頃からウィスコンシン音楽院で学ぶ、その後ノースウェスタン大学、マンハッタン音楽学校、ジュリアード音楽院などで学ぶ。ピアノはロジーナ・レヴィーンに師事する。 1956年、17歳の時にガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を、同曲初演指揮者のポール・ホワイトマンの指揮で演奏する。 1962年、第1回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した。その後演奏活動をするかたわら、ミシガン州立大学でピアノの教授を36年間務める。またこの間多くのピアノ国際コンクールの審査員も務める。 アール・ワイルドやアーサー・フィードラーといったアメリカ楽壇の名匠と親交があり、フィードラー最晩年の録音であるガーシュウィンの『ラプソディ第2番』にもソリストとして参加した。 現在、主に北米および南米での演奏活動を行っている、アメリカの著名なピアニストのひとりである。1997年に初来日している。 20世紀のピアノ音楽、特にフランス、スペイン、そしてアメリカ音楽に定評があり、それらのいくつかはIvory Classics等でレコーディングもされている。
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浪川大輔
浪川 大輔(なみかわ だいすけ、1976年〈昭和51年〉4月2日 - )は、日本の声優、俳優、歌手。東京都出身。ステイラック代表取締役。 来歴. 1985年、小学2年生の終わり頃、劇団こまどりに所属。母親の友人である鈴木みえの紹介で、劇団こまどりの入団試験を受けた。 アメリカのテレビドラマ『白バイ野郎パンチ&ボビー』の子供役の日本語吹き替えでデビュー。『E.T.』の主人公エリオット役で監督のスティーヴン・スピルバーグに認められ、指名されたことをきっかけにオファーが増える。『ネバーエンディング・ストーリー』や『グーニーズ』など立て続けに人気作に出演した。アメリカで子供の主人公が流行していたことや、これまで吹き替えにおいて女性声優が演じていた少年役を、年齢が近い子役に演じさせようとする時期が重なり、浪川は「運がよかった」、「タイミングがあった」としており、これらの作品は「もし10年生まれるのが早かったら出られなかった」といい、「逆に10年遅かったら『ハリー・ポッター』を演れたかもしれない」と述べている。 小学校時代は関係者から怒られるのが嫌で、スタジオに行くまでにセリフを全部覚えるなど、熱心な仕事ぶりから「天才」と評された。この頃は引っ込み思案で「はい」としか言えない子供であったと後に本人が振り返っている。しかし中学時代から、子役の仕事の都合で学校を遅刻・早退するのが嫌だと仕事をサボるようになり、プロデューサーに「なぜ来ないんだ」と言われると「気分が乗らないから」とふてくされた態度を取るようになった。その結果、たまに来る仕事以外は声優としての仕事がなくなった。 中学時代は卓球、高校時代は東京都立神代高等学校のハンドボール部に入部、部長を務めていた。大学時代には社会人リーグで自分でハンドボールチームを作り、将来はスポーツの世界で生きていけたらと思っていたが、試合中に全治1年半のケガを負い断念。大学では心理学を学んでいたが、専門知識を生かせる就職先は狭き門であり、浪川自身、社会で勝負していけることは何かと悩んでいた時期があった。その際、映画『ロミオ+ジュリエット』のテレビ放映にあたり、レオナルド・ディカプリオの吹き替えを通して、改めて声優を志すことを決意する。 声優として失った信頼を取り戻すために、かつて自身を起用していた制作会社に増長した態度を取ったことを謝罪し、こうして許してくれた少数の会社から仕事を貰えるようになった。 1999年には東京国際大学福祉心理学科を卒業。声優の仕事だけでは食べていけないこともあり、7年間アパレル関連の会社に勤務した経歴を持つ。大学時代に作ったハンドボールチームは現在も続いており、30歳くらいまでキャプテンを務めていた。 『ターミネーター2』・『ターミネーター3』ではジョン・コナー役を担当した。『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』では主人公アル(アルフレッド・イズルハ)を演じた(当時12歳)。同作品のDVDのCM(『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』のDVD Vol.4の映像特典のインフォメーションにあたる)では、大人になった浪川がナレーションを担当している。また、PS2ゲーム『機動戦士ガンダム クライマックスU.C.』『SDガンダム GGENERATION SPIRITS』では『機動戦士ガンダム0080』のエピソードでナレーションを担当した。 2001年1月、結婚式を挙げる。 2006年2月から2008年3月まで岸尾だいすけとのユニット「DD」で活動していた。また、友人の野島健児のユニット「BELOVED」にもゲストとして参加している。 2010年、第4回声優アワードにて助演男優賞を受賞。同年初夏に浪川自らが監督した映画『Wonderful World』が公開された。 2010年6月23日、Kiramuneレーベルから歌手デビュー。2014年12月13日、Kiramuneレーベル内新ユニットとして、吉野裕行と「Uncle Bomb」を結成、2015年5月9日にデビュー。 以前はグループこまどり(所属当時は劇団こまどり)、東京俳優生活協同組合(2003年 - 2008年3月)、アクロス エンタテインメント(2008年4月 - 2014年3月)に所属していた。2014年4月1日、より活動の幅を広げたいという思いから独立を決意し、アクロス エンタテインメントを円満退社、ステイラックを立ち上げ、その後2016年4月より「ステイラック付属養成所Follow-Up」を立ち上げた。 2021年11月23日放送の踊る!さんま御殿!!にて、今週の踊る!ヒット賞を受賞している。 2022年7月26日放送の踊る!さんま御殿!!にて、今週の踊る!ヒット賞を再び受賞している。 人物紹介. 特色. 声種はバリトン。 子供の頃はハイトーンの声が出たが、大人になるにつれてそうした声が出なくなり、20歳を過ぎた頃になると1オクターブと少ししか出ないなど音域が極端に短くなった。しかし、芝居の仕方によってハイトーンにもロートーンにも聞かせる技術がある。 20歳ごろに『八雲立つ』で共演した関智一の地声を聞いて、浪川はその時「意外とハスキーボイスなんだな」という印象を持った。それまでの浪川は綺麗な声、いい声を出そうとしていたが、関との出会いが声優の概念を覆し、以来喉を潰すために、酒でうがいを行う、変なタバコの吸い方をする、大声で叫ぶなどあらゆる努力を行った。『ロード・オブ・ザ・リング』の吹き替えをしていた頃には、潰した喉を一旦元に戻していた。声質が変わったことからディレクターから「なんだその声。声優として終わりだな」と言われたこともある。 第4回声優アワードでは「『07-GHOST』のミカゲでは主人公の良き友人役として印象を残し、『君に届け』の風早翔太では爽やかな演技で女性ファンを魅了。幼い頃から外画の吹替えで活躍し、幅広い演技で数多くの作品を支えている。また、ラジオなどトークも好評で、男女問わず多くの人から親しまれている。」と評される。また、『閃光のナイトレイド』の伊波葛では語学堪能なスパイの設定のため、ドイツ語、中国語、英語などの台詞をこなしている。 『ルパン三世』シリーズでは、2011年より井上真樹夫から石川五ェ門役を受け継いでいる。五ェ門役が決まった際には少なからず反対の声があったことをのちのインタビューで本人が明かしており、役を演じている内に五ェ門の声は低く感じられるだけで実は低くないと気づいたという。井上から五ェ門を引き継いだ後も『PROJECT X ZONE』において、かつて井上が演じた『ゾンビリベンジ』の毒島力也役を受け継いだり、『荒野の七人』のスター・チャンネル版でかつてNETテレビ版で井上が演じたチコ役(ホルスト・ブッフホルツ)の吹替を担当するなど、何らかの形で井上に関係する役を演じることもあった。また、井上の最後の出演作の一つとなった『キングダム ハーツIII』では、井上が演じるマスター・エラクゥスの若年期の声を浪川が担当している。 洋画吹き替えではイライジャ・ウッドやヘイデン・クリステンセン、トニー・ジャーをほぼ専属、その他にもジャスティン・ティンバーレイク、ニコラス・ツェー、レオナルド・ディカプリオ、ジョン・チョー、チャド・マイケル・マーレイ、パク・ユチョン、エドワード・ファーロング、ガエル・ガルシア・ベルナル、ケヴィン・ゼガーズなどを担当している。 クリステンセンは、2022年6月16日に都内で実施された「最終話直前『オビ=ワン・ケノービ』ユアン×ヘイデン×監督に直撃LA-東京中継イベント」にて、対面こそ実現していないものの共演者の森川智之から浪川の伝言が伝えられ、お墨付きを貰っている。 『バンデットQ』では子役時代に主人公のケヴィンを演じ、28年後のBlu-rayでの追加録音ではすでに故人となっている嶋俊介の代役としてケヴィンの父を演じたため、子役時代の自分自身と父子共演するというキャリアの長さゆえの珍しい現象が起きた。 声がボソボソしてハスキーなことから歌が苦手であり、音が取れないために歌の仕事を降ろされたこともある。しかし、歌を唄うこと自体が嫌いなわけではない。 人物・エピソード. 本当の誕生日は3月29日であるが、学年の関係でずらされ、戸籍上は1976年4月2日生まれである。 好きな女性のタイプは「幸が薄そうな人」。 子役時代から吹き替えをしているが、小学生の頃は吹き替えた自分の声がTVから出ていることを学校で友達にからかわれるため、吹き替えの仕事が嫌であったという。 『フルメタル・パニック!』の舞台・都立陣代高校のモデルになった東京都立神代高等学校出身。同作のTV版にもレナード・テスタロッサ役で出演している。浪川自身は出演時には自身の出身校が舞台になっているとは知らず、DVD-BOX特典のオーディオコメンタリー収録の際に初めてその事実を知ったと当該DVDの中で語っている。 スポーツ方面では、中学時代に卓球で東京都ベスト8に進出し、高校時代にはハンドボールで東京都代表に選ばれた。 『ターミネーター2』の吹き替えを担当した当時、高校の文化祭を欠席してアフレコ収録を行ったが、結果的に自分が担当したバージョンがファンから長年親しまれ、度々再放送されていることを嬉しく思っていると述べている。 家庭教師(社会科と英語を担当)をしていたことがある。 ABEMA TVの帯番組の『声優と夜あそび』の時の書き初めの際に、足の裏潔癖症と言っている ラジオ出演関連. 2008年から2009年にかけて放送された、声優による年越し生放送番組『AT-X史上初の年越しナマ! 大晦日だもの、最後に笑えればいいんじゃない? Yes, We can!スペシャル』(AT-X)と『超A&G+年越しスペシャル 4時間生でモゥ大変!2009』(文化放送「超!A&G+」)の両番組に出演した声優の数少ない1人である。前者には年越し前の2008年に森久保祥太郎に自ら電話して出演、後者は年越し後の2009年に岩田光央の電話を受けた後に動画でも出演した。 『うたわれるもの』で共演していた小山剛志のブログに浪川の写真が掲載されたとき、意味もなく木に登るなど「珍獣」を演じていた。さらに同作品の出演者が参加した、浪川誕生記念飲み会の写真が同ブログに掲載された時は上半身裸の姿であった。 出演. 太字はメインキャラクター。 ラジオ. ※はインターネット配信。 テレビ番組. ※はインターネット配信。
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梅園篤彦
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 経歴. 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。 1929年(昭和4年)11月14日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
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ペーター・フレンケル
ペーター・フレンケル (Peter Frenkel、1939年5月13日-)は、旧東ドイツの陸上競技選手。1960年代から1970年代にかけて活躍した 競歩選手である。ザクセン=アンハルト州ブルゲンラント郡エッカーツベルガ出身。 経歴. フレンケルがオリンピックに出場したのは1968年メキシコシティーオリンピックが最初である。この大会の20km競歩で10位という結果を残している。その後、1971年ヨーロッパ選手権では4位となるが、1972年ミュンヘンオリンピックではソ連のウラジミル・ゴルブニチー(Vladimir Golubnichy)らを抑えて金メダルを獲得した。 1974年のヨーロッパ選手権では途中棄権という結果に終わるが、1976年モントリオールオリンピックでは3位となり、2大会連続の表彰台となった。 フレンケルは引退後は東ドイツでは著名な写真家となる。
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木村章司
木村 章司(きむら しょうじ、1977年7月20日 - )は、日本のプロボクサー。元日本スーパーバンタム級王者(2度獲得)。花形ボクシングジム所属。 人物. 北海道網走郡美幌町出身。網走支庁初のボクシング興行を行った選手。 萩野崇初主演の映画「HERO?天使に逢えば…」に出演している。鴨居駅近くの飲食店「章舞」の店長等を経て、現在は空調設備会社勤務。 来歴. マイク・タイソンに憧れ、美幌北中学の頃から帯広市のボクシングジムに通うようになる。北海道美幌高等学校卒業後、札幌市の北海道ボクシングジムに短期間在籍の後、横浜市の花形ボクシングジムに移籍。 1997年10月3日、横浜文化体育館で花形ジム所属選手としてプロデビュー。4R判定勝利を収めた。 1998年8月23日、横浜アリーナで行われた辰吉丈一郎、坂本博之らのトリプル世界戦のアンダーカードで4回戦を行い、初回KO勝利を収めた。 2000年12月6日、パシフィコ横浜で星野敬太郎が世界王座を獲得した興行では8回戦を行い、4RKO勝利を収めた。同会場で木村は、2001年4月16日の星野が王座陥落した興行で阪東ヒーローに8R判定勝利を収め、2002年1月29日の星野が世界王座に復帰した興行で10R判定勝利を収めた。 2003年4月29日、故郷に凱旋し、美幌町スポーツセンターで行われた10回戦に5RKO勝利を収めた。同年10月19日、自身4度目の横浜文化体育館で元WBA世界フライ級王者セーン・ソー・プロエンチットに10RTKO勝利を収めた。 2004年5月23日、北海道立北見体育センターで行われた元WBA世界スーパーフライ級王者ヨックタイ・シスオーとの10回戦では途中、右拳を傷めながら判定勝利。デビュー以来17連勝となった。 2004年10月30日、両国国技館で行われた世界戦のアンダーカードで、WBC世界スーパーバンタム級王座に挑戦し判定負けを喫したばかりの仲里繁と10R判定で引き分け、連勝は17でストップとなった。 日本王座獲得. 2005年4月16日、日本武道館で行われたダブル世界戦のアンダーカードで日本スーパーバンタム級王者中島吉謙に挑戦。10R判定勝利で待望の王座を獲得した。同年9月22日、同王座の初防衛戦で福原力也に10R判定で敗れ、王座を失うと同時に無敗記録が途切れた。2006年4月8日、元WBA世界スーパーバンタム級王者ヨーダムロン・シンワンチャーとの10回戦に判定勝利を収めて再起を果たした。 2006年10月9日、福原から日本王座を奪取した山中大輔に挑戦。10R判定で再戴冠ならず。2007年3月10日、日本2位の宮将来との56.0kg契約10回戦に3-0の判定勝利を収め、再起を果たした。 2007年10月8日、三浦数馬との56.0kg契約10回戦では3Rにダウンを奪ったものの、97-96、95-97、96-96の引分判定となった。2008年6月16日、日本1位の瀬藤幹人との56.0kg契約10回戦で3-0の判定勝利。2月に予定されていた試合が自らの肋骨負傷で延期となっていたが、当初は木村が1位であり、いずれにしても1位と2位の対戦だった。 2009年2月25日、第30回チャンピオンカーニバルで日本スーパーバンタム級王者三浦数馬に挑戦。2RKO勝ちで前回対戦時に引き分けて以来の決着をつけるとともに王座復帰に成功した。木村はこの試合に対し、東日本ボクシング協会の平成21年2月度月間最優秀選手賞および4月23日選考の同チャンピオンカーニバル最優秀選手賞を受けた。 2009年6月8日、6位金沢知基を迎えての初防衛戦では終始試合を支配し、9Rに左アッパーでダウンを奪ってKO勝利を収めた。勝利後は改めてWBC世界同級王者西岡利晃への挑戦意欲を語った。この試合に対しても、東日本ボクシング協会の平成21年6月度月間最優秀選手賞を受けた。同年12月14日、1位・芹江匡晋と対戦し、1-2の判定負けで王座を失った。 世界王座挑戦. 2010年5月20日、タイ・マハーサーラカーム でWBA世界スーパーバンタム級王者:プーンサワット・クラティンデーンジム()に同級12位として挑戦。木村は序盤から積極的にパンチを当て、攻撃的な戦いを見せたが、3R終盤から王者に攻め込まれ、4Rに3度のダウンを奪われて2分23秒でKO負けを喫し、王座獲得はならなかった。 タイの水が合わず激しい下痢をおこしていた為に、スタミナが一気に切れたのが王者に攻め込まれる原因であった。 試合終了後、木村は「悔いはない」と語り、現役引退の意向であることを表明した。 しかし、1年半経った2012年に再起。2月14日、後楽園ホールで木村が敗れたプーンサワットからベルトを奪った元WBA世界スーパーバンタム級王者李冽理とフェザー級10回戦で対戦。大方の予想を覆し、2-1のスプリットデシジョンで判定勝ちした。 これによりWBA世界フェザー級スーパー王者であるクリス・ジョンと対決が決まる。 同年5月5日、シンガポールで行われたクリス・ジョンとWBA世界フェザー級スーパー王者を賭けて対戦。しかし、ジョンの壁を崩すことはかなわず0-3、最大9点差がつく大差判定負けを喫した。試合中には鼻骨を骨折していたことも明らかとなった。 この試合を最後に引退を表明。 12月3日、後楽園ホールでの東洋太平洋女子ミニフライ級王座決定戦・花形冴美 vs 黒木優子をメインとする興行にて元WBC世界2階級王者長谷川穂積を相手に引退記念スパーリングを行う。 戦績. プロボクシング:31戦24勝 (9KO) 5敗 (1KO) 2分
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太陽にほえろ!のエピソード一覧 (1974年9月 - 1976年9月)
太陽にほえろ!のエピソード一覧(たいようにほえろ!のエピソードいちらん)は日本テレビ系列で放送された『太陽にほえろ!』シリーズの放送タイトルである。ここでは全718話のうち、1974年9月6日から1976年9月3日までに放送された第112話から第216話までを記述する。 本記事以外のエピソードについては太陽にほえろ!#放送リストのリンクを参照。
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1997年のヤクルトスワローズ
1997年のヤクルトスワローズ(1997ねんのヤクルトスワローズ)では、1997年のヤクルトスワローズにおける動向をまとめる。 この年のヤクルトスワローズは、野村克也監督の8年目のシーズンであり、2年ぶり5度目のリーグ優勝と2年ぶり4度目の日本シリーズ制覇を果たしたシーズンである(いずれも1995年以来)。 概要. 前年4位で終了したこともあり野村監督は「今年はもう一度覇権を取る」と意気込んでシーズンに臨んだが、退団したトーマス・オマリーやヘンスリー・ミューレンに代わる新戦力が広島を自由契約になった小早川毅彦や、キャンプでの評価が低かった新外国人ドゥエイン・ホージー以外めぼしい戦力はなく「優勝はおろかAクラス入りは無理」と不安視する声が上がり、またベテランの小早川に至っては新天地での活躍を不安視された。 迎えた巨人との開幕戦で小早川が4年連続開幕戦完封勝利を狙った斎藤雅樹から3打席連続ホームランを放つ活躍を見せてKOして勝利。2戦目も競り勝って開幕カードを2勝1敗で勝ち越しに成功。勢いに乗り、4月を15勝8敗で首位に立つと5月、6月も大きく勝ち越して首位を独走。開幕当初は7番を打っていたホージーが前評判を覆し本塁打を量産したのをはじめ、古田敦也・池山隆寛が打ちまくって巨人・広島・中日といった前年Aクラス球団などを寄せ付けず前半戦を終了。 後半戦に入ると好調マシンガン打線を擁する横浜が8月に月間21勝をあげる猛烈な追い上げを見せ、8月末にはゲーム差3.5に迫ってきた。迎えた9月2日からの直接対決天王山では、初戦に先発した石井一久がノーヒットノーランを記録すると翌日も勝利して連勝。9月は14勝5敗と走り、意気消沈の横浜とのゲーム差を広げ、最終的に9月28日の阪神戦に16対1で勝ち、2年ぶりのリーグ優勝を達成した。 日本シリーズは4年ぶりに西武との顔合わせとなった。世代交代が進み、松井稼頭央や大友進など若手を中心にチーム200盗塁を記録した西武の機動力とヤクルトのバッテリーとの対決が注目を集めた。初戦で石井が西武先発・西口文也との投手戦を1-0で制すると、その後の試合でも川崎憲次郎やテリー・ブロスらと古田のバッテリーが西武打線の機動力を徹底的に封じて4勝1敗で破り、日本一を奪回した。 チーム成績. レギュラーシーズン. ※年数はNPB所属通算年数、年齡は開幕時
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食品科学
、食品学、食科学()は、食品を研究対象とした応用科学でありまた、人文科学·社会科学·自然科学における知見を統合的に適用して食に関する諸問題を研究し、あるいは解決を図る学際的な学問領域でもある。 は、食品科学を「工学、生物学、物理学を適用して食品に纏わる自然現象や品質低下の原因、食品加工に関する法則を研究し、一般消費者が消費する食品の改良を対象とする学問」 と定義している。書籍"Food Science"では、一般的な用語としての食品科学を「基礎科学と、食品や食品加工の原理に纏わる物理、化学、生物学的現象を研究する工学の応用」と定義している。 概要. 食品科学者の研究活動対象には、新たな食品の開発、新商品を生産する工程の計画、食品包装の選択、賞味期限研究、パネル調査や想定消費者層を用いた製品に対する官能検査、微生物学的、化学的試験などが含まれる。また、食品科学者は食品生産や食品の性質に直接結びつく、より基礎的な現象を研究することもある。 食品科学は多様な科学的法則を援用しており、その中には微生物学、化学工学、生化学といった領域の概念が含まれる。 食品科学に関する研究機関としては以下のものがある。 分野. 食品科学には、以下のような分野がある。 食品化学. 食品化学は、食品の生物学的、非生物学的含めたすべての成分について化学的なプロセスや反応を研究する学問である。研究対象となる生物学的な成分には、肉、家禽、レタス、ビール、牛乳等がある。 炭水化物や脂質、タンパク質などを主な研究対象とする点で食品科学は生化学に似ているが、食品科学は生化学では対象としない水、ビタミン、ミネラル、酵素、食品添加物、香料、着色料なども研究対象としている。食品化学は技術を用いて製品を変化させる際の指針となり、ある成分を増強したり発生を抑制するためにも用いられる。 食品物理化学. 食品物理化学は、物理や化学、物理化学を用いて食品に関する法則を研究する学問である。 食品工学. 食品工学は、主に食品を生産する際に用いられる。 食品微生物学. 食品微生物学は食品に住み、食品を生み出し、時に食品を微生物について研究する学問であり、腐敗など人間の食品摂取に害をもたらす現象を引き起こす微生物についての研究を含む。しかし、プロバイオティクスのような「良い」バクテリア(善玉菌と呼ばれることもある)の研究もまた食品科学において重要性を増している。加えて、微生物はチーズやヨーグルト、パン、ビール、ワインなどを含む食品の醗酵において欠かすことのできない役割を果たしている。 食品包装. 食品包装とは、食品を製造、販売する際、品質を保ちながら保存するため包装を行う技術である。食品包装の主な対象は、物理的な保護による物が多い。多くの場合、食品包装には特定の食品の栄養価を含めた情報が記載されている。食品包装は殆どの場合、包装用機械を用いて行われる。 食品保存. 食品保存は食品の品質を低下させる原因と対策を研究対象とする。 食品代用. 食品代用はある食品を他の材料で置き換える技術を指し、特にコスト削減の観点で利用されることが多い。食品代用の技術は食品の形状、色、食感、香りを保ちつつ、脂肪や砂糖、カロリーを削減するために使用されることもある。 食品技術. 食品技術は、食品の技術面に注目する。 食品技術に関する初期の関心は、食品の保存に集中していた。1810年、ニコラ・アペールによる瓶詰加工技術開発は画期的な出来事であった。当時この加工工程は瓶詰と呼ばれておらず、アペールは実際に自分が開発した原理について理解していなかったが、瓶詰加工技術は食品保存技術上極めて大きな影響を与えた。 分子ガストロノミー. 分子ガストロノミーは調理工程や、社会的、芸術的ガストロノミー現象について科学的に考察する学問である。 商品開発. 商品開発の中には食品科学を応用した新たな食品の発明が含まれる。 品質管理. 品質管理には、食中毒の原因と防止策が含まれる。 官能検査. 官能検査は消費者が食品から受ける印象を研究する。 各国の状況. アメリカ合衆国. アメリカ合衆国では、食品科学は主にランドグラント大学で研究されることが多い。 アメリカ合衆国における食品科学の先駆者の多くはランドグラント大学(アメリカ合衆国の州政府が運営する州立大学であり、その多くが男女の区別をしない入学許可を出している)で化学的問題に取り組んだ女性であったが、19世紀終わりから20世紀初頭の時期にあって、彼女らは大学卒業後根強く残る性差別主義のため仕事を見つけられないでいた。当時は女性に対しては学問上のキャリアパスを閉ざすことが一般的であり、彼女らは家政学の専任講師として雇用され、近代における食品科学の多くの計画の推進に貢献した。 食品科学とを取り扱うアメリカ合衆国の主な研究機関としては、イリノイ州のシカゴに本部を置く(IFT)がある。IFTは、(IUFoST)に加盟している。 オーストラリア. オーストラリア連邦科学産業研究機構(The Commonwealth Scientific and Industrial Research Organisation、CSIRO)は、オーストラリアにある、科学研究に関する連邦政府の研究機関である。CSIROはオーストラリア国内に50以上の拠点を持つ他、フランスとメキシコに生物制御の調査組織を持つ。CSIROでは約6,500人の研究員が働いている。 韓国. 韓国食品科学技術学会(KoSFoST)は、食品科学に関する韓国内初の学会であると主張している。 食品科学雑誌. 食品科学に関する著名な雑誌としては以下のものがある。 食品科学やキッチン・サイエンスについて触れた一般書籍としては、やらによる著書がある。 食品科学が専攻できる大学. 食品科学が専攻できる大学院研究科. (五十音順)
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胡佳 (活動家)
胡 佳(こ か、フー・ジャア、1973年7月25日 - )は、中華人民共和国の民主化運動家。別名胡嘉。中国では反体制活動家とされる。妻は同じく活動家の曽金燕(Zeng Jinyan)。 彼の活動は、中国民主運動、中国環境問題、中国におけるHIV/AIDS 問題にフォーカスしてきている。また、絶滅の危機に瀕しているウシ科の動物チベットカモシカの保護活動も支援している。 両親. 彼の両親はそれぞれ北京と天津の大学の学生だった1957年に、中国毛沢東政権の下で起きた反体制狩りの反右運動 (日本では反右派闘争と呼ばれる)において「右派」のラベルを貼られてしまった。彼らは河北省や、甘粛省、湖南省など、中心から離れた地域において、労働をするよう命令を受ける。鄧小平が権力の座についた後の1978年までは、夫婦はしばしば別々に暮らすことを余儀なくされた。  活動. 胡佳は北京経済学院(現在の北京首都経済貿易大学、Capital University of Economics and Trade)で情報工学を学び、1996年に卒業した。 大学在学中に環境問題に関心をもち、いくつかの環境保護団体の活動に参加している。2000年7月に、民族問題に詳しい作家の王力雄から、中国で有名なエイズ問題の活動家、万延海()を紹介される。それ以降、万が設立した団体を手伝うなど、中国国内のエイズ防止活動に力を注ぐようになると同時に、中国政府のエイズ患者の扱いについて批判してきている。また、逮捕された万延海を含む、政治犯の釈放を求めるキャンペーン活動にも力を注いでいる。彼は、反日デモにも参加をしている。 胡佳は、中国の市民としての権利を強く主張している。彼の活動計画に疑いをかけ、しばしば警官が彼を逮捕拘留した際に、当局が中国の法律のどの規定に従い逮捕しているのか、強くその理由を問い詰めている。 2006年2月16日、胡佳は41日間の拘置を受けている。この拘置に関して、中国政府は認識・把握していなかった。北京の自宅へ戻ったあとも、妻とともに2007年3月まで自宅軟禁となった。さらに2か月後の5月、国家安全保障上危険があるとして、再び自宅軟禁となる。自宅にいる間は、メールとブログを用いて活動をつづけていた。この年の11月、ベルギーのブリュッセルで開かれた欧州議会の中国の人権に関する公聴会に、ウェブカメラで参加を行っている。 2007年12月27日、国家政権顛覆煽動罪(煽動顛覆国家政権罪)で、自宅で逮捕される。2008年4月3日、北京市中級人民法院において、3年6か月の禁固刑を宣告されている。 2008年10月10日には、ノーベル平和賞受賞者候補として名前が挙がり、中国政府が不快感を示した。10月23日、ヨーロッパ議会よりサハロフ賞を授与された。これに対しても、中国政府は「犯罪人に賞を与えるのは乱暴な内政干渉だ」と反発している。 2010年4月12日、肝癌の疑いによる検査・治療のための仮釈放要請を中国政府が拒否したことが、家族の報告で明らかになった。 2011年6月に刑期満了で、3年半ぶりに出所し自宅に戻った。しかし自宅周囲は警官に取り囲まれ、引き続き事実上の軟禁状態となった。 2017年11月、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領が訪中の際に中国の人権問題に触れず中国の国営紙環球時報がこれを歓迎してることについて、「完全に中国のやり方に乗せられており、非常に残念だ」と述べた。
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パクリチニブ
パクリチニブ (Pacritinib, INN)は、骨髄線維症治療薬として開発が進められている 環状ヤヌスキナーゼ阻害剤である。主にヤヌスキナーゼ2 (JAK2)を阻害する。臨床第III相試験が2013年に行われた。 この薬はシンガポールのS*バイオPte Ltd.で発見された。JAK2阻害活性はJAK2野生型に対してIC50 =23 nM、JAK2 V617F変異に対して IC50=19 nMであり、良い選択性を持っていた。 JAK1 にはIC50=1280 nM、JAK3には IC50 =520nMであった。 この薬剤は Cell Therapeutics, Inc. (CTI)とバクスターにより取得され、他のJAK阻害剤では血小板減少症をきたす骨髄線維症患者に向け開発が進められている。
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小津安二郎学会
小津安二郎学会(おづやすじろうがっかい、英称:The Ozu Yasujiro Society)は、映画監督・小津安二郎を研究する学術組織。小津を対象とした取材調査・研究・批評活動並びに、講演・シンポジウム開催などの一般に向けての活動、出版活動などを行う。 主な取材調査・研究・批評. 記載は学会ウェブサイトに記載されているもの。
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シフトレジスタ
シフトレジスタ()とは、複数のフリップフロップをカスケード接続し、データがその回路内を移動(シフト)していくよう構成したデジタル回路のこと。 単に「シフトレジスタ」といった場合、(電荷結合素子等のアナログシフトレジスタではなく)ディジタルシフトレジスタを指すことが多い。このページでも、ディジタルシフトレジスタについて解説する。 種類. シフトレジスタは、入力と出力それぞれについて、直列(シリアル)か並列(パラレル)かで4種類に分類される。直列入力並列出力形(Serial-In, Parallel-Out、SIPO)と並列入力直列出力形(Parallel-In, Serial-Out、PISO)は、シリアルデータとパラレルデータの変換に使われる。直列入力直列出力形(SISO)と並列入力並列出力形(PIPO)もある。また、双方向シフトレジスタもあり、シフトしていく方向を変化させることができる。SISOシフトレジスタの入力と出力を相互接続すると環状シフトレジスタを構成できる。また、多次元シフトレジスタを構成することもでき、より複雑な計算を実行することが可能である。 直列入力直列出力形. 直列入力直列出力形(SISO)のシフトレジスタは最も単純な形態である。データはシリアルに入力端子から入力され、トリガークロック信号が入力されるたびにフリップフロップを1段ずつ進んでいく。このとき、入力が接続された1段目のフリップフロップに入力データ(ビット)が取り込まれ、最終段のフリップフロップの持っていたデータ(ビット)が出力され、失われる。 フリップフロップに格納されたデータは 'Q' 端子に出力されている。フリップフロップ1個につき1ビットのデータを保持するので、4個使えば4ビットのレジスタとなる。例えば、シフトレジスタの初期値が 0000(つまり、全スロットが空)であったとする。入力が 1,1,0,1,0,0,0,0 の順にあったとする。すると、右の表のような状態の流れとなる。左端の列が入力に近い方のフリップフロップを表している。つまり、この場合の出力は 11010000 となる。これに入力を続ければ、全く同じ順序で出力が得られる。 単純なSISOシフトレジスタは、出力されたデータは失われてしまう。入力されたビット列を指定された場合に保持し続けるような回路も構成できる。この場合、シフトレジスタの出力を入力に戻し、読み書き指定の新たな信号線を追加して、書き込み状態では通常のシフトレジスタの動作をし、読み出し状態では環状シフトレジスタとして動作するように構成する。 直列入力並列出力形. 直列入力並列出力形(SIPO)のシフトレジスタは、シリアル形式のデータをパラレル形式に変換することができる。SISO と同様に入力はシリアルである。データが入力されると、全フリップフロップの出力を同時に読み取ることができるし、クロック信号で進めていけばビット列はシフトされていく。 並列入力直列出力形. 並列入力直列出力形(PISO)のシフトレジスタでは、入力が複数存在する。データを書き込むには、Write/Shift 制御信号を LOW にしなければならない。データをシフトするには、W/S 制御信号を HIGH にし、クロック信号を与える。一段目のフリップフロップへの入力のみを使えば、SISOシフトレジスタとしても機能する。 並列入力並列出力形. 並列入力並列出力形(PIPO)のシフトレジスタは、パラレルデータを入力として受け取り、クロック信号が駆動されるまでその内容を保持し、クロック信号によって左右にシフトさせる。これは、一種の履歴情報を保持するのに使われる。 用途. シフトレジスタの最も典型的な用途として、シリアルとパラレルのインタフェース変換がある。多くの論理回路はビット列を並列に処理するが、インタフェースとしてはシリアルの方が構成しやすい。シフトレジスタは単純な遅延回路としても機能する。複数の双方向シフトレジスタを並列接続すると、ハードウェアによるスタックを構成できる。 シフトレジスタは、パルス幅を広げるのにも使える。単安定マルチバイブレータに比較して、タイミングが部品の特性に依存しないという利点があるが、クロック信号が必要であり、タイミングの正確さはそのクロックの周期に依存する。 初期のコンピュータでは、シフトレジスタをデータ処理に利用していた。たとえば2個のシフトレジスタに入っている値の加算は、直列加算器により最小のハードウェア資源で実現できる。 数千ビットもあるような大型の直列入力直列出力形シフトレジスタが、1970年代初期ごろまで水銀遅延線の代替として使われたことがある。 歴史. 史上初めてシフトレジスタを使った装置として、1940年代に暗号解読に使われた Colossus が知られている。これは、真空管とサイラトロンを使った5ステージのデバイスだった。
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1944年のラジオ (日本)
1944年のラジオ (日本)では、1944年の日本のラジオ番組、その他ラジオ界の動向について記す。
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鴨川 (滋賀県)
鴨川(かもがわ)は、滋賀県の西部を流れる一級河川で、琵琶湖に流入する淀川水系の河川。 地理. 水源は大津市北部の比良山地にある武奈ヶ岳である。高島市黒谷の西南にある八ツ淵の滝のある八池谷を通り、比良山地の谷から出でる小河川と合流しつつ平地に出て高島市鴨で八田川と合流する。武曽・拝戸付近で平地に出てからは鴨川によって形成された沖積平野が広がる。高島市安曇川町下小川で琵琶湖に流入する。北に流れる安曇川と同じく扇状地を形成し、河口部は琵琶湖に大きくせり出す。鴨川の河口部付近から南側の大溝までは松並木とともに砂浜(荻の浜)が広がる。流域には河岸段丘が多く、比良山地の花崗岩が多いため下流部は天井川になっている。総延長13.5 キロメートル。 歴史. 鴨川は沿川の水田地帯にとって重要な水源であり、それがゆえに用水をめぐって争いが起きていた。江戸時代末期には上流の鹿ヶ瀬村と下流の伊黒・拝戸・音羽の三ヶ村で、黒谷村にある井堰をめぐった争論が生じている。 川の名前になっている鴨の集落はかつて上賀茂神社の神田が置かれた地であり、鴨川そのものを社領として神供のための漁を行っていたといわれる。 「高島郡誌」には高島山で伐採された木材を鴨川を使って、小川津(小川津そのものについては安曇川の「おがわ」ではなく朽木の「こがわ」を指すという異説あり。安曇川の項目も参照。)から琵琶湖・瀬田川に流下させたことや高島縮を鴨川で晒したことが記されている。 近年は平成25年台風第18号の豪雨により、高島町宮野付近で決壊が発生し、大きな浸水被害を出している。
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ボグダットの戦い
ボグダットの戦い、ボグダット作戦 ()、バグダッドスカヤの戦い とは、ザバイカルでのロシア内戦中で最大の、ソビエトパルチザンと白軍 (遠征する日本の第5師団と共に)の間で行われた戦闘であった。 1919年夏、地方抵抗運動は白軍コサックと日本による政権に対して威嚇を行ない、その政権は東バイカルにおけるパルチザンの位置上で大規模な攻勢に乗り出すことを決定した。8個連隊のコサックと2000人に至るまでの日本の兵士が作戦に参加した。パルチザンはこのような攻勢を予想できておらず、ボグダット及びホミャッキ村の近くを一日で取り囲まれ、その後封鎖が強化された。 ボグダットは、パベル・ズラフリオフが率いる東ザバイカル戦線の本部の本拠地であった。9月29日から10月19日の間、パルチザンは、包囲の突破を必死に試みた。最終的に、部隊の三分の二は、どうにか捕捉を避け、脱出した。
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伊予桜井駅
伊予桜井駅(いよさくらいえき)は、愛媛県今治市桜井にある四国旅客鉄道(JR四国)予讃線の駅である。駅番号はY38。 歴史. かつては一部の急行列車が停車しており、1984年2月ダイヤ改正時点では上りの「いよ」6号・8号が停車していた(下りは全列車通過)。1987年4月の時点では停車はなくなっている。 駅構造. 1番線が上下本線(制限速度100km/h)、2番線が上下副本線となっている一線スルーで対向式2面2線の地上駅。行違いがない場合には両方向とも原則として1番のりばを使用する。簡易委託駅で、駅前の商店で乗車券を販売している。 駅周辺. 前述の通り駅周辺に愛媛県立今治東中等教育学校があるため、朝夕は多くの通学生で混雑する。
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ジェラルド・ファネンブルグ
ジェラルド・ファネンブルグ(Gerald Vanenburg、1964年3月5日-)は、オランダ・ユトレヒト出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはMF、DF(リベロ)。オランダ現地での発音は「ヘラルト・ファネンブルフ」。 略歴. アヤックスの下部組織で育ち1980年に1軍デビューを果たすと、直ぐに頭角を現しレギュラーの座を掴むと3度のリーグ優勝に貢献した。この活躍によりオランダ代表に選出され、1982年4月14日のギリシャ戦において代表デビューを果たした。 1986-1987シーズンにはPSVアイントホーフェンへ移籍し中心選手として活躍をみせ、5度のリーグ優勝に貢献。、1987-88シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ決勝のベンフィカ戦では先発フル出場、PK戦では4人目のキッカーとしてPKを成功させ優勝を果たした、同年日本で開催されたインターコンチネンタルカップのナショナル戦に先発出場したが、69分に交代、チームは2-2から延長PK戦の末に敗れた。 EURO1988では右ウイングの位置から中盤を組み立て優勝に貢献した。1990年のイタリアW杯ではグループリーグ初戦のエジプト戦で先発出場したが、後半開始から途中交代を命じられ、その1試合のみの出場に留まった。1992年10月14日のFIFA ワールドカップ 1994予選、ポーランド戦で途中交代で出場を果たしたが、この試合が代表最後の試合となった。 1993年には日本代表監督であったハンス・オフトから誘われる形で、当時JFLのジュビロ磐田へ入団、広い視野、高いテクニックと左足の正確なキックを武器にチームに貢献、その後迎える磐田の黄金時代に大きな影響を与えた。1994年度には週刊サッカーマガジンが選出したJリーグ年間ベストイレブンに選出されている(ポイントは第1位)。 1994年4月13日のジェフユナイテッド市原戦でJリーグ初ゴールを決めた。加入当初は中盤の司令塔としてプレーしたが、ドゥンガの加入後はリベロとしてプレーした。1996年9月21日、第20節のアビスパ福岡戦で2ゴール(2点目のゴールは磐田での最後のゴール)を決めて勝利に貢献するなどの活躍をしていたが、その後は負傷で第22節から25節まで欠場、10月26日、第26節のジェフ市原戦で複帰、74分から藤田俊哉との交代で出場するも、その試合で負傷し、82分に交代を強いられ、この試合が磐田でも最後の試合となった。Jリーグ通算は86試合14ゴールの成績を残した。 磐田退団後は故郷のクラブチーム・FCユトレヒトへ移籍した。その後フランスのASカンヌを経て、2000年、ドイツ・ブンデスリーガ・1860ミュンヘンを最後に現役を引退した。 引退後はPSVユースの監督、かつて在籍した1860ミュンヘンの監督を務めた。その後再びPSVの育成部門に復帰したが2006年3月現在フリー。2005年12月にはオランダサッカー協会の指導者ライセンスを取得している。 個人成績. 381||114|||||||||||| 86||14||16||3||3||1||105||18 colspan=2|-||4||2||1||0||5||2 26||6|||||||||||| 42||2|||||||||||| 535||136||||||||||||
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板柳町立板柳北小学校
板柳町立板柳北小学校(いたやなぎちょうりつ いたやなぎきたしょうがっこう)は、青森県北津軽郡板柳町大字赤田にある公立小学校。 <br>
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オクラホマシティ市長
オクラホマシティ市長()は、アメリカ合衆国のオクラホマ州オクラホマシティの市長である。
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野嶽惇也
野嶽 惇也(のだけ じゅんや、1994年9月11日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身のサッカー選手。Jリーグ・大分トリニータ所属。ポジションはミッドフィールダー。 鹿児島ユナイテッドFC所属のサッカー選手の野嶽寛也は実弟。 来歴. 2017年に福岡大学を卒業し鹿児島ユナイテッドFCに加入<ref name="http://kagoshimaunited.com/">鹿児島ユナイテッドFC - 野嶽惇也 選手 加入内定のお知らせ</ref>。 2021年7月31日、大分トリニータへ完全移籍により加入した。 個人成績. 5||0||0||0||0||0||5||0 11||0||1||0||2||0||14||0 78||5||colspan=2|-||4||0||82||5 colspan=2|-||colspan=2|-||4||0||4||0 94||5||1||0||10||0||105||5
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真核生物の翻訳
真核生物の翻訳(しんかくせいぶつのほんやく、eukaryotic translation)とは、真核生物においてメッセンジャーRNA (mRNA) がタンパク質へと翻訳される生物学的過程であり、開始、伸長、終結、そして再生の4つの段階から構成される。 開始. キャップ依存的な翻訳開始. 翻訳開始は通常、真核生物翻訳開始因子(eukaryotic translation initiation factor, eIF)と呼ばれるいくつかの重要なタンパク質と、5'キャップ(mRNAの5'末端に結合したタグ)、そして 5' UTRとの相互作用を伴う。これらのタンパク質はリボソーム小サブユニット(40Sサブユニット)に結合し、mRNAを適切な位置に保つ。eIF3はリボソーム小サブユニットに結合し、リボソーム大サブユニット(60Sサブユニット)の時期尚早な結合を防ぐ役割を担う。またeIF3は、eIF4A、eIF4E、eIF4Gから構成されるeIF4F複合体と相互作用する。eIF4Gは足場タンパク質であり、eIF3と、他の2つのeIF4F構成因子と直接的に結合する。eIF4Eはキャップ結合タンパク質である。eIF4Eのキャップへの結合は、しばしばキャップ依存的な翻訳開始の律速段階であると考えられており、eIF4Eの濃度は翻訳調節の核となっている。ある種のウイルスは、eIF4GのeIF4Eに結合する部分を切断してキャップ依存的な翻訳を防ぎ、宿主の翻訳装置を乗っ取ってウイルスの(キャップ非依存的な)メッセージを選ぶようにする。eIF4AはATP依存的なRNAヘリカーゼで、リボソームがmRNAに形成された二次構造をほどくのを助けている。 ポリA結合タンパク質(poly(A)-binding protein, PABP)もまたeIF4Gを介してeIF4F複合体に結合し、真核生物のほとんどのmRNA分子のポリA鎖に結合する。このタンパク質は翻訳中のmRNAを環状化する役割を担っていると示唆されている。タンパク質因子を伴った43S開始前複合体(43S preinitiation complex, 43S PIC)はmRNA鎖に沿って、開始コドン(一般的にはAUG)に到達するまで3'末端へ向かって移動する(スキャニング)。真核生物と古細菌では、開始コドンによってコードされるアミノ酸はメチオニンである。メチオニル化された開始tRNA (methionylated initiator tRNA, Met-tRNAiMet)はeIF2によってリボソーム小サブユニットのP部位にもたらされる。eIF2はGTPを加水分解し、いくつかの因子の小サブユニットからの解離のシグナルを送り、やがて大サブユニットの結合が行われる。完全なリボソーム(80Sリボソーム)はその後、翻訳の伸長を始める。 タンパク質合成の調節は、eIF2-GTP-Met-tRNAiMet三者複合体(eIF2-TC)の一員であるeIF2の(αサブユニットを介した)リン酸化によって、部分的に影響を受ける。多数のeIF2がリン酸化されているとき、タンパク質合成は阻害される。別の調節因子は4E-BPであり、4E-BPはeIF4Eに結合してeIF4EのeIF4Gへの結合を阻害することで、キャップ依存的な翻訳開始を防いでいる。4E-BPの影響に対抗するため、成長因子は4E-BPをリン酸化してeIF4Eへの親和性を低下させることでタンパク質合成を可能にしている。 タンパク質合成が重要な開始因子の発現やリボソームの数によって全体的に調節されている一方で、個々のmRNAも調節的な配列要素の存在のために異なる翻訳率を持つ。このことの重要性は、酵母の減数分裂や植物のエチレンへの応答を含むさまざまな状況で示されている。さらに、酵母とヒトに対する近年の研究では、mRNA上の調節配列の多様性が翻訳調節のレベルでも影響を与えていることが示唆されている 。加えて、とりわけ構造を有する5' UTRを持つmRNAにおいては、DHX29やDed1/DDX3のようなRNAヘリカーゼが翻訳開始の過程に関与しているかもしれない。 キャップ非依存的な翻訳開始. 真核生物におけるキャップ非依存的な翻訳開始の最もよく研究されている例は、IRES (internal ribosome entry site)である。キャップ非依存的翻訳とキャップ依存的翻訳との差異は、キャップ非依存的翻訳ではmRNAの5'末端から開始コドンまでのスキャニングを開始するのに5'キャップを必要としない、ということである。リボソームは開始位置に直接結合したり、開始因子やITAF (IRES trans-acting factors)を利用して5' UTR全体をスキャンする必要性を回避している。この方法は、全体の翻訳量が減少している細胞のストレス時、特定のmRNAの翻訳が必要とされる状況で重要であることが分かっている。その例にはアポトーシスやストレスによって誘導された反応へ応答する因子が含まれる。 伸長. 翻訳の伸長は真核生物翻訳伸長因子(eukaryotic elongation factor, eEF)に依存する。翻訳開始の終了時点で、mRNAは翻訳伸長段階を通じて次のコドンが翻訳可能な状態になるように位置している。開始tRNAはリボソームのP部位を占め、A部位はアミノアシルtRNAの受け入れが可能な状態である。鎖の伸長過程を通じて、アミノ酸は、3段階の微小サイクルでひとつひとつ新生ペプチド鎖に付け加えられる。そのサイクルは (1) 正しいアミノアシルtRNAのリボソームのA部位への配置 (2) ペプチド結合の形成 (3) リボソームに対してmRNAを1コドン分だけ移動 というステップである。 細菌ではmRNAの5'末端の合成の直後に翻訳開始が起こるが、真核生物では転写と翻訳は異なる細胞内の領域(核と細胞質)で行われるために、そのような緊密な共役は不可能である。真核生物のmRNAの前駆体は、翻訳のために細胞質へ輸送される前に、核内でキャッピング、ポリアデニル化、スプライシングといったプロセシングを受けなければならない。 翻訳はリボソームの休止(ribosomal pausing)の影響を受け、それはmRNA no-go decayと呼ばれるエンドヌクレアーゼによる攻撃の引き金となる。またリボソームの休止は、リボソーム上での新生ポリペプチドの翻訳と共役したフォールディングを助け、タンパク質の翻訳を遅らせる。これはリボソームのフレームシフトの引き金ともなる。 終結. 伸長反応の終結は真核生物翻訳終結因子(eukaryotic release factor, eRF)に依存する。この過程は細菌の翻訳終結と類似しているが、細菌とは異なり3種類の終止コドンはすべて単一の終結因子eRF1によって認識される。翻訳終結の際には、リボソームはサブユニットに解離し完成されたポリペプチドは放出される。eRF3はリボソーム依存的なGTPアーゼでeRF1が完成されたポリペプチドを放出するのを助ける。ヒトのゲノムには、驚くほど終止コドンの読み漏らしが起こりやすい遺伝子がいくつかコードされている。これらの遺伝子では、終止コドンの近傍の特別なRNA塩基のために翻訳の終結が非効率的なものとなっている。これらの遺伝子における漏れやすい翻訳終結は、最大10%の終止コドンで翻訳の読み過ごし(translational readthrough)をもたらす。これらの遺伝子のうちのいくつかは、読み過ごしによって延長された領域に機能的なタンパク質ドメインがコードされており、新たなタンパク質のアイソフォームが生じることもある。この過程は'functional translational readthrough'と名付けられている。
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OPENSTEP
OPENSTEP(オープンステップ)は、オペレーティングシステム、ソフトウェアの一仕様、またそれに準拠したNeXT Softwareの製品名でもある。 先進的な設計から非常に評価の高かったNEXTSTEPのうち、Machカーネル (XNU) と切り離した上位フレームワーク層を整理してFoundation/AppKitを取り出したもので、公開仕様として1994年9月に発表されたものはOPENSTEP Enterprise(サン・マイクロシステムズとの共同開発)と呼ばれ、稼動実績としては Solaris、HP-UX、Windows NT上のものがあった。また従来のNEXTSTEPはバージョンアップされOPENSTEP for Machとしてリリースされた。これらはソースコードレベルのクロスプラットフォームを実現しており、基本的に再コンパイルのみでソフトウェアの移植が可能である。 現在のmacOSやiOSのCocoaやWindows版WebObjectsに付属する開発実行環境はOPENSTEP直系のフレームワークである。他に有志により一から開発されたクローンのGNUstepもある。これはX11、Windows NTで動作する。 他にも、例えばJavaのクラス設計にはOPENSTEPの強い影響があるといわれる。このように普及こそしなかったものの周囲に与えた影響は小さくない。
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神々の庭
神々の庭()は、アメリカ合衆国コロラド州コロラドスプリングス近郊にある公園である。また、1971年にに指定されている。 概要. この地を「神々の庭」と名付けたのは1859年のヨーロッパ人からなる測量隊であった。その後、1879年にCharles Elliott Perkinsと友人のWilliam Jackson Palmerがこの地を取得した。Perkinsの死後、彼の遺族がコロラドスプリングスに土地を寄贈し、公園となった。 2019年現在、公衆に対して無料で開放されており、年間約200万人が訪れている。全米で最高、世界でも有数の公園として挙げられており、19世紀のライターであるは「You wind among rocks of every conceivable and inconceivable shape and size... all bright red, all motionless and silent, with a strange look of having been just stopped and held back in the very climax of some supernatural catastrophe.」と評価している。 地質. 神々の庭は、主に様々な色を持つ砂岩、礫岩、石灰岩から成っており、これらは元来水平に堆積していたが、ロッキー山脈の隆起によって垂直となった後、氷河期に侵食された結果、現在の地形が形成された。これらの中からは古代の地形や遺跡などが発見されている。 このようにして形成された岩の姿勢は一般的なものと異なっており、傾いていたり、上下逆さになっていたりする。 環境. 神々の庭は豊かな生態系を持っており、鳥類はツバメなど130種が生息している。他にも1879年にはミツバチの亜種が発見され、公園名がつけられた他、発掘された化石であるテイオフィタリアが新種と認定された。
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竹下けんじろう
竹下 けんじろう(たけした けんじろう、1974年12月24日 - )は、日本の漫画家。熊本県出身。男性。青森県立青森東高等学校卒。 2006年9月1日より本名の竹下堅次朗から名義変更した。Sound Horizonのファン。大の猫好きである。 作品一覧. 同人誌. 他
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Nokia E71
Nokia E71(ノキア イー なないち)はノキアが開発した、第3世代携帯電話(W-CDMA)方式のスマートフォンである。 概要. Nokia E61の後継モデル。ステンレスのストレート型ボディで、QWERTYキーボードを搭載する薄型コンパクトなスマートフォンである。2.8インチだったE61よりも小さな2.36インチの液晶画面を搭載し、小型化されている。AF対応約320万画素CMOSカメラが追加されている。 仕事用とプライベート用を場面に応じて切り替えられる「ライフモード」を搭載。スマートフォンであるが、絵文字入力、YouTube動画再生にも対応している。また、日本ではナビタイム、海外ではNokia Mapsによる地図案内が可能である。 GSMクワッドバンドにも対応しており、世界の幅広い地域で使用可能である。 日本での発売. ソフトバンクモバイルが2008年10月30日に日本での発売を発表し、12月中旬以降に発売を、同じくNTTドコモも同年11月5日に日本での発売を発表し、翌2009年1月以降に発売を、それぞれ予定していたが、ノキアが日本市場から撤退を2008年11月27日に発表したのを受け、ドコモは12月1日に、ソフトバンクは12月5日に発売の中止を発表した。 日本語表記のE71. E71はNTTドコモ、ソフトバンクモバイルでの販売は中止となったが、イギリスやドイツなどで日本語対応携帯のMVNO事業者であるa2network社のベリーモバイルでは、日本語表記のE71を取り扱っている。 ただし、実際にはE71に搭載のS60 3rd Edition,Feature Pack 1に対応した日本語表示プラグイン「+J for S60」(管理工学研究所)のOEM版がセットアップされているに過ぎない。
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サザンヘイロー
サザンヘイロー () とは、アメリカ合衆国の競走馬および種牡馬である。 概要. 競走馬としては重賞競走こそ勝てなかったものの、種牡馬としては産駒がアルゼンチンの大レースを数々優勝し、1994年から7年連続でアルゼンチンのリーディングサイアーを獲得した。また、日本の大種牡馬サンデーサイレンスと同じ父親(ヘイロー)であることから、日本においては「南半球のサンデーサイレンス」とも呼ばれる。2009年に種牡馬引退が決定した矢先、26歳で死亡した。 また、祖国アメリカでもシャトル種牡馬として何度か供用されたことがあり、何頭かのG1競走優勝馬も出た。その中のモアザンレディが主に短距離路線で種牡馬として大きな成功を収めており、ヘイローの血をアメリカで再び広めている。 種牡馬成績. ※外国産馬はGI競走のみ記載
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長田智希
長田 智希(おさだ ともき、1999年11月25日 - )は、JAPAN RUGBY LEAGUE ONE埼玉パナソニックワイルドナイツに所属するラグビー選手。 略歴. 小学4年生からラグビーを始めた。 2018年、東海大仰星高校卒業後、早稲田大学に入学。なお東海大仰星高校時代、主将を務めて、高校日本代表に選ばれたことがある。 2021年、早稲田大学ラグビー蹴球部の主将に就任。 2022年、埼玉パナソニックワイルドナイツに加入。 2023年1月21日に行われたJAPAN RUGBY LEAGUE ONE第5節リコーブラックラムズ東京戦にて先発出場でリーグワン公式戦初出場を果たした。 2023年7月に日本代表初キャップを取得した。
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吉田地図
吉田地図株式会社(よしだちず)は、かつて存在した日本の住宅地図会社。<br> 大阪府内の精密住宅地図や電子地図の調製、販売を行っていたが、2008年以降の出版はなかった。<br> 現在、同社の地図の版権は株式会社コアズが所有している。<br> なお、京都市内に同社の京都営業所から独立した吉田地図販売が存在する。 吉田地図. 各施設名や表札名が記載されている、製本された縮尺1/1,600の精密住宅地図であり、官公庁などでも利用されている。
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常用国字標準字体表
常用国字標準字体表(じょうようこくじひょうじゅんじたいひょう)は、中華民国教育部(台湾教育省)が制定した漢字表で、常用される漢字4,808字を収録し、その標準字体を示したもの。別名「甲表」。 1973年に教育部が国立台湾師範大学国文研究所に研究を委託し、1979年8月1日試用期間を3年として公布、1982年9月1日に正式に使用を開始した。
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ソルウェジ
ソルウェジ (Solwezi) は、ザンビアの北西州の州都。 2010年の人口は9万856人。 地理. 標高1,235mの高原上にある。 経済. 主要産業は銅鉱石の採掘及び精錬である。 10km北にあるカンサンシ鉱山とルムワナ鉱山の二つの鉱山があり、それぞれカナダのファースト・クォンタム・ミネラルズ社とエキノックス・ミネラルズ社が経営している。 カンサンシ鉱山では銅鉱の中から金も産出される。 この2つの鉱山は、19世紀末から操業を続けている。 遺跡. 市内から約5kmの所に石器時代の遺跡がある。
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高砂太夫
高砂太夫(たかさご たゆう 1941年4月1日-2019年5月23日)は、京都市下京区出身の元島原太夫。本名、櫛田一栄(くしだ かづえ)。 来歴. 地元で生まれ育った稀少な太夫である。実家が結髪師で客として来る太夫、芸妓、その髪を結う母を見て育ち、幼少の頃から舞踊、茶道など習い、1963年(昭和38年)3月、屋形(置屋)『菊春楼』の太夫となる。 座敷をはじめ、京都市北区鷹峯・常照寺で毎年4月第三日曜に行われる吉野太夫花供養などの行事に参加。2007年秋TBS系にて放映のテレビドラマ「輪違屋糸里」に「太夫指導」で参加。 置屋の鑑札を持たない為、結髪屋「くし菊」に菊川を太夫と称して置き、観光客に島原の歴史や太夫について説明をして稼いでいたが、菊川が2018年3月に逃亡後、認知症などの自病が進み閉店。 2019年5月23日、死去。
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和田アキ子殺人事件
『和田アキ子殺人事件』(わだアキこさつじんじけん)は、2007年2月12日、21:00 - 22:54(JST)にTBS系列『月曜ゴールデン』で放送されたミステリーテレビドラマ・バラエティである。和田アキ子本人はこれを「ドラエティ」と称している。 サブタイトルは「アッコが殺害された!容疑者は黒柳・細木・みの・玉緒・久本・爆笑問題・飯島・工藤・倖田ほか実名芸能人1000人以上!華麗なる超大物真犯人が語る衝撃の動機と壮絶な結末」であった。 概要. このドラマはホリプロの和田アキ子担当マネージャーである西尾聖が、「もし、和田アキ子が殺されたら一体どうなるか?」と発案したことで生まれたドラマである。 番組の制作を発表した直後、ホリプロに「和田アキ子さんはお亡くなりになられたのですか?」と問い合わせの電話があったことを和田が明かしていた。 通常、テレビドラマではカンペはなく、台詞を覚えて演技するものであるが、三村マサカズに関しては一切台詞を覚えず、用意されたカンペを見ながら演技していたと同局『ズバリ言うわよ!』2007年2月6日放送分でバラされた。また、容疑者の一人として出演した清原和博によれば、「シーンの途中から台本に台詞が書かれておらず、ほぼアドリブ状態であった」という。 視聴率は18.5%(ビデオリサーチ関東地区調べ)を記録した。 DVDは、2007年4月18日にポニーキャニオンから発売された。 キャスト. 演者が表記されていないものは実名での出演。 その他、多数の和田アキ子本人と共演した人物及び関係・親交のある人物が容疑者のうち1人として出演。実名芸能人1000人以上。
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Heart Craft
Heart Craft(ハート・クラフト)は、auブランドを展開するKDDIおよび沖縄セルラー電話向けおよびNTTドコモ向けのカシオ計算機(カシオ日立モバイルコミュニケーションズ・NECカシオモバイルコミュニケーションズ含む)製携帯電話のものづくり思想である。A5512CA・W43CAの「顔クン」やW41CA・W51CA・W61CA・CA-01Cの「アデリーペンギン」、W52CA・W53CAの「カツオのボニット」などがある。2007年度グッドデザイン賞コミュニケーションデザイン部門受賞。 コンセプト. 以下はW51CAカタログからの引用である。 CASIOのケータイは「持つ・開く・使う・しまう」など、「手に持つ道具」としての基本的な使い心地のよさはもちろん、端末を開くたびに表情を変え、見る人を和ませる画面デザインなど、使い込むうちに愛着を感じていただける、そんなケータイ作りを目指しています。 書籍. いずれも著者:城聡子、2006年10月17日発売。
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礼拝所及び墳墓に関する罪
礼拝所及び墳墓に関する罪(れいはいじょおよびふんぼにかんするつみ)は、「礼拝所及び墳墓に関する罪」に規定された犯罪類型の総称。 概説. 礼拝所及び墳墓に関する罪の保護法益は「国民の宗教的敬虔感情」あるいは「宗教的自由の保護」である。 礼拝所不敬罪()と説教等妨害罪()は宗教に関する法益そのものを保護するのに対し、墳墓発掘罪()と死体損壊等罪()は祭祀礼拝の対象となる死者に対する敬虔感情を保護法益とする。 なお、変死者密葬罪()は人の死因を明らかにするという司法的・行政的国家作用を保護法益とするもので本章の他の罪とは性質が異なる。 礼拝所不敬罪. 神祠、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をする罪()。法定刑は6月以下の懲役若しくは禁錮又は10万円以下の罰金()。 本罪の行為は公然と不敬な行為をすることである。例えば、午前2時頃に墓碑を押し倒す行為にも公然性は認められ本罪は成立する(判例)。 説教等妨害罪. 説教、礼拝又は葬式を妨害する罪()。法定刑は1年以下の懲役若しくは禁錮又は10万円以下の罰金()。 墳墓発掘罪. 墳墓を発掘する罪()。法定刑は2年以下の懲役()。 本罪の客体は「墳墓」であるが、現に祭祀礼拝の対象となっているものでなければならず、既にその対象となっていない古墳は本罪の「墳墓」にあたらない(判例)。 死体損壊等罪. 死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得する罪(死体等損壊罪、死体等遺棄罪、死体等領得罪。)。法定刑は3年以下の懲役()。 なお、死体・遺骨・遺髪・棺内収納物の領得により本罪が成立する場合の財産罪の成立について、所有者の支配力が弱まっており窃盗罪()などよりも相対的に法定刑を軽く定めている意味がなくなってしまうとして財産罪は別個には成立しないとする説と、遺族の所有権や占有を保護しない理由はないとして財産罪が別個に成立するとする説がある。 墳墓発掘死体損壊等罪. 墳墓発掘罪を犯した者が、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得する罪()。法定刑は3月以上5年以下の懲役()。墳墓発掘罪()と死体損壊等罪()との結合犯である。 変死者密葬罪. 検視を経ないで変死者を葬る罪()。検視とは司法検視(刑事訴訟法第229条)及び行政検視(昭和33年国家公安委員会規則3号)をいう。法定刑は10万円以下の罰金又は科料()。
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八木澤高明
八木澤 高明(やぎさわ たかあき、1972年〈昭和47年〉 - )は、日本のノンフィクション作家、フォトジャーナリスト、カメラマン。神奈川県横浜市出身。 経歴. 帝京大学文学部史学科を中退後、1999年(平成11年)に講談社の写真週刊誌「フライデー」の専属カメラマンとなり、事件取材を多く担当する。2004年(平成16年)よりフリーランスとして活動している。2015年(平成27年)には三田誠広と関川夏央の推薦により、日本文藝家協会の会員となる。 世間から見えにくい人々への興味が深く、犯罪や娼婦といった裏社会や日陰者などを取材対象とすることが多い。2013年(平成25年)発行の著作『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』は、西ネパールで知り合った18歳の女性兵士が政府軍との戦いで戦死したことをきっかけに、2001年(平成13年)から2011年(平成23年)にかけてネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)の取材を経て刊行したもので、第19回小学館ノンフィクション大賞の優秀賞を受賞した。
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ドアノブ3人衆
ドアノブ3人衆(ドアノブさんにんしゅう、)とは、大韓民国の朴槿恵政権時代に大統領執務室に自由に出入りできた最側近の人物たち。一般的には、鄭虎星(チョン・ホソン、정호성)大統領秘書室付属秘書官、アン・ボングン(안봉근)大統領秘書室2部属秘書官、広報秘書官、李在万(イ・ジェマン、이재만)大統領秘書室付属秘書官、総務秘書官の3人を指す。 日本語で「ドアノブ」と訳されることが多い「(ムンゴリ)」は現代では「ドアノブ」の意であるが、歴史的には扉に付ける鉄輪を意味するため、「門番3人衆」と表現されることもある。 この3人は、朴槿恵が国会議員に初当選した1998年以来、ハンナラ党〜セヌリ党の職員として、朴槿恵の側近をして働いていた。朴槿恵政権が発足すると、揃って大統領秘書室の秘書官となり、側近としてかなり自由に大統領と接触する一方で、他の閣僚などが大統領との面会を求めても、これを簡単には許さず、事実上のゲイトキーパーとしての役割を担った。このためメディアなどからは、「青瓦台の権力3人組」、「ドアノブ3人衆」などと称された。 3人はいずれも、崔順実ゲート事件に関わったとされ、2016年10月30日に他の7名の大統領府高官とともに辞表を受理される形で更迭され、その後、検察の調査を受け、逮捕・起訴された。
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2本撮り
2本撮り(にほんどり)とは、テレビ業界用語で、1度に2回分の番組を収録することを言う。レギュラー番組 (主にバラエティ番組・特撮ヒーロー番組)では、予算や出演者のスケジュールなど製作の都合上、このような形式で番組の収録を行うことがある。 特に予算の少ない深夜番組などは、3~4回分を1度に収録することもある。その場合3本撮り、4本撮りと呼ばれる。 かつては番組中に出演者が2本撮りであることに触れるのはタブーという風潮があったが、近年はかなり緩和されている。かつてはビートたけしが自身の番組内でよく1本録りか2本録りかをバラす発言をしたりする事もあった。
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愛里
愛里(あいり)は、日本語の女性名。 ここでは「愛里」のみを活動名としている人物を挙げる。
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市道180号 (台湾)
市道180号(しどう180ごう)は、台南市北区から同市新化区を結ぶ、全長11.266kmの台湾の市道である。
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1940年度巡洋戦艦試案
オランダの巡洋戦艦建造計画(おらんだのせんかんけんぞうけいかく)として、オランダが建造を企画したものの実現に至らなかった巡洋戦艦について本項に記述する。 背景. 近代から第二次世界大戦までのオランダ海軍の基本方針は以下のようなものであった。 オランダは国力の問題から本国と植民地の両方に充分な兵力を配備することは不可能であるため、資源の少ない本国より実入りの良い植民地の防衛に戦力を割くという、欧州の国としては珍しい選択肢を取っていた。海防戦艦等の大型艦や軽巡洋艦、駆逐艦の大部分は植民地防護に回され、またオランダ領東インド(蘭印)向けに小国としては有力な艦が計画されていた。 1940年巡洋戦艦案. 第一次世界大戦後、戦艦の建造について再び研究が進められた。だが、ワシントン海軍軍縮条約の結果、新たなる艦種重巡洋艦が登場し、また第一次世界大戦敗戦後の不況にあえいでいたドイツが装甲艦「ドイッチュラント級」を竣工させ、ドイツ海軍の再興が始まると状況は変わった。列強海軍が建造するであろう重巡洋艦の備砲は最大で8インチ=20.3cmであり、オランダの既存軽巡洋艦に広く採用されている15cm砲では射程が劣るため、アウトレンジされる可能性が高かった。海防戦艦は主砲が28.3cmであり重巡洋艦に対して火力の面では対抗できるが、速力が遅いので自らの有利な状況で相手と戦闘を行うということは期待できなかった。そしてドイツ海軍の28cm砲を主砲とするドイッチュラント級に対抗可能なオランダ戦闘艦は存在しなかった。それに加えて1930年代に極東における日本の勢力圏が拡大されるにつれて、危機感を抱いたオランダは1939年に巡洋戦艦の建造を計画し、1940年には計画が承認された。これが本案である。 設計は国交関係修復の意味をこめてドイツに依頼した為に外観はシャルンホルスト級戦艦に似ていたが、船体構造はアメリカ式とイタリア式の混在で、防御力も傾斜装甲を採用するなどシャルンホルスト級よりも進んでいた。本案が対抗すべき艦として想定されたのは日本海軍の戦艦ではなく、条約型重巡洋艦やポケット戦艦であった。その為、主砲には過去の海防戦艦で実績のある28cm砲を採用することになっていた。1944年までに3隻を建造する計画だったが、オランダがドイツの侵攻を受け占領されたことにより本案も実現することなく終わった。 艦形. 本案の船体形状は平甲板型船体である。強く傾斜したクリッパー・バウから艦首甲板上に主砲の「1940年型 28cm(54.5口径砲」を三連装式砲塔に収めて背負い式に2基、その後方に頂上部に大型の測距儀を配置した近代的な箱型艦橋の後方に簡素な単脚式のマストが1本立ち、船体中央部の2本煙突は機関のシフト配置のため前後に離されて配置しており、その間は水上機運用施設となっており、1番煙突基部に設けられた水上機格納庫には水上機2機が格納でき、船体中央部に首尾線方向に垂直に埋め込まれた固定式カタパルトにより射出される。艦載機の運用は船体中央部に片舷1基ずつ設置されたグース・ネック(鴨の首)型クレーンにより運用され、2番煙突基部に並べられた艦載艇の運用に使用される設計であった。2番煙突の後方に測距儀を配置した後部見張り所が設けられ、後部甲板上に後向きに3番主砲塔が1基配置された。左右の舷側甲板上には副砲の「12cm(50口径)速射砲」が連装式の副砲塔に収められ、1番煙突の側面に前向きに背負い式で2基と3番煙突の側面に後向きに1基で片舷3基の計6基を配置した。対空兵装の「4cm(56口径)機関砲」は連装砲架で艦橋中部の四隅に4基、後部見張り所の前方に並列で2基、後方に後向きに1基の計7基を配置した。この武装配置により艦首方向に最大で28cm砲6門・12cm砲8門・4cm砲4門、舷側方向に最大で28cm砲9門・12cm砲6門・4cm砲8門、艦尾方向に最大で28cm砲3門・12cm砲4門・4cm砲6門が指向できた。 主砲. 本案の主砲は前型に引き続き「1940年型 28cm(54.5口径)砲」を採用した。その性能は315kgの砲弾を仰角45度で42,600mまで届かせることが出来た。この砲を新設計の三連装砲塔に収めた。俯仰能力は仰角45度・俯角5度である。旋回角度は左右150度の旋回角度を持っていた。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分2.5発である。 副砲、その他備砲. 本案の副砲としてスウェーデンのボフォース社の新設計の「1928年型 12cm(50口径)速射砲」を採用した。本案用に開発されたが、後にスウェーデン海軍の駆逐艦エレンスコルド級駆逐艦の主砲として採用された。その性能は24kgの砲弾を仰角30度で19,500mまで届かせることが出来た。この砲を新設計の連装砲塔に収めた。俯仰能力は仰角70度・俯角5度である。旋回角度は左右方向を0度として左右120度の旋回角度を持っていた。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分10発である。 他に近接対空用としてオランダ海軍の主力巡洋艦に採用されているボフォース社製「1936年型 4cm(56口径)機関砲」を連装砲架で7基、イスパノ・スイサ社の2cm機銃を単装砲架で8基装備した。 機関. 本案においてオランダ軍艦として初の機関のシフト配置を採用した。これは、ボイラー4基とタービン2基を前後二箇所に交互に配置することにより被害時の生存性を確保する工夫である。計画出力は180,000馬力を想定し速力34ノットの俊足を発揮する予定であった。燃料の重油を4,500トン搭載した状態で速力20ノットで4,500海里を航行できる設計であった。
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セグンダ・ディビシオンB
セグンダ・ディビシオンB("Campeonato Nacional de Liga de Segunda División B"、国内2部リーグB)は、102チームを5つのグループに分けて運営されていたスペインのサッカーリーグ構成の第3部だった。スペインサッカー連盟が運営していた。プリメーラ・ディビシオン(ラ・リーガ)とセグンダ・ディビシオンの下、テルセーラ・ディビシオンの上に位置していた。セグンダ・ディビシオンBには、多くのリーガ・エスパニョーラとセグンダ・ディビシオンのチームのリザーブチームが含まれていた。 2021-22シーズンからは、スペイン連盟(RFEF)がプリメーラ・ディビシオンRFEFというセミプロの3部リーグを新設したため、セグンダ・ディビシオンBは第4部となり、セグンダ・ディビシオンRFEFに改称された。 開催概要. 試合方式. 全80チームが20チームずつ4つのグループに分かれて戦う。ホーム・アンド・アウェー方式の2回戦総当りの全38節。勝ち点は勝ち3、引き分け1、負け0である。 2019-20シーズンにおける地域によるグループ分けは以下のとおり。チーム数調整のためにグループ分けが変更されることがたびたびあり、場合によっては1つの州が複数のグループに分けられることもある。 昇格. 各グループ上位4チームの計16チームでプレイオフを行う。2008年までは16チームを4グループに振り分けなおしてトーナメント方式で争い、各グループで勝ち上がった1チーム、計4チームがセグンダ・ディビシオンに昇格するという方式だったが、2009年からは各グループの1位にとってより有利な形式に変更され、また昇格に加えてその年のセグンダBチャンピオンも決める戦いが行われている。各グループの1位同士が対戦して(2カード)その勝者2チームがまず昇格確定、この2チームはさらに同年のセグンダBチャンピオンの座を賭けて対戦する。また、グループ2位と4位の対戦が4試合、3位同士の対戦が2試合行われ、これを勝ち抜いた6チームと前述の1位同士の対決で敗れた2チームを合わせた8チームを4チームずつ2つに分け、トーナメントで勝ち抜いた2チームが昇格となる。対戦は全てホーム&アウェーで行われ、各グループでの順位が下のチームが先にホームで戦うが、順位が同じ場合は抽選によって決定される。 なお、リザーブチームの昇格には以下のような制限がある。リーガ・エスパニョーラではトップチームとリザーブチームが同じリーグに所属することは禁じられている。トップチームが翌シーズンにおいてセグンダ・ディビシオンに所属することが決定している場合には、たとえセグンダ・ディビシオンBに所属するリザーブチームが昇格プレイオフに参加できる順位でシーズンを終えたとしてもその権利は認められない。この場合、シーズン順位で次点のチームがプレイオフ参加の権利を得る。 降格. 各グループ下位4チームの計16チームがテルセーラ・ディビシオンへと自動降格する。また、各グループ16位の計4チームは降格プレイオフを行い、そのうち2チーム(2013年には3チーム)がテルセーラ・ディビシオンに降格。残り2チームがセグンダ・ディビシオンBに残留する。降格プレイオフは4チームを2つのグループに分け、ホーム・アンド・アウェーの2試合を行い勝利したチームが残留となる。 もしも、セグンダ・ディビシオンBに所属するリザーブチームのトップチームがこのディビシオンへ降格してくることが決定した場合には、そのリザーブチームは自動的にテルセーラ・ディビシオンへ降格することになる。 歴史. 1928年にプリメーラ・ディビシオン、セグンダ・ディビシオンとともに誕生した。1928-29シーズンは10クラブが参加し、クルトゥラル・レオネサが初代チャンピオンとなった。 ところがまだシステムが確定していない時期であったため、翌シーズンには早くも姿を消してしまった。新しく第3のリーグとなったのはテルセーラ・ディビシオンである。このリーグ構成は1977年まで続いた。 セグンダ・ディビシオンBは1977-78シーズンにセグンダとテルセーラの間に割り込む形で第3のリーグとして復活。この当時は20チームずつ2つのグループによって構成されていた。1986-87シーズンに一旦22チーム1グループ体制になったのち、1987-88シーズンに20チーム4グループの現在の形となった。なお、1986年のリーグ縮小時には前年度各グループの半数以上の合計25チームがテルセーラへ降格となっており、セグンダからの降格組4チーム、残留組13チーム、テルセーラからの昇格組5チームの顔ぶれとなったが、翌年の拡張の際にはセグンダからの降格がなかったため、昇格4チーム、降格1チームを除いた残留17チームとテルセーラからの昇格63チームが4地区に分けられた。 2020年5月6日、スペインサッカー連盟は、これまで4グループ80チームだったチーム数を、5グループ102チームにまで拡大して2020-21シーズンのセグンダ・ディビシオンBを行うことを発表した。全クラブの内訳はテルセーラ・ディビシオンから20チームが昇格し、セグンダ・ディビシオンから2チームが降格、2019-20シーズンにセグンダ・ディビシオンBに所属していた80クラブである。 また、2021-22シーズンからのスペインリーグ構成の変更も併せて発表された。現行のセグンダ・ディビシオンBは3部から4部相当のディヴィジョンに落とされ、空いた3部相当のリーグにはプリメーラ・ディビシオンRFEFと呼ばれるリーグが入ることになった、このプリメーラ・ディビシオンRFEFは2グループ40チームの構成である。 過去の優勝クラブ. 2009年より、グループ優勝クラブによるセグンダ・ディビシオンB優勝クラブ決定戦が行われている。 2020-21シーズンは、新型コロナウイルス感染拡大により、リーグを第1ステージと第2ステージ、セグンダ・ディビシオン昇格プレーオフの3ステージに分割して開催された。
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大野町 (名古屋市)
大野町(おおのちょう)は、愛知県名古屋市北区にある地名。現行行政地名は大野町1丁目から大野町5丁目。住居表示未実施。 地理. 名古屋市北区の中央部に位置する。東は辻町・西は鳩岡町・南は長喜町・北は天道町に接する。 歴史. 町名の由来. 安井町の字大野に由来するとみられる。尾張藩士の大野なる人物が住み、槍の穂先鍛冶を見張っていたことによるという。 世帯数と人口. 2022年(令和4年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 人口の変遷. 国勢調査による人口の推移 学区. 市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。
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座敷
座敷(ざしき)は、日本における居住空間の呼称の一つであり、以下に示すような複数の語義がある。 概要. 表座敷と奥座敷. 客間として使う「座敷」と、もっぱら家族が起居するための奥まった「座敷」とを区別するためには、前者を「表座敷(おもてざしき)」、後者を「奥座敷(おくざしき)」と呼ぶ。また、換喩表現としては、「表玄関」という語があるために「表座敷」はあまり用いられないが、「奥座敷」は繁華地に近接するリゾート地を指す語として用いられる(なお、多くの場合、和風のリゾートであり、和風リゾートの多くは温泉街であるが、必ずしもその限りではない)。 関連語・関連事象. 座興. 座興(ざきょう)とは、宴会などで、その場を愉快なものにする目的をもって行う遊戯や芸能のことである(用例「 - として隠し芸を披露する」)が、ここでの「座」は「座敷」と関連が深い。また、第2には、その場限りのちょっとした戯れを意味する(用例「その場の - にすぎない」)。 酒宴の席などで行う座興は座敷芸(ざしきげい)と呼ばれ、日本の伝統芸能の一種である。 座敷芸などで宴席の客を楽しませる職業および職業人は、太鼓持ちとも俗称される幇間であり、著名な幇間としては、曽呂利新左衛門(落語家)、英一蝶(絵師)、悠玄亭玉介(芸人)のほか、正岡子規(俳人・歌人)が知られている。 お座敷唄. お座敷唄(おざしきうた)とは、長唄・端唄・小唄・上方歌など、三味線の伴奏で歌われる俗曲のことである。歌舞伎のなかの舞踊曲や、清元節などを起源として、文化文政(1803- 1830年)の頃から盛んになったといわれている。芸妓や遊女がお座敷で歌ったほか、庶民の間にも流行した。 日本の歌謡曲(流行歌)の起源については、川上音二郎などの演説歌(演歌)とする説が有力であるが、昭和初期、レコード会社が次々にでき、それぞれの会社所属の歌手が名乗りを挙げたとき、徳山璉、佐藤千夜子、藤山一郎、淡谷のり子などといった声楽出身の歌手に混じって、藤本二三吉、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅、美ち奴などの芸妓出身の歌手(鶯芸者)も多く出ており、お座敷唄の流れを引く流行歌がかなりあった。 とくに1950年(昭和25年)頃からは、朝鮮戦争がらみの好景気で、日本全国の料亭などが繁盛し、歌謡界でもそれにあやかるように、「お座敷唄」あるいは「お座敷ソング」と呼ばれる歌のレコードが数多く発売された。神楽坂はん子や久保幸江などの歌手がデビューし、『芸者ワルツ』や『トンコ節』などが一世を風靡した。 座敷猫と座敷犬. 屋内で飼育される猫は座敷猫(ざしきねこ)と呼ばれることがある。日本猫の一種の三毛猫は、江戸時代から座敷猫として愛玩されてきたことで知られている。 散歩に出るとき以外屋内で飼育される犬は、座敷犬(ざしきいぬ)と呼ばれる。犬は猫より大型・中型の品種が多く、昔から屋外で飼うのが通常であったため、屋内で飼育されていることを強調するために「座敷猫」以上に「座敷犬」はよく使われる語である。日本史上初の座敷犬は江戸時代の大奥や遊廓で特に女性に愛玩された狆であり、座敷犬の典型となっている。 現代では、本義で言う「座敷犬」同然の厚遇を享受しているような飼い犬は、たとえ洋室で飼われていたとしても、その境遇を含意して「座敷犬」と呼ばれることが多い(座敷猫も同様)。たいていの場合、座敷犬と言えば小型犬であるが、大型犬であろうとも室内で飼われる例が少なくない現代にあっては、その限りではない。 座敷童子. 座敷童子(ざしきわらし)は、古来、住家にまつわる吉兆の精霊あるいは神として、東北地方で信じられてきたものであるが、(昔の認識で言う)座敷があるような勢いのある家に取り付くわけではない。伝承にある話の順序から言えば、座敷童子が住み着くようになった家は運に恵まれるようになるため、やがては隆盛となって立派な屋敷も建てられるようになるのである。また、座敷童子が居所とするのは奥座敷であるともいわれる。
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サムライスピリッツ閃
『サムライスピリッツ閃』(サムライスピリッツせん)は、2008年4月18日にSNKプレイモアがTaito Type X2で稼働した3D対戦格闘ゲーム。開発はK2。欧題は、業務用が『"SAMURAI SHODOWN EDGE OF DESTINY"』、家庭用が『"SAMURAI SHODOWN SEN"』。通称『サムスピ閃』。サムライスピリッツシリーズ生誕15周年記念作品。 キャラクターイラストはこれまでの3D作品の『SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜』、『アスラ斬魔伝』と同じく北千里が担当。 業務用の『サムライスピリッツ』シリーズの3D対戦格闘作品では3作目になる。2009年12月10日にXbox 360版が発売されている。レイティングは。 また、2011年10月5日からはネットワーク型業務用ビデオゲーム筐体NESiCAxLiveにてダウンロード配信されている。 概要. 本作は取扱説明書などで何年の出来事かは明記されていないが、キャラクター達の年齢(例えば1763年生まれの覇王丸が28歳である事など)から、『アスラ斬魔伝』の翌年、1791年を舞台にしていると推測出来る。 『SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜』と『アスラ斬魔伝』の2作と違い、それらの黒幕であった「壊帝ユガ」は一切関与せず、架空の国家「レスフィーア王国」の軍事力強化を目論むゴルバが本作の黒幕である。 家庭用のXbox 360版では、特定条件を満たすと、ドラコとゴルバのボスキャラクター2体をストーリーモード以外で使用可能になる。 海外版では、頭部や腕部、胴体の切断描写、出血表現など残酷描写がある。 本作のXbox 360版では、ストーリーモード、バーサスモード、プラクティスモード、サバイバルモード、リプレイモード、Xbox LIVEモード、ランキングモード、実績モード、オプションモードが搭載されている。Xbox 360版は、個別のクリア条件を持った合計50個の「実績」が設定されていて、実績モードではそのクリア状況を確認出来る。Xbox LIVEモードで対戦を行うには、Xbox LIVE ゴールドメンバーシップへの加入が必要とされる。 システム. 本作は8方向レバーと4つのボタンでキャラクターを操作する。4つのボタンは「縦斬り」、「横斬り」、「蹴り」、「特殊操作」に割り振られている。
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対馬野生生物保護センター
対馬野生生物保護センター(つしまやせいせいぶつほごセンター、Tsushima Wildlife Conservation Center)は、日本の環境省により長崎県対馬市上県町佐護西里に設置されている機関。通称「やまねこセンター」。 ツシマヤマネコをはじめとする対馬に生息する野生生物の保護を行っている。
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EVER BLUE (杏里のアルバム)
『EVER BLUE』(エヴァー ブルー)は、日本の歌手、杏里の21枚目のオリジナル・アルバムである。1999年6月23日発売。発売元はフォーライフ・レコード。
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楽浪田氏
楽浪田氏(らくろうでんし、ナンナンジョンし、)は、前漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島に設置した植民地である漢四郡で勢力を張った漢人豪族。 考証. 三上次男は、楽浪郡・帯方郡の古墳から出土する印章、漆器、塼、封泥などの銘文に記された姓をもとに、楽浪郡・帯方郡における漢人豪族の状況・変化を考察している。
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ビドヤ・デビ・バンダリ
ビドヤ・デビ・バンダリ( または , IAST: Vidyā Devī Bhaṇḍārī, 1961年6月19日 -)は、ネパールの女性運動家、政治家。2015年にネパール連邦民主共和国大統領に就任した。英語表記では Bidhya (Bidya) Devi Bhandari など。 生涯. 1961年、ネパール王国東部のコシ県ボジプール郡にある村にビドヤ・パンデイという名で誕生する。1970年代末の学生時代から政治運動に加わり、1980年にネパール共産党マルクス・レーニン主義派に入党した。1981年、後にネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(統一共産党)書記長となるマダン・クマール・バンダリと結婚する。結婚後は政治から遠ざかっていたが、1993年に夫がチトワン郡での不審な交通事故で死亡したことをきっかけに政界に復帰、1994年のネパール総選挙では首都カトマンズの選挙区から立候補し、ネパール会議派の党首で元・首相のクリシュナ・プラサード・バッタライを破り当選する。 2015年10月28日、ネパール制憲議会による第2代大統領選挙が実施された。549の投票のうちバンダリの得票数は327、対立候補だったネパール会議派のクル・バハドゥール・グルングの票数は214、無効票は8という結果になりバンダリが当選した。翌日の10月29日に就任し、ネパール初の女性大統領となった。 ネパールでは2015年9月20日、2008年の王政廃止から7年目にして新憲法が公布されており、憲法には下院議員の3分の1は女性が占めることや大統領を儀礼的な国家元首とし、大統領・副大統領のいずれか一方は女性とすることが規定されていた。。 2018年3月13日のでクマリ・ラクスミ・ライ(Kumari Laxmi Rai)を破り再選。 2019年10月21日に迎賓館赤坂離宮で安倍晋三内閣総理大臣と会談を行い、翌22日の即位礼正殿の儀に参列した。
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榎村寛之
榎村 寛之(えむら ひろゆき、1959年 - )は、日本史学者。 大阪府大阪市生まれ。大阪市立大学文学部卒、岡山大学大学院文学研究科前期博士課程修了、関西大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。1993年「律令天皇制祭祀の研究」で文学博士。三重県立斎宮歴史博物館学芸員、副参事兼学芸普及課長(2017年現在)。専攻・日本古代史。
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四国 おひるのクローバー
『四国 おひるのクローバー』(しこく おひるのクローバー)は、NHKが2017年4月3日から2020年3月13日までNHK松山放送局を基点に四国地方で放送されていた地域情報番組である。通称「ひるクロ」。 概要. 2017年3月まで愛媛県ローカルで放送されていた『えひめ おひるのたまご』を四国ブロックに範囲を広げてリニューアルした。出演者も『おひるのたまご』から続投する。それに伴い、各県ローカルで放送していた『こうち情報BOX』(高知)、『ひるまえかがわ』(高松)、『とくしまi』(徳島)はいずれも2017年3月31日で終了した。各県ローカルの放送も金曜日の11:40からの一部時間に絞られた。 12時前の気象情報については従来は月曜 - 金曜が昼前のローカル番組が休止される祝日と重なった場合のみ四国ブロックでの放送となっていたが、この番組の立ち上げにより、祝日と重なっていなくても四国ブロックでの放送となった。 2020年3月13日の放送をもって終了し、3年間の放送に幕を閉じた。同年3月30日から、後継番組として『ひるどき四国』を開始。ただ、同番組は本番組よりも15分短縮され11:45 - 12:00の15分間番組となった。また、毎週金曜日は11:54まで各県ローカルの放送となるため、『ひるどき愛媛』として放送される。 キャスター. いずれも松山局契約キャスター。 気象予報士. 両名とも「おはようえひめ」の気象情報も兼務。
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安達中学校
安達中学校(あだちちゅうがっこう)は、日本の公立中学校。 校舎内にある プール、体育館は旧安達町の町民体育館として使われた。現在は安達中学校が所有している。 安達中学校の歴史 昭和37年4月25日 油井中学校、渋川中学校・上川崎中学校を統廃合し、安達町立安達中学校創立。 昭和39年3月31日 安達町松川町組合立下川崎中学校解消、安達中学校へ統合。 平成17年12月1日 市町村合併により二本松市立安達中学校と改名。
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牧田清
牧田清(まきたきよし、1952年 - 2006年11月1日)は、日本の写真家。 生涯. 大阪府八尾市生まれ。1988年から5年間、韓国で取材。朝日新聞社アサヒグラフなどでグラビアを飾り、一貫してマイノリティを対象に報道写真家として活躍した。 2006年、両側性肺炎で死去。
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立原朴二郎
立原 朴次郎(たちはら ぼくじろう)は幕末の水戸藩士。彰考館総裁の立原翠軒の孫。 生涯. 天保3年(1832年)に江戸にある水戸藩小石川藩邸において立原杏所の三男として誕生する。兄たちが早世したため同11年(1840年)には家督を継ぎ、200石、中之寄合となる。同12年(1841年)、児小姓格式中奥小姓となり、嘉永3年(1850年)には中奥小姓に昇進した。同6年(1853年)、定江戸小姓へと進み、安政3年(1856年)には武芸出精を賞されるなど武芸に秀でた。 同5年(1858年)、先手同心頭となり、前藩主徳川斉昭が幕譴を受けるとこの雪冤に奔走。この年、安政の大獄が起こり、水戸藩士も多数捕縛されるなど世情は不安定なものとなった。家老の岳父・安島帯刀も幕府の疑義を受けて評定所に出頭を命ぜられるなど、藩内には緊張感が高まっていた。安政6年(1859年)9月23日、安島帯刀が幕譴を受け切腹、その他、茅根伊予之介はじめ藩士の多くも斬首を命ぜられると水戸藩内の不満は一気に高潮していった。万延元年(1860年)、朴次郎は混乱の中にあって武芸に精進し、再び武芸出精で賞された。同年8月、目付に昇進。文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の上洛に際しては、藩主徳川慶篤に随行して京都における尊皇攘夷の風潮に触れた。元治元年(1864年)、田丸稲之衛門、藤田小四郎ら藩内の攘夷派が筑波山に挙兵すると、役目柄これを説得しに行くこととなったが、かえって説得されてしまった。一連の藩内情勢の混乱を受けて、藩主慶篤が事態収拾を図り、支藩の宍戸藩主・松平頼徳に目代を命じて水戸城に派遣すると、水戸城内を牛耳っていた諸生党が頼徳が天狗党を伴っていることを挙げて入城を拒否、天狗党と諸生党との間で戦いが起こった。朴次郎も頼徳に随い、水戸城に派遣されていたが、諸生党の抵抗にあってこれと戦い、8月23日討ち死にした。享年33。靖国神社合祀
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世界大学オリエンテーリング選手権
世界大学オリエンテーリング選手権(せかいだいがくオリエンテーリングせんしゅけん、World University Orienteering Championships)は1978年に始まった国際大学スポーツ連盟が主催するオリエンテーリングの世界大学選手権。現在の実施種目は以下の通り。
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LOST (第3シーズン)
テレビドラマシリーズ『LOST』の第3シーズンは、アメリカ合衆国及びカナダで2006年10月4日から2007年5月23日までに計23話が放送された。第3シーズンの物語は飛行機墜落から68日目から始まり、引き続いて南太平洋の島にたどり着いた40人以上の生存者たちを中心に描かれる。製作側は第1シーズンの内容は生存者の紹介、第2シーズンはハッチについて、そしてこの第3シーズンは島の住民グループのについてだと述べている。 前シーズンのスケジュールに関してのファンからの苦情を受け、ABCはシーズンを2つのブロックに分けて放送することを決めた。第1ブロックは水曜日の午後9時より計6話が放送され、その終了から12週後の午後10時より第2ブロックの計17話が放送された。この他に3つの総集編が放送された。シーズン初回の前に「Lost: A Tale of Survival」、第7話の前に「Lost Survivor Guide」、シーズン最終回の前に「Lost: The Answers」が放送された。2007年12月11日にブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテインメントよりリージョン1のDVD及びBlu-rayのボックスセット『"Lost: The Complete Third Season - The Unexplored Experience"』が発売された。 スタッフ. 第3シーズンはタッチストーン・テレビジョン(現在のABCスタジオ)、バッド・ロボット・プロダクションズ、グラス・ストライク・プロダクションズが製作し、アメリカ合衆国ではABCが放送した。エグゼクティブ・プロデューサーは企画者のJ・J・エイブラムスとデイモン・リンデロフの他、ブライアン・バーク、ジャック・ベンダー、ジェフ・ピンクナー、カールトン・キューズが務めた。スタッフライターはリンデロフ、キューズ、ピンクナーの他、共同エグゼクティブ・プロデューサーのエドワード・キッツィス、アダム・ホロウィッツ、ドリュー・ゴダード、スーパーバイジング・プロデューサーのエリザベス・サーノフ、ストーリー・エディターの、エグゼクティブ・ストーリー・エディターのが務めた。レギュラー監督はベンダー、スーパーバイジング・プロデューサーのスティーヴン・ウィリアムズ、ポール・エドワーズ、が務めた。リンデロフとキューズがショーランナーを務めた。 キャスト. 第3シーズンのメインキャストは16人であり、2006-2007年のテレビシーズンでは同じくABCの『デスパレートな妻たち』に次ぐ多さであった。エヴァンジェリン・リリーはジャックとソーヤーの間で揺れる逃亡者のを演じた。マシュー・フォックスは生存者グループのリーダーである医者のジャック・シェパードを演じた。ジョシュ・ホロウェイは冷笑的な詐欺師のを演じた。エリザベス・ミッチェルは島を脱出しようと考える他のものの1人のを演じた。ヘンリー・イアン・キュージックはメインキャストに昇格し、3年前から島に居るを演じた。ドミニク・モナハンは元ロックスターのを演じた。ナヴィーン・アンドリュースは元イラク共和国防衛隊のを演じた。第2シーズンからゲスト出演しているマイケル・エマーソンは他のものたちを率いるを演じた。ホルヘ・ガルシアは不幸な億万長者でコミックリリーフ的役割のを演じた。ダニエル・デイ・キムは英語が喋れない漁師の息子の、キム・ユンジンはその妻で英語が喋れる妊婦のを演じた。テリー・オクィンは島との深いつながりをもつ疎遠にされた生存者のを演じた。エミリー・デ・レイヴィンはシングルマザーのを演じた。ロドリゴ・サントロとキーリー・サンチェスは以前から生存者グループに居たがこれまでストーリーに絡まなかったパウロとニッキー・フェルナンデスを演じた。アドウェール・アキノエ=アグバエは麻薬密売人から神父に転身したを演じた。 第3シーズンでは複数回出演するゲスト俳優が多数存在する。M・C・ゲイニーは他のものたち1人のを演じた。タニア・レイモンドは、ミラ・ファーランは生誕後に彼女と生き別れとなった母親のを演じた。アンドリュー・ディヴォフはアイパッチを付けた他のもののミハイル・バクーニン、ネスター・カーボネルは不老の他のもののを演じた。マーシャ・トマソンは島に到着したナオミ・ドリットを演じた。はアレックスのボーイフレンドのカールを演じた。は復讐心に燃えた他のもののピケット、ウィリアム・メイポーザーはを演じた。ソーニャ・ヴァルゲルはデズモンドの恋人のを演じた。とサム・アンダーソンはを演じた。は815便の客室乗務員のシンディを演じた。 第1シーズンのメインキャストであったイアン・サマーホルダーは役、第2シーズンまでのメインキャストであったマギー・グレイスは役でフラッシュバック場面でゲスト出演した。マルコム・デヴィッド・ケリーは10歳の役で1つの場面に出演した。 評価. 批評家の反応. 第1ブロックは謎を増やしすぎた上に十分な答えが示されなかったことで批判された。また第1ブロックでメインキャラクターの多くの登場時間が限られていたことも批判の的となった。例を挙げるとテリー・オクィンが演じたロックは第2シーズンでは最多登場キャラクターであったが、第3シーズンでは全23話中14話の登場にとどまり、ゲスト出演のM・C・ゲイニー演じるトムより2話多いだけであった。また新キャラクターのニッキーとパウロへのファンの反応が芳しくなかったことをリンデロフは認めた。またシーズンを分割し、放送枠を変更したことが視聴者離れを招いたと批判された。キューズは「誰も6話の放送で満足しなかった」と認めた。第2ブロックは批判的に評されたものの、スタッフは第1ブロックの問題点に対処した。多くの答えが示され、またニッキーとパウロは殺害されて退場した。さらにシリーズは3シーズン後に終了することが発表され、キューズは脚本家たちが物語を何処へ向かわせているのか知っていることを視聴者に伝えることを望んだ。 受賞とノミネート. 第59回プライムタイム・エミー賞では6部門にノミネートされた。ジャック・ベンダーは「Through the Looking Glass」によりドラマシリーズ監督賞、デイモン・リンデロフとカールトン・キューズは同エピソードによりドラマシリーズ脚本賞、マイケル・エマーソンはドラマシリーズ助演男優賞にノミネートされた。またドラマシリーズ・シングルカメラ作品編集賞とシリーズ作品音響編集賞にもノミネートされた。さらにテリー・オクィンはドラマシリーズ助演男優賞で受賞を果たした。 「」によりデイモン・リンデロフとドリュー・ゴダードは全米脚本家組合賞のドラマエピソード賞にノミネートされた。プロデューサーたちは全米製作者組合賞のテレビドラマシリーズ賞にノミネートされた。スタントたちは第14回全米映画俳優組合賞にノミネートされた。さらにのドラマ部門にノミネートされた。さらには「報い」、ジャック・ベンダーは「Through the Looking Glass」により全米監督協会賞にノミネートされた。 視聴者数. 第3シーズンはアメリカ合衆国では1話平均で1374万人の視聴者を獲得し、ランキングで17位、18-49歳層では9位となった。第1ブロックの平均は第2ブロックよりも400万人多く、第14話はシリーズ最低となる1152万人を記録した。しかしながら『LOST』は2007年の番組で最高記録であった エピソード. <onlyinclude> </onlyinclude>
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やましたたかひろ
やましたたかひろまたは山下たかひろ(1969年11月22日 - )は日本の漫画家。
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キシタエダシャク
キシタエダシャク(学名:"Arichanna melanaria")は、シャクガ科のガである。成虫は翅を広げると幅34-44ミリメートル、翅は黄色で黒の斑点がある。ユーラシア大陸北部に広く分布し、日本では亜種が北海道、本州、四国、九州に分布する。 生活史. 卵の中の胚子として越冬し、春に孵化して幼虫(シャクトリムシ)となる。幼虫は黄色に黒の斑点があり、斑点の数や形状は個体によって様々である。アセビ、レンゲツツジ、ヤマツツジなどの葉を食する。孵化から約1か月を経ると地中に潜り、淡黄褐色で体長1.5センチメートルの蛹となる。蛹は約1か月で成虫となり、夏の間に交尾、産卵し秋になると見られなくなる。卵は葉の上に産卵され、秋のうちに胚子となる。 幼虫の天敵はヒメバチ、ヤドリバエ、クロヤマアリ、ヒメジョウカイ、ミヤマクビボソジョウカイ、クチブトカメムシなど。 大発生. 昭和初期以降、霧島山、雲仙岳、阿蘇山、九重山のミヤマキリシマ群落においてしばしば大発生し、花が咲かなくなる被害を与えた。登山者などから薬剤散布による駆除を求める声が挙がったが、ミヤマキリシマを枯死させるほどの被害に至ることはなく薬剤散布は天敵を失いかねないという説もあり議論となった。
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クッパー細胞
クッパー細胞(クッパーさいぼう、英: Kupffer cell)とは、肝臓を構成する微小組織の一つで、類洞に存在するマクロファージの一種。 1867年にドイツの解剖学者カール・ヴィルヘルム・フォン・クッパーによって報告された。この時発見された細胞は後日伊東細胞であったことが判明している。 クッパー細胞は、物質の貪食取り込みを行う免疫機能を有する。
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金剛頂寺 (岡山県鏡野町)
金剛頂寺(こんごうちょうじ)は、岡山県苫田郡鏡野町山城に位置する寺院。山号を蕎麦尾山(そばおざん)と号す。宗派は高野山真言宗。本尊は正観世音菩薩。美作八十八ヵ所霊場第番65番札所である。 本尊真言:おん あろりきゃ そわか 歴史. 文武天皇、大宝三年、鑑真和尚の開基の説があるが詳細は不明。度重なる落雷での火事により昭和十四年に現地へ縮小移転したが、元は約七百米ほど東南の山頂にあり一山寺を形成していた。山の稜線が蕎麦の角に似ていることから山号を蕎麦尾山と称す。山上には弘法大師が留錫修法せられたといわれる加持水の閼伽地があり真夏でも涸れることがない。更に七堂伽藍があったといわれ、礎石が現在も多数残っている。 新訂作陽誌によれば、山上の境内を中心に吉井川西岸五百町歩ほどが寺領であったことが記されている。また寺宝には、津山藩主森家、松平家の両家から祈願所として宛扶持五十石を受けていたことを示す朱印状がある。本尊、聖観世音菩薩は子安観音としても親しまれ、昭和初期までは、遠くは大阪・神戸方面からも参拝者があり、特に八月の十八日の観音様の縁日には賑わいを見せていたが、戦時に中断してしまった。
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テイスペス
テイスペス(Teispes、 、 、古代ペルシア語:チシュピシュ、バビロニア語:シシュピシュ、エラム語:ツィシュピシュ、紀元前700年頃 - 紀元前640年頃)は、アンシャン王。ベヒストゥン碑文によればアケメネスの息子で、アケメネス朝の二代目にあたる。推定在位期間は紀元前675年頃 - 640年頃。 来歴. ベヒストゥン碑文およびキュロス・シリンダーなどの楔形文字碑文によれば、ダレイオス1世とキュロス2世はその先祖をともにテイスペスとしている。このことから、テイスペスがふたりの息子であるキュロス1世(キュロス2世の祖父)と(ダレイオス1世の曾祖父)に領土を分与したという説が発生した。この説によれば、アリアラムネスはペルシス地方を、キュロス1世はエラム地方のアンシャンを相続した。 しかし、アンシャンとペルシスは同じ場所を意味した可能性が高く、この説は疑わしい。アリアラムネスが王であった証拠はなく、子孫のダレイオス1世がそう称しているだけかもしれない。 テイスペスの名はヘロドトス『歴史』の7巻に出てくるアケメネス朝の系図にも見えるが、ヘロドトスの記述は混乱しており、テイスペスがふたりになっている。 ベヒストゥン碑文の記す系図は以下の通りである。
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ドロプルトン
ドロプルトン()または量子液滴(りょうしえきてき、)は、半導体中の電子と正孔から構成される人工の準粒子である。ドロプルトンは、初めて見出された液体のように振る舞う粒子である。ドロプルトンの形成は、2014年2月26日にネイチャー誌上で報告され、ヒ化ガリウムの量子井戸内に超短レーザーパルスを照射することによって、電子-正孔プラズマのドロプルトンが形成された証拠が示された。ドロプルトンの存在は、この実験が行われる前には予測されていなかった。 ドロプルトンの寿命は約25ピコ秒と比較的短いが、研究を行うのには十分な安定性を持つ。ドロプルトンは、量子機構の研究を行うのに好都合な性質を持つ。幅は約200nmで、最も小さな細菌と同程度の大きさであることから、発見者らはいつか実際に量子液滴を観測できるかもしれないと期待している。
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応用地理学
応用地理学(おうようちりがく、)とは、社会問題、経済問題、環境問題への対応にあたり地理学的な知識や技能を応用することである。地域計画に地理学者や地理学出身者が関与することなどが具体例として挙げられる。 経緯. 地理学の応用は古来から行われていたが、近代における応用地理学が盛んになったのは、特に第二次世界大戦後である。 ヨーロッパ. ヨーロッパでは1960年代以降、応用地理学の制度化が進行していった。1960年には、国際地理学会議での応用地理学のセクションの設置のほか、応用地理学の書籍の刊行が行われた。その後、1964年の国際地理学会議では応用地理学の委員会が設置されるようになった。 1981年に学術専門雑誌「Applied Geography」が創刊された。 アメリカ合衆国. 一方アメリカ合衆国では1970年頃から応用地理学への関心が高まっていった。その背景として、計量地理学は現実社会との関連性が弱いとの批判への対応、大学の教員ポストの減少に伴う地理学出身者の実務職就職口確保のための対応が挙げられる。 1980年代になると、アメリカ地理学会での応用地理学専門グループの設置、アンダーソン・メダルの新設、「Geographical Review」でのApplied Geography Sectionの追加などがなされ、アメリカ合衆国でも応用地理学の地位の確立が進行した。 日本. 日本でも1940年頃から人口問題や国土計画などの研究が行われていた。 1960年代のヨーロッパでの動向は日本にも影響を与え、日本でも応用地理学の研究や図書刊行などが盛んになっていった。
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新潟県道457号向原越後中里停車場線
新潟県道457号向原越後中里停車場線(にいがたけんどう457ごう むこうばらえちごなかざとていしゃじょうせん)は、新潟県南魚沼郡湯沢町内を通る一般県道である。
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CANTA
CANTA(カンタ)は、日本のロックバンド。2002年結成。 略歴. ルーク篁(元・聖飢魔II)を中心に、雷電湯澤(RX、元・聖飢魔II)とMASAKI(アニメタル)のトリオ・バンドとして結成される。 技巧派揃いのバンドであるが、激しいテクニカルプレイの応酬ではなく、あくまでメロディアスでポップなハードロックを志向している。 ボーカルはルーク篁が務めているが、ルーク本人は元々ボーカリストを他人に頼もうとしており、散々探し回ったが結局見つからず自分が歌うことになったという。 2020年、春ツアーとファンクラブイベントをもって解散することが発表された。 だが、新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)の流行によりツアーが延期されており、それにともなって解散自体も延期になっている。 2021年に改めての開催を予定していたがこれも叶わず、代替としてライブ動画の配信を予定していることが発表された。 その後、Twitterは2022年10月16日で更新が停止されており、明確にCANTAが終了したことは公式サイトに書かれている。
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八丈町立大賀郷中学校
八丈町立大賀郷中学校(はちじょうちょうりつおおがごうちゅうがっこう)とは、東京都八丈島八丈町に所在する公立中学校。
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兼学流
兼学流(けんがくりゅう)とは、白神伊輔正則が興した柔術の流派。不遷流と起倒流を兼学していた。 歴史. 白神伊輔正則は、起倒流を原竜渓に不遷流を武田物外と武田禎二から学び、二つの流派を合わせて兼学流として教えていた。 白神伊輔. 白神伊輔(白神伊助)は中島 (倉敷市)の人である。幼少より武術を好み、原龍渓より起倒流を学んだ。また、武田物外と武田禎二から不遷流、赤木六大夫長定から竹内流(呑敵流)を学び免許皆伝を得た。剣術も学んでおり神道無念流を究めている。他に直心影流、清心流、平心流などを修め八流派の免許を持っていた。 中島 (倉敷市)に練武館という道場を開き、1600人余りの門人を育てた。大正2年(1913年)に大日本武徳会より教士を授けられた。大正4年4月10日(1915年)82歳で歿す。墓は倉敷市中島の高蔵寺にある。 原龍渓. 原龍渓は中島 (倉敷市)小溝の人である。源之真とも。旧姓は勝田で原家の養子となった。 九歳で京都に上り医術と起倒流を学び、帰郷して中島 (倉敷市)小溝に道場を開いた。新見藩の御典医(藩医)を務めたこともあった。文久元年四月二十七日(1861年)、六十歳で歿す。 系譜. 兼学流と言われているが、白神伊輔の門人の田中喜一郎系は不遷流を名乗って活動しており、また白神光蔵は白神伊輔より起倒流の奥儀と不遷流秘伝巻を伝えられていることから二つの流派をそのまま兼学していたものと考えられる。 白神伊輔までの系譜. 不遷流 起倒流 竹内流(呑敵流) 直心影流
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朝地インターチェンジ
朝地インターチェンジ(あさじインターチェンジ)は、大分県豊後大野市朝地町下野にある中九州横断道路(大野竹田道路)のインターチェンジである。
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諫早市立真津山小学校
諫早市立真津山小学校(いさはやしりつ まつやましょうがっこう)は、長崎県諫早市貝津町にある公立小学校。
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POWER RADIO OBC
POWER RADIO OBC(パワーレディオ オービーシー)は、大阪放送が2004年度(2004年4月~2005年3月)に放送したインターネットと放送を融合させたラジオ番組である。 番組は月曜日「アクセスラジオ」、火曜日「朝比奈千足(あさひな・ちたる)の音楽千夜一夜」、水曜日「PHPヒューマンライフ」の3つの番組から構成されていた。
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原形質流動
原形質流動(げんけいしつりゅうどう)または細胞質流動(さいぼうしつりゅうどう)とは、生きている細胞の内部で、原形質が流れるように動く現象である。 狭義には植物細胞で見られるような細胞の外形が変わらない運動だけを意味するが、広義にはアメーバ運動のような細胞全体の運動も含む。 原形質流動は細胞内小器官に様々な生体分子を細胞内で輸送するための細胞運動である。 ATPをエネルギー源とし、細胞骨格を形成しているマイクロ(アクチン)フィラメントとモータータンパク質(ミオシンなど)との相互作用によって流動力が生じる。 これは動物の筋肉の収縮運動と発生機構的には極めてよく似ている。 原形質流動の様式. 細胞の種類により様々な様式が見られる。 研究の歴史. 1772年、イタリアのボナヴェントゥラ・コルティ (Bonaventura Corti) が、顕微鏡を使った観察で、シャジクモの細胞内容が循環運動していることを論文で発表したが、あまり注目されなかった。 1807年、ドイツの植物学者ルドルフ・トレヴィラーヌス (Ludolph Christian Treviranus) がこの現象を再発見したが、細胞内の熱の不等分布による、対流のような現象と考えた。 この現象の発生機構が明らかになってきたのは、20世紀中頃に入ってからで、神谷宣郎らのシャジクモや粘菌を用いた研究によるものである。 神谷らは1956年、原形質流動は原形質のゾル=ゲル界面での能動的な「すべり」によって発生する、とする滑り説を提唱した。 流動力はアクチンとミオシンの相互作用によるものと仮定されていたが、1974年にシャジクモ類からアクチンフィラメントが、1994年には車軸藻からミオシンが同定され、その機構が立証された。
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イギリスとカザフスタンの関係
<templatestyles src="Module:Infobox/styles.css"></templatestyles> イギリスとカザフスタンの関係は、1992 年 1 月 19 日に正式に確立された。 英国は 1992 年 10 月にカザフスタンに大使館を開設し、カザフスタンは 1996 年 2 月に英国に大使館を開設した。 カザフスタン政府が米国主導の対テロ戦争に緊密に協力してきたことにより、カザフスタンと西側諸国との関係はここ数年で大幅に改善した。 英国はカザフスタンに対する第3位の外国投資国であり、海外直接投資の14%を英国企業が占めている。 100社以上の英国企業がカザフスタンで事業を行っている。 BAEシステムズは、エア・アスタナの株式の49%を保有している。 カザフスタンと英国の戦略対話. カザフスタンと英国の戦略対話は、相互の政治的コミュニケーションと協力のためのプラットフォームである。 各国の外務大臣が議長を務める。 経済関係と貿易. 英国はカザフスタン経済への最大の投資家6社のうちの1つである。2005年から2018年にかけて英国から流入した海外直接投資は総額130億ドル(108億ポンド)に達した。 英国の投資家や企業は1991年以来、カザフスタンに250億米ドルを投資してきた。 2018年、英国からカザフスタンへのFDIの総流入額は5億9,310万ドルに達し、2017年(5億3,380万ドル)と比較して11.1%増加した。 10年間で英国からカザフスタンへの直接投資流入は88億ドルに達した。 英国の投資家にとってカザフスタンの最も魅力的な産業は、専門的、科学的、技術的な活動である。そのうちのシェアは全体の 34.3%、つまり 78 億ドルである。英国からの投資家も、金融・保険活動(24億ドル)と鉱業・採石事業(18億ドル)に多額の資金を提供した。 英国はカザフスタンの10大貿易相手国にも含まれている。 2018年の相互貿易額は12億ドル(10億ポンド)に達した。売上高に占める主な割合はカザフスタンの商品とサービスの輸出で、63パーセント(7億9,390万ドル)を占め、英国からの輸入は4億6,680万ドル(37パーセント)に達した。 英国とカザフスタンは、ユーラシア横断輸送回廊とシルクロード回廊を支えるインフラと商業活動の構築に協力している。 2019年の双方向貿易は32億ドルに達した。 英国企業はカザフスタンに26億ドルの商品とサービスを輸出し、英国はカザフスタンから7億3,700万ドルの商品を輸入した。 デジタル分野での協力. 英国は、デジタル技術と人工知能の発展における世界ランキングで主導的な地位を占めています。 カザフスタンは、デジタル分野における英国のベストプラクティスを採用し、実施するために英国と協力している。 これは、デジタル技術の利用を通じてカザフスタンの生活水準を向上させることを目的としたデジタル・カザフスタン・プログラムの実施に不可欠な部分である。 法執行分野における協力. 2020年9月、カシム=ジョマルト・トカエフ大統領は国民向け演説の中で、「警察はすぐそばにある」原則に基づく地方警察の「奉仕警察モデル」への移行を発表した(politsiya v shagovoi dostupnosti)。 。 内務省のある高官によると、このモデルは、地域コミュニティから徒歩圏内に警察分署を置き、権限と機知に富んだ管理者として警察官が地域の問題解決にコミュニティを動員することを想定しているという。 これは、2010年代にナザルバエフのコンサルタントだったトニー・ブレアの下で1990年代後半に英国で実施された地域安全パートナーシップを模倣しようとしている。警察内部では「勤務警察モデル」が実際に何を意味するのかを理解している人はほとんどいなかったが、エルラン・トゥルギンバエフ内務大臣はすでに、荒廃した警察署の改修と新しい警察署の建設についてカシム・ジョマルト・トカエフ大統領に報告している。 会議およびビジネス上の関係. ボリス・ジョンソン外務大臣は、2017年11月にカザフスタンのカイラート・アブドラクマノフ外務大臣をロンドンに迎えた カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は、2006 年 10 月 23 日、BAE システムズの元最高経営責任者リチャード・エバンスを、カザフスタンの企業 5 社を統括する国有持株会社サムルクのトップに任命した。 カザフスタンと英国は、さまざまな会議や政府間フォーラムを通じて経済協力を着実に進めている。 そのようなフォーラムの 1 つが 2018 年 10 月にロンドンで開催された。「カザフスタン世界投資フォーラム2018」と題されたこのイベントには、150人以上の企業幹部が集まった。 フォーラムの成果として、輸送と物流、冶金、エネルギー、農業、エンジニアリング、および医療システムインフラストラクチャの開発の分野において、英国企業との多数の協定が締結された。 ロンドン訪問. ナザルバエフ大統領は、数人のカザフスタンのビジネスリーダーとともに、エバンス氏、トニー・ブレア英国首相、エリザベス女王2世、ゴードン・ブラウン財務大臣、ジョン・スタッタード市長、ジャン・ルミエール欧州復興開発銀行総裁と会談した。 2006 年 11 月 21 日と 22 日にイギリスのロンドンで開催された。ナザルバエフ氏はブレア首相とエネルギー協力について話し合い、レミエール大統領はカザフスタンの力強い経済成長を考慮してEBRDとカザフスタンの関係を変えることを約束した。 ナザルバエフ氏は11月22日にロンドンの他のビジネス代表者と会談し、ロンドン証券取引所で取引を開始し、ロンドン金属取引所を訪問した。 政治アナリストらは、ナザルバエフ氏が2009年の欧州安全保障協力機構長官就任への英国の支持を得るために、カザフスタンが民主化で前進していることを英国政府関係者に説得する機会としてこの訪問を利用したと述べた。 OSCE閣僚理事会はこの件について12月に決定を下す予定だ。 英国産業連盟のディレクター、ポーリン・シャーマン氏は、「私たちが最近エネルギー安全保障に非常に重点を置いており、長期にわたるエネルギー安全保障についてEU内でさまざまな懸念があることを考えると、私たちに関する限り、これは非常に時宜を得たものである」と述べた。 ロシアのエネルギー部門のみに完全に依存しているということだ...最も重要な問題は依然としてナザルバエフに対する国際社会における政治的評価だと思う。」 記者会見. ブレア首相とナザルバエフ首相は11月21日の会談後、共同記者会見を行った。 ブレア首相は、「この関係は明らかに貿易とエネルギーに関するものである。われわれは現在、金融サービス分野でどのように協力するかを検討している。カザフスタンの役割はますます重要になっている。なぜなら、カザフスタンは、まず、 カザフスタンは経済開放の準備を整え、大きな進歩を遂げてきた。これは重要な教訓である。そして第二に、多くの異なる民族や宗教のグループがあり、それらが共に暮らしており、カザフスタンは全体として、国として進歩している。 「これは重要な教訓でもある。特にこの地域では、我々は安定したパートナーを必要としています。ヨーロッパはその戦略的重要性を認識し、全く新しく異なる関係をカザフスタンと持つべきだと思う。そして私は英国が主導的なパートナーになってほしいと思っている」 貿易や経済的な理由だけでなく、政治的な理由からもカザフスタンはその努力に参加することになる。」 カザフスタン – 前進. ナザルバエフは、300人の英国実業家を前に「カザフスタン-今後の展開」と題したビジネスセミナーで講演し、間もなく6,000米ドルを超えると予想されるカザフスタンのGDPについて、英国がカザフスタンに対する第3位の投資国であること、そしてカザフスタンのGDPについて議論した。 現在カザフスタンに投資している英国企業 128 社です。 ナザルバエフ氏は聴衆に、「カザフスタンはもはやソ連の一部でもロシアの一部でもない、そうであるかのように見る必要はない。 ご覧のとおり、カザフスタンはリベラルな政治、リベラルな経済の舞台であり、私たちはこの地域のすべての国が私たちの例に倣い、近隣諸国よりも国民にとってより良い条件を作り出してきたという点で私たちの足跡をたどることを望んでいます。」 セミナーで講演した代表者らは、カズィナ基金、サムルーク州立ホールディングス、RFCA、欧州復興開発銀行に勤務していた。 カザフスタンのシェル石油会長マーティン・フェルストル氏は、シェルが1993年から2006年にかけてカザフスタンに30億ドルを投資したと語った。 同氏は、海外投資に関しては「法的・規制の枠組み」が「明確で、明確で、実行可能」であると称賛した。 もう一人の講演者であるサムルク国営持株会社の会長代理サウアット・ミンバエフ氏は、この機会を利用して、カザフスタンに拠点を置く4社がロンドン証券取引所の株式を売却する予定であると発表した。 カザフスタンのヒンズー教徒. カザフスタンのカラサイ地区で機動隊とブルドーザーがヒンズー教の寺院とカザフスタンのヒンズー教徒の家5軒を破壊する中、ブレア首相はナザルバエフと会談し、カザフスタンにおけるヒンズー教徒の扱いの問題を提起した。 宗教の自由を主張する非営利団体フォーラム18は、政府によるヒンズー教徒への嫌がらせ疑惑を文書化した。 アショーク・クマール議員は下院に早期動議を提出し、「当院は、カザフスタン大統領の訪問に先立ち、カザフスタンにおけるヒンズー教徒の少数派に対する嫌がらせと差別を非難する。カラサイ地区のヒンズー教徒がこれまでに行ってきたことを指摘する」と述べた。 さらに、土地、納屋、牛は没収され、家を取り壊すと脅迫され、土地を所有する権利も否定されており、家の所有権を申請したカザフスタンのヒンズー教徒は、非ヒンズー教徒であるにもかかわらず、ヒンズー教徒ではないことを宣言するよう求められたことも指摘されている。 同様の申請をしたヒンズー教徒には直ちに所有権が与えられた;最高裁判所がヒンズー教のコテージに関する2件の訴訟を検討し、原告を公聴会に招待することなくヒンズー教徒に不利な判決を下したことを認めた。」 サシャ・バロン・コーエンとボラット. イドリソフはボラットについて、サシャ・バロン・コーエンのカザフスタン描写は「ますます近代的で繁栄した世俗国家」であるカザフスタンの現実からかけ離れていると不満を述べた。英国外務省の報道官は、カザフスタンと英国の関係は悪化していると否定した。 ナザルバエフ大統領は、コーエン監督の映画『ボラット:栄光の国カザフスタンのためにアメリカの文化を学ぶ』を笑い、「この映画はコメディアンが作ったのだから、笑いましょう。それが私の態度だ」と語った。 引用. 「英国はすでに多くの分野でカザフスタンの発展に重要な役割を果たしている。我々はその役割が継続し、拡大することを望んでいる。」
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オピウム
オピウム
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ウィリアム・グラッドストン
ウィリアム・ユワート・グラッドストン( 、1809年12月29日 - 1898年5月19日)は、イギリスの政治家。 ヴィクトリア朝中期から後期にかけて、自由党を指導して、4度にわたり首相を務めた(第一次: 1868年-1874年、第二次: 1880年-1885年、第三次: 1886年、第四次: 1892年-1894年)。 生涯を通じて敬虔なイングランド国教会の信徒であり、キリスト教の精神を政治に反映させることを目指した。多くの自由主義改革を行い、帝国主義にも批判的であった。好敵手である保守党党首ベンジャミン・ディズレーリとともにヴィクトリア朝イギリスの政党政治を代表する人物として知られる。 概要. スコットランド豪族の末裔である大富豪の貿易商の四男としてリヴァプールに生まれる。イートン校からオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学。同大学在学中にイングランド国教会への信仰心を強めた。1831年に同大学を首席で卒業する。 1832年ので初当選し、23歳にして保守党所属の庶民院議員となる。二度のサー・ロバート・ピール准男爵内閣(保守党政権)において下級大蔵卿(在職1834年-1835年)、(在職1835年)、(在職1841年-1843年)、商務庁長官(在職1843年-1845年)、陸軍・植民地大臣(在職1845年-1846年)を歴任して政治キャリアを積む。商務庁副長官・商務庁長官時代には様々な品目の関税削減・廃止を手がけ、自由貿易推進に貢献した。 1846年の穀物法廃止をめぐる保守党分裂では、穀物自由貿易を奉じるピール派に属して保守党を離党した。保守党から離れたことで経済思想以外も徐々に自由主義化していった。特に1850年秋に訪問した両シチリア王国において過酷な自由主義弾圧を目の当たりにして保守主義に嫌悪感を持つようになった。 1852年には第一次ダービー伯爵内閣(保守党政権)の大蔵大臣ベンジャミン・ディズレーリの予算案を徹底的に論破して否決に追い込み、同内閣の倒閣に主導的役割を果たした。続くアバディーン伯爵内閣(ピール派・ホイッグ党連立政権)においては大蔵大臣(在職1852年-1855年)として入閣し、更に多くの品目の関税廃止を実施して自由貿易を一層推進した。 1855年2月、クリミア戦争の泥沼化で総辞職したアバディーン伯爵内閣に代わって第一次パーマストン子爵内閣(ホイッグ党政権)が成立。はじめ同内閣にも大蔵大臣として入閣していたが、首相との方針の食い違いからすぐにも下野した。以降はパーマストン卿の強硬外交を批判した。 第二次ダービー伯爵内閣(保守党)期の1859年には保守党政権打倒のためホイッグ党、ピール派、が大同団結して自由党を結成。これに伴いグラッドストンも自由党議員となった。 第二次ダービー伯爵内閣倒閣後の1859年6月に成立した第二次パーマストン子爵内閣(自由党政権)には大蔵大臣(在職1859年-1865年)として入閣し、を締結するなどして自由貿易体制を完成させた。また「知識に対する税金」として批判されていた紙税を廃止した。続く1865年から1866年の第二次ラッセル伯爵内閣(自由党政権)では蔵相(在職1865年-1866年)留任のうえ、庶民院院内総務を兼務した。選挙法改正の機運が高まる中、自助を確立している上層労働者階級に選挙権を広げる選挙法改正を目指し、保守党庶民院院内総務ディズレーリと激闘したが敗れ、内閣総辞職に追い込まれた。 続く第三次ダービー伯爵内閣(保守党政権)で庶民院院内総務ディズレーリが行った第二次選挙法改正には、選挙権が貧民にまで拡大される恐れありとして反対したが、阻止できなかった。1867年末に引退したラッセル伯爵の後継として自由党党首となる。1868年2月に成立した第一次ディズレーリ内閣(保守党)に対して、アイルランド国教会廃止を掲げて挑み、11月の総選挙に勝利したことで同内閣を総辞職に追い込んだ。 代わって組閣の大命を受け、第一次グラッドストン内閣を組閣した。内政において様々な改革を実施した。まず先の総選挙での公約通りアイルランド国教会を廃止した。不在地主に理由なく追い出されたり、法外な地代をかけられたアイルランド小作人への補償制度を定めた法律も制定したが、これはほぼ「ざる法」に終わった。他の欧米諸国と比べて小学校教育普及が遅れていることを念頭にを制定して小学校教育の普及を図った。外務省以外の省庁で採用試験を導入し、また軍隊の階級買い取り制度を廃することで、官界や軍における貴族優遇に歯止めをかけた。労働者上層に選挙権が広がったことを念頭に秘密投票制度の導入も行った。労働組合法を制定し、労働組合が賃金と労働時間以外のことを交渉するのを解禁した。一方で外交は不得手で、ドイツ帝国の勃興やロシア帝国のパリ条約黒海艦隊保有禁止条項の一方的破棄などを阻止できず、またアメリカ合衆国に対してもアラバマ号事件で賠償金を支払うことになるなど、相対的にイギリスの地位を低下させた。自由党内の分裂が深刻化し、1874年には所得税廃止を目指して解散総選挙に打って出るも、大英帝国の威信回復を訴えるディズレーリ率いる保守党が勝利し、総辞職を余儀なくされた。 1875年には自由党党首も辞し、半ば引退した生活に入ったが、1875年から1877年にかけてのバルカン半島をめぐる騒乱でディズレーリ政権の親トルコ・反ロシア外交を批判する運動の先頭に立って政治活動を再開した。総選挙を間近にした1879年には「」を展開し、ディズレーリの第二次アフガン戦争、トランスヴァール共和国併合、ズールー戦争などの帝国主義政策を批判した。 1880年の総選挙で自由党が大勝したため、第二次グラッドストン内閣を組閣した。 アイルランド土地法を改正し、アイルランド小作農の地代を地代法廷で決めるなど小作農保護を強化した。また選挙区割りについて野党保守党に妥協することで第三次選挙法改正を達成し、男子普通選挙に近い状態を実現した。グラッドストンは小英国主義者であり、帝国主義には消極的だったが、オラービー革命が発生したエジプトには派兵し、革命を鎮圧してエジプトを半植民地となした。一方マフディーの反乱が発生したスーダンは放棄を決定し、国民的英雄チャールズ・ゴードン将軍を同地に派遣してスーダン駐屯エジプト軍の撤退の指揮をとらせようとしたが、ゴードンは撤退しようとせずに戦死したため、内閣支持率に大きな打撃を受けた。1885年にアイルランド強圧法を制定しようとしたことにアイルランド国民党が反発してソールズベリー侯爵率いる保守党との連携に動いた結果、議会で敗北して総辞職に追い込まれた。 1885年のの自由党の勝利、また保守党政権とアイルランド国民党の連携の崩壊により、ソールズベリー侯爵内閣倒閣に成功し、第三次グラッドストン内閣を組閣した。チャールズ・パーネル率いるアイルランド国民党と連携し、アイルランド自治法案を通そうとしたが、党内の反自治派が党を割って自由統一党を結成したため否決された。に打って出るも敗北して退陣した。 退陣後もアイルランド自治を掲げ、1892年のに辛勝したことでを組閣した。再びアイルランド自治法案を提出するも貴族院で否決された。さらに海軍増強に反対したことで閣内で孤立し、1894年に首相職を辞職した。次の総選挙にも出馬することなく、政界から引退した。 1898年5月19日に死去した。 生涯. 政治家になるまで. 出生と出自. 1809年12月29日、イギリス・イングランド・リヴァプールの62番地に生まれる。 父は大富豪の貿易商ジョン・グラッドストン(のちに准男爵に叙される)。母は後妻のアン(旧姓ロバートソン)。グラッドストンは夫妻の四男であり、兄に、、がいる。また姉一人がおり、後に妹も一人生まれている。 グラッドストン家はもともとグラッドステンス (Gladstanes) という家名のスコットランド豪族だった。1296年の公式文書にハーバート・ド・グラッドステンス (Herbert de Gladstanes) というスコットランド豪族が、スコットランドの征服者イングランド王エドワード1世に臣従を誓ったことが記録されている。やがてグラッドステンス家の一流がに移住し、家名をグラッドストンス (Gladstones) に変えた。家は漸次没落していったが、グラッドストンの祖父トマス (Thomas) の代にへ移住し、穀物商として成功を収めた。 父ジョンはこのトマスの長男として生まれ、リヴァプールに移住して穀物商を始めた。この際に語呂が悪いグラッドストンスの姓をグラッドストンに改めた。父は1792年に最初の結婚をしたが、先妻とは子供ができないまま死別し、ついで1800年にアン・ロバートソン (Anne Robertson) と再婚し、グラッドストンを含む4男2女を儲けた。 父は東インド(アジア)貿易で大きな成功をおさめ、西インド(アメリカ大陸)貿易にも手を伸ばしつつ、西インドやギアナで大農場の経営を行う大富豪となった。父の資産額は60万ポンドにも及ぶという。 また父は1818年から1827年にかけて庶民院議員も務めた。父はもともと非国教徒の長老派であり、支持政党は自由主義政党ホイッグ党だったが、後に国教会の福音派(比較的長老派と教義が近い)に改宗するとともに、党派も保守政党トーリー党になった。だがトーリー党内では自由主義派に属しており、カトリックが公職に就くことを認める改革や商業における規制を撤廃する改革を目指すジョージ・カニングを支持し、カニングのでの選挙活動を支援していた。 そのような開明的な父であっても、その所有農場では大勢の奴隷が酷使されていた(イギリスでは奴隷貿易は1807年に禁止されているが、植民地の奴隷制度はいまだ合法だった)。1823年にはギアナでイギリス農場主の支配に抵抗する黒人奴隷の一揆が発生したが、その一揆の中心地はグラッドストン家所有の農場だった。 幼少期. グラッドストン家は資本主義の競争に勝ち抜いた中産階級に典型的な自由主義・合理主義・経験主義の家風だった。加えてスコットランドの気風とされる激しい情熱と抽象的理論の重視という家風も持っていた。そのため父は子供たちに対し、どんな些細なことでも慣れ合いで決めずに自由な討論をもって決するよう教育した。グラッドストンによると、父のこの教育方針のおかげで議論好きになったという。 幼少期にはジョン・バンヤンの『天路歴程』、の『精霊物語(Tales of the Genii))』、の『スコットランド豪族 (The Scottish Chiefs)』などの本から影響を受けたという。 イートン校. 1821年9月(11歳)に名門パブリックスクール・イートン校に入学した グラッドストンはイートン校になじみ、この時代を「私の人生の中で最も幸福だった時代」と述懐している。友人とのトラブルもなく、厳格だった校長ジョン・キート(在任、1809-1834)からの鞭打ちも一回受けただけだった。 読書にも熱心でギリシャ・ローマの古典、ジョン・ロックやエドマンド・バークやデイヴィッド・ヒュームの哲学、ジョン・ミルトンの宗教作品、ウォルター・スコットの作品、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、モリエールやラシーヌなどのフランス古典劇、政治家の伝記や自伝などに影響を受けた。またフランス古典を勉強するためにフランス語を身に付けている。 後の政治家としての素質もこの時代から多く見せた。1823年には教師を相手にその不正義を追及し、1825年には友人たちとともにイートン校の弁論会 (The debating society) を復興した。最初の弁論会(お題は「下層民に教育を与えるべきか否か」)で当時15歳のグラッドストンは「上流階級は、下層階級が同胞に対して善良にふるまうよう善導しなければならない。そうすれば下層民はいかなる口実を設けても義務に違反できなくなるだろう。職人の勤勉と才能を眠らせ、彼らに希望を失わせ、彼らの精神が抑圧されたままにしておくことは道義的にも政治的にも正しいことではない」と演説しており、ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の責任)的な思想を既に確立している。1826年には父の経済政策が新聞で批判されているのを見つけて父を弁護する論文を新聞社に投書している。18歳の時には『イートン雑誌(The Eton Miscellany)』というイートン校内の雑誌の編集者・執筆者も務めた。 イートン校時代から将来の夢は政治家であり、1827年12月の卒業にあたっての校壁への落書きで「W・E・グラッドストン庶民院議員閣下 (THE RIGHT HONOURABLE W・E GLADSTONE, M.P.)」と未来の自分を予想している。 オックスフォード大学. 1828年10月にオックスフォード大学へ進み、クライスト・チャーチに在籍した。 クライスト・チャーチはオックスフォードのカレッジの中でももっとも貴族的だが、読書には自由な風潮であり、グラッドストンも早朝4時間と就寝前2時間から3時間は読書に費やしたという。とりわけヘロドトス、アリストテレス、プラトン、ホメーロスなどの古典研究に明け暮れたという。 1829年10月には十数人の友人とともに大学内に論文討論クラブを結成している。メンバーが論文を提出し、それについて賛否を表明するクラブだった。このクラブはウィリアム・ユワート・グラッドストン (William Ewart Gladstone) の頭文字をとって、「WEG(ウェッグ)」と名付けられた。また1830年からはオックスフォード大学の各カレッジの代表学生が集まるオックスフォード・ユニオンの討論にも参加するようになり、後にはその議長に選出された。 大学時代のグラッドストンは宗教的な葛藤を感じることが多くなった。オックスフォード大学はもともと教会付属の学校が発展したものだが、この頃のオックスフォードは形骸化していて宗教への情熱が感じられなかった。軽薄と宗教的情熱の欠如を嫌うグラッドストンにはこれが許せなかった。彼はこの葛藤を勉学への打ち込みと一層の信仰心によって満たそうとした。その結果、一時は政治家の夢を断念して聖職者の道を希望するようにさえなった。 彼は1日に何度も説教を聞き、やがて自らが神に遣わされた者であり、神に恥じることをしてはならないと思い込むようになった。1830年4月25日付けの日記には「1.愛、2.自己犠牲、3.誠実、4.活力」の4つの精神を持つことがその重要な柱と位置付けている。この宗教的確信を得るようになると、義務感からではなく意志をもって勉学に打ち込むようになった。この時以来、彼は休息を全く取らない異常な勤勉家と化したという。 卒業試験も近くなった1831年4月から5月、選挙権を中層中産階級に広げる選挙法改正法案をめぐって反対派の野党トーリー党と賛成派の与党ホイッグ党が争う中、が行われた。グラッドストンは「WEG」や「オックスフォード連合」の討論会で選挙法改正反対を表明した。有権者は貴族や上層中産階級など高い教養と責任感を持つ者に限定しないと衆愚政治になって社会秩序が崩壊すると考えたからである。こうしたノブレス・オブリージュ的な考え方は、オックスフォード大学の貴族学生の間では一般的な意見だったから多くの出席者から支持された。とりわけリンカン伯爵は、父ニューカッスル公爵に宛てた手紙の中で「父さんの影響力が強い選挙区にグラッドストンを保守党候補として立ててやってほしい」と頼み込んでいる。この願いは1年後かなえられる 選挙戦中、グラッドストンはトーリー党の選挙活動に参加し、選挙法改正反対のプラカードを掲げて行進した。選挙権を持てない庶民から泥を投げつけられ泥だらけになったが、それでも屈することはなかったという。しかし総選挙の結果はホイッグ党の大勝に終わり、議会での一悶着の末に第一次選挙法改正が達成された。これにより中層の中産階級にも選挙権が広がり、成年男子の15%が選挙権を持つようになった。 選挙活動中も卒業試験に向けての勉学を怠ることはなく、選挙後は更に勉学に集中した。当時の卒業試験は数学と古典に分かれていたが、グラッドストンは両方で首席をとっている。二冠に輝いたのは20年以上前の卒業生であるロバート・ピール以来のことであった。1832年1月に学位を得てオックスフォード大学を卒業した。 ヨーロッパ大陸旅行. オックスフォード卒業後、兄とともにグランドツアーに出た。古典を多く学び、信心深いグラッドストンはイタリアに憧れを持っており、旅行の中心地もそこだった。 ベルギーのブリュッセルとフランスのパリを経てフィレンツェ、ナポリ、ローマ、ヴェネツィア、ミラノなどイタリア各都市を歴訪した。彼はサン・ピエトロ大聖堂を訪れた際にキリスト教は国教会も非国教徒もカトリックも同一であり、キリスト教を統一したいと願うようになったという。 しかしフランス・パリの店が安息日にもシャッターを下ろさないことやイタリアのローマ・カトリック教会の「腐敗」と「非カトリック」ぶりには怒りを露わにし、国教会こそが真の国際的キリスト教の一部という確信を強めたという。奇しくもこの翌年からオックスフォード大学の聖職者たちの間で盛り上がり始めるオックスフォード運動と似た結論に達したのであった。 保守党時代. 23歳で初当選. ミラノ滞在中の1832年6月、オックスフォードの学友リンカン伯爵から手紙をもらい、彼の父ニューカッスル公爵の強い影響下にあるからの出馬を勧められた。 グラッドストンにとっては有難い申し出であると同時に不安なことだった。グラッドストンは自分の信念を曲げることを嫌ったので、トーリー党守旧派のニューカッスル公爵の支援を受けてしまうと、守旧的な信念を強要されると懸念したのである。しかし父ジョンは「公爵はこれまで支援する候補者に信念を押し付けたことはないし、公爵と私はすでに話を進めており、私が選挙資金の半分を持つことになっている。」と息子を説得し、出馬を決意させた。 旅行を中断して帰国し、1832年8月からニューアーク選挙区で選挙活動に入った。トーリー党選対事務所が全力で支えてくれたおかげで、活発な選挙活動が可能となった。しかし当時植民地奴隷制廃止運動が盛んだったため、選挙戦中にもっとも頻繁に受けた攻撃は「悪名高い奴隷農場主の息子」という批判だった。これに対して彼は「植民地の奴隷の即時解放は白人に対する暴動を誘発する恐れがある。それを防ぐためにはまず奴隷たちにキリスト教育を施し、その後に解放するべき」という「漸進的解放」論で反論した。 選挙の結果は3人の候補のうち最多得票での当選だった。 処女演説. 1833年1月に議会が招集された(この会期からトーリー党は保守党という名称を使用するようになった)。 グラッドストンは、6月3日の庶民院で処女演説を行った。この数日前に与党ホイッグ党の議員が父の奴隷農場を攻撃する演説を行っており、彼の演説は「漸進的解放」論を唱えてそれに反論するものだった。 このような考え方の議員は少なくなかったし、またグラッドストンの演説態度は真面目だったので好評を博したという。与党ホイッグ党の庶民院院内総務オールトラップ子爵も、国王ウィリアム4世に前途有望な議員としてグラッドストンのことを報告している。ウィリアム4世は「朕はグラッドストンのごとき前途有望な議員が進出したことを喜ぶ」と応じたという。 第一次ピール内閣下級大蔵卿. 1834年11月、国王ウィリアム4世はホイッグ党の首相メルバーン子爵を罷免し、保守党党首サー・ロバート・ピール准男爵に組閣の大命を与えた(第1次ピール内閣)。 グラッドストンは第一大蔵卿(首相)を補佐する下級大蔵卿 () に任命された。この役職は複数人置かれる役職なので、各省に一人ずつ置かれる政務次官 () と比べると地位は低いが、首相の側近くにあることから政府全般の事務に関与する役職だった。 王の気まぐれで政権についたピール政権は少数与党政権であったため、1835年1月にもとなった。この選挙ではホイッグ党がニューアーク選挙区に対立候補を立てなかったので、グラッドストンは無投票再選を決めている。総選挙全体の結果は、保守党が100議席回復して300議席近くを獲得した(ただし過半数には届かず)。 第一次ピール内閣陸軍・植民地省政務次官. 先の総選挙でが落選したため、ピールは、父が植民地大地主で植民地問題に造詣が深いであろうグラッドストンをその後任にした。当時の陸軍・植民地大臣は貴族院議員アバディーン伯爵だったため、グラッドストンは庶民院における陸軍・植民地省の代表者となった。 新議会が召集されると野党ホイッグ党ジョン・ラッセル卿が、アイルランド国教会の収入を国教会以外の目的にも使用するべきとする動議を提出したが(アイルランド人はカトリックが多数派だが、アイルランド国教会に教会税を納めさせられていたため、強い反発が起こっていた)、与党保守党はこの動議に反対した。グラッドストンもアイルランドにおける国教会制度を崩壊させるものとして反対演説を行った。しかしこの動議は1835年4月7日に可決されたため、ピール内閣は総辞職に追い込まれた。グラッドストンも就任から三カ月で陸軍・植民地省政務次官を辞することとなった。 代わってホイッグ党党首メルバーン子爵に組閣の大命があり、が発足した。この政権は1841年まで続き、その間保守党は野党となった。 『教会との関係における国家』. 下野して時間に余裕ができたグラッドストンは改めて宗教問題に関心を寄せた。1830年代はオックスフォード運動の影響で宗教問題がイギリスで盛んになっていた時期だった。 この頃、エディンバラ大学神学教授トーマス・チャーマーズは「国家は宗教の真理を定める義務を負っているが、全体像だけ決めればよく、細部は神学者に任せるべきである」という主張を行っていたが、グラッドストンはこれに強く反発した。また自由主義者による無宗教の風潮、アイルランド国教会廃止を狙う勢力の台頭にも脅威を感じ、国教会を守るための執筆を行う決意を固めた。 そうして書きあげた『教会との関係における国家 (The State in its Relations with the Church)』を1838年秋に出版した。この著作の中でグラッドストンは「国家は人間と同じく一つの宗教を良心として奉じなければならず、それはローマ教会よりも純粋なキリスト教であるイングランド国教会以外はありえない。だから国家は国教会を優遇して援助しなければならない。アイルランド人にも彼らが好むと好まざるとに関わらず、唯一の真理である国教会を信仰させなければならない。教義の比較検討は、チャルマーズが言うような"細部"にあたるものではなく重要なことである。国家はその宗教的良心に照らし合わせて、各教義を比較検討し、真理と虚偽を峻別する義務を負っている。」と主張した。この本は保守派から好評を博したが、自由主義派からは一顧だにされなかった。保守党党首ながら自由主義的なところがあるピールも「こんな下らない本を書いていたら、彼は政治生命を台無しにしてしまうぞ」と述べて心配したという。 結婚. 1838年8月に再びイタリアを旅行し、ローマで(城主の妹)と知り合い、彼女と交際するようになった。グラッドストンは1839年1月3日の月夜にコロッセオ遺跡で彼女に告白したというが、彼女は返事をせず、その場を立ち去ってしまったという。すでに二回振られた過去があったグラッドストンは「またふられた」と思って意気消沈したが、後日キャサリンから「貴方の申し出を受けるにはもう少しお互いをよく知らなければなりません」という手紙が送られてきて、交際を継続できたという。 結局キャサリンがグラッドストンの求婚に応じたのはこの6カ月後の6月8日になってだった。その時の会話でキャサリンはグラッドストンがしばしば目上の者に対して使う「サー」という呼びかけは自分たちの階級では使わなくなっていることを指摘してくれたといい、これにグラッドストンは「自分の欠点を補ってくれる理想の女性が見つかった」と非常に喜んだという。 二人は1838年7月25日にハワーデン城で挙式した。キャサリンの兄サー・ステファン・グリン准男爵は病身で結婚しないまま没したため、後にハワーデン城はグラッドストン夫妻が相続し、夫妻はそこで暮らすようになる。 第二次ピール内閣商務庁副長官. メルバーン卿の議会における求心力は低下し続け、1841年6月4日には保守党提出の内閣不信任案が1票差で可決された。メルバーン卿はヴィクトリア女王に上奏してに打って出たが、保守党の勝利に終わった。グラッドストンもニューアーク選挙区から圧勝で再選した。メルバーン卿は召集された議会で敗北して総辞職し、代わってピールが組閣の大命を受け、が発足した。 グラッドストンはとしての入閣を希望したが、ピールはグラッドストンにその地位を与えたらアイルランド人に国教会を押し付けることに利用するだろうと見ていた。ピールはグラッドストンに神学論争から離れてほしがっており、そのためにも実際的な仕事をさせようとのポストを与えた。商務庁長官は貴族院議員リポン伯爵だったため、グラッドストンが庶民院における商務庁代表者となった。グラッドストンは財政には門外漢だったが、この役職に就任したのを機に急速に財政に関する知識を身に付け、その勤勉さでリポン伯爵よりも商務庁の政務に精通するようになった。やがてリポン伯爵を傀儡にして商務庁の経済政策を主導するようになった。 ピール内閣の経済政策は関税の引き下げによって殖産興業を促し、その間の一時的な減収は所得税を導入して補う事を基本としていた。そして関税引き下げの具体的内容は商務庁、つまりグラッドストンに一任された。グラッドストンは、与野党の意見を調整して、関税が定められている1200品目のうち750品目もの関税を廃止するか引き下げることに成功した。さらに彼は穀物法で保護されている小麦についてもただちに自由貿易に移行させようとしたが、ピール首相が保守党の支持基盤である地主(保護貿易主義者が多い)に配慮してブレーキをかけた。結局、小麦についてはスライド制にして段階的自由貿易を目指すことになった。この関税問題を通じてグラッドストンは庶民院で何度も演説することになったため、雄弁家として高く評価されるようになり、「小ピール」とあだ名されるようになったという。 第二次ピール内閣商務庁長官. 1843年5月に商務庁長官を辞任したリポン伯爵の跡を継いで、33歳にして商務庁長官に就任した(初入閣)。商務庁長官として様々な改革に携わった。 1844年には鉄道法改正を主導した。これによって各鉄道の三等客車の環境が大きく改善し(それまで三等客車は屋根がなかったり、貨物や家畜と一緒だったりすることが珍しくなかった)、また三等客車の数も増やされ、庶民が鉄道を利用しやすくなった。この鉄道法改正で導入された新しい三等客車は庶民から「議会列車」と呼ばれて親しまれたという。 続いて公共職業安定所を設置し、の荷揚げ人足が酒場から徴収される慣習を断ち切った(この慣習のせいでこれまで失業者はお金を工面して酒場で酒を飲んで酒場の店主に媚を売って仕事をまわしてもらわなければならなかった)。 1845年初めには更なる関税廃止改革を断行し、450品目もの関税を廃止した。 しかしこの直後の1845年2月3日に商務長官を辞職することになった。ピール首相がアイルランド議員懐柔のためにダブリンのカトリック聖職者養成学校への補助金を増額させようとしたことが彼の宗教的信念に反したためだった。グラッドストンはそれが避けられない政策であると理解していたが、著書『教会との関係における国家』がまだ出版中だったので言行不一致と批判されることを憂慮してのことだった。庶民院の演説で辞任理由について個人的な良心の問題であることを強調してなるべくピール首相に迷惑をかけない形で辞任した。 第二次ピール内閣陸軍・植民地大臣. ピール首相は様々な関税の引き下げ・撤廃を行ったが、地主への配慮から穀物法は温存していた。だが、1845年夏以降の不作により、ジャガイモを主食とする貧民が多いアイルランドがジャガイモ飢饉に陥ったことで事情がかわった。ピール首相は、アイルランドの食糧事情を改善するため、野党ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿と声を合わせて穀物法廃止を主張するようになった。 しかし保守党内には地主を中心に穀物自由貿易への反発が根強く、11月にピール内閣は閣内不一致で一度総辞職した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿が組閣の大命を受けるも組閣に失敗し、結局ピールが続投することになり、保護貿易主義者のスタンリー卿(後の第14代ダービー伯爵)とバクルー公爵を辞職させた自由貿易内閣を組閣した。 この際にグラッドストンは辞職したスタンリー卿の後任として陸軍・植民地大臣に就任した。当時のイギリスには途中から入閣した者は一度議員辞職して再選挙しなければならないという法律があったため、庶民院議員を辞職したが、ニューアーク選挙区を支配するニューカッスル公爵が保護貿易主義者であったため、ここでの再立候補を断念し、当面民間人閣僚となった。 穀物法をめぐる党分裂. ピールは穀物法廃止法案を提出したが、保守党内反ピール派の筆頭ベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿がピールを「イギリス農業を崩壊させようとしている党の裏切り者」と糾弾するキャンペーンを行ったため、保守党所属議員の三分の二以上の造反にあった。しかし野党であるホイッグ党とが支持に回ってくれたおかげで、無事庶民院を通過した。 しかし直後にホイッグ党は、ディズレーリやベンティンク卿ら保守党内反ピール派と連携して、ピールの提出したアイルランド強圧法案を1846年6月29日の庶民院で否決に追い込み、ピール内閣を総辞職に追い込んだ。 この一連の騒動でピールとピールを支持した自由貿易派の保守党議員112人は保守党を離党してピール派を結成することになった。グラッドストンもピールに従って保守党を離党した。 ピール派時代. 自由主義化. ピール内閣総辞職後、ホイッグ党のジョン・ラッセル卿内閣が発足したが、少数与党政権だったので、1847年6月にもとなった。この選挙でグラッドストンはから出馬して二位当選を果たした(以降1868年までこの選挙区から当選を続ける)。総選挙全体の結果はピール派が60名程度に減ったこと以外、改選前と大きな変化はなく、結局ラッセル内閣は議会の基盤が不安定だが、保守党が分裂しているために政権を維持できるという状態で政権運営を続けることになった。 グラッドストンは役職に就けなかった1846年から1852年に至る期間を「部分的中絶」期と呼んでいるが、彼にとってこの時期は経済政策以外も自由主義思想に近づいていく変化の時期であった。 まず変化したのは宗教に関する認識である。彼はなお国教会を国際キリスト教の中心と認識していたが、現実のイギリス社会では国教会は希薄化する一方だった。政府が国教会に特権を与えて国教会の優位を確保しようとしても、国教会は国の庇護に安住してしまい、内部分裂と弱体化を繰り返す一方だった。そこでグラッドストンは国教会から特権をはく奪して他の宗教・宗派との自由競争を促し、結果的に国教会を発展・強化させることを志向するようになったのである。 グラッドストンはその第一弾として1847年にユダヤ教徒の議会入りを禁じた法律の廃止に信教の自由の観点から賛成した。これはこれまでのグラッドストンの国教会絶対主義の立場から考えれば大きな変化に思われ、選挙区のオックスフォード大学の聖職者からも批判を受けた(1848年にグラッドストンがオックスフォード大学から法学博士号を送られた際に「ユダヤ法のな!」というヤジが飛んだという)。 またグラッドストンは1839年の阿片戦争に反対するなど、以前から弱小国イジメをキリスト教の精神に反する暴虐と看做して反対してきたが、自由主義化によってそれが一層顕著になった。1849年のをはじめとするパーマストン子爵外相の強硬外交を批判した。植民地に対する認識も植民地の自治・自弁を推進することで本国の出費を減らし、かつ大英帝国という緩やかな結合を維持してその威光を保とうという後年の小英国主義になっていった。 ただこの時点での彼は自分が自由主義者になったとは認識しておらず、保守党がその「悪弊」を改めたなら保守党へ戻るつもりでいたという。 両シチリア王国の自由主義者弾圧に怒り. 1850年秋、イタリア半島南部の両シチリア王国を外遊した。イタリア半島各国では1848年革命の影響で自由主義ナショナリズム運動・イタリア統一運動が盛んになっており、イタリア半島各国は王権を守るためにその弾圧にあたっていた。とりわけ両シチリア王国国王フェルディナンド2世の自由主義者弾圧は苛烈を極め、多くの政治犯が残虐な取扱いを受けていた。 ナポリの刑務所を訪問してそれを間近に見たグラッドストンは両シチリア王国の自由主義者弾圧を「神の否定」に相当する反キリスト教行為であると看做して激しい怒りを露わにし、その暴虐を訴える手紙をアバディーン伯爵(1850年のピールの死後にピール派党首になっていた)に書き送った。またイギリス政府に提出した外遊報告書にもその件のみを書きつづった。庶民院でも外相パーマストン子爵に対してその件について質疑を正した。しかしイギリス政府もアバディーン伯爵も重い腰を上げようとしなかったので、ついにグラッドストンはアバディーン伯爵へ書き送った手紙を出版した。保守主義者に保守主義の悪面を取り除く勇気を持たせようとした内容だったが、保守主義者からの評判は悪かった。 この一件でグラッドストンは「神の否定」に相当する暴虐を平気で容認する保守主義に失望した。彼の党派はいまだホイッグではなかったものの、その思想はますます自由主義に近づいていくこととなった。 ディズレーリとの初対決. 1851年末から1852年初頭にかけて与党ホイッグ党は首相ラッセルの派閥と外相を解任されたパーマストン卿の派閥に分裂した。1852年2月の議会においてラッセル内閣は、パーマストン卿派と野党保守党の連携によって倒閣された。代わって組閣の大命を受けた保守党党首ダービー伯爵はピール派に入閣交渉を持ちかけたが(この際にグラッドストンに外務大臣の地位が提示された)、グラッドストンを含むピール派は保守党がいまだ保護貿易主義を明確に放棄していない事を理由に入閣を拒否した。 結局ダービー伯爵は保守党議員のみで少数与党内閣を組閣した。この内閣に大蔵大臣として入閣したのはディズレーリであったが、この人事を聞いたグラッドストンは、妻への手紙の中で「私はこれ以上最悪の人選を聞いたことがない」と書いている。 ディズレーリはピールを失脚に追い込んだ張本人としてピール派の憎悪の的となっており、ディズレーリが作成する予算案を潰すことはピール派にとって弔い合戦だった。 ディズレーリは1852年12月3日の庶民院に予算案を提出したが、その内容は保護貿易主義と自由貿易主義の折衷をとったものだった。すなわち自由貿易で損害を被ったと主張している地主たちに税法上の優遇措置を与えつつ、その減収分は所得税と家屋税の免税点を下げることによって賄う内容だった。 地主優遇と所得税を嫌うグラッドストンにとっては断じて許せない内容であり、12月16日夜から翌日早朝までにかけての庶民院の総括討議においてディズレーリの予算案を徹底的に攻撃して論破した。この討論はこれから長きにわたって続く、グラッドストンとディズレーリの最初の対決となったが、最初の対決はグラッドストンに軍配があがった。グラッドストンの演説後に行われた午前4時の採決では保守党を除く全政党が反対票を投じ、ディズレーリの予算案は否決されたのである。 グラッドストンはこの勝利によって庶民院における指導的地位を確立した。 アバディーン内閣大蔵大臣. 上記予算案の否決によりダービー伯爵内閣は総辞職した。1852年12月28日、分裂状態の続くホイッグ党に代わって、ピール派党首アバディーン伯爵に組閣の大命があり、ピール派6人、ホイッグ党6人、急進派1人からなるが組閣された。グラッドストンも大蔵大臣として入閣した。 蔵相就任後、さっそくディズレーリの予算案に代わる新たな予算案作成にあたった。130品目の食品の関税を廃止しつつ、緊縮財政を守るため、その減収分を補う物として全ての動産・不動産に対して相続税を導入した(これまでの相続税は限嗣相続ではない動産のみにかかった)。一方グラッドストンが「働かないで得た財産収入と働いて得た労働収入を同列にしている」「脱税を招きやすく、国民道徳を衰退させる」として「最も不道徳な税金」と定義していた所得税は漸次減らしていき、7年後には全廃するとした(ただしそれまでの間はこれまで適用外とされていたアイルランドにも所得税を適用)。ディズレーリ予算案との最大の違いは地主に大きな負担を強いたことである。庶民院でのグラッドストンの予算案演説は、高く評価され、ジョン・ラッセル卿は「ミスター・ピットはその最盛期にはもっと堂々としていたかもしれませんが、その彼さえもグラッドストンほどの説得力はありませんでした」と女王に報告している。予算はほとんど無修正で庶民院を通過した。 1853年10月にロシア帝国とオスマン帝国の間でバルカン半島をめぐってクリミア戦争が勃発した。バルカン半島がロシアの手に落ちればイギリスの地中海における覇権が危機に晒される恐れがあったが、首相アバディーン伯爵は平和外交家として知られていたため、当初参戦に慎重な姿勢を示した。グラッドストンも当初は慎重派だった。 しかしフランス皇帝ナポレオン3世が英仏共同で対ロシア参戦しようとイギリスに誘いをかけてきたうえ、ホイッグ党のラッセルとパーマストン卿がともに対ロシア強硬派だったため、最終的にはイギリスも対ロシアで参戦することとなった。グラッドストンはキリスト教弾圧を止めないトルコを嫌っていたが、それを止めるという名目でバルカン半島侵略を目論むロシアも嫌っていたので参戦に積極的な反対はしなかった。ただ戦費を維持するために所得税漸次廃止が実現不可能になり、所得税を永久税とせざるをえなくなったことについては惜しんでいた。 クリミア戦争の戦況は泥沼化し、1855年1月には急進派の議員が前線の軍の状況を調べるための調査委員会の設置を要求する動議を提出した。このローバックの動議に反対する政府側の代表答弁はグラッドストンが行った。彼は戦時中にそのような調査を行う事はイギリスの弱点を敵国に教えるようなものであると訴えたが、この演説は功を奏せず、ディズレーリの糾弾演説の方が注目され、動議は305票対148票という大差で可決された。 この敗北を受けてアバディーン内閣は総辞職し、紆余曲折の末にホイッグ党のパーマストン子爵に組閣の大命がおりた。 パーマストン外交を批判. 1855年2月8日、が成立した。ピール派も同内閣に入閣し、グラッドストンは引き続き大蔵大臣を務めることになった。しかし組閣後まもなくパーマストン卿がローバックの調査委員会設置の動議に応じたため、これを不服としたグラッドストンは、ピール派の一部閣僚を連れて内閣を離れた。パーマストン内閣成立からわずか2 - 3週間後ぐらいのことであった。 クリミア戦争はロシアとナポレオン3世の継戦意欲が弱まったことで、1856年3月30日にパリ条約締結をもって終戦した。 しかしナポレオン3世と結託してのパーマストン子爵の強硬外交は続いた。1856年にはアロー号事件を契機としてフランスとともに清に対してアロー戦争を開始した。この戦争を批判するリチャード・コブデン議員提出の動議が保守党やピール派、急進派の賛成で可決された。グラッドストンも賛成票を投じた。これに対してパーマストン子爵はに打って出た。総選挙の結果、党派に関係なくパーマストン子爵を支持する議員が大勝した。グラッドストンは再選したものの、コブデンら強硬な戦争反対論者はほとんど全員落選した。 また同時期にパーマストン子爵はナポレオン3世と共同でスエズ運河建設にあたったが、これに対してもグラッドストンはフランス以外の国からも支持を得て行わなければならないとして慎重姿勢を示した。 パーマストン子爵の強硬外交は功を奏し続けたため、野党も攻めあぐねていた。その状況が変化したのは、1858年1月に起こったイギリス亡命中のイタリア・ナショナリストフェリーチェ・オルシーニによるナポレオン3世暗殺未遂事件だった。この事件後フランス外相アレクサンドル・ヴァレフスキからの要請でパーマストン卿は、殺人共謀を重罪化する法案を提出したが、この法案は「フランスへの媚び売り法案」として世論の批判に晒された。庶民院でも議員から法案の修正案が提出された。グラッドストンもパーマストン卿の法案について「抑圧的法律の外へ安全を求める人々に対する道徳的共犯となる」と論じ、ギブソンの修正案に賛成した。修正案は16票差で可決され、パーマストン子爵内閣は総辞職した。 『ホメーロスとその時代』. 第一次パーマストン内閣期の野党時代にグラッドストンは古代ギリシアの詩人ホメーロスの研究に打ち込んだ。その成果は1858年3月にオックスフォード大学から出版された著書『ホメーロスとその時代』(全3巻)にまとめられた。 この著作はホメーロスの著作にはキリスト教の萌芽が見られると主張するものだった(たとえばゼウス・ポセイドン・ハーデスはキリスト教の三位一体にあたると主張している)。しかし一般的にはこの著作は荒唐無稽と評価された。 グラッドストンがこの本の出版を決意したのはギリシャ正教会とイングランド国教会の統一を希望していたためであるといわれる。 古代ギリシャやホメーロスはグラッドストンが生涯を通じて興味を持っていた分野であり、この後もしばしばこの分野の本を出版する。 自由党時代. 自由党の結成. 総辞職したパーマストン子爵内閣の後を受けて、1858年2月25日には保守党政権の第二次ダービー伯爵内閣が成立した。 1859年3月に大蔵大臣・庶民院院内総務ディズレーリが庶民院に提出した選挙法改正法案が否決されたことでとなり、保守党があと少しで過半数を獲得できるところまで議席を伸ばした。これに対する野党の危機感とイタリア統一戦争の勃発による自由主義ナショナリズムの盛り上がりを背景にホイッグ党の二大派閥(ジョン・ラッセル卿派とパーマストン子爵派)、ジョン・ブライト率いる急進派、ピール派が合同して自由党が結成された。 これによりグラッドストンも自由党議員となった。ダービー伯爵政権は少数与党政権なので野党が一つに団結すれば政権は維持できず、1859年5月にも自由党から内閣不信任案を突き付けられて内閣総辞職に追い込まれた。グラッドストンは自由党議員でありながらこの不信任案に反対票を投じた。グラッドストンは自由党を率いるパーマストン子爵と(保守党の大部分を占める親オーストリア派を排除した)保守党少数派を率いるダービー伯爵による連立政権を希望していたためといわれる。 第二次パーマストン内閣大蔵大臣. 1859年6月、自由党政権の第二次パーマストン子爵内閣が成立し、グラッドストンも大蔵大臣として入閣した。しかしグラッドストンはこれまでパーマストン子爵の強硬外交を散々批判してきたから、その内閣に入ることは言行不一致として世論から批判を集めた。それについてグラッドストンはイタリア統一問題でパーマストン子爵と見解が一致し、また現下ではイタリア問題が最も重要であるため入閣を決意したと述べた。 イタリア統一戦争と続くジュゼッペ・ガリバルディ軍による両シチリア王国侵攻の結果、教皇領以外のイタリア領はイタリア王国に統一された。これについてグラッドストンは「神の否定に相当する暴虐を行う絶対君主制国家群が滅び、イギリス型立憲君主制国家に統一された」として歓迎した。 イタリア情勢が落ち着くとグラッドストンは自由貿易強化に乗り出した。リチャード・コブデンを使者にしてフランス皇帝ナポレオン3世と交渉にあたり、1860年1月にの締結にこぎつけた。この条約によりイギリスはフランス工業製品の関税を廃止し、またブランデーやワインの関税も引き下げた。フランス側もイギリスの鉄鋼製品や綿製品の関税を引き下げるとともにイギリスに最恵国待遇を与えた。これによってイギリスの対仏輸出は2倍になり、イギリス産業界は大きな利益をあげた。 グラッドストンはフランス製品以外の関税も一掃するつもりだった。1860年当時419品目ほど残されていた関税は、この年のうちに48品目を除いてすべて廃止された。これによりイギリス国内の物価は低下していった。 また自由主義者から「知識に対する税」と批判されていた紙税を廃止した。これによって書籍や新聞の値段は下がり、庶民の手に届く価格になった。紙税は危険思想拡散防止の効果ありとして保守派が熱烈に支持してきたが、グラッドストンはそれとは逆に紙税の存在が大衆を無知化させ、参政権を与えることが危険な存在にしてしまっていると考え、紙税の廃止が「大衆の道徳的参政」になると考えていた。 関税と紙税廃止による一時的な減収はグラッドストンが嫌う所得税の増税によって賄わざるをえなかったが、これも関税廃止による経済発展で歳入が増加したことにともなって徐々に減らしていくことができた。 1865年7月のでは保守的なオックスフォード大学選挙区が、すっかり自由主義化したグラッドストンを落選させた。グラッドストンは代わりにから出馬し、こちらで当選を果たした。総選挙全体の結果は自由党の勝利に終わった。 第二次ラッセル内閣庶民院院内総務. 1865年10月に首相パーマストン子爵が死去し、代わって外相ラッセル伯爵(ジョン・ラッセル卿。1861年に叙爵)が組閣の大命を受け、第二次ラッセル伯爵内閣が成立した。グラッドストンは大蔵大臣に留任するとともに、庶民院院内総務を兼務して庶民院自由党議員を率いることになった。 折しも1860年代から選挙権拡大を求める世論が強まっていた。ラッセル伯爵は、労働者層への選挙権拡大に反対したパーマストン子爵の死去を好機として選挙法改正に乗り出した。庶民院院内総務であるグラッドストンがそれを主導することとなった。グラッドストンはかねてから自助を確立している熟練工に選挙権を認めないのは「道徳的罪悪」であると評していた。グラッドストンは現行の年価値50ポンドの不動産所有という州選挙区の有権者資格を19ポンドにまで引き下げ、また都市選挙区の方も現行の年価値10ポンドから7ポンドに引き下げ、加えて年価値10ポンド以上の家屋の間借り人も有権者とすることで労働者階級の上部である熟練工に選挙権を広げようとした。 この選挙法改正法案は1866年3月に議会に提出された。しかしこの時の議会はパーマストン子爵派が大勝をおさめた選挙の議会であるため、全体的に選挙法改正に慎重な空気だった。熟練工はすでに体制的存在となっていたので、彼らに選挙権を認めること自体には自由党にも保守党にもそれほど強い反対はなかった。ただ安易に数字を引き下げていくやり方は、何度も切り下げが繰り返されるきっかけとなり、やがて「無知蒙昧」な貧しい労働者にまで選挙権を与えることになるのではないか、という不安が議会の中では強かった。「普通選挙→デマゴーグ・衆愚政治→ナポレオン3世の独裁」という議会政治崩壊の直近の事例もあるだけに尚更だった。そうした憂慮からをはじめ自由党議員からも造反者が出た。1866年6月にグラッドストンの選挙法改正法案は第二読会を5票差という僅差で通過したものの、提案の法案修正動議が自由党造反議員46人の賛成を得て11票の僅差で可決されたことで法案は議会で敗北した。 この敗北によりラッセル伯爵内閣は自由党分裂を避けるために解散総選挙を断念して総辞職した。 選挙法改正挫折に対する国民の反発は大きく、トラファルガー広場やハイド・パークで大規模抗議デモが行われる事態となった。グラッドストンはにわかに選挙法改正を目指した英雄として持ちあげられるようになり、総辞職が発表された翌日にはグラッドストン邸の前に激励の民衆が1万人以上も駆け付けた。 ディズレーリの第二次選挙法改正をめぐって. 1866年3月、保守党政権の第三次ダービー伯爵内閣が成立した。しかし自由党急進派ジョン・ブライト議員が遊説で煽ったこともあって選挙法改正を求める民衆運動はますます激しくなっていた。過激化していく民衆運動を恐れたダービー伯爵政権は選挙法改正を決意し、庶民院院内総務ディズレーリの主導のもとに選挙法改正法案を作成し、3月18日の庶民院に提出した。 同改正案は都市選挙区について戸主選挙権制度をベースとしつつ、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった。先のグラッドストン案と違い、切り下げが繰り返されるのではという議会の不安を払拭した点では優れたものであった。 しかしグラッドストンが考えるところ、この法案そのままでは有権者数は14万人しか増えないし、また恐らく委員会における審議の中で法案に付けられている条件はほとんど撤廃されてしまうと予想し、結果的に「無知蒙昧」な下層労働者にまで選挙権が広がることを懸念した。そこで彼はこの法案に付けられているような条件はいらないが、代わりに地方税納税額5ポンド以上という条件を付けるべきと主張した。 グラッドストンは第二読会においてディズレーリの改正法案を激しく批判し、自らの地方税納税額5ポンド条件の方が有権者数が増えることを力説した。だがディズレーリは「(グラッドストンは)一方では法案の資格制限の撤廃を主張しながら、一方では5ポンド地方税納税という別の資格制限を加えようとしている」と根本的な矛盾を指摘して彼をやり込めた。 法案は3月26日の第二読会を採決なしで通過した。グラッドストンはこれに対抗して4月11日に地方税納税額5ポンドを条件とする修正案を議会に提出したが、採決において自由党議員から造反者が多数出て310票対289票で否決された(自由党議員のうち40名造反、20名棄権)。グラッドストンが党内情勢を読み間違えたのは、自由党議員がグラッドストンの権威を恐れて彼の前でははっきりと自分の意見を口にしなかったためである。この敗北にグラッドストンは自由党庶民院院内総務を辞職することも考えたが、周囲に慰留されて思いとどまった。 一方ディズレーリの改正法案は、グラッドストンの予想通り、委員会の審議において、ディズレーリがジョン・ブライトら自由党急進派に譲歩を重ねて条件を次々に廃していった結果、事実上単なる戸主選挙権法案と化し、グラッドストン案よりも有権者数が大幅に増える内容となった。とりわけ直接納税の条件まで廃したことにグラッドストンは驚き、ディズレーリを「ミステリーマン」と評した。戸主といってもその中には貧相な住居を所有する貧困層も含まれるので、グラッドストンはやはり納税額の資格を設けたがっていた。しかし彼は先の修正案で敗北を喫したため、法案審議の最終局面への参加は見合わせており、彼を無視してディズレーリと自由党急進派で話が進められることとなった。改正案は6月15日に第三読会を通過し、貴族院も通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第二次選挙法改正が達成された。 ディズレーリには今後も保守党が政局を主導するために何が何でも保守党政権下で選挙法改正を達成したいという政局の目論見があった。そのため選挙法改正の真の功労者はやはりグラッドストンであるとする世論が根強く、後にディズレーリがこの選挙法改正で選挙権を得た新有権者に向かって「私が貴方達に選挙権を与えた」と述べた際に新有権者たちは「サンキュー、ミスター・グラッドストン」というヤジを飛ばしたといわれる。 自由党党首に就任. 1867年12月に自由党党首ラッセル伯爵が76歳の高齢を理由に党首職を辞した。当時首相を務めないと党首を名乗れない慣習があったので、正式な就任ではないが、実質的にグラッドストンが党首となった。 この頃、アイルランド独立を目指す秘密結社フェニアンの暴動がイングランドで多発していた。アイルランド問題の解決が政治の緊急の課題となり、グラッドストンはアイルランド国教会の廃止、アイルランド教会の国教会からの分離を党の目玉公約とすることを決定した。 30年前の著書『教会との関係における国家』の中でアイルランド人がどう思おうが、国教会が唯一の真理なので押し付けるべきと主張していた彼が自由主義化の果てにとうとうこのような結論に達したのだった。 アイルランド国教会廃止を公約. 1868年2月には首相ダービー伯爵が退任し、ベンジャミン・ディズレーリが後継の首相となった。選挙法改正を成功させたディズレーリだが、保守党が少数与党なのは相変わらずであり、また選挙法改正で生じた自由党内の亀裂も修復されていったので、ディズレーリ政権は不安定なままだった。そのため解散総選挙は近いと予想された。 3月にグラッドストンは「アイルランド国教会廃止法案の準備を今会期で開始し、次会期に法案を提出すべき」とする決議案を議会に提出した。これによってこの会期と来る総選挙の最大の争点はアイルランド問題となった。アイルランド国教会廃止は自由党内でも賛否両論あり、党内の結束力を高める効果があるかは微妙だったが、与党保守党の方がより意見の相違があったので、ディズレーリ内閣を閣内不一致に追い込むのには効果的だった。この決議案の採択をめぐってグラッドストンは今度こそ党内造反議員を出すまいと団結を強く訴えた。その結果この決議案は5月1日に可決された。 本来ならここで解散総選挙か総辞職だが、この時点で総選挙をすると旧選挙法による選挙となり、世論の反発を買う恐れが高かったため、ディズレーリはしばらく解散なしで政権を延命させようとした。解散を振りかざすことで閣内からの総辞職要求や自由党の内閣不信任案提出を牽制した。これについてグラッドストンは議会で議決された決議案の実施を解散権をちらつかせて阻止しようとするとは何事と批判した。しかし自由党内も歩調はあっておらず、結局グラッドストンは内閣不信任案提出を避けた。 7月31日に議会は閉会し、11月に総選挙が行われることとなった。総選挙の最大の争点となったのはやはりアイルランド国教会問題だった。グラッドストンは国教会信徒がほとんどいないアイルランドに国教会を置くことの無意味さを熱弁した。自由党はアイルランド、スコットランド、ウェールズなどで優勢に選挙戦を進め、選挙の結果、112議席の多数を得る勝利を収めた。グラッドストン本人ははじめランカシャー選挙区に出馬したが、ここは国教会が強いので落選し、代わってに鞍替えして無競争で当選を果たしている。 この選挙結果を受けてディズレーリ内閣は新議会招集を待たず12月2日に総辞職した。 第一次グラッドストン内閣. 1868年12月1日、59歳の誕生日を目前にしたグラッドストンがハワーデン城で木を伐採していた時、女王の近臣であるがそちらへ向かうという電報が彼の下に届けられた。それを読んだグラッドストンは「非常に重大だ」と一言だけ述べ、木の伐採に戻ったという。その翌日にグレイ将軍が到着し、ウィンザー城への参内を求める勅書をグラッドストンに手渡した。グラッドストンはただちにウィンザー城へ向かい、12月3日に女王の引見を受けた。そこで組閣の大命を受けたグラッドストンはこれを拝受し、第一次グラッドストン内閣を組閣した。 アイルランド国教会廃止. 1869年2月に新議会が招集された。グラッドストンは早速アイルランド国教会廃止法案を庶民院に提出した。自由党はアイルランド国教会問題を争点にして総選挙に勝利したのだから、庶民院でこの法案を止められる者はなく、法案は100票以上の大差をもって各読会を通過した。 問題は保守党が恒常的に多数を占める貴族院だった。さすがに総選挙で勝利した法案に表立って逆らうのは貴族院でも難しい情勢だったが、それでも貴族院(とりわけ利害関係のある聖職者議員)は条件闘争を行い、教会の財産問題をめぐって何度も庶民院への差し戻しを行った。だがジョン・ブライトが「貴族院がいつまでも頑固な態度を続けるなら、彼らは不利な立場に追いやられるかもしれない」と貴族院改革を臭わせる脅迫を行ったのが功を奏して、決定的な修正をされることなく、1871年になって法案は貴族院を通過した。 この法案の成立によりアイルランド国教会は公的地位を喪失して自由教会となった。アイルランド人が教会税を納める必要もなくなった。また国教会の残余財産900万ポンドは国教会廃止により損害を被った者への補償に充てることとなった。 アイルランド小作農への補償制度. 当時のアイルランドは、イングランド産業を害さないように農業以外の産業が育たないよう法律で様々な規制がかけられており、ほぼ農業のみで成り立っていたが、アイルランド農地のほとんどは17世紀の清教徒革命以来、イングランド人のの所有であり、アイルランド人はその下で高い地代を支払う小作農として働き、貧しい生活を余儀なくされていた。アイルランド人小作人が土地に付加価値(開墾して新田を作ったり、小屋を建設するなど)を付けると、不在地主は土地の価値が上がったとして地代を吊り上げ、小作人が地代支払い不能になると、それを理由に小作人を土地から追いだし、残された土地の付加価値は不在地主がただで手に入れるということが横行していた。 グラッドストンはこの問題にも切りこみ、1870年2月にアイルランド土地改革法案を提出した。この法案は地主の抵抗に遭いながらも、保守党党首ディズレーリがこの法案を対決法案としなかったこともあって、法案は決定的な修正がされることなく通過した。 この法律により地主が小作人から理由なく土地を取り上げた場合には地主は小作人に法定の地代相当額を補償金として支払わねばならなくなった。また地代未納を理由とする強制立ち退きの場合であっても裁判所が「地代が法外」と認定した場合には補償の対象となった。また小作人が土地に付加した価値の補償も義務付けたが、これについては強制立ち退きの理由の有無を問わないものとされた。 だが地代未納を理由とした強制立ち退きの際の「法外な地代」に相当するかどうかの裁判所の判定は地主寄りになりやすく、また小作人が土地に付加した価値への補償についても地主は予め小作人との契約でその分の金額を徴収するようになり、支払わないケースが一般的になった。したがってこの法律はほとんど「ざる法」に終わった。 小学校教育の普及. 当時のイギリスにはまだ義務教育制度がなく、4割ほどの国民が小学校も出ていなかった。初等教育の内容も著しく不十分だったので、残りの6割の中でも小学校しか出ていない者は知識が乏しかった。初等教育においてイギリスは、プロイセン王国他ドイツ諸国やアメリカに先んじられていた。欧米型近代国家に生まれ変わるのが遅れた日本でも明治5年(1872年)には学制発布で義務教育制度の基礎が置かれたことを考えると、イギリスは欧米諸国としては義務教育制度導入が非常に遅れた国といえる。 普仏戦争のプロイセンの勝利やアメリカ南北戦争の北軍の勝利はプロイセンやアメリカ北部の初等教育の充実のためと主張されていた。また第二次選挙法改正で選挙権が労働者層上層部(熟練工)まで拡大している今、初等教育を充実させることは急務であるという意見も根強くなっていた。しかしそれでもなお義務教育導入はイギリスでは意見が分かれる問題だった。特に非国教徒は義務教育で国教会信仰の押し付けが行われることを恐れており、義務教育導入に反対する者が多かった。 グラッドストンはそうした反対を押し切ってでも義務教育を導入することを決意し、内閣で教育を所管している枢密院副議長(急進派)に主導させてを作成した。この法案は1870年に議会に提出され、急進派や非国教徒の激しい反発に遭いながらも、保守党の一部議員の賛成を得ることができ、なんとか両院を通過した。 この法律により「既存の学校は私立学校として宗教教育を自由にやってよいが、父兄から反対があった時はその子弟に対しては宗教教育をしてはならない」「学校がない地区には教育委員会の監督下に公立学校を設置・運営する。公立学校では特定宗派を引き立てる教育はしてはならない」「義務教育にするかどうかは各地区の教育委員会の判断にゆだねる」ことが定められた。 急進派であるフォースターはもともと既存の学校を全て買収して無宗教公立学校に変えたがっていたが、それは熱心な国教徒であるグラッドストンが許さなかったため、この辺りが落とし所となった。しかし急進派や非国教徒の不満はくすぶり続け、自由党内に埋めがたい亀裂が生じ、1875年の総選挙の惨敗につながることになる。 軍隊・官僚制度の改革. 1870年には外務省を除く全省庁で採用試験制度を導入した。これによって官僚の中心は貴族から高学歴エリート(当時は大学の門が狭かったので大卒者も結局貴族が多かったが)へと変貌していった。外務省だけ除かれたのは外相クラレンドン伯爵が強硬に反対したためだった。 またグラッドストンは、普仏戦争に圧勝したプロイセン軍を見て、軍隊改革の必要性も感じていた。当時のイギリス軍では将校の階級を買い取ることができ、貴族が次男・三男の就職先としてよく購入していた。この制度のせいで軍の能率が悪くなっていると感じたグラッドストンはこの制度を廃止する決意を固めた。陸相カードウェルがこれを陸軍統制法案として議会に提出したが、貴族や軍人の保守党議員、また自由党ホイッグ派(貴族が多い)が激しく反発し、議事妨害さえ行った。結局法案は庶民院は通過したものの、貴族院で否決された。 グラッドストンは将校階級買い取り制度の法的根拠がジョージ3世の勅令だったことを利用して、ヴィクトリア女王を説得して、彼女の勅令をもって強引にこの制度を廃止した。これに対して野党保守党党首ディズレーリは「政府が窮境を免れるために女王陛下の勅令を利用するとは非立憲的である」と批判したが、この点は党内の急進派からも批判され、党内の亀裂が広がった。 秘密投票制度の確立. 当時のイギリスの選挙投票は口頭で公開式に行われたので、有力者に脅迫されて有権者の投票行動が操られることが多かった。そのため秘密投票制度への移行を求める議論もあったが、一方で秘密投票反対論も根強かった。というのも当時一般に選挙権は「国民の権利」ではなく貴族と中産階級だけに許された「特権」と認識されており、特権階級が特権(=責任)を秘密裏に行使することは論理的に問題があると考えられたからである。 だがグラッドストンは労働者上層まで選挙権を得た今、彼らが雇用主に脅迫されて投票を縛られることがないよう秘密投票に変更すべきと考えており、1871年に秘密投票法案を議会に提出した。法案は庶民院を通過したものの、保守党が多数の貴族院に審議不十分として差し戻された。しかし解散をちらつかせて、保守党を脅迫したことで(彼らは自由党政権の支持率回復の恐れがあるこの法案での解散総選挙をしたくなかった)、翌1872年に秘密投票法案を可決させることに成功した。 秘密投票制度の確立によって、とりわけアイルランド農民が地主に投票行動を操られなくなり、アイルランド国民党が庶民院に進出してくるきっかけとなった。 労働組合法. イギリスでは1825年に「賃金・労働時間について、暴力や脅迫を用いずに平和的に雇用主と交渉する労働組合」については合法化されていた。これに該当するか否かの判断は裁判所の裁量に任されており、裁判所ははじめ労働組合寄りの判決を出してきたが、労働組合が成長してきた1860年代から労働組合を抑えこもうと雇用主寄りの判決を出すことが多くなった。これに労働者上層部の不満が高まっていた。 これに対応してグラッドストンは1871年に労働組合法を制定し、賃金と労働時間の交渉だけでなく、どんな目的の交渉であっても労働組合がストライキを行うことは合法とした。ただしピケッティング(スト破り防止)の活動は禁止した。そのためストライキがスト破りによって骨抜きにされてしまう危険をはらんだままだった。 ピケッティングは後にディズレーリ政権下で合法化されることになる。 ドイツとロシアの脅威. 一方ヨーロッパ大陸では、皇帝ナポレオン3世率いるフランス帝国と「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルク率いるプロイセン王国の緊張が高まっていた。軍拡が戦争の元凶という持論があったグラッドストンは1869年に両国に対して軍備縮小を提案した。しかしこの提案は対仏戦争を欲していたビスマルクによって阻止された。 1870年7月に普仏戦争が勃発した。グラッドストンはこの戦争にあたってロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国と連絡を取り合い、中立の立場をとることを確認しあった。また外相グランヴィル伯爵(死去したクラレンドン伯爵の後任)が普仏両国に対してベルギーの中立を守るよう要請した。 この戦争に敗れたフランスは第二帝政が崩壊して、第三共和政へ移行して弱体化した。一方勝利したプロイセンはドイツ統一を達成して強力なドイツ帝国を樹立するに至った。グラッドストンはプロイセンがフランス領アルザス・ロレーヌ地方を併合したことをキリスト教の精神に反する「貪欲 (Greed)」と看做して強く反発した。外相グランヴィル伯爵が「もう手遅れだ」といって止めるのも聞かず、ビスマルクに手紙を送って「罪深い『貪欲』の発揮をただちに止め、アルザス=ロレーヌ地域を中立化せよ」と要求した。しかしビスマルクは「グラッドストン教授」と呼んで馬鹿にし、相手にしなかった。 さらに普仏戦争でプロイセンに好意的中立の立場をとったロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフもプロイセン勝利に乗じる形でパリ条約の黒海艦隊保有禁止条項の破棄を一方的に各国に通告した。これによりイギリスの地中海覇権がロシアに脅かされる恐れが出てきた。グラッドストンは「一方的な行為によって締結国の同意もなく、条約上の義務から免れてはいけない」と主張して、国際会議を提唱し、1870年12月からロンドン会議が開催された。会議自体はドイツの支持を得たロシアの主張が認められるという結果に終わったが、この会議により「全ての締結国が同意しない限り、いかなる国も条約上の義務を免れたり、条約の条項を修正することはできない」とする国際法の原則が確立された。 アラバマ号事件. アメリカ南北戦争中、南軍がイギリスで建造した偽装巡洋艦アラバマ号が、2年にわたって大西洋上で北軍の船を攻撃した。これについて戦後アメリカ大統領ユリシーズ・グラントは、をはじめとする偽装巡洋艦はすべてイギリスで建造された物であり、イギリスの港から出撃し、その操縦員はイギリス人であることが多かった点を指摘し、イギリスに賠償を要求した。 これに対してグラッドストンは1872年に保守党のスタッフォード・ノースコートとオックスフォード大学国際法教授をアメリカ首都ワシントンに派遣し、交渉に当たらせた。その結果、イギリス政府は賠償金を支払うことになったが、その金額はアメリカ政府が初めに要求した額の三分の一に減じることができた。 国際道理上、アラバマ号の与えた損害は、イギリスが賠償すべきものであり、それを三分の一まで減額できたことはイギリス外交の勝利といえたが、国内世論はこれを外交的失態と看做す論調が多く、グラッドストン批判が強まった。 アイルランド大学改革に失敗. 当時のアイルランドの最高教育機関はダブリンにあるトリニティ・カレッジであったが、この大学は国教会が監督しており、国教会教育が行われていたため、アイルランドで多数を占めるカトリックは入学したがらなかった。他は無宗教の大学があるのみでカトリックにとっては事実上大学がない状態であり、アイルランドにカトリック大学を創設してほしいという要望が高まっていた。 これを受けてグラッドストンは1873年にアイルランド大学改革法案を議会に提出した。この法案は、ダブリンに中央大学(ユニバーシティ)を創設し、その下に国教会のトレニティ・カレッジも含めて各宗派のカレッジを設置し、カレッジごとにそれぞれの信仰に基づいた教育を行わせるとしていた。各カレッジの学生はユニバーシティの講義も受ける必要があるが、そこでの講義は宗派で意見が分かれそうな教科(神学、論理学、近代史学)は取り扱わないものとしていた。 グラッドストンとしては各宗派に配慮した折衷案のつもりであったのだが、逆に各宗派いずれからも反発を買った。枢機卿をはじめとするアイルランド・カトリックは、ユニバーシティ理事会がカトリックのカレッジの教授の任命権を握ることを憂慮し、独立したカトリック大学の創設を求めて、この法案に反対した。非国教徒はカトリックにまで補助金を出す必要はないとして反対した。国教徒は歴史あるトリニティ・カレッジを勝手に再編することに反対した。 このような状況だったから自由党内のアイルランド議員や一部急進派が造反し、法案は3月12日の第二読会でわずか3票差で否決された。 権威の低下. アイルランド大学法案の否決を受けてグラッドストンは総辞職を表明した。これを受けてヴィクトリア女王は保守党党首ディズレーリに組閣の大命を与えたが、総選挙を経ず少数党のまま政権に付きたくなかったディズレーリは拝辞した。これに対してグラッドストンは内閣への信任決議相当の政府法案が否決された場合には、野党第一党は後継として組閣するのが義務であると述べてディズレーリの態度を批判した。 結局グラッドストンが首相に留任したが、その間も自由党はますます分裂した。ホイッグ派は先の軍隊・官僚制度の改革に不満を高めており、一方急進派は初等教育法や労働組合法の不十分に不満を持っていた。グラッドストンの権威は日に日に弱まり、1873年8月にはマッチ税導入の失敗の責めを負って大蔵大臣が辞職したが、後任が決まらずグラッドストンが大蔵大臣を兼務している。党の内部分裂の深刻さから、そのうち他の閣僚からも辞職者が出るだろうと噂された。 一方ディズレーリは、グラッドストンの「弱腰外交」を批判して国民の愛国心を煽り、総選挙に備えていた。 総選挙惨敗、退陣. グラッドストンは財政が黒字になっていたことから念願の所得税廃止に乗り出そうとしたが、閣内から所得税を廃止できるほど十分な黒字ではないとの反論を受けた。反対閣僚たちは総選挙で有権者の信任を得ない限り、自分たちの省庁は予算削減には応じないという態度を取った。これに対してグラッドストンは1874年1月23日に「自由党の復活を国民に問う」として解散総選挙を発表した。閣内不一致の件は秘匿されていたため、世間には突然の解散総選挙のように見え、与党議員さえも仰天したという。 選挙戦中、グラッドストンは所得税廃止をスローガンにしたが、党勢はふるわなかった。自由党の分裂状態に加え、自由党の支持基盤の一つであるアイルランド有権者が秘密投票制度の確立によって自由党ではなくを支持するようになったためである。 1874年2月に行われたの結果は、自由党254議席、保守党350議席、アイルランド国民党57議席だった。この敗北を受けてグラッドストンはディズレーリ前内閣に倣って新議会招集を待たずに総辞職した。ディズレーリが組閣の大命を受け、第二次ディズレーリ内閣が発足した。 自由党党首引退. すでに64歳だったグラッドストンは、自由党党首も辞職して政界引退を考えていた。貴族院自由党の指導者グランヴィル伯爵ら党幹部から慰留されたが、グラッドストンの決心は固かった。 首相退任から1年弱の1875年1月に正式に自由党党首職をハーティントン侯爵に譲り、グラッドストンは一自由党議員に戻った。しかしハーティントン侯爵よりもはるかに権威があるグラッドストンは、GOM(Grand Old Man、大老人)と呼ばれて畏敬されていた。 反トルコ運動を主導. 当時バルカン半島はイスラム教国オスマン帝国の統治下にあり、キリスト教徒スラブ人に対して重い特別税が課されるなど圧政が行われていた。1875年7月にはヘルツェゴビナとボスニアのスラブ人がトルコに対して蜂起した。この蜂起で汎スラブ主義が高まり、1876年4月にはブルガリアのスラブ人も蜂起し、続いて同年6月にはトルコ宗主権下のスラブ人自治国セルビア公国とモンテネグロ公国がトルコに宣戦布告した。最大のスラブ人国家ロシアも資金と義勇兵を送ることでこの一連のスラブ人蜂起を支援した。これに対抗してトルコ軍はブルガリアで1万2000人を超える老若男女を大量虐殺した。 1876年6月23日付けの『デイリー・ニューズ』がこの虐殺を報道したことでイギリス世論はトルコに対して急速に硬化した。ディズレーリ首相は、バルカン半島がロシアの手に堕ちることでイギリスの地中海の覇権が失われることを恐れており、終始親トルコ的態度をとったが、彼のそのような態度は世論の激しい批判を集めた。 グラッドストンは以前よりバルカン半島問題について「トルコがこれ以上暴政を続ける事も、ロシアがスラブ人自治を装って支配することも『貪欲(Greed)』であるから許されない。ヨーロッパ各国の監視の下に本当の意味でのスラブ人自治を達成しなければならない」という見解を示していた。ハワーデン城で半ば引退した生活を送っていたグラッドストンだったが、クリミア戦争の頃から閣僚だった政治家としてバルカン半島を救う責任を感じて政治活動を再開した。 早速反トルコ・パンフレット『ブルガリアの恐怖と東方問題』の執筆を開始し、9月6日にこれを出版した。グラッドストンはその中で「人類の中でも反人間の最たる見本がトルコ人だ。我が国の凶悪犯、あるいは南海の食人種でさえも、トルコ人がブルガリアで犯した虐殺を聞いて戦慄しない者はいないだろう。我々が取るべき道は、トルコ人の悪行と手を切り、バルカン半島からトルコ人を追い出すことだ。」と主張した。このパンフレットは9月末までに24万部を売りきっている。 グラッドストンは反トルコ運動の象徴的人物となり、イギリス中の反トルコ論者がハワーデン詣し、そこでグラッドストンからブルガリアで行われている虐殺についての講義を受けた。グラッドストンの地元であるリヴァプールでは特に反トルコ機運が盛り上がり、シェークスピアの『オセロ』の上演で「トルコ人は溺死した」というセリフが出るや、観客が総立ちになり、拍手喝采に包まれたという。 露土戦争をめぐって. セルビアが敗北するとロシアは危機感を強め、1877年4月にトルコに宣戦布告して露土戦争を開始した。しかしロシア軍の侵攻はプレヴェンでトルコ軍によって5か月も阻まれた。 この間、イギリスの国内世論もだんだんトルコに同情的になっていった。だがグラッドストンの反トルコの立場は揺らがず、1877年5月には「トルコを支援しないこと、バルカン半島諸民族の独立を支援すること、ヨーロッパ列強が足並みをそろえてトルコに圧力をかけること」を求める動議を議会に提出したが、反応はよくなかった。自由党党首ハーティントン侯爵は自由党議員全員にこの動議に賛成させたものの、彼も内心では「グラッドストンは反トルコ思想の行きすぎでロシアの侵略的な野望に盲目になり過ぎている」と考えていた。結局この動議は与党保守党の反対で否決されている。世論のグラッドストンへの反感も強まり、「ロシアの手先」と罵られて、家に投石を受ける事件も発生した。 ロシアは英国が参戦してくる前にトルコにサン・ステファノ条約を締結させた。この条約でエーゲ海まで届く範囲でロシア衛星国大ブルガリア公国が樹立された。ディズレーリはこれに反発し、英露関係が緊張する中、1878年6月にベルリン会議が開催された。会議にはディズレーリ自らが出席して強硬な姿勢を貫いた結果、大ブルガリア公国は分割され、ロシアのエーゲ海進出は防がれた。この外交的成功でディズレーリの名声は高まった。このベルリン条約の批准が議会にかけられた際、グラッドストンはギリシャの要求を無視したものであること、また女王大権を利用して議会に諮らず独断で結んだ条約であることを批判する動議を提出したが、この動議は否決された。 ミッドロージアン・キャンペーン. しかしその後、不況と農業不作でディズレーリ政権に不利な政治情勢が生まれた。とりわけ農業不振は地主の多い保守党には大きな問題だった。アメリカの農業技術の向上で安い穀物がイギリスに流入するようになったこともイギリスの農業不振を加速させており、保守党内では保護貿易復活を求める声が強まったが、ディズレーリ首相は都市労働者層の反発を恐れて保護貿易復活には慎重だった。結局保守党は保護貿易・自由貿易で分裂しはじめた。一方自由党はもともと自由貿易主義で固まっている政党なので分裂することなく、総選挙に邁進することができた。またディズレーリ政権は第二次アフガニスタン戦争とズールー戦争に勝利したものの、その不手際をめぐって批判を受けており、これらが自由党とグラッドストンにとって格好の攻撃材料となった。 グラッドストンは次の総選挙に備えて、選挙区をスコットランド・に変更し、1879年11月から12月にかけて「」と呼ばれる一連のディズレーリ批判演説を行って支持率を高めた。ディズレーリの帝国主義政策を「栄光の幻を追って税金を無駄使いしている」と切り捨て、「我々が未開人と呼ぶ人々の人権を忘れるな。粗末な家で暮らしている彼らも、神の目から見れば諸君らと全く等しく尊重されるべき生命なのだ」と語り、未だ続いていたアフガン戦争を批判した。また「アイルランド・ウェールズ・スコットランドには何らかの自治が与えられるべきである」と主張した。農業については、なお自由貿易を支持し、拙速に保護貿易へ移行すべきではないと訴えた。グラスゴー大学の演説では物質主義や無宗教者と戦うことを宣言した。 こうした「ミッドロージアン・キャンペーン」が注目されたのは、グラッドストンの演説のうまさというより、かつてない規模で集会やイベントが行われ、その盛り上がりの中で自由党一の有名人であるグラッドストンが登場して演説を行い、それらの内容が新聞で大々的に報道されたからである。したがってそうした演出を担当していたローズベリー伯爵が真の功労者であった。このキャンペーンは自由党を「名望家政党」から「大衆政党」へ転換させるきっかけになったと評価されている。 総選挙に大勝、再び首相へ. 一方ディズレーリ首相は、総選挙を引き延ばそうとしていたが、1880年2月のの補欠選挙で自由党候補有利という前評判を覆して保守党候補が勝利したこと、また自由党内にグラッドストンの「ミッドロージアン・キャンペーン」を批判する動きがあったのを見て、同年3月に総選挙に踏み切った。 総選挙の結果、自由党が350議席、保守党が240議席、アイルランド国民党が60議席を獲得し、自由党が安定多数を獲得した。選挙結果を受けて、ディズレーリ内閣は総辞職した。この自由党の大勝は「ミッドロージアン・キャンペーン」のおかげとされ、正式な自由党党首ではないもののグラッドストンが後任の首相になるべきものと一般には考えられていた。グラッドストン当人も首相に就任する気満々だった。 だがヴィクトリア女王は自分のお気に入りの首相ディズレーリを攻撃したグラッドストンに強い嫌悪感を抱いており、グラッドストンに大命を与えることを嫌がった。そのため名目上の自由党党首ハーティントン侯爵を首相にしようと画策したが、ハーティントン侯爵はグラッドストン首班以外の組閣は不可能として拝辞した。同時にハーティントン侯爵は女王の気持ちを察して、「どのみちグラッドストンは高齢ですから長く首相の座にある事はないでしょう」との見通しを伝えた。 女王もついに諦め、1880年4月23日にグラッドストンに組閣の大命を下し、第二次グラッドストン内閣が成立した。 第二次グラッドストン内閣. 第二次グラッドストン内閣は、第一次グラッドストン内閣ほどには強力な政権運営はできない立場にあった。第二次内閣では革新系議員の中心が急進派からジョゼフ・チェンバレンら新急進派に変わっていたためである。彼らは古風な自由主義者と異なり、金持ちから高税を取り立てて社会保障費に回そうという過激な主張をしていた。そのためホイッグ派の新急進派に対する嫌悪感は急進派に対する嫌悪感以上に強く、内閣の不統一感は発足当初から強かったのである(ちなみに新急進派の社会保障論はグラッドストンにも受け入れられない物だった。グラッドストンは大衆の自助の促進を目指しており、そのための改革はためらわなかったが、国が金をやる方式の社会保障では大衆が自助から遠ざかってしまうと考えていた)。 アイルランド小作農保護強化. 農業不振でアイルランドでは地主による小作人強制立ち退きが増加していた。アイルランド小作人たちは団結して「」を結成し、「ざる法」状態のアイルランド土地法の改正を求める運動を展開した。 グラッドストンもアイルランド土地法強化を決意し、地代未納を理由とする強制立ち退きであっても地主は小作人に補償しなければならないとする法案を議会に提出した。しかしディズレーリ率いる保守党が全力でこの法案に反対し、自由党内でもランズダウン侯爵らホイッグ派(アイルランド不在地主が多い)が造反した結果、法案は1880年8月の貴族院で否決された。 アイルランド小作農の反発は強まり、暴動が多発するようになった。またアイルランド小作人たちは一致団結して強制退去に備えるようになり(小作人が強制退去されると、みんなでその小作人を保護する一方、強制退去させた不在地主の代理人と新たな小作人を村八分にするなど)、地主が新たな小作人を見つけるのが難しくなる状態が現出した。これによって地主層にも一定の改革を許容する空気が生まれた。 グラッドストンは1881年の会期がはじまるとまず、改革前の地主層のガス抜きでアイルランド強圧法を提出した。チャールズ・スチュワート・パーネルらアイルランド土地連盟の議員の議事妨害を退けつつ、可決にこぎつけ、アイルランド小作人の反乱を抑えつけた。続いてアイルランドへの懐柔として新しいアイルランド土地法案を提出した。この法案はパーネルが主張していた「3F主義」(「公正な地代 (Fair Rent)」、「保有の安定 (Fixity of Tenure)」、「自由売買 (Free Sale)」)を盛り込んでおり、地代は地代法廷において定めるものとし、その地代を支払う限り地主は小作人を追いだしてはならず、また小作権は自由に売買することができるものとしていた。貴族院である程度の修正をされつつもなんとか法案を可決できた。 しかしパーネルらは、改革の不十分さを批判し、闘争を放棄しないようアイルランド人同胞に呼びかけた。結局グラッドストンは先の強圧法を使ってパーネルらアイルランド議員を政府転覆容疑で逮捕してキルメイナム刑務所へ投獄した。この逮捕により、アイルランド民族主義者による反英テロが激化し、アイルランドが半ば無政府状態に陥った。グラッドストンも獄中のパーネルもこれを懸念したため、二人は密約を結び、パーネルが新土地法の実施を邪魔しない代わりにグラッドストンは地代滞納小作人を国庫で救済する制度の創設を目指すこととなった。この密約でパーネルは釈放され、彼が再びアイルランド運動の頂点に立つことで過激なテロ活動を抑え込みを図った。 しかしこの密約には批判も多く、パーネルは過激なアイルランド民族運動家たちから裏切り者扱いされ、グラッドストンは女王や反動派の批判を受けた。アイルランド担当大臣も不服として辞職し、グラッドストンの甥にあたるフレデリック・キャヴェンディッシュ卿が後任のアイルランド担当大臣に就任したが、彼は就任からわずか5日後の1882年5月5日にアイルランド民族主義者によって暗殺された。 これによってグラッドストンは一時的に強圧路線に戻ることとなったが、それでも彼のアイルランドに対する本質的な考えは変わらなかった。キャヴェンディッシュ夫人に対して「貴女の夫の死を無駄にしません」と語って、いよいよアイルランド自治を見据えるようになった。そして第三次内閣におけるアイルランド自治法案提出へ繋がっていくことになる。 第三次選挙法改正. 1883年に入るとグラッドストンは選挙法改正に意欲を持つようになった。 ディズレーリ主導の1867年の第二次選挙法改正によって、都市選挙区は原則として戸主(および10ポンド以上間借人)であれば選挙権が与えられるようになったが、州選挙区は5ポンド以上の年価値の土地保有者という条件になっていた。そのためいまだ小作人や農業・鉱山労働者は選挙権を有していなかった。 グラッドストンが1884年2月に議会に提出した選挙法改正法案は戸主選挙権制度を都市選挙区だけではなく、州選挙区にも広げようというものであった。 しかし問題は選挙区割りだった。1880年代になると選挙権の拡大で国民の投票傾向にも変化が生じており、一般に保守党は大都市、自由党は中小都市や農村、スコットランドやウェールズを基盤とするようになっていた。選挙区割りを見直さずにこの法案を通すことは保守党に不利であったため、法案は、自由党が多数の庶民院こそ通過したものの、保守党が多数の貴族院からは否決された。 この敗北で解散総選挙を求める声が上がったが、グラッドストンは「私は選挙法改正について庶民院・貴族院のどちらか正しいかだけを問うために解散総選挙するつもりはない。もし私が解散総選挙をすることがあるとすれば、それは貴族院改革を問うためだ」と述べて一蹴した。8月には女王にも貴族院改革の可能性を報告した。しかしこれに不安を覚えた女王は貴族院の主張を支持し、貴族院と交渉をもつことを政府に要求した。グラッドストンは女王の態度に怒りを感じながらも、貴族院との交渉に応じることにした。 グラッドストンは女王に仲裁を頼み、女王の尽力で11月に保守党貴族院院内総務ソールズベリー侯爵、同党庶民院院内総務スタッフォード・ノースコートとの会談の席が設けられた。グラッドストン側が譲歩した形で大都市議席を増やすことで両者は合意した。またいくつかの選挙区を除いて原則小選挙区制度にすることでも合意した。 この妥協によって選挙法改正法案は貴族院も通過し、第三次選挙法改正が達成された。この改正でほぼ男子普通選挙に近い状態ができあがった(この段階でも選挙権がない成人男性は、下僕、家族の家で暮らしている独身者、住居のない者など)。 アフガニスタン保護国化. ロシアの中央アフリカ進出を恐れたインド総督リットン伯爵がディズレーリ前政権に開始させた第二次アフガニスタン戦争はイギリスの勝利に終わったが、この戦争を批判していたグラッドストンはリットン伯爵を「戦争の元凶」と看做して更迭し、リポン侯爵を後任のインド総督に任じた。 グラッドストンは、1880年7月にアフガニスタン王アブドゥッラフマーン・ハーンとの間に「アフガンはイギリス以外の国と外交関係をもたない、イギリスはアフガンの内政に干渉しない、他国がアフガンに侵攻した際にはイギリス軍がアフガンを支援する」ことを約定した。ロシアは第二次アフガニスタン戦争を見てアフガニスタン支配を諦めたようだったが、ヴィクトリア女王はなおもロシアがアフガニスタンに野望を持っていると確信していたので、アフガニスタンから英軍を撤退させることには反対の立場であり、グラッドストンはその説得に苦労した。 アブドゥッラフマーン・ハーンはロシアの侵略からアフガンを守るにはイギリスの庇護下にあらねばならないという現実をよく理解していた。そのため彼は在位中一貫してイギリスとの約束を守って外交は全てイギリスに任せ、群雄割拠状態の国内を統一する事に努めたので両国関係は極めて安定していた。 トランスヴァール独立を容認. ズールー戦争の結果、ズールー王国はイギリス支配のもとに13の部族長国家に分割された。しかしズールー族の脅威が消えたことで、ボーア人(イギリスの支配に反発してグレート・トレックで内陸部へ移住したオランダ系移民の子孫)の間にトランスヴァール共和国を再独立させようという機運が高まった。 トランスヴァール共和国はディズレーリ政権下で大英帝国に併合された。野党だったグラッドストンはトランスヴァールの独立を訴えていたから、政権交代とともにトランスヴァール再独立が認められるだろうとポール・クリューガーたち独立派は考えていた。しかし彼らの期待に反してグラッドストンは政権に就くや態度を翻して「女王陛下のトランスヴァールへの統治権は放棄されるべきではない」と主張し、トランスヴァール解放のための行動を何も起こそうとしなかった。 グラッドストンに失望したクリューガーたちは1880年12月にトランスヴァール共和国独立を宣言して武装蜂起を開始した(第一次ボーア戦争)。ズールー戦争の時に派遣されていたイギリス軍はすでにほとんどが帰国しており、現地イギリス軍は惨敗した。これを受けてグラッドストンは強硬な姿勢をとる女王、保守党、陸軍省を抑えて、ヴィクトリア女王の宗主権付という条件でトランスヴァール共和国再独立を認めた。 以降トランスヴァール共和国は第二次ボーア戦争まで独立を保つことになる。 オラービー革命とエジプト出兵. エジプトの財政破綻をきっかけにディズレーリ政権はスエズ運河を買収した。英仏がエジプト財政を管理するようになり、イギリス人とフランス人が財政関係の閣僚としてエジプトの内閣に入閣した。彼らはエジプト人から苛酷な税取り立てを行い、エジプトで反英仏世論が高まっていった。またエジプトを統治するムハンマド・アリー朝は先住民のアラブ系エジプト人にとってはトルコからの「輸入王朝」であり、人事ではトルコ系が優先されていた。これにアラブ系将校は不満を抱いていた。 1881年2月にアラブ系将校の待遇をトルコ系将校と同じにすることを求めるアフマド・オラービー大佐の指揮の下にオラービー革命が発生した。エジプト副王タウフィーク・パシャの宮殿が占拠され、彼はオラービーの推挙したアラブ系将軍を陸軍大臣に任命することを余儀なくされた。その後オラービーは軍の人事問題だけではなく、憲法制定や議会開設など政治的要求まで付きつけるようになった(エジプトに議会が置かれて議会が予算審議権を持てば英仏は自由に債権回収ができなくなる)。タウフィークはオラービーに屈して1882年2月4日には彼を陸相とする民族主義内閣を誕生させるに至った。オラービーはただちにヨーロッパへの債務の支払いを全面停止して、反ヨーロッパ姿勢を示した。 事態を危険視したフランス政府は邦人保護のためと称してアレクサンドリアに艦隊を派遣しようとイギリスに呼び掛けてきた。グラッドストン政権もこれを了承して艦隊をアレクサンドリア沖に送った。ただしディズレーリの帝国主義政策を批判してきたグラッドストンとしてはエジプトを制圧する意志はなかった。艦隊を派遣してエジプトを威圧しつつ、エジプトの形式的な宗主国であるトルコを通じてオラービーに干渉しようと考えていた。 しかし6月11日にアレクサンドリアで反ヨーロッパ暴動が発生し、英国領事をはじめとするヨーロッパ人50人が死傷する事件が発生した。それをきっかけに英国地中海艦隊とオラービー政府の間に小競り合いが発生し、オラービー政府は13日にイギリスに宣戦布告した。副王タウフィークは「オラービーは反逆者」と宣言し、イギリス軍の救援を求めた。 この事態に閣内や自由党内(特にホイッグ派と新急進派)、またイギリス世論の空気はエジプトに対して硬化していき、軍事干渉論が主流となっていった。スエズ運河はイギリスの生命線であるという現実の要請もあって、グラッドストンも7月9日には現地イギリス海軍にアレクサンドリア要塞への武力行使を許可するに至った。閣内では急進派のランカスター公領担当大臣ジョン・ブライトのみが戦争に反対して辞職した。 グラッドストンは国際協調のために他のヨーロッパ諸国と連携して武力行使することを希望していたが、イギリスとともにアレクサンドリア沖に艦隊を送ったフランス政府は議会の承認が取れなかったために艦隊を撤退させた。他のヨーロッパ諸国も参戦を拒否したため、結局イギリスが単独でオラービー追討を行う事になった。 当初グラッドストンは、制海権獲得によってスエズ運河を確保しようと考えていたが、オラービーがスエズ運河攻撃を狙っていると知り、将軍を指揮官としたイギリス陸軍の派遣を決定した。同軍は1882年8月19日にアレクサンドリアに上陸してスエズ運河一帯を占領し、ついで9月13日ににおいて2万2000人のオラービー軍を壊滅させ、カイロを無血占領した。オラービーは逮捕されて死刑を宣告されるもタウフィークの恩赦で英領セイロン島へ流罪となった。 この戦いによりエジプトは英仏共同統治状態からイギリス単独の占領下に置かれることになった。依然としてエジプトは形式的にはオスマン皇帝に忠誠を誓う副王の統治下にあったが、実質的支配権はイギリス総領事クローマー伯爵が握るようになった。彼の下にインド勤務経験のある英国人チームが結成され、エジプト政府の各部署に助言役として配置された。エジプト政府は全面的に彼らに依存した。イギリス人らは副王アッバース2世を傀儡にして税制改革からナイル川の運航スケジュールまであらゆることを自ら決定するようになった。 スーダンの反乱・ゴードン将軍の死. エジプト支配下スーダンでイギリスに支配されたエジプトに対する反発が強まり、1882年夏にマフディー(救世主)を名乗ったムハンマド・アフマドによるマフディーの反乱が発生した。マフディー軍は1883年1月19日に西部の都市エル・オベイドを占領して、同地のエジプト軍守備隊(多くは現地スーダン人の兵士)から武器や兵士を奪い取って戦力を大きく増強した。1883年9月にイギリス軍大佐ウィリアム・ヒックス率いるエジプト軍がマフディー軍征伐に発ったが、惨敗してヒックス大佐も戦死した。 グラッドストンはこれ以上自己の信念に反する帝国主義政策を遂行することを嫌がり、スーダンからエジプト守備軍を撤退させることを決定した。エジプト守備軍の撤退を指揮する人物として「チャイニーズ・ゴードン」の異名を取り、国民人気が高かったチャールズ・ゴードン少将をスーダン総督に任じてハルトゥームに派遣した。 しかし1884年2月にハルトゥームに到着したゴードン将軍は、マフディー軍と戦う意思を固め、撤退を開始しようとはしなかった。3月中旬になるとハルトゥームはマフディー軍に包囲されてしまった。ゴードンが本国に出兵を強要するために自発的に包囲されたようにさえ見えた。 日を追うごとに「国民の英雄」ゴードン将軍の救出を求める世論が強まっていった。閣内からも大法官セルボーン伯爵と海軍大臣ノースブルック伯爵が辞職をちらつかせて援軍派遣をグラッドストンに迫るようになった。野党の保守党も援軍派遣を強く要求した。ヴィクトリア女王も陸相ハーティントン侯爵を呼び出してゴードン救出を命じた。グラッドストンもついに折れて援軍派遣を決定し、8月にその費用として30万ポンドを議会に要求した。10月からサー・ガーネット・ヴォルズリー将軍率いる援軍がエジプトから南下してハルトゥームへ向かって進撃を開始した。 しかしこの援軍は間に合わず、1885年1月26日にハルトゥームはマフディー軍によって陥落させられ、マフディー軍は市内にいた者を手当たり次第に殺害した。総督邸にいたゴードン将軍も殺害された。 ゴードン将軍の死に英国世論は激昂し、援軍派遣を遅らせたグラッドストンに批判が集中した。グラッドストンは「GOM(Grand Old Man、大老人)」改め「MOG(Murderer of Gordon、ゴードン殺害犯)」と呼ばれるようになった。保守党が多数を占める貴族院は政府批判決議を可決させている。自由党が多数を占める庶民院では政府批判決議は否決されたものの、わずか14票差の辛うじての否決だった。ヴィクトリア女王も激怒し、いつもの暗号電報ではなく、通常電報(つまり手交される人全員が読める状態)で叱責の電報をグラッドストンに送った。 2月末に女王は「何としてもスーダンを奪還してゴードンの仇を取るべし」と命じたが、グラッドストンはこれを無視し、4月の閣議で「マフディー軍は意気揚々としており、今はスーダン奪還の時期ではない」と決定してスーダンを捨て置いた。 植民地獲得競争の時代へ. イギリスのエジプト占領でエジプトにおける利権を排除されたフランスはイギリスへの不満を高めていた。これを見たドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスが対独復讐を忘れ、かつイギリスと対立を深めるよう、フランス首相ジュール・フェリーを誘導してフランスに本格的な植民地政策に乗り出させた。 ヨーロッパ諸国の連帯を重視するグラッドストンは1884年6月にエジプト問題について話し合うを開催して英仏の利害関係調整にあたろうとしたが、ドイツがフランスに支持を与えたため、会議は満足な成果を上げられなかった。この結果を見てグラッドストンも今やドイツの支持が無ければ国際協調は成り立たないと認識した。そのためグラッドストンはドイツのニューギニア併合を認めるなど親独的な態度をとる事が多くなっていった。 こうしたグラッドストンの中途半端な態度は、フランスやドイツの本格的なアフリカ大陸進出を招き、アフリカ分割は一気に加熱していくことになった。 1884年11月にはベルギー国王レオポルド2世が領有権を主張するコンゴをめぐってビスマルクがベルリン会議を開催した。この会議でヨーロッパ列強はコンゴにおける利害関係を調整しながら、今後の植民地分割のルールを策定した。 これ以降全世界規模で欧米日など列強諸国が表向き協調しつつ、競争して植民地獲得に乗り出すという帝国主義時代が本格的に到来することになった。 保守党とアイルランド国民党の連携で総辞職. アイルランド強圧法の期限が1885年8月に迫る中、グラッドストン政権は強圧法の延長論に傾いていたが、商務相ジョセフ・チェンバレンら新急進派閣僚がそれに反対し、閣内分裂状態に陥った。 一方保守党は強圧法廃止を約束してアイルランド国民党に接近を図った。アイルランド国民党はアイルランド自治への最大限の譲歩を手に入れることが目的なので、譲歩する意思があるなら保守党政権でも自由党政権でも構わなかったのでこれに応じた。 1885年6月8日に保守党が提出した予算案修正案にアイルランド国民党議員が賛成したことで修正案が可決された。この敗北を受けて第二次グラッドストン内閣は総辞職することとなった。政権はすっかりグダグダしていたので、グラッドストンたちは総辞職の口実ができたことを喜びさえしたという。総辞職を阻止するための手段も何ら取らなかった。 ソールズベリー侯爵に大命があったが、保守党は依然として少数党なので、ソールズベリー侯爵はグラッドストンの協力を条件に求めたが、それが無理そうだと分かると大命を拝辞し、グラッドストンを再度首相に任じるべきことを奏上した。しかしグラッドストンも拝辞したので、結局総選挙まで女王が二人の関係を斡旋するという条件でソールズベリー侯爵が首相に就任した。 6月24日、グラッドストンが国璽の引き渡しのためにウィンザー城を訪問した際、ヴィクトリア女王は伯爵位を与えると申し出たが、グラッドストンは生涯庶民院に奉仕したいと奉答して拝辞した。女王は以前からグラッドストンに伯爵位を与えて貴族院へ移し、「人民のウィリアム」の牙を削ぎたがっていたのだが、グラッドストンの「議会政治の本道は庶民院にあり」という強い信念は梃子でも動かなかった。 アイルランド自治の決意. 1885年6月に成立した第一次ソールズベリー侯爵内閣は、選挙管理内閣であったものの、アイルランド小作農に低利での土地購入費融資を行い、自作農への道を開くアシュボーン法を制定する業績を残した。 これを見てグラッドストンはいよいよアイルランド自治への決意を固めたという。グラッドストンは早くも1884年2月にはアイルランドに独立した議会を置くべきであると周囲に漏らしていた。だが自由党内でも地主貴族のホイッグ派を中心にアイルランド自治には反対論が根強かった。新急進派のチェンバレンも大英帝国の結合を弱めるものとして自治には反対しており、彼はその代わりに大幅な地方分権を主張していた。ホイッグ派はその地方分権論にさえ慎重だった。 ホイッグ派と同じく地主が多い保守党ももちろんアイルランド自治には反対する者が多かった。しかし今回のソールズベリー侯爵内閣では保守党とアイルランド国民党の結びつきが予想以上に強いと見て取ったグラッドストンは保守党政権がアイルランド自治法案を提出する可能性があり、自分と自分に従う自由党議員がそれに賛成票を投じれば通過させられると考えていた。しかし結局ソールズベリー侯爵にアイルランド自治の意思はなかったため、その計画は実現しなかった。 政権奪還へ. 1885年11月からが開始された。自由党が大勝した後の総選挙であるから自由党が議席を落とすことが予想されたが、ジョゼフ・チェンバレンとその腹心のによる小作人に「」を与えようというキャンペーンが功を奏し、自由党が322議席、保守党が251議席、アイルランド国民党が86議席をそれぞれ獲得した。自由党は保守党より優位の状態を保ったが、過半数は割り、アイルランド国民党がキャスティング・ボートを握ることとなった。保守党は少数党のままなので敗れた形だが、ソールズベリー侯爵は自由党の過半数割れを口実にして政権に留まった。また自由党が過半数割れしたことで保守党は選挙前よりアイルランド国民党との連携に固執しなくなった。 1886年1月21日に議会が招集され、政府は施政方針演説でアイルランドに対して強圧法案と土地改革法案の二点セット、つまり「飴と鞭」で臨むことを表明した。強圧法案に反発したアイルランド国民党はアイルランド自治を主張するグラッドストンの自由党と結び、1月26日に施政方針演説の修正動議を可決させ、ソールズベリー侯爵内閣を総辞職に追い込んだ。しかしアイルランド問題に揺れているのは自由党も同じであり、ホイッグ派のハーティントン侯爵らはこの修正動議に反対票を投じてグラッドストンに造反している。 第三次グラッドストン内閣. 1886年2月1日に女王よりオズボーン・ハウスに召集され、そこで大命を受けた。グラッドストンはこれを拝受して第三次グラッドストン内閣を組閣した。 アイルランド担当大臣にはグラッドストンのアイルランド自治の方針を熱烈に支持している(彼は後にグラッドストンの伝記を書く)を置いた。一方ハーティントン侯爵はアイルランド自治の方針に反発して入閣を拒否した。彼が入閣しなかったことはホイッグ派の離反を意味した。急進派のリーダーのジョン・ブライトもこの内閣の微妙さを感じ取って用心深く入閣を避けた。ハーティントン侯爵が入閣を拒否するのは分かっていたことだが、ブライトまでもが入閣を拒否したことはグラッドストンにとってもショックだった。新急進派のリーダーのジョゼフ・チェンバレンは嫌々ながら入閣した。前述したように彼はアイルランド自治には賛成していなかったが、対立しているホイッグ派と共闘する形になって人望を落とすのだけは避けたいという思いがあった。 チェンバレンの不満. ハーティントン侯爵やブライトの協力が期待できない以上、チェンバレンを重用すべきだったが、グラッドストンはそれにも失敗した。 チェンバレンは植民地大臣としての入閣を希望していたが、グラッドストンは「議員生活10年の政治家に植民地相は格が高すぎる」として拒否し、自治大臣職を彼に与えた。 またグラッドストンは緊縮のため、政務次官の一律減俸を行ったが、チェンバレンは先の総選挙の「3エーカーの土地と一頭の牛」キャンペーンの功労者であるの俸給まで減らされることに反発した。 さらにグラッドストンは後述するアイルランド自治法案の起草に熱中する余り、チェンバレンが作成した地方自治法案を閣議でまったく取り上げようとしなかった。このようなことが重なってチェンバレンの不満は高まっていった。 アイルランド自治法案. 内閣成立後、グラッドストンとアイルランド担当相モーリーは早速アイルランド自治法案の作成にあたった。その骨子は「1、アイルランドはアイルランドに関する立法を行う議会を持つ」「2、アイルランドは連合王国の議会には議員を送らない」「3、アイルランドの王室・宣戦・講和・国防・外交・貨幣・関税・消費税・国教などは連合王国が取り決め、アイルランドは決定権を有さない」というものであった。 グラッドストンは3月13日に閣議でこれを発表したが、チェンバレンとスコットランド担当大臣が「アイルランドの独立を招き、帝国を崩壊させる」法案であるとして激しく反発し、二人とも辞職した。この後、チェンバレンたちはホイッグ派とともに自由党を離党して自由統一党という新たな党を形成し始めた。ヴィクトリア女王もアイルランド自治に反発して、保守党党首ソールズベリー侯爵に自由党内反アイルランド自治派と連携して組閣の道を探れと内密に指示を出した。 グラッドストンは反対論に怯むことなく、1886年4月8日にアイルランド自治法案を議会に提出した。議会では、アイルランド人に自治は尚早である点、アイルランド人がイギリス議会に代表者を送りこめなくなる点、イングランド人人口が多いアルスター(北アイルランド)がイギリスと切り離される点などに反対論が続出した。 保守党党首ソールズベリー侯爵は「アイルランド人には二種類あり、一つは自治を解する者たちだが、もう一つはアフリカのホッテントット族やインドのヒンドゥー教徒と同類の自治能力のない連中である」として反対した。下野したチェンバレンも「連邦制度の樹立以外にこの問題を解決する手段はない」として反対演説に立った。一方アイルランド国民党のパーネルは賛成演説を行った。 法案が庶民院第一読会を無投票で通過した後、グラッドストンは関税と消費税に関する連合王国の議会にはアイルランド議員も参加できるよう修正すると語り、その代わり何としてこの法案を第二読会も通過させてほしいと訴えた。しかし第二読会は、自由党議員93名の造反が出て343票対313票で法案を否決した。 これに対して閣内から総辞職を求める声も上がったが、グラッドストンはこれを退けて解散総選挙を女王に奏上した。女王はグラッドストンが敗北すると思っており、解散総選挙を許可した。 総選挙敗北、退陣. 1886年6月から7月にかけてが行われた。グラッドストンはアイルランド自治を訴えて精力的に演説を行ったが、そのアイルランド一辺倒は有権者から選挙の関心を奪った。 選挙の投票率は低く、保守党が316議席、自由党が196議席、自由統一党が74議席、アイルランド国民党85議席をそれぞれ獲得した。自由党の惨敗だったが、得票総数で見ると野党(保守党と自由統一党)との差は10万票に過ぎず、議席に大きな差が出たのは小選挙区制度のマジックであった。 ともかくこの議席差では政権運営は不可能であり、グラッドストン内閣は7月30日には総辞職した。 保守党政権のアイルランド弾圧との戦いとパーネル危機. 代わって第二次ソールズベリー侯爵内閣が誕生した。同政権は自由統一党から閣外協力を受けることで政権を維持し、1892年まで続く長期政権となった。 この間の長い野党時代にもグラッドストンはアイルランド自治を諦めず、それが不可欠であることを国民に立証すべく、ハワーデン城にこもってアイルランド問題の研究を行った。 一方ソールズベリー侯爵は甥のアーサー・バルフォアをアイルランド担当相に任じて、アイルランドへの強圧政治を再開した。『タイムズ』紙にかつてのアイルランド担当相フレデリック・キャヴェンディッシュ卿の暗殺にパーネルが関わっていることを示唆する記事が掲載され、パーネル批判の世論が高まった。パーネルはこの事実関係を否定したが、ソールズベリー侯爵政府はこれを大いに利用し、パーネル及びパーネルと提携するグラッドストンを徹底的に批判し、アイルランド強圧法再制定にこぎつけた。 この後アイルランドでは弾圧の嵐が吹き荒れ、アイルランド議員や民族運動家が続々と官憲に逮捕された。その弾圧の容赦の無さからアイルランド担当相バルフォアはアイルランド人から「血塗られたバルフォア(Bloody Balfour)」と呼ばれて恐れられた。 これに対してグラッドストンは「保守党はアイルランド弾圧にばかり専念し、あらゆる改革の実施を放棄している。早くアイルランド自治を達成してアイルランドの泥沼から抜け出さねば、改革は何も行われない」と訴えた。これはかつて自分が受けた「グラッドストンはアイルランド自治法案ばかりに専念して他の改革を何もしようとしない」という批判を与党に返してやったものだった。 1889年2月に『タイムズ』のパーネルに関する記事がねつ造だったことが判明し、政府批判・パーネル擁護の世論が強まった。この情勢を見てグラッドストンは「自分かパーネルの身に何か起きなければ、アイルランド自治法案の可決は確実」と自信をつけた。ところが1890年11月にパーネルは不倫スキャンダルを起こして裁判沙汰になり、再び世論の批判を集めた。自由党の支持勢力の中核である非国教徒の反発も激しく、これ以上パーネルと連携するのは難しい情勢となった。 グラッドストンはパーネルに「アイルランド自治を失敗させないため」としてアイルランド国民党党首職を辞するよう求めたが、パーネルは拒否した。グラッドストンはやむなくアイルランド・カトリック教会にパーネルを批判させて、アイルランド国民党の分裂を促した。これによって40名のアイルランド国民党議員が同党ナンバーツーだったの下に自由党との連携を重視する派閥を形成するに至った。パーネルの下には26名ほどの議員が残ったものの、彼らは補欠選挙に次々と敗れ、パーネル本人も翌1891年に46歳で死去した。 同じ年に長男のが父に先だって死去した。この際にグラッドストンは「愛する者が永眠した時、後に残される者の悲嘆は簡単にはぬぐえないけれども、いつの日か、同じ神の御手によって再び会うことができると思えば、少しは慰めになる」と述べている。 ソールズベリー侯爵はグラッドストン政権の小英国主義のせいで危機に瀕した大英帝国の再強化を図るべく、海軍力の増強を行ったが、グラッドストンはこれに対しても強く反対した。 ニューカッスル綱領と総選挙辛勝. 1880年代後半は、長引く不況で失業者が増える中、労働者問題が注目されていた時期である。1888年にはマッチ工場の女工たちがストライキを起こし、その悲惨な労働環境を訴えて世間の注目を集めた。1889年にはガス労働者や湾岸労働者がストライキを起こし、労働組合を結成した。 こうした情勢の中、「伝統的な自由放任主義は限界にきており、社会政策への取り組みが必要だ」という主張が多くなされるようになった。古風な自由主義者であるグラッドストンは自由放任主義の修正に消極的だったが、側近たちからの忠告でしぶしぶアイルランド自治法以外にも労災の雇用者責任や労働時間の制限などの公約を盛り込んだニューカッスル綱領を作成した。 1892年6月末にとなった。選挙の結果、自由党が274議席、保守党が269議席、アイルランド国民党(パーネル派・反パーネル派合わせて)が81議席、自由統一党が46議席を獲得した。グラッドストンはアイルランド自治派(自由党とアイルランド国民党)が100議席以上の差をつけて反アイルランド自治派(保守党と自由統一党)に勝つと予想していたが、実際には40議席差の辛勝となった。 第四次グラッドストン内閣. 総選挙に敗れたソールズベリー侯爵は辞職し、8月18日にが成立した。当時グラッドストンは82歳であり、歴代最年長での首相就任だった。 再度アイルランド自治法案. 内閣成立後、再びアイルランド担当大臣として入閣したジョン・モーリーとともにアイルランド自治法案の作成を開始した。この法案作成の作業中、グラッドストンはモーリーに「私の健康状態はまだ悪くはないが、目と耳が悪くなりすぎている。早晩私は辞職することになるだろう」と弱気を漏らしたという。 1893年3月に法案を議会に提出した。今回のアイルランド自治法案は第三次内閣時の法案に修正を加えたもので、アイルランド人を連合王国議会から排除せず、80名の枠でアイルランド人が連合王国議会に議員を送り込むことを認めたものだった。 相変わらずアイルランド自治に反対していたチェンバレンが反対運動の先頭に立った。またチェンバレンの息子であるオースティンが先の総選挙で初当選しており、アイルランド自治法案反対の処女演説を行った。グラッドストンはオースティンの処女演説を褒めてやり、それに嬉しくなったチェンバレンが思わずグラットストンにペコリと頭を下げる一幕があった。 結局、法案は庶民院を通過したものの、貴族院で419票対41票という圧倒的大差で否決された。 これに対してグラッドストンは解散総選挙を考えたが、先のニューカッスル綱領の公約がほとんど実現できてないことから閣内から反対論が相次ぎ、グラッドストンも断念した。 海軍増強に反対して閣内で孤立. ドイツ帝国では宰相オットー・フォン・ビスマルクを解任して親政を開始したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が植民地獲得を狙って海軍力の増強を開始し、ヴィクトリア女王や英国世論はドイツ帝国への警戒心を強めていった。また英仏の植民地争いも深まっていた。 こうした状況の中、グラッドストン内閣の閣僚の間でも海軍力増強を求める声が相次いだが、グラッドストンは相変わらず帝国主義に繋がる海軍力増強には反対だった。彼はすっかり時代錯誤となった小英国主義、またとうに死んだ者達の幻影に取りつかれていた。「海軍増強など狂気だ。ピール、コブデン、ブライト、アバディーン、みんな反対するはずだ。そんな計画に賛成するのはパーマストンだけだ」「今この計画を主張している政治家どもは皆、私が政界に入った時、生まれてもいなかった者たちではないか」などと激昂していた。 「老害」と化したグラッドストンは閣内で孤立していった。 総辞職、政界引退. グラッドストンは閣内をまとめることはもはや不可能と判断し、辞職を決意した。1894年2月10日にその旨を閣僚たちに発表し、女王にも間接的に上奏した。3月1日に最後の閣議を開き、「諸君らとは一つの公的問題で意見が違えども、私的交友関係はこれからも続けていきたい」という主旨の短い話をした後「諸君らに神の御恵みがあらんことを」と述べてさっさと退出した。グラッドストンの辞任表明に閣僚たちは涙を流しながらも、グラッドストンが出ていった出口とは別の出口から退出したという。 またその日の午後に庶民院で最後の演説を行い、「貴族院は庶民院が必死で作り上げた法案を修正するのではなく全滅させることに精を出している。このような状況がいつまでも許されるべきではない」として貴族院批判・貴族院改革の必要性を訴えた。 1894年3月3日にウィンザー城に参内し、ヴィクトリア女王の引見を受けた。女王はザクセン=コーブルク=ゴータ公になったばかりの次男アルフレートの年金を継続してくれたことに感謝の意を示し、また掛かり付けの眼医者の話をし、他はグラッドストン夫人に対するねんごろなお言葉を下賜して引見を終えた。グラッドストンの国家に対する貢献を評価するようなお言葉は一切なかった。 また女王は退任する首相に対して後任の首相は誰が良いと思うか下問するのが慣例になっており、グラッドストンも下問を予想してスペンサー伯爵を推そうと思っていたのだが、女王の下問はなかった。女王はお気に入りの外務大臣ローズベリー伯爵に独断で大命を与えた。自由党内や世論は大蔵大臣ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートを推す声が多かったので、この女王の独断に強く反発した。 世論のハーコート人気が高まり、ローズベリー伯爵の権威は失墜していった。結局ローズベリー伯爵は1895年6月に内閣信任相当と言えるほどではない、つまらない法案の否決を理由にさっさと総辞職して保守党のソールズベリー侯爵に政権を譲ってしまった。第三次内閣を発足させたソールズベリー侯爵はただちにに打って出て勝利し、1902年まで政権を担当することになる。 一方政界引退を決意していたグラッドストンはその総選挙に出馬しなかった。ここにグラッドストンの64年にも及んだ議会生活にピリオドが打たれたのである。 引退後. 晩年の政治活動. グラッドストンは1894年夏から始まったオスマン帝国によるアルメニアでの大虐殺に強い怒りを感じ、20年前と同様に再びトルコ批判運動の先頭に立った。庶民院議員辞職後もその活動は続けた。1896年9月にリヴァプールで行った演説では、トルコ皇帝アブデュルハミト2世を「大量殺人犯」として糾弾した。この演説が大衆の前で行った彼の最後の演説となった。 相変わらずトルコは大英帝国の生命線であり、首相である保守党党首ソールズベリー侯爵も自由党党首ローズベリー伯爵もトルコ批判にはまるで耳を課さなかった。グラッドストンは「私に1876年の時の身体があれば、もっと強力にトルコに闘争を挑めるのだが」と口惜しがった。 1897年1月末からフランスのカンヌで過ごすことが増えた。同年3月にはカンヌを訪問したヴィクトリア女王の引見を受けた。この時、女王は78歳、グラッドストンは88歳だった。すっかり老衰して性格的にも丸くなっていたグラッドストンに、女王は思わず自ら手を差し伸べた。 女王の即位60周年記念式典の最中の同年7月10日にはハワーデン城で大英帝国植民地首相らと会談に及んだ。 死去. 1897年11月にカンヌ滞在中に喉頭癌の最初の激痛に襲われた。カンヌは地中海から寒風が吹くことがあったため、周囲の薦めでイギリスのハワーデン城へ帰国した。 1898年初頭から体調が悪化した。5月に入るとすっかり精力が衰え、5月13日にローズベリー伯爵とモーリーが見舞いに訪れた際にはほとんど意識不明になっていたという。 5月15日に娘メアリーが「教会へ行ってきます」と述べた際にグラッドストンは「教会へ行くのか。素晴らしいことだ。愛するメアリーよ。私のために祈ってくれ。全ての同胞のために。全ての不幸で惨めな人々のために。」と呟いたという。 5月19日午前4時頃、夫人と子供たちが見守る中、また聖職者である次男スティーブンが祈りをささげる中、グラッドストンは眠るように死去した。この日はちょうどキリストの昇天日であった。 グラッドストンの遺体は棺に入れられた後、25日にロンドンに送られてウェストミンスター宮殿に安置された。一般国民の告別も許可された。棺の中には、彼が最後の力を振り絞ってトルコの暴政から守ろうとしていたアルメニアの教会から贈られた金の十字架が一緒に入れられた。 28日にグラッドストンの棺は葬列に伴われながらウェストミンスター寺院へ運ばれた。皇太子、ヨーク公、ローズベリー伯爵、首相ソールズベリー侯爵らが葬列に参加した。棺はウェストミンスター寺院の北側外陣の床に作られた墓所の中に入れられた。妻キャサリンは子供たちに支え起こされるまでその前に跪いて祈り続けたという。 弔辞は世界各国から届いた。ヴィクトリア女王もグラッドストンへの弔辞を書いて新聞に掲載するよう周囲から求められたが、拒否している。また皇太子がグラッドストンの葬儀に参加したと聞いた女王は問い詰めるような電報を皇太子に送っている。女王はグラッドストンのことは嫌っていたが、グラッドストン夫人のことは気にかけており、彼女に宛てて弔電を送っている。しかしそこでも「私は、私自身と私の家族の幸福に関することへの彼の献身と熱意を忘れません」という表現に留め、グラッドストンの国家への貢献を認めることはなかった。 議会では首相ソールズベリー侯爵、バルフォア、ローズベリー伯爵らが弔辞を述べた。ソールズベリー侯爵は「彼が世界中から尊敬されていたのは、大人格者であったからである。彼の目指した物は、偉大な理想の達成だった。その理想が健全な場合も、そうでない場合も、それは常に純粋で偉大な道徳的情熱から発せられていたのである」と評した。ローズベリー伯爵は「イギリスおよびイギリス国民は勇者を愛する。グラッドストン氏は常に勇者中の勇者であった」と述べた。バルフォアはグラッドストンを「世界最高の議会における最高の議会人」と評した。 人物. 宗教的情熱. グラッドストンは敬虔な国教徒だった。地元にある時は毎朝教会への礼拝を行い、安息日には勤行を欠かさなかった。また積極的に宗教奉仕活動に参加した。 彼には「人間の幸せの永続的基盤は、一つだけである。それは宗教的確信をもつことである」という断固たる持論があった。 ベンジャミン・ディズレーリを徹底的に嫌ったのも、彼に宗教的情熱の欠如とそれに伴うシニカルな日和見主義を見たからである。 勤勉. グラッドストンはオックスフォード大学時代に神からの使命を果たすために必要なものとして「1. 愛の精神、2. 自己犠牲の精神、3. 誠実の精神、4. 活力」の4つが重要だという宗教的確信を得た。このうちの「活力」がグラッドストンの病的なまでの勤勉性につながった。グラッドストンの日記には「私は仕事をするか、死ななければならない」と書かれている。 グラッドストンの友人であるサー・ジェームズ・グラハム准男爵は「グラッドストンは他人が16時間かけて行う仕事を4時間で達成する。そして16時間働く。」と評したことがある。このグラッドストンの勤勉ぶりは生涯変わらず、彼は晩年にも13時間から14時間は働いていたという。 時間を有意義に使いたいと願っていた彼は、しばしば急いでいるようにも見えたという。 雄弁. グラッドストンは雄弁家で知られた。議場での演説以外に言論の場があまりなかった19世紀イギリスでは雄弁は政治家にとって重要な能力であった。 グラッドストンは声に深みがあり、声の調子の変化に富んでいるなど演説家として先天的な才能を持っていたが、「熱心と努力と知識がなければ何人も大雄弁家にはなれない」というキケロの名言を胸に刻んで、弁論術を磨くための努力も怠らなかった。 グラッドストンは後輩に演説の仕方を伝授した書簡の中で「1、用語は平易で簡潔な物を選ぶこと、2、句は短く切ること、3、発音の明瞭、4、批評家や反対者の論評を待たずに予め自分で論点を考証すること、5、論題について熟考して消化し、適切な語が迅速に出てくるよう心がけること、6、聴衆を感動させるには思考を論題に集中し、常に聴衆を見守ること」と書いている。もっともこのうち1と2についてはグラッドストン自身もあまり守っていなかった。 壇上における態度も雄弁に彩りを添えていた。その身振りは豪放ながらも自然であり、粗暴な印象や誇張しているような印象は与えなかったという。 ビスマルクはディズレーリを高く評価する一方、グラッドストンのことは「教授」と呼んで馬鹿にしていたが、「たかが大演説家に過ぎないグラッドストンの如き無能な政治家」と評したことがあり、これをそのまま読むならグラッドストンの雄弁はビスマルクも認めるところであったことになる。 小さな政府. グラッドストンは「政府が持つ金は少なければ少ないほど良い」という「小さな政府」論の断固たる信奉者であった。政府に金が有り余っていると軍拡に使われ、帝国主義外交に乗り出すと懸念したためである。 政府が小さいと軍備だけではなく、社会保障も小さくなるが、グラッドストンは大衆の自助の促進を目指す古風な自由主義者であるから、社会保障は「自助ではなく国家への依存をもたらし、精神主義ではなく物質主義をもたらす」と看做しており、基本的に必要無いと考えていた。 小英国主義. グラッドストンは「領土を貪ることは全人類の呪い」と称し、非膨張論を唱え、小英国主義を支持していた。小英国主義とは「イギリスは世界最強の海軍力を背景にした自由貿易によって今や世界中どこにでも資源調達地と市場を作れるのだから、わざわざ巨額の防衛費と維持費をかけてまで植民地を領有する必要がない」とする考えであり、自由主義者の中でもマンチェスター学派によって盛んに支持されていた考えである。 ただ首相となったグラッドストンが、実際に小英国主義の理念にのっとった外交政策を打ち出すのは稀だった。第一次グラッドストン内閣時の1870年にニュージーランドから撤兵したこと、1872年にフィジー諸島併合論を却下したこと、第二次内閣の1884年にスーダン放棄を決定したことぐらいに留まる。グラッドストンが首相になった頃にはすでに小英国主義への疑問がイギリス中で噴出していたからである。 自由貿易と平和主義. 領土拡張ではなく自由貿易拡大を目指し、自由貿易を破壊する戦争は可能な限り回避することがグラッドストンの外交目標だった。 イギリスで自由貿易によって最も利潤をあげたのはランカシャーの綿工業であるが、彼らは貿易業者が地中海、インド洋、大西洋を渡って輸入してきた綿花を買って、綿製品に加工し、それを輸出していたから、綿工業にとって海上の平和はまさに死活問題だった。マンチェスター学派に属するグラッドストンはその代弁者だったのである。 グラッドストンは、戦争を回避するためには軍拡を阻止することと、イギリスが「栄光ある孤立(Splendid Isolation)」と「ヨーロッパ協調(Concert of Europe)」の立場を維持することの2点が重要と考えていた。それはイギリスの相対的有利の時代にあっては、成果を上げる時もあった。 しかしイギリスの相対的有利の時代が終わり、列強諸国の帝国主義と軍拡競争が過熱していく時代にあっては、うまく機能しなくなった。第四次内閣の頃には平和主義はすっかり時代遅れの思想と化しており、全閣僚が軍拡を求める中、首相グラッドストンただ一人が軍拡に反対し続ける有様となっていた。そしてそれが原因で失脚し、政界を去ることとなった。 ヴィクトリア女王との関係. グラッドストンはヴィクトリア朝の首相たちの中でもパーマストン子爵と並んでヴィクトリア女王から最も嫌われた首相である。 ヴィクトリア女王とグラッドストンの関係は、第一次グラッドストン内閣の時からギクシャクしていた。王配アルバートの薨去以来喪に服して公務にほとんど出席していなかったヴィクトリア女王に対してグラッドストンが公務への復帰を強く要求したからである。女王は退位をちらつかせてでも、この要請を拒否した。 女王がグラッドストンに決定的な嫌悪感を抱いたのは、第二次ディズレーリ内閣の時である。ヴィクトリアが熱烈に支持していたディズレーリの帝国主義外交や露土戦争をめぐる親トルコ・反ロシア外交をグラッドストンが徹底的に批判したためである。この頃女王は長女ヴィッキーへ宛てた手紙の中で「グラッドストン氏は狂人のように進撃しています。私は代議士の中で、これほど愛国心が欠如し、不謹慎な人物を他に知りません。」という激しい憎しみを露わにしている。 グラッドストンには君主は象徴としてのみ政体の根幹にあるべきという持論があり、とりわけディズレーリ政権がヴィクトリア女王を政治の場に引っ張り出すことを憂慮していた。ただしグラッドストンは決して君主制廃止論者ではない。「でしゃばりの君主」の出現によって君主制廃止に向かうのでは、という懸念からそういう主張をしていたのである。彼は「以前の私なら、この地の君主制は幾百年も続いていくと確信できたが、私のその自信も前内閣が君主を政治外交の第一線に引きずりまわしたことで揺らぎつつある」と語っている。 64年間イギリス政界で働いてきたグラッドストンの引退にあたって女王は、国家への貢献の労をねぎらうような言葉は何もかけなかった。グラッドストンは55年前のシチリアでロバに乗った時のことを思い出し、「私は数十時間もロバの背中で揺られていた。ロバは私に不都合なことは何もしなかったし、私のために長時間仕事をしてくれた。だが何故か私はそのロバに何の好感も持つことができなかった。この時の私とロバの関係が、女王と私の関係である」と語った。 ダーウィンと進化論について. グラッドストンとダーウィンは同じ年に生まれている。グラッドストンの組織した反トルコ集会にダーウィンが名を連ねていた関係でグラッドストンがダーウィンの家を訪問したことがあった。ダーウィンの家は代々ホイッグ党(自由党)であり、ダーウィン自身も自由党を指導するグラッドストンを深く尊敬していたので、この訪問に非常に感動した様子だったという。一方グラッドストンの方はダーウィンにそれほど関心をもっておらず、彼の生前に進化論を話題にしたことも、彼とそれについて語り合ったこともなかった。 第三次内閣総辞職後、グラッドストンは科学雑誌『ナインティーンス・センチュリー』への寄稿文や著書『盤石の聖書』 (1890年) の中で聖書の内容を疑おうとする者を批判した。『創世記』にある地球の変化や生物出現の順番は地質学的にも証明されているのだと主張していた。進化論に対する彼の態度は曖昧だが、全てをキリスト教の精神に支配されている彼にそれを容認することはできなかったと思われる。 家族. 1839年7月25日にの娘であると結婚した。 二人は一緒に聖書を読み、結婚生活が終わる時までその習慣を守ることを誓い合ったという。グラッドストン家の家庭生活は万事をキャサリンが差配していた。キャサリンはやかまし屋という風評があったが、実際にはグラッドストンの方がやかまし屋であったという。二人は性格が合っているとは言えなかったが、それでも円満な夫婦関係を続けることができた。 キャサリンとの間に以下の8子を儲けた。 イギリスでのグラッドストン. グラッドストンの公式伝記を書いたのは、彼の内閣でアイルランド担当大臣だったである。これに並ぶとされる評伝は長らく登場しなかったが、リチャード・シャノンが1982年に出版した評伝とグラッドストンの日記を全14巻で編集したが1997年に出版した評伝が高く評価されている。労働党の政治家であるロイ・ジェンキンスもグラッドストンの伝記を著している。 現代の英国政治家の中にもグラッドストンは生き続けている。1997年から10年にわたり英国首相を務めたトニー・ブレアは「トニー・グラッドストン」というあだ名が付けられるほどグラッドストンを深く尊敬していた。ならず者国家が人権を侵害するのを黙って見ているわけにはいかないという彼の考えは、ブルガリア人を大虐殺するトルコに対するグラッドストンの1876年の闘争を模範とした物であった。2010年に出版されたブレアの回顧録にも諸所にグラッドストンの影響がみられる。 日本でのグラッドストン. 日本においてグラッドストンは同時代の明治時代に最も人気があった政治家であった。とりわけ福沢諭吉や大隈重信、中江兆民といった自由主義派がグラッドストンを深く尊敬していた。福沢はしばしば、伊藤博文ら保守派が尊敬するビスマルクを「官憲主義」、グラッドストンを「民主主義」として対比して論じた。明治時代の日本のグラッドストン伝記としては徳富蘆花のものと、守屋貫教・松本雲舟のものが有名である。 大正時代になるとグラッドストンが過去の政治家になってきて、彼を論じた文献も減っていくが、1922年(大正11年)には大隈の薫陶を受けた憲政会所属の衆議院議員永井柳太郎がグラッドストン伝記を著している。永井は後に拓務大臣を務めて植民地行政を監督することになるが、グラッドストン思想を受け継いで帝国主義政策の改善にあたった。 昭和初期には普通選挙法制定など民主主義の進展があったものの、世界大恐慌、昭和恐慌、世界のブロック経済化、全体主義国の躍進などの影響を受けて、国粋主義の風潮が強まっていき、議会政治が時代遅れ扱いされはじめ、グラッドストンへの注目度も下がっていった。とはいえグラッドストンへの関心が完全に消えさったわけではなく、永井の本は昭和に入ったのちも重版され、またアンドレ・モーロワのディズレーリの伝記(グラッドストンについての言及も多数)が翻訳されたり、円地与四松がグラッドストン伝記を著したりした。円地はその中で「最近は議会政治も凋落したが、19世紀以来世界大戦までは議会政治が最も理想的な政治形態とされていた。その議会政治を代表する英国において、とりわけ議会政治家の典型を求めるならばグラッドストンをおいて他にはないだろう。」と時代を反映したような一文を書いている。 戦後、議会政治の復活とともにグラッドストンへの言及が再び増えた。戦後のグラッドストン伝記で著名なのは1967年(昭和42年) に出版された神川信彦のものである。神川の本が出た頃の日本は、高度経済成長期で、黒い霧事件など政治汚職が噴出し、また大学改革を訴える学生運動が頻発していた。こうした社会情勢から大学教授だった神川は「理想をもった政治家」を待望してグラッドストンの伝記を書こうと思い立ったのではないかと関東学院大学教授君塚直隆は推察している。
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圧倒的遊戯 ムゲンソウルズ
『圧倒的遊戯 ムゲンソウルズ』(あっとうてきゆうぎムゲンソウルズ)は、コンパイルハートから発売されたRPG。株式会社ジークレストが開発協力している。2012年3月22日にPlayStation 3版が発売され、2023年11月2日にNintendo Switch版が発売予定。 海外では日本一ソフトウェアの米国法人NIS America,Inc.が発売元となり、2012年9月28日にPlayStation 3欧州版、2012年10月17日にPlayStation 3北米版が発売された。 概要. 新稲船敬二を名乗る人物がプロデュースを手掛けるコンパイルハートの新作RPG。キャラクターデザインをナナメダケイ、お色気CGを平野克幸、音楽を佐藤天平が担当している。また、Ryojiと稲船敬二がゲストキャラクターデザインとして参加している他、汎用キャラクターとしてジークレストが運営しているアットゲームズのセルフィが使用でき、そのためにセルフィのデザインを手がけた原田たけひともクレジットされている。 唯一神を自称する主人公の少女・シュシュとその愉快な仲間たちの旅を描く。圧倒的ハチャメチャRPGと銘打たれているように、兆すら超えるダメージを叩きこめるバトルシステムや拠点同士を戦わせる要塞戦が特徴。また、下僕がゲーム全体のキーワードとなっており、ゲームのシステム全般に関わってくる重要な存在となっている。プレイヤーはシュシュを操作し、特定のコマンドを使って敵を"萌え殺す"ことで下僕を集め、集めた下僕を使って要塞戦の攻略などに用いてゲームを進めていく。プレイヤーはそれぞれ文化や風習が異なる7つの世界を巡り、下僕を増やして全世界の制覇を目指すこととなる。 シュシュ、アルティス、シャンプルのねんどろいどぷちとダンスムービーなどの映像が封入された特典DVDが付属した限定版が通常版とは別に発売された。また、本作の楽曲を収めたサントラも3月28日に発売されている。続編である『圧倒的遊戯 ムゲンソウルズZ』が2013年4月25日に発売された。 ストーリー. 宇宙で目覚めた記憶の無い少女シュシュは目の前の七つの光に興味を抱く。 そこに偶然現れた元・悪魔の天使アルティスはシュシュのことを訝しがりながらも、それが七色に光り輝く小さな宇宙の集まり、七曜界であることを告げる。 七曜界を気に入ったシュシュはその全てを自分の物とするべく、またもや偶然にその場に現れた少年リュートを下僕にし、戦艦・Gキャッスルを手に入れる。 こうして自称絶対神・返り咲きを狙う元悪魔・下僕第1号の3人は世界征服に乗り出すのであった。 登場人物. シュシュ一行. Gキャッスルを拠点に世界を旅するシュシュとその下僕たち。 勇者と魔王. 七曜界の各世界にそれぞれ一人ずつ存在する個性豊かな勇者と魔王たち。 ライバル. シュシュたちの前に度々立ちはだかる謎の少女とその一行。
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浅茅湾
浅茅湾(あそうわん)は、長崎県対馬市、対馬の上島と下島の間、西側にあるリアス式海岸に囲まれた湾である。浅海湾とも表記する。 地理. 環境省が定める閉鎖性海域(88海域)の海域の範囲によると、浅茅湾は「長崎県下県郡美津島町万関橋、大船越橋、同郡豊玉町小松埼と同郡美津島町郷埼を結ぶ線及び陸岸により囲まれた海域」としている。なお、これらの下県郡各町は市町村合併により、現在は全て対馬市に属する。 対馬のほぼ中央に位置する。前述のように、沈降によってできたリアス式海岸が発達しており、多くの入り江と小島がある。特に湾の中央部にある島山島は対馬の属島の中でも最大の島である。湾口は西を向いており、大口瀬戸という。また、南東部には万関瀬戸と大船越瀬戸の二つの運河があり、それぞれ対馬東部海域に繋がっている。対馬島内の佐護川、仁田川、飼所川、三根川など主要な河川はすべて旧上県郡の西岸に注いでおり、この湾に注ぐ一級河川、二級河川はない。 湾内では真珠やブリなどの養殖漁業が行われている。特に真珠の養殖地として有名で、三重県五ヶ所湾で真珠養殖を営んでいた北村幸一郎が、御木本幸吉との特許裁判の条件として五ヶ所湾での養殖ができなくなり、対馬出身従業員の「アコヤ貝は故郷にもいた」という話を聞いて、1913年にやって来たのが始まりである 。2000年代前半頃からは対馬近海産のヨコワ(クロマグロの幼魚)を使ったクロマグロの蓄養も行われている。 また、浅茅湾では入江内奥部にあった干潟の多くが干拓されて海岸農地となっていた。対馬の伝統的干拓農地は、水田、海岸堤防、イビ(井樋、排水樋門)、潮留まり、水路で構成されている。1953年(昭和28年)に制定された離島振興法で農地海岸の基盤整備事業が進められたが、その後の人口減少や高齢化で多くの海岸農地は利用されなくなった。 浅茅湾周辺はその美しい景観から対馬の主要な観光地の一つである。対馬市が市営渡船を使った周遊観光船を運航しているほか、民間でも観光船を運航している業者がある。また、シーカヤックフィールドとしても適していて、2005年からは毎年「対馬シーカヤックマラソン」という全国大会が開催されている。 湾南部の黒瀬城山には飛鳥時代に作られた金田城跡がある。また、同じく湾南部の竹敷地区にはかつて日本海軍要港部がおかれ、浅茅湾沿岸の各所に基地防衛のための砲台が築かれた。現在、竹敷地区には海上自衛隊対馬防備隊が駐屯している。
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チクバン橋
チクバン橋は、バンドンとジャカルタを結ぶ路線の鉄道橋である。この橋は西ジャワ州西バンドン県のパダラランにある。この橋には、重さ約110トンの4本の鋼の柱がある 。チクバン橋の長さは300メートルで、インドネシアで最も長い鉄道橋である。チクバン橋は1906年から使用され始め、現在もチクバン川の底から80メートルの高さに立っている。この橋の建設は、1881年から1884年にオランダ領インド国営鉄道会社(Staatsspoorwegen,SS)によって開始されたチカンペック - プルワカルタ - バンドン鉄道の建設に関連している 。 1953年に、ディーゼル機関車の運転開始に伴い、枕木の下にあるブリッジ構造にレールに沿って半円形の金属アーチの追加が行われた。チレバンとパダラランの間の高速道路からチクバン橋がはっきりと見え、多くの観光客が橋を通過する列車を見るために一時停止する 。 鉄道サービス. 以下の列車がチクバン橋を通る。
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ダラーラ・SF19
ダラーラ・SF19 (Dallara SF19) は、ダラーラが開発したフォーミュラカー。スーパーフォーミュラで2019年より使用される。 概要. スーパーフォーミュラの2018年シーズンまで使用されてきたダラーラ・SF14の後継車両である。イタリアのダラーラ社では、1994年の全日本F3000選手権王者のマルコ・アピチェラが開発に関わっている。2018年7月4日に富士スピードウェイにてシェイクダウンが行われた。 開発コンセプトは、SF14の「クイック&ライト」を継承した上で、空力特性を見直し、オーバーテイクし易くなることを掲げている。これは、レース中にドライバー同士のバトルを際立たせ、エンターテイメントと競技の両立を目指すためである。前を走る車に接近した時、空力バランスが変化しないよう、車体の下(アンダーフロア)でダウンフォースを獲得することが重要視されている。更に国際自動車連盟が制定した2016年F1安全基準にも対応し、現在のフォーミュラカーに求められる性能を満たしている。また、車体にはSF14の部品の多くが流用されており、運用コストの低減にも考慮されている。 SF14からホイールベースが50mm短くなり、タイヤサプライヤーである横浜ゴムからの要望でフロントタイヤの幅が合計20mm拡大された影響もあり、開発テストを担当したドライバーからは「曲がりすぎるぐらいよく曲がる」という意見が多く聞かれる。 安全基準に沿ってノーズ先端は低くなり、フロントウィングとリアウィング翼端板には後退角が付けられ、ポッドウィングなどF1の空力トレンドが取り入れられている。左右のリアウィング翼端板上部には悪天候時の追突防止のため、LEDライトを装備している。 2018年よりフォーミュラ1(F1)やフォーミュラE(FE)で順次導入が進められているコックピット保護デバイス「Halo」について、ダラーラ側では搭載・非搭載どちらにも対応可能としていた。当初 主催者の日本レースプロモーション(JRP)は非搭載の方向と説明していたが、テストの結果ドライバーの視認性や乗降性に問題がなかったことから、2019年より正式に搭載した。 ちなみに、下級カテゴリーである全日本スーパーフォーミュラ・ライツ選手権で使われるダラーラ・320とは、同じダラーラ社製シャシーということもありシートポジションなどがよく似ており、両方をドライブした複数のドライバーが「(SF19と320では)同じドライバーズシートが使える」と語っている。 次世代開発. JRPはトヨタ・ホンダ・横浜ゴムらと共同で、本車両をベースに2023年以降のレースへの実戦投入を見据えた次世代技術の開発を行うためのテストを2022年より開始している。 「SF23」と呼称する2台のテストカーには虎柄のデザインが施されることから 通称「赤虎」「白虎」と呼ばれ(「赤虎」がトヨタエンジン、「白虎」がホンダエンジン)、いわゆるカーボンニュートラルの実現を目指し、バイオ燃料、カーボンコンポジット素材に代わるバイオコンポジット素材、再生可能原料で製造されたタイヤなどが順次テストされた。テストドライバーは「赤虎」は石浦宏明、「白虎」は塚越広大が務める。 テストの結果が良好であったことから、2023年シーズンからは正式に、SF19のモノコックに新しいエアロキットを装着した「SF23」を導入することが決定。横浜ゴムの供給するタイヤも、カーボンニュートラル対応のものに切り替わる。一方で再生可能燃料の導入については同年はひとまず見送ることとされた。 2023年3月、アブダビの先端技術研究評議会(ATRC)のプログラム開発部門『ASPIRE』が、翌年より自動運転車によるレースシリーズ『ABU DHABI AUTONOMOUS RACING LEAGUE』(AARL)を開催し、そのベース車両としてSF23を採用すると発表した。ただしエンジン等のサプライヤーは同時点で明らかにされていない。 スペック. (2019年3月2日時点)
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政治教育
政治教育(せいじきょういく、またはPolitical education)とは、教育制度における政治に関する教育のことである。 概要. 政治教育は政治システムの構成員に対して、政治の意義や運営に関する知識や情報を伝達する活動である。これには教育機関で行われるもののみならず、マス・コミュニケーションを通じてなされるものも含まれる。政治学においては政治教育は古代ギリシア以来重要論題であり続けている。ただし近代市民社会成立以前における政治教育は特権階級に民衆支配の知識を授けるための教育であった。近代市民革命以降、政治教育は全公民個人の国家権力のあり方を統御しうる政治的力量の養成を理想としたが、現実には支配階級による支配の継続のために政治に対して国民に自発的同意をさせるための手段となった。そこでは国民を政治の客体として体制に順化させることが目指され、政治教育は政治体制に従属する教化システムとして利用された。 田中耕太郎は政治教育における「政治」について、「政治の理念や現実に関する一般的な理論や法則」と「現実の社会において存在する政党政派の立場や具体的な政策・主張」という2つの意味が存在するとしている。前者の意味をとるならば政治教育は広く政治に関する一般的知識の伝達と判断力の要請を目指すものとなるが、後者のでは政党や社会団体で行われる特定のイデオロギーを注入する教育となる。 政治教育は国家と教育との関係において困難に突き当たり得る。林忠幸は、政治的価値の実現を目指す政治権力が公教育を統制下に置く場合、学習指導要領のような政治権力が設ける基準が唯一の正当とされ、それから外れる政治教育、たとえば現実の政治問題を教材として取り上げて児童・生徒の判断力を育成しようとする政治教育は特定のイデオロギー教育・「偏向教育」として断罪され得るとしている。 日本における政治教育. 堀尾輝久は、日本の第二次世界大戦前の政治教育は教化システムとしてのそれの典型であるとしている。堀尾によると教育勅語に基づく忠君愛国の倫理を基盤とする修身教育は国体への無条件服従を強要するものであり、また「政治的智徳ノ涵養」を重視する公民教育は義務を強調することを目的とするものであった。それらはいずれも現実の政治への国民の批判を拒絶し、政治主体としての国民の成長を押しとどめたとしている。 現行の教育基本法(昭和22年法律第25号)第8条第1項では、「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」と規定されているが、同条第2項において「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と規定されている。第1項は公民として必要な政治的識見養成の重要性を説明した条文であり、政治教育とは前述した広義の政治教育を意味している。第2項は教育の政治的中立性の原則を示し公教育機関が児童生徒に特定党派の政治意識・見解を注入することを禁止したもので、こうした狭義の政治教育は学校教育からは締め出すことを謳っている。 学校教育における政治教育. 学校教育における政治教育については、理論的なものについて社会科、公民(中学校)、現代社会(高等学校)、政治経済(高等学校)などの教科の中で行われるが、入学試験を控えた中で知識の詰め込みという側面が大きく、選挙についての学習はそれぞれ1〜2時間程度となっている。実践的なものについては生徒会役員の選挙などにより行われている。 政治的中立. 義務教育諸学校については、何人も、教育を利用し、特定の政党その他の政治的団体の政治的勢力の伸長又は減退に資する目的をもって、学校教育法に規定する学校の職員を主たる構成員とする団体(その団体を主たる構成員とする団体を含む)の組織又は活動を利用し、義務教育諸学校に勤務する教育職員に対し、これらの者が、義務教育諸学校の児童又は生徒に対して、特定の政党等を支持させ、又はこれに反対させる教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならないことが規定されている(義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法第3条)。 アメリカ合衆国における政治教育. アメリカ合衆国では、小学校の段階で投票行動を決定する手順を学ぶ。また、生徒会の選挙のほか、大統領選挙などがあると模擬選挙や校内討論会を行う。政党やNPOが教育ツールを作成しており、社会全体で投票行動や争点の見方を学ぶ仕組みがある。立法教育を行い政治家を養成している大学もある。
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松本久志
松本 久志(まつもと ひさし、1962年3月29日 - )は、日本の漫画家。愛媛県松山市出身。
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FRAM
FRAM Fram, フラム
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リサ・ラウリラ
リサ・ラウリラ(Liisa Laurila、1974年3月1日-)は、フィンランドの女子アーティスティックスイミング選手。オウル州カヤーニ出身。 1991年の欧州選手権で10位になり、1992年バルセロナオリンピックに出場してソロで19位になっている。